2025年3月6日(木) 東京国立近代美術館
勤め先での有休消化のために、月が押し詰らないうちに、ということで、今日はお休み。先日、土曜日にビアズリー展に行って、あまりの混雑に気分が悪くなったのに懲りて、平日の今日、休みが取れたこともあって、出かけることにした。一昨日始まったばかりの展覧会ということもあり、会場は、それほど混み合っていることはなく、他の人のことを気にすることもなく、じっくりと作品を愉しむことができた。平日の昼ごろということもあってのことか。展示作品の撮影は可能のようだったが、パシャパシャというシャッター音は、あまり聞こえてこなくて、静かに作品を鑑賞する人がほとんどだった。高校生や外国人の姿が目立った。展示の方法については、大作の展示は、室内を暗くして、スポットライトを当てる壁画のように見せたり、ブック形式の作品はビデオ映像で各ページ見せたり、また、出品リストを4か国語で用意したり、そのリストについても作品シリーズについて簡単な説明をつけていたりなどと工夫が凝らされていました。
ヒルマ・アフ・クリントという人について、私は何も知らないので、紹介もかねて主催者あいさつを引用します。“ヒルマ・アフ・クリント(1862~1944)は20世紀初頭、ワシリー・カンディンスキーやピート・モンドリアンといった同時代のアーティストに先駆けて抽象絵画を創案した画家として、近年、再評価の機運が高まっています。19世紀後半のスウェーデンに生まれ、王立芸術アカデミーで正統的な美術教育を受けた彼女は、肖像画や風景画で評価を得て、画家としてのキャリアをスタートさせました。一方で神秘主義などの秘教思想やスピリチュアズムへ傾倒し、交霊会の実践などを通して、アカデミックな絵画とはまったく異なる抽象表現を生み出していきます。彼女が抽象表現によって探求した「眼に見えない実存」とは、霊的世界のみに関わる問題ではなく、同時代に展開された様々な科学的発見・発明と共通する関心事であったことを忘れてはならないでしょう。最終的に自身が構想した神殿を飾るものとして制作された全193点の作品から成る「神殿のための絵画」の存在こそ、精神的世界と科学的世界、双方への関心を絵画として具現化したとして、アフ・クリントが今日、モダン・アートにおける最重要作家の一人として位置づけられる所以です。彼女が残した1,000点を超える作品群は長らく限られた人々に知られるのみでしたが、潮目が変わったのは21世紀に入ってからでした、2013年にストックホルム近代美術館から始まったヨーロッパ巡回展以後、その注目は世界的なものとなり、今回、アジア初の回顧展を開催する運びとなりました。彼女のキャリアにおける最大の達成といえる「10の最大物」(1907年)をはじめ、残されたスケッチやノートなどの資料、同時代の秘教思想・自然科学・社会思想・女性運動といった多様な制作の源の紹介を交えて、その創作活動の全容をご覧いただきます。”
それでは、作品を見ていきたいと思います。
1章 アカデミーの教育から、職業画家へ
習作時代および初期の作品です。
「人体研究、男性モデル」という1885年のスケッチで、アカデミーでの学習の記録のようなものですが、抽象画を描くような前衛の雰囲気は微塵も見られず、穏健というか正統的というか、真面目な優等生という印象です。ただ、例えば前に踏み出した右足のひざの付近で骨を描いていたり、左足の膝下では骨と筋肉を描いているところが面白いところです。
アカデミーを優秀な成績で卒業すると、職業画家の道を歩み始め、そのころの肖像画や風景画が展示されていましたが、穏健というか、一般の人が絵画というと、こういうものだというものです。絵本の挿画もありました。でも、作品そのものとは別に、学校を卒業して間もない画家に注文があったということが、私には少し驚きでした。このポピーのスケッチは、その頃に描かれたもののようです。花と蔓のように伸びる茎を緻密に描いていて、かなり力が入っているように見えます。この後に、続々と出てくる、この人の抽象的な作品の中で、植物の蔓が伸びるイメージとか花が咲くイメージは大きな要素としてよく出てくるので、この頃から、本人には自覚がなくても、自然と気持ちが入っていたのかもしれません。
2章 精神世界の追求
ここで、作品の傾向が一変します。1章で展示されていた作品とは連続性を見つけることができません。それほど変化は唐突です。私が今まで見てきた抽
象絵画、例えば、カンディンスキーやモンドリアンのような人々の作品は最終的には何を描いているのか見ても分からないものになっているにしても、最初は何か具体的なものを描いていたのが、段々と対象の見て分かる形が崩れ始めて抽象的な画面になっていくというものでした。回顧展で、彼らの作品を年代順に見ていくと、具象的な画面から抽象的な画面に移り変わっていくプロセスが分かるのでした。しかし、この人の場合、1章と2章の展示の間に、そういう移り変わるプロセスは見えてこない。両者は全くの別物です。
ここで展示されているのは、クリントを含む5人というグループが交霊会を行って、そこで霊的存在からメッセージを受け取り、それを記録したものだそうです。
ここでちょっと立ちどまって、作品を離れて考えてみます。解説にもありましたが、クリントの生きた19世紀後半の社会では、女性は家庭に属する存在であり、当時の美術界を仕切っていたのは圧倒的に男性だったそうです。そんな厳しい状況でクリントは画家になります。そこでは仲間が欲しくなるでしょう。学校で同性の美術を学ぶ友人を得ます。その縁で、スピリチュアルな世界への強い関心と瞑想や交霊術の実践のサークルに参加する。クリント自身にも志向があったそうですが、ストックホルムの上流社会でもスピリチュアルな世界への好奇心は非常に強く、交霊会への参加もそれほど特異なことではなかったということです。クリントは仲間と「5人」といグループを結成し、メンバーの家で定期的に瞑想と交霊の会を開き、絆を深めていったというわけです。そこで、トランス状態になりながら、霊からのメッセージを受け取ると、それを記録する。記録は文章ではなく、ドローイングで、それが、ここで展示されているものです。このドローイングは、いわば霊からのメッセージをそのまま、一種のトランス状態で自動筆記のような形で描かれたと言えるのではないかと思います。つまり、クリントが描いたかもしれませんが、自身が意識して描いたというのではなく、霊な憑依されて、自分ではない自分で描いた、といえるかもしれません。そういう突き抜けた状態で、それまでの人生とか、学んできた描くということから、いわば解放されて、描けたのではないか。

ここで展示されているドローイングは、作品として描かれたものではないでしょう。シンプルな線の運動や波線の連なりのような何を描いているのか意味の分からないものから、植物、細胞、天体などのモチーフをアトランダムに配置したものまで。これらは、後に制作される抽象的な作品の基となったと言えると思います。
そこでまた、立ち止まって考えます。この5人のノートのドローイングは作品ではなく、公表して人々に見せるものではないでしょう。あくまでも、5人の仲間の内輪のためのものでしょう。そうだとすると、職業画家であるクリントはどのようなものを描いていたのでしょうか。それが、同じ並び展示されていた「ユリを手に座る女性」のような具象的な作品なのでしょう。おそらく、クリントは職業画家としては、このような作品をずっと描き続け、自身と仲間のためには抽象画のような作品を制作するという、いわば二重生活をしていたのではないか。だから、抽象的な作品は人々とか画家の世界とか社会といったことを考慮することなく、好きに描いていたのではないか。そんな気がします。というのも、展示されているドローイングを見ていると、全体として、何やら楽しげな雰囲気が伝わってくるような気がするのです。敢えて言えば“あそび”の感覚とでも言ったらいいか。5人の会は、交霊や神秘主義の集まりなのでしょうが、今でいう女子会のような性格も強かったのでないでしょうか。5人の女性が集まって、お茶でも飲みながらお喋りに興じる。その中で、紙とペンで、ああでもないこうでもないと、線を引いたり、こんなのはどうだと、かわいいモチーフを描き加えたり、時にはむちゃくちゃな線を引いて、冗談のように笑い合ったり、結果として残されたのが、ここで展示されているドローイングです。だから、当時の美術の常識とか教育された美術とか外部のことなどを一切考えず。内輪の中だけて面白がって描いたものだったのではないかと思います。
3章 「神殿のための絵画」
1904年、クリントは5人の交霊会で、絵を描くようにと告げられます。この啓示によって生み出されたのが、全193点からなる「神殿のための絵画」だったということです。ここが、展示の核心部だろうと思います。クリントの40歳代から50歳代にかけての、ちょうど壮年期にあたる画家として成熟を迎え、しかしパワフルである時期に描かれたものです。5人のノートでドローイングされていたものを、絵画作品として人々に見せることができるものに、まとめあげた
「原初の混沌、WU/薔薇シリーズ」(19046~1907年)
このシリーズでは顕著ですが、基調となる色は黄と青そしてその二色が混ざるところに現われる緑で、クリント自身が象徴的な意味を付している。青は女性、黄は男性を象徴し、その対立が統合される緑色というわけです。男と女、あるいは善と悪のような二元性によって引き裂かれた両者を結びつけ、世界の始まりにあった単一性を再現する、という神智学の教えが黄と青は「神殿のための絵画」全体でも多用されています。なお、色調は、これまで数少ないながら見てきたクリントの油彩作品に比べて、一気に明るくなりました。
「№3」は左下から噴出するような青の上に飛び出したヒトデがアメーバのように見えてきます。「№5」はWUの文字と巻貝(解説ではオウムガイで、それは生きた化石で過去と現在を結びつける存在のメタファーであると説明されていました)が描かれています。これらは、明確な輪郭で、そのものと分かるように描かれています。巻貝は、この後のもっと抽象的な作品にも出てきますが、クリントの抽象画は物事の形態の本質的なものを抽出して表わすという、抽象という語の意味に適うようなものではないと、私には思われます。神憑りみたいな不可思議なイメージを啓示をうけるたかのようにして、それをドローイングとして残し、それを西洋絵画の文法に当てはめて絵画作品として成り立たせる。それは、いわば赤ん坊にクレヨンと画用紙を与えて、遊びながらお絵かきをしたようなものを、絵画として整えたようなものではないかと思います。クリントは教育を受けた、主体性をもった大人ですから、無垢な赤ん坊のようにはなれない。そこで、交霊という神憑りで、自分ではない自分という仮の自分をつくってその仮の自分が無垢なお絵かきをする。その結果が、このような作品として現われる。だから、この作品で描かれている巻貝は、現実の巻貝を描いたものではなく、啓示として受けたイ
メージで、それは具象でも抽象でもないとでも言いましょうか。「№16」は、電磁波やエネルギーの伝播を視覚化したと解説されていますが、渦巻き、らせん状に回旋しながら伸長、成長していく様子、というより、線が楽しげに回転しているように見えます。しかも、青が鮮明な印象を与えます。五人によるドローイングにも頻出しているパターンです。10年におよぶ交霊の経験によって、クリントはこのような絵を、無意識に描くことが可能になっていた、と解釈することも可能かもしれないと思います。面白いのは「№9」で、タロットカードやインドの古代宗教の壁画のような象徴的な図像を想わせる。緑の殻から顔を出した2匹のカタツムリが触覚を交わらせ、その上にバラの花が咲いて、“主に仕えるヴェスタルとアスケット”と書き込まれている。ヴェスタルは純潔を意味し、アスケットは禁欲を意味すると解説されていました。
「エロス・シリーズ、WU/薔薇シリーズ」(1907年)
「原初の混沌」が青のようなくっきりとした色を基調にしていたのから、このシリーズではパステルカラーのピンクが主体で、印象がガラッと変わります。「原初の混沌」では波動し回転しながら発散あるいは放射される場を断ち切られた曲線は、このシリーズでは両端が結ばれ閉じた形態を作って、それが捻じられてハートや花の形になって、それらはピンクに塗られ背景は白、あるいは白で塗られ背景はピンクというように、形態が浮かび上がり、そこに波紋や文字が書かれている。全体にパステルカラーの淡い印象で、少女趣味といっては言いすぎでしょうか、かわいい雰囲気があります。こういう感じは、カンディンスキーやクレーでは絶対に無理です。タイトル名の「エロス」については、“エロスは、あらゆる色の融合であり、とりわけ愛の理解を告げるもの”というクリントの言葉が解説されていました。
「大型の人物像絵画、WU/薔薇シリーズ」(1907年)
ここでまた雰囲気が変わります。ここまで3つのシリーズが1年から1年半の期間で、これほど雰囲気の異なるシリーズを短期間のうちに、それぞれ10点前後も相次いで制作してしまうというのは、それまでの下準備が整っていてはじめてできることではないでしょうか。それが10年以上をかけて続けられた5人会の集まりと、ノートへのドローイングということになるでしょうか。ここでは、「エロス・シリーズ」で描かれていた形象が、例えばシンメトリックになるなど整理されて図表のようになり、それの上に図表に絡むように人物が描かれますが、そのポーズはシンボリックです。「№5」にはこれまでの全作品の鍵というサブ・タイトルが付けられているそうです。薄い青の背景の上に
大きな円があり、その内部の真ん中あたりに左右対称に青と黄色の小さな円が配置され、両者は重なり合い、流動しています。それぞれの円の内部に白字でHの字が書かれています。このHは画面の中央に白い十字架に左右から挟まれるように書かれています。このHは高次の霊的存在の意味があると解説されていました。左右対称の二つの円は大きな円の中にいくつも重なるように描かれていて、それぞれに青と黄の波紋状に線が引かれています。前にも出てきましたが、青は男性性、黄は女性性のメタファーです。解説では、神智学のルドルフ・シュタイナーの理論がそこに表現されていると説明していますが、それも言えるとも思いますが、スマートな図像とすることでセンスのいいお洒落にも通じるような感覚を感じます。「№6」にも、十字架と左右対称の円が描かれていますが、中央で抱き合う男女は天野喜孝の描くファンタジックな人物像を想わせます。そういう存在感のない虚構的な人物像は、幾何学的な図像と意外とマッチしていて、ファンタジーを作り出している、と思います。それが、私には興味深い。
「10の最大物」(1907年)
この展覧会の中核の展示だろうと思います。暗がりの広い展示室の中央に大判の作品を4面に展示した四角形の柱に照明があてられ、そのまわりを廻るように作品を見ていくという、凝った展示になっていました。まるで、チベット仏教の寺院でお経のまわりを廻るようなものといってもいいでしょうか。その大きさもありますが、圧倒的です。展示室の四方の壁にはベンチが作りつけになっていますが、思わず距離をおいて作品を眺めていると、いつのまにか知らずにベンチに腰を降ろして、しばらくぼーっとして作品に目を向けている。そんな鑑賞の仕方をしたのは、以前にマーク・ロスコの巨大な作品に接した時以来です。
「10の最大物」というシリーズ名のとおり全10点で、幼年期2点(基調色は群青色)、青年期2点(基調色はオレンジ色)、成年期4点(基調色はピンク色)そして老年期2点(基調色は薄桃色)と、整然と区分された構成となっています。

まず、幼年期では、「№1」(左側)は濃い青、つまり群青色を背景にして白い花びらが輪になり、近くにはピンク色のバラが8つ咲いています。画面の下方には黄と青の二つの円がシンメトリーに描かれています。これは、前のところにもありました男性性と女性性のメタファーです。さらにユリの花は女性性、バラの花は男性性のメタファーです。そして、絵の中央には、二つの小麦粒または卵の形をした円があります。そして、レンジ色の文字列が糸のように、あるいは一筆書きのように描かれていて、その文字「a」と「v」は、ウェスタルと禁欲主義という言葉を表しているということです。ウェスタルの処女は古代ローマの女神ウェスタの巫女で、聖なる火を守ることがその使命としていて、一方、禁欲主義者は、悟りを得るために肉体的な欲望から解放されようとする人々だということです。この作品では、禁欲主義は黄色と男性原理に結び付けられ、ウェスタルの処女は青色と女性原理に結び付けられています。この男性性と女性性の二重性は「原初の混沌」のところと重なります。おそらく、人の人生における幼児期は、世界における原初の混沌に重なるのでしょう。「№2」(右側)は、背景が明るい空色になり、花の成長あるいは変形のような様子が繊細な線で表されていて、オレンジと青の大きな円が「№1」と同様の象徴的な機能を持っています。これらの絵画では、多くの個別の形が対になって描かれています。これらの対は男性性と女性性に象徴されるものでもあり、対立するものではなく、全体として形成されるものとして捉えられる、男と女、あるいは善と悪のような二元性によって引き裂かれた両者を結びつけ、世界の始まりにあった単一性を再現する「原初の混沌」のシリーズで説明されていたものでした。

2番目の青年期では、背景が一転して明るいオレンジ色になります。「№3」(左側)では、画面に複数の螺旋や巻貝が現われます。これらは、「原初の混沌」シリーズでは、電磁波やエネルギーの伝播を視覚化したと解説されていますが、渦巻き、らせん状に回旋しながら伸長、成長していく様子を表わしていましたが、ここにも、それが反映していると考えられます。それは、青年期の豊かなエネルギーや動きをシンボライズしていると思われます。次の「№4」(右側)では、螺旋の両端が結ばれ閉じた形態を作って、それが捻じられてハートや花の形になって融合した状態を表わしている。これは、「原初の混沌」に次ぐ「エロス・シリーズ」に重なると思います。何かの始まりを象徴する卵形を特徴としていて、それが花弁の形を構成したり、有機的な植物や植生に関連する多くの形が見られます。


3番目の成人期は他の時期とは違って4点と作品が多くなっています。それまでとは画面の様子が大きく変わります。ピンクから薄紫の淡い色を背景にして、文字や記号が全面に展開され、点線と数字とともに「図式」を感じさせ、細部も複雑になっています。「№5」(中央)の画面の上部にあるピンクの花には5枚の花弁があり、これは5人の会のメンバーを指すとも、土、火、空気、水の4つの要素と、5番目であるいわゆるクインテッセンスを象徴しているとも言われているそうです。クインテッセンスは、存在の最も本質的な部分が凝縮されたものとも言われ、錬金術では賢者の石と密接に関係しているといわれているそうです。「№6」(右側)には、さまざまな組み合わせの文字がたくさん書かれています。しかし、同じ文字または文字の組み合わせでも、文脈によって意味が変わることがあるため、常に機能する実際の暗号化キーは存在しません。文字「u」と「w」は、それぞれ精神と物質を表すことがよくあります。おそらく、これらの文字はマントラのように発音されることを意図しているのでしょう。音は動きであり、多くの伝統では、音の振動は、ヨガの瞑想で使用されるオーム音のように、変性意識状態への一種の入り口として使用されているそうです。「№7」(左側)は、中央に黄色い球根とも実とも見えるものがデーンと置かれ、濃い赤と緑が葉や花びら、あるいは実のような形態が薄紫を背景に相互に繋がりながら独立しています。文字、レタリング、図式的な線によって強調されています。カタツムリの殻の螺旋、細胞分裂や月の満ち欠けを思わせる形状、成長と豊穣の他のシンボルが至るところに現れています。

最後に老年期は薄桃色あるいはベージュを背景に、それまでの有機的で遊び心のある形から、シンメトリーな幾何学的形態の構成に大きく変わっています。「№9」(右側)は、上部にまるでコンパスを使用して作成された図のような花の形が2つシンメトリーに並んでいます。外側の円はそれぞれ黄色と青で塗られています。黄と青の大きな円の再現で、すでに述べたようにクリントにとって青は女性、黄は男性の象徴です。また画像の下部には2つの渦巻きがあり、黄色と青色の円が重なり合っています。渦巻きの上には、おそらく小麦の粒、と思われる2つの種子の形が置かれています。これは「原初の混沌」シリーズにあった麦の粒の再現と思います。次に、交差する別の円のセットがあります。中央に現れるアーモンドの形は、vesica
piscisと呼ばれるそうで、統一と完成への進歩の原始的なシンボルだそうです。そして、「№10」(左側)では、以前の絵画のシンボルの多くが、より控えめな形で再び登場しています。左右対称形の中央に、7×7のマス目が置かれ、ふたつの螺旋が左右対称に大きく画面を包み込むようにして、あたかもフィナーレあるいは人生の大団円の様相を湛えるが、画面下部にはゼンマイのツルの先に、微小な宇宙のようなものがぶら下がり、なにかの現れを予感させます。
この「10の最大物」のシリーズは、これまでの作品にない体系性の大きな特徴だろうと思います。幼年期、青年期…というストーリーで全体をまとめているのもあるし、類似した形象をパーツのように各作品に共用して、違う作品と言う異なる文脈で使い分けて、微妙な意味合いを作り出しているところなどに表われています。例えば、「№1」の右上の8つのピンクのバラのような形象のひとつが「№2」の左上に大きくなってでてきます。「№4」の右下の小さな黒い羽根か髭のような形象は「№6」の中央に大きく場所を占めています。あるいは、「№1」の下の底にある黄と青の対の円は「№2では下半分を占めるはどの大きなものになり、二つの円が重なるようになっています。さらに「№5」では文字に形が変わります。これは、形象がひとつの作品の中だけでなく、作品を超えて大きくなったり小さくなったり、場所を移ったり、形を変えたりという動きがあるというわけです。この展示、ずっと眺めていたくなる、あるいは作品を前にして、ベンチに座ってぼんやりと時間を過ごすのもいい。
「進化、WUS/七芒星シリーズ」(1908年)
「進化」のシリーズは、これまでに現われた形象が曼荼羅のようにシンメトリーに配置され、画面はシンボリックな構図に整理され、これまでの作品にあったらせん状に線が伸びるような動きがほとんど見られなくなったのが特徴と言えます。「№13」は、中央に大きな黒い蛇が描かれ、その頭は尾と重なり合って作品の中央上部に円を形作っています。蛇の口には青と黄色の2つの円がある。円の左側に黄色い人物がしゃがんで黒い部分にある楕円形かアーモンド形の2つの絡み合った形(以前の作品にもあった)に触れようと手を伸ばしています。その人物の上には、水色の背景に黄色の三日月が描かれ、黄色の螺旋が反時計回りに蛇の縁まで巻きついています。これが反転するように右側でも逆色で映し出されているのですが、黄色の螺旋とは異なり、時計回りに巻かれた青色の螺旋は、大蛇の縁に座るライオンに取り付けられています。円の内部は曼荼羅に似ており、花形、ハート形、アーモンド形、その他の幾何学的な形が4つの象限に分かれています。蛇・円が描かれています。一見したところ、対称的で鏡のような色彩から、二元的であることは明らかです。しかし、「原初の混沌」から見てきたクリントの作品では二元性が融合し一つになっていくことが併せて示されていましたそれは、左側の黄色い人物が両性具有で、黄色で彩色されており、おそらく男性の精神的属性を示しているが、一方で女性の感性を表す水色のフィールドに位置し、思考の力を表す男性の螺旋に取り付けられている。右手には、統一と完成に向けた発展への願望に対応する古代のシンボルであるヴェシカ・ピスキスに触れている。ヴェシカ・ピスキスもまた青と黄色で彩色されており、二元性の解釈と、これらの正反対の性質を統合するということが示されているということだそうです。
中央部の黒蛇に過去負けた円形の内部については、白を基調として、淡いピンク色で「高潔な性質にのみ可能な、完全に無私の愛」を象徴させるということで、性別の色は、ハートを形成するように重なり合う上部のアーモンド形に表れています。また、黒は悪意と憎しみを表し、残忍な怒りや動物的な情熱は深紅色に表れているそうです。各色相が表す感情は、白とバラ色の対立する仲間として機能します。中央上部の赤いハートは心臓を表わし、二元性の葛藤を解決する場所であることを示唆している。三角形は「物理的な身体から光の霊体への進化的発展の象徴」と見ることができ、進化は左上象限で上向きの三角形として、退化は左下象限で下向きの三角形として描かれていると想定できる。これらはすべて、二元性を解決する唯一の方法は神智学的な進化のプロセスである可能性を主張しています。そして、下で円形を支えているように見える白い翼は、黒い背景に男性と女性の触手が付いています。翼は、「祝福する力と権利を持つ者によって送り出された、愛と平和、保護と祝福」の思考形態に似ています。翼は統一の真実の基盤であるだけでなく、翼が派生したと思われる思考形態は、保護と承認を提供します。二元性の問題は個々の絵画の中で自然に解決されるように見えるかもしれません。
このように、作品について象徴的な解釈が幾重にも可能で、これは近代初期のイコロジーの対象となった象徴的な絵画に通じているように思えます。見た目がカンディンスキーなどの抽象画に似ているかもしれませんが、クリントの作品の本質はファンタジーにあるのではないかと思います。
「知恵の樹、Wシリーズ」(1913~1915年)

知恵の樹は旧約聖書『創世記』のアダムとイブが食べてエデンの園を追放された知恵の実をみのらせた樹のことだとか、あるいは北欧神話における宇宙樹ユグドラシル(右側)だとか。これは絶対ファンタジーです。このシリーズは水彩画で淡い色彩が描かれた物の存在感を薄くしています。ここで描かれているシンメトリーの図面のような作品は、ファンタジー小説の挿絵だと言われても、何の疑問も感じないでしょう。実際、19世紀のユグドラシル宇宙樹の図案を見ると、よく似ています。例えば、「№1」(左側)では、赤と紫の貝殻のような形で構成されたハート形が絵の焦点になっています。下の円形では4つの葉の形をした気根の中心にハート形があって、そこから青と黄色の糸がダイナミックな線の動きで視線を上へと導き、上部の樹冠の中では4層の子宮の形をしたセクションを形成しています。青と黄はそれぞれ女性と男性を表わしています。しかし、線は2羽の鳥を囲むときには性別を表す色を失います。2羽の鳥も、最下層では完全に切り離されていたのが、2番目の層で互いに近づき、最上層で1羽の鳥に融合します。女性的な鳥と男性的な鳥がひとつに融合しているのが樹冠の緑の部分、つまり青と黄色の組み合わせであり、それが今度は黄と青の混ぜた緑となっていることです。つまり黄色の地色、青い空、その間の緑の線を再利用し、緑の樹冠が抽象的な色彩の象徴性を帯びるようにしている。このようにして、木の目に見える部分は色彩の象徴性によって再現され、ひとつになる融合を表しているというわけです。なお、ユグドラシル宇宙樹の図が示しているのは、根と樹冠が複数の平行な平面の交差点を通過する幹として、クリントの「知恵の樹」と似ています。北欧神話では、これらの平行な平面は神々、人々、巨人が住む世界を表し、その中央部分には成長、創造、普遍性の象徴であるオークまたはモミの聖なる木が位置しています。この木の重要な機能は、予言された世界の終わりとも結びついており、神話によると、ユグドラシルの幹は開いて、人類の救済と新しい生命への誓いとして、最後の生き残りの男女を収容すると言われています。なんか、「知恵の樹」の作品解釈と似ているようです。
「白鳥、SUWシリーズ」(1914~1915年)


ここで再び油絵になります。この「白鳥」シリーズは独特の視覚的リズムを持っています。多くの場合、水平線が画面上下に2分割し、光と闇、男性と女性、生と死など、反対の力が出会う場所となります。これらの極は、黒と白の白鳥として展開します。最後には円環構造になっている。「№1」(中央)では、白の背景に黒い白鳥、黒の背景に白い白鳥が上下に反転するように対称的に描かれています。クリントはメモの中で、白い白鳥の青い脚とくちばしは雌であることを示すサインであるのに対し、黒い白鳥の黄色い脚とくちばしは雄であることを示すサインであると記しているそうです)。この作品では、性別が決定された2羽の白鳥が、平等な種の代表として、対称的かつくつろいだ様子で描かれています。それが、両性の本質を内包する存在へと肉体的に進化した後、その身体を抽象化し始めます。それが「№8」(左側)です。画面上の2羽の白鳥の代わりに、立方体の集合がすべて円の中に配置されて表現されています。それが「№1」の白鳥の場合と同じバランスと対称性の関係にあるのです。白鳥の体の形は完全に排除されて、立方体、円、不規則な幾何学的形状になり、そのような形状の抽象化によって、男性と女性の極性の明確な境界線は見えなくなるわけです。そして、「№18」(右側)では、動物としての白鳥との類似点がすべて失われてしまいます。平等と平和的共存から始まり、身体的特徴の闘争と絡み合いを経て、身体性の喪失と観念の領域への侵入に到達し、白鳥の図式化によって、性別の二重性を、明確な幾何学的形状で表現された両性具有のハイブリッドに変換してしまいました。このプロセスを通じて、動物としての身体的特徴を失うことで、白鳥は地上の物質、本能、性欲に結びついた肉体性を失います。肉体を失うことで肉体的衝動が失われ、白鳥は幾何学的シンボルや精神的な思想の世界に入り込み、融合することで限界や違いを克服するということでしょうか。
「祭壇画」(1915年)


神殿のための絵画の最後のシリーズで、神殿の祭壇に飾られる絵画ということで、「10の最大物」ほどではないが、大きな作品です。展示も3つの作品を部屋の3面に壁画のように飾って、神殿の1室のようにしてありました。作品は色彩が鮮やかで、大きさだけでなく幾何学的形状の強烈さにも畏敬の念を抱かせるようなものです。祭壇画は、物質界から精神界へ、そしてその逆の相互関係の動きをダイナミックに並置しているのでしょうか。「№1」(右側)は、これらの概念が象徴的に描かれて、三角形、つまりピラミッドが、中心に金色の球体を持つ虹色で描かれた上昇するモチーフとして描かれています。この三角形では、意図的に色の濃淡が段階づけられているように見えます。これは、今までの作品では見られなかったものです。だいたい、クリントの作品は、のっぺりしていて奥行とか陰影がなかったのですが、ここではじめてグラデーションが見られました。この三角形の頂点は、アフ・クリントの精神性における二元性の統一(男性の青と女性の黄色の融合)を表す緑色に囲まれた巨大な金色の球体を貫いています。緑色に塗られた領域は、紫色の輪で囲まれている。三角形と球体は、浸透性と受容性を通じてつながっており、双方向の流れで互いに影響し合っていることを示唆しています。「№2」(左側)は対称的に、神聖な世界から物質的な世界に下降する反対方向が示されています。このように、クリントの作品は抽象的な円と三角形による構成という作品ではなくて、それぞれに象徴的な意味合いがあるものです。
4章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅
クリントの代表作は「神殿のための絵画」でしょう。これは本人も意識していたのではないか。このシリーズをすっと見ていると、段々と肩の力が入ってきたのが分かるよう気がします。シリーズが進むにつれて、最初のころの伸びやかさが減っていって、どこか力が入り過ぎて硬直するような感じがしてきたのでした。それがここにきて、「神殿のための絵画」をやりきったということからでしょうか、ふっと肩の力が抜けたような気がします。それは、「知恵の樹」や「祭壇画」のような複雑なものからシンプルになったことからもうかがうことができると思います。私自身、これまでの展示を見ていて、自然と気合が入って、ここに来たときは疲れてしまっていました。

「パルジファル・シーズ」(左側)(1916年)は水彩画で、サイズは「神殿のための絵画」に比べて小さくなりました。パルジファルはクラシック音楽好きならワーグナーのオペラの主人公を想い出すでしょう。聖杯伝説、というと現代ならファンタジーの世界ですが、このシリーズの作品はシンプルで象徴的な形象は、というか形象はほとんどありません。ヒーローが知識の探求を意識のさまざまなレベルを旅することとして描いているということです。ファンタジーなのです。実際の作品は、赤、青、黄、緑、紫などの単色の正方形が画面の真ん中にひとつだけで、その色塗られた正方形の内部では濃淡を微妙に変化させていく。その他、正方形の傍らに十字架のようなモチーフや文字がある。抽象絵画っぽいというと変ですが、象徴的な意味を探る要素がほとんどなく、まるでマレーヴィチのシュプレマティズムのの「黒の正方形」(右側)を見ているような感じがします。一見、シンプルで小さな作品なんですが、正方形内の色の微妙な濃淡を見ていると、動き始めるようで、全然スケールは違うのですが、マーク・ロスコの雲形を見ているようで、その濃淡に惹き込まれてしまって時間を忘れそうになるのでした。

次が「原子シリーズ」(1917年)です。クリントの以前の作品は多くの記号、形、色に満ちており、それぞれが固有の意味を持っていましたが、「パルジファル」と同じように「原子」シリーズも水彩画で、こちらは幾何学図形を彩色して、その濃淡だったり各色の関係で画面をつくるというモンドリアンのコンポジション(中央)を想い起こさせるものとなっています。とはいっても、「アトム」つまり、原子は物を構成する目に見えない粒子で、そのことが神秘思想に通じるということでしょうか。例えば「№10」(右側)は、水彩、グラファイト、メタリックペイントで紙に描かれた抽象的な幾何学模様の絵で、右下隅に緑色の輪郭線が描かれた大きな正方形があり、その内側は4つの正方形で構成されています。そのうち右上と左下の正方形は青く塗られ、左上と右下の正方形はさらに内側に4つの正方形が段階的に収まり茶色が濃さを分けて段階的に塗られています。さらに、この二つの正方形には緑色の線の円が外接しています。画面の左上の隅には、同じような正方形が半分程度の大きさであります。これはクリントの描く原子の形ということで、学物質の形を「立方体」と呼ばれる平面的に表現したものといえます。
この後の展示は細長い廊下のようなところに水彩画の淡く描かれたものやスケッチのようなものが並んでいました。それぞれに、見ごたえがあるものなのでしょうが、私の方が、ここまで見てきて疲れてしまいました。
全体にボリュームたっぷりな展示でした。