没後35年 北澤映月展
 

 

2025年11月5日(水) 平塚市美術館

平塚駅までは、JR東海道線でも横浜からなら30分。改札は二つあるが、横浜よりの東口から出る。こちらの改札が大きいので、駅としてもメインの改札なのだろうと思う。改札を出て左に行くのが北口、階段を下りるとロータリーになっている。正面の道をまっすぐいくと、八幡神社、そして市役所。市役所の裏手をいくと到着。駅から20分くらい歩く。

東京の都心から電車で1時間ほど、しかも連休明けの平日で昼前だから、閑散としているかと思った。たしかに、空いてはいたが、来館者はそこそこいる。私を含めて老人が多い。日本画だし、平日だから、暇な老人が多いのだろう。入場料金も65歳以上は割引がある(65歳以上の平塚市民は無料)。この美術館は受付から展示室まで広いロビーを通って少し距離がある。その空間が勿体ないと思うのは、私がケチなせいだろうか。建築デザインとやらの都合なのか。それだけのスペースがあれば、展示室をもっと広くしたり、バックヤードのスペースを広げたりできるだろうにと思ってしまう。ロビーや前庭が無駄に広いのにミュージアムショップは受付の横の狭い一画にあるくらい。さて、大きな階段を上がって2階が展示室。入口で受付して展示リストとチラシをもらって展示室にはいる。その前に主催者あいさつを読む。普通は展示室に入ってすくに大きく啓示されているのだが、ここは展示室に入る前に小さく展示されているので、注意していないと見落としてしまう。その主催者あいさつから、

“北澤映月(1907〜1990)は京都市に生まれ、上村松園や土田麦僊に師事して本格的に日本画家として歩み始めます。麦僊没後の1938年から再興院展に入選を重ね、1941年には小倉遊亀に続く女性二人目の日本美術院同人に推挙されました。

一貫して女性像をテーマとし、はじめ性格描写に優れた人物表現を行っていましたが、戦後は現代的な女性風俗を扱いながら、西洋絵画の影響を受けて重厚な色面表現へと移行します。この間、小林古径や安田靫彦の薫陶を受けつつ制作に邁進し、1960年には住み慣れた京都を離れて東京に移住しました。1970年代にはいると、細川ガラシャや淀君などの歴史人物に取材して、そこに映月独自の女性観を加味した華麗かつ情感豊かな画境へと達しました。現代的で清新な作品には、装飾性と写実性がバランスよく共存し、映月が志向した健康的で知的な女性が巧みな構成や艶やかな色彩によって表されています。

本展は、初期から晩年までの代表作のほか、日本画を制作する上で重要な下図や写生、印章、書簡などの貴重な資料を含む約150点により映月の真摯な画業の歩みを紹介するものです。北澤映月没後35年の節目に、個展としては1992年の追悼展以来33年ぶり、神奈川県内では初の本格的な回顧展となる本展で、生き生きとよみがえるその魅力的な女性表現をお楽しみください。”

今回の展示は下図の展示が多く、完成した作品と並んで展示されていたのが興味深かったです。あいさつには150点の展示とありましたが、下図などの資料の展示が多くで、全体の3分の2を占めるので、展示されている作品は60点ほどでした。それでも、下図と見比べながら見たりしたので、私の場合は2時間くらいかかって、充実した展示だったと思います。それでは、展示順にしたがって、作品を見ていきます。

 

1章 模索 松園、麦僊のもとで

時代でいうと第二次世界大戦の敗戦までの、北澤が40歳までの時期です。上村松園ついで土田麦僊に学び、日本画家として独立し、それなりの地位を築いたという成長期の作品です。

最初は「少女」(右側)という作品です。なお、この作品タイトルは、もともと画家本人になる題名が付されておらず、美術館の方で便宜的に付けたものらしいです。習作なのでしょうか。師の上村松園とはかなり異なった趣の作品です。上村松園を典型として、一般的な日本画では女性について、顔の表現はパターン化され、表情などは描かれず、その代わりに着物や髪型を念入りに描かれ、背景の描き込みによって、その女性が置かれた状況を暗示して、見る者にその女性の心情を想像させるものです。しかし、この作品では、顔はパターンを外れているように見えます。習作で、未だパターンを習得していないのか、そうは見えません。すくなくとも、パターン的な白いのっぺりした顔ではなく、立体に伴う陰影がつけられていて、パターンならくの字で描かれる鼻には肉付きがされています。何よりも、この少女は美人ではない。だからといって、あいさつ文にあるような写実とは思いませんが、北澤に美人パターンに従えない何かがあったのではないかと思わせる作品です。とはいっても、北澤がパターンに反発したかというと、そうは見えない。それが師である上村松園の作品を模写した下図が展示されているのを見ると分かります。細心の注意を払って、丁寧に模写している下図をみると反発とか反抗という感じはしません。また、展示作品でも次に展示されている「紅葉」(左側)のような上村松園風の美人パターンの作品もあります。ただ、これらの作品は、どこか野暮ったくて、素通りしてしまいそうな目立たない作品です。

同じ題名の「少女」は1932年頃の作品で、これは作者が題名をつけた作品。前の「少女」を洗練させたといえると思います。上村松園では切れ長で伏し目がちに描かれる目はパッチリしていて瞳までしっかり描かれています。また、くの字の線で表現される鼻は小鼻や鼻の穴まで描かれています。幼女という、大人の女性とは違うから、ということかもしれませんが、上村松園とはあきらかに異なった見方をしているのが分かります。おそらく、北澤は意識して描けば上村のように描くことはできるのでしょうが、それにはどこか無理があって、自然に描けば、このようになってしまうのではないかと思います。そして、この人は色彩の感性が面白い。この作品では、少女の髪の黒と着ている服の黒、そして脇にいる黒猫。それらの黒の面の配置のセンスで、ちょっと大胆な気がします。

「羽子板を持つ女」という作品。画面構成は典型的な美人画ですが、顔のバランスが何となく変で、それが美人画の画面を崩しているように見えます。顔面だけが浮いているというのか、目と鼻と口が頭部に収まっていないというか、出っ張った感じがする。そのせいか、顔のところが浮いて、まるで仮面をつけているように見えてしまう。そのほかの部分は美人画のパターンを踏んでいて、それなりに出来上がっている。そうすると、この部分だけ出来上がっていて、それに顔をくっつけているような印象。よく観光地にありますよね。板に武将とかの絵が描かれていて、顔の部分に穴が開いていて、そこから顔を出して記念撮影するやつ。この絵はそんな、美人画で顔をとっかえひっかえするようなギコチなさというか、結果的に美人画として破綻している。それが面白い。これは、北澤が下手というのではない。その証拠に顔以外の部分、例えば、緑と赤の補色関係を巧みに扱った着物の描き方は、とても色鮮やかで印象的です。(この作品について、つぎのような説明があります。“この女性の顔の輪郭は面長で、鼻筋はまっすぐに通り、小鼻は小さい。また、唇は薄く小さく描かれている。目は目頭が鋭く、目じりにかけて膨らみ、細く長いまつ毛が眼の外側に向かって伸びている。顔の輪郭は「娘」の姉娘と無比較してややふっくらしているが面長な点は麦僊門下となってからの映月の顔に近く、鼻筋や口の表現も「娘」と類似するが、目の表現は「紅葉」とも「娘」とも異なり、長いまつ毛を備えている点と杏仁形に近づいている目の形からは双方の特徴を少しずつ備えているように見える。このことから、麦僊風を摂取し始めているが、櫻園時代から完全に脱していない時期の作品と位置づけたい。(図録P.126)というので、この作品がギコチないのは、そういうこともあるのか”)

「娘」という1935年の作品です。この作品では、北澤か描く女性の顔のパターンができてきたように思います。ちょうどこのころ、北澤は土田麦僊の門に入ります。師匠が上村松園からかわったわけです。北澤の描く顔は、どちらかというと上村よりも土田に近いせいもあるのでしょうか。例えば、土田の「舞妓林泉」での舞妓の顔は鼻に肉付きがあって小鼻や鼻の穴まで描かれているし、目はちょっと落ち窪んでいて瞳まで描かれています。そうであれば、北澤は上村とは違う顔を心おきなく描くことができたのかもしれません。上村の描く女性の顔は、いわば理想化された顔と言ってもいいと思います。しかも、その理想とは、人々が美人と思っている顔、いわば人々のニーズに応えたような顔です。北澤の描いているのは、それよりも現実の人間の顔に寄ったものと言えます。それゆえ、見る者にとっては、上村の描く美人に比べて、親近感の湧くようなところがあります。しかも、描くアングルが正面に近いので、見る者に向き合っているように見えます。それは、見る者に語りかけるとか、訴えかけるようなアングルです。それが、なおさら親しみやすさを感じさせるものとなっています。その意味で、可愛いと思えてくる。でも、必ずしも写実というのではない。例えば、画面左の緋毛氈に花活けや飾り物が置いてある描写は、まるで上から見下ろしている垂直の目線です。これは二人の女性を水平の眼線で見ているのは明らかに異なります。この画面では複数の目線が併存しているわけです。画面に便宜的に個々のパーツが並べられている。(土田麦僊からの影響については次のように説明されています。“「娘」は飾りを前に、繊細な線描と清澄な色彩を主調とした作品で、雛飾りを前に仲良く座る姉妹を描き出している。ここに置かれた姉妹と、「紅葉」に描かれた顔の表現を比較すると比較すると、姉娘は「紅葉」に描かれた女性より頬から顎にかけてややほっそりとし、額の張り出しも少なく面長な輪郭で鼻筋はすっと長く通り小鼻のふくらみもより小さくまとまっている。唇はどちらも上唇より下唇に紅をより濃く塗っているが、「紅葉」では陰影のついたふっくらとした唇の表現が意図されているのに対し、「娘」の姉妹の唇には陰影は施されていない。立体感よりも平面的な形態把握に重点が置かれている。目は切れ長で上下に長いまつ毛が描き込まれた「紅葉」に対し、姉娘は杏仁形で、目から上下に長く伸びるまつ毛を描かないかわりに上瞼を厚めの線で描写して、密なまつ毛を表現しているようだ。この姉娘の姿は、師・麦僊の影響を受けているとみえ、例えば1930年に麦僊が帝展に出品した「明粧」の舞妓と比較すると、卵型の顔の輪郭や杏仁形の目、髪の毛の生え際の処理とそれによって決まる額の形など、顔の印象を左右する特徴に類似が見られる。また、斜め左を向いて座る角度もほぼ同じであるため、着物の襟の描き方や肩から袖にかけての形の取り方など、人体の形態把握も同様である。そのほか、節句飾りの置かれた緋毛氈が遠近法を無視して長方形で表わされている点は、第12回帝展に出品された麦僊の「娘」に描かれた緋毛氈の描写に着想を得たのであろうか。水平、垂直線を意識しつつ、道具立てを最小限にして余白を大きくとった背景の扱い方も含め、この時期の麦僊の作品に攻勢をよく参照している。(図録P.125)”)

「祇園会」は1936年の作品です。帝展で初めて入選した作品ということです。京都の夏の風物詩である祇園会の時期の商家の母子をモチーフにしたということです。何で展示されている下図をみると、人物のポーズや配置を何度も描き直したりして、例えば画面右側の母子の位置関係とか、手の置き方などは、色々なパターンの下図がありました。この人は、そこにあるものをあるがままに描く人ではないことが分かります。つまり、写実、リアリズムの人ではない。この人の画面づくりにおいて気がつくのは、室内の黄色とオレンジの敷物と母親の座っている赤いソファーが、それぞれ色面として画面を構成し、そこに3人の着物が水色、黄色、紫が、それぞれの色面として色の相関関係を考慮しながら、それぞれが引き立つように画面が作られているということ。つまり、画面が色面の関係でつくられているということです。ある意味、抽象的なのです。そのためには、画面は平面的な方がいい。奥行などは画面構成上、邪魔です。また、立体で生じる影などは色面にとってはノイズになるので邪魔です。そこで、全体にのっぺりとした平面になる。結果として、そういうノイズが入ってこないので、画面の印象は濁りがなく鮮やかで、明るいものとなります。印象派の色面分割と似たようなことをやっている。そこで、女性の顔も、そのような画面にピッタリと収まるようなパターンになっている。

「お市の方と三姉妹」は、織田信長の妹であるお市の方と三人の娘を描いた歴史画と言えます。とくにお市の方は、北澤には珍しい怜悧な顔に切れ長の目で、一般的な美人画の美人になっています。三人の娘は画像では分かりにくく、描かれているのが見にくいのですが、半透明になっていて、現実感が希薄です。北澤も、このような作品を制作するものですね・・・、という作品です。

「待月」という1939年の作品で下図と並んで展示されていました。“大下図の裏面には鉛筆の黒色が擦り付けられていたとのことであり、この大下図が本画用紙へのトレースに使われたことを物語っている。伝統的に、大下図から本画用紙へのトレースには、接着力のない顔料を楮紙に染みこませた念紙が使われてきた。本画用紙の上に、念紙、大下図の順に重ね、硬い筆記具で大下図の描線をなぞることで本画用紙に形態をトレースする方法である。裏側に鉛筆などの粉を擦り付けた大下図を本画用紙の上に載せて硬い筆記具でなぞる方法も念紙と同様の方法と言える。(図録P.34)”と説明されていました。なるほど、宅急便の伝票みたいにカーボン紙がはさんであって、1枚目に記入すると、その文字が下の伝票にも写るのと同じ仕組みですね。それで、下図の輪郭線がくっきりしているのですね。本画用紙に複写させるために力を入れて線をなぞったためというわけですね。だから、下図と本番の作品の輪郭は同じというわけです。とはいえ、他の作品の下図もそうですが、この下図は油絵のスケッチとは違って、一発というか一筆で描かれているのです。線の引き直しとか、形を確認しながらおそるおそる線を引いたのではなく、一息に線を引いている。あるいは、その線をひくために、予め描くもの(この場合は人物)の位置や大きさを確認するための予備線などが引かれた形跡もない。下図も一発勝負で描かれている。まあ、うまくいかなかったら、下図を最初からやり直せばいいのですから。

「明裳」は1940年の作品です。横長の作品で、左右に着物の手入れをする女性を配置し、その間に鮮やかな色彩と華やかな模様の着物が広げられています。このような大きな画面の中に人物がいるという作品、人物は比較的小さくて画面の中心ではなく画面の中に位置するという作品は、美人画、とくに上村松園の美人画にはないものだと思います。この画面の中心は、人物が着たり広げられたりする着物の、青、白、赤、黄色という色の面の対比とコントラストです。これを見ていると、人物や、その行為を写実的に描いたというのではなく、コントラストをつけた色面で構成された画面を作るために、着物とそれを着た人物を形として利用するという作品ではないかと思えてきます。このとき、写実かとか美人かどうかとかいったことは、副次的なものになる。一方で、色面を印象的にするため、着物の柄などの細部は緻密で丁寧に描かれる。とはいえ、その柄を引き立たせるたに、着物が立体であるゆえに所うるシワなどで柄が歪むところは描かない。

1942年の「好日」という作品は渋い色調の作品です。その中で右側の女性の締めている帯の緑がとても印象的に鮮やかに映るのですが、渋い色調がサマになる題材というのは老人です。その老人がハマる場面として選ばれたのが、この作品。絵筆をとる画家(おそらく北澤自身)と絵の具の準備のために乳鉢を持って脇で控える老母。若い女性である画家と老人は肌の色と髪の色を変えています。肌は黄土色に近い色に、髪も黒を薄めて黄土色を少し混ぜるような色で、老人らしさを表わしている。その代わりに、顔に皺を描いたり、全体として顔や身体に萎びを加えたりはしていません。ただ、目の下のところだけ皺を描き入れています。この老人の渋さが、全体に渋めの画面のなかで、相対的に渋さが薄い画家の女性を映えさせている。色彩の構成と、それを形態がうまく引き立てている作品なっていると思います。また、細かいところに目を移すと、画家の筆を持たない左手を床についている形、また前傾姿勢の足の爪先が指を立てている形は、それぞれ無理をしているように見える。それが、画家に力が入っている、つまり、描くという作業に集中していることを見る者に想像させます。それは、画面の中の中心として、それほど鮮やかに描かれているわけでもない、画家の姿を映えさせている。でも、この左手も足先も、のっぺりとした平面で、形の輪郭はそういう形をしているものの、それぞれに存在感は感じられません。あくまで、色面、つまり平面です。

そのほかに、この1章の展示で目についた作品を2点。ひとつは「舞扇を持つ少女」(左側)という作品です。少女の顔は正面を向いています。パッチリとした目は正面、つまり、こちらを向いています。瞳はクッキリと描かれていて、まるで、見る者に訴えかけるというと大げさですが、自身を開示するような雰囲気があります。見られるだけの美人ではなく、こちらを見ている。そこに、この少女の自我を想像することができる。もうひとつは、1948年の「緑衣」(右側)という作品。これは、幻想的な緑色がとにかく印象的で、この緑色を見ることができるだけで満足できしまえる作品。北澤は、この作品で、この緑色を発見したのか発明したのか分かりませんが、この後でも、この緑色を使った作品を制作しています。

 

2章 挑戦 京のみやびと現代性のはざまで

第二次世界大戦後の北澤の活動です。敗戦により従来の伝統的な価値観は崩壊し、社会は大きく変化します。そのなかで、北澤の活動は、伝統的な日本画の枠から抜け出していき、欧米から入ってきた最先端の思潮を取り入れていきました。とはいっても、ある面では伝統の中に足場を置いてもいて、それがかえって欧米の思潮に対して柔軟な態度をとることができたと思います。

最初に展示されていたのは1953年の「花を持つ少女」です。今までの作品とは雰囲気が変わりました。日本画というより、西洋画の肖像画、さすがに油絵とは言えませんが水彩画、そう見えます。「舞扇を持つ少女」にも、そういう雰囲気はありましたが、どう見ても日本画でした。どこが違うのか、例えば顔は肌色の濃淡で顔は平面から脱して、肉付きのあるふくらみの雰囲気が出ています。鼻は肉の盛り上がりにちゃんと見えます。そこから、顔に表情らしきものをうかがうことができるようになっています。そして、身体も着物を色面ではなく、着物を着た肉体のふくらみが想像できる。ピンク色の濃淡でそれが表わされている。

同じ年の「白川学園の子供達」という作品は、どこかゴーギャンのタヒチ島を描いた作品を想わせます。空間を遠近法を使わずに平面に捉え直しています。そして、野原か畑で子供達が農作業をしたり、遊んでいる。その子供たちの肌の色が様々で、まるで南洋のタヒチの土人たちみたいです。実際は、野外で日中を過ごしているので日焼けしたり、あるいは土の地面で作業したりしているので土で汚れたりしている。それを肌の色の違いのように、様々な色を使い分けて、色彩のバリエーションの画面にしている。あるいは、つぎの当たった子供の服を、あたかも模様のように描いている。ある意味では、敗戦後の貧しい子どもの日常を美化、きれいごとにしているにしているともいえるが、それよりも淡くて地味めの緑や茶あるいは紫系統の色をパレットのように画面に配置する口実として、うまく利用しているともいえる。私には、この画家の性格からして、後者の方が、より近いように思えます。

1954年の「花」という作品です。「花を持つ少女」が水彩画のようだったのから、日本画と言える方に歩み寄った画面になっています。それより「白川学園の子供達」の色面で画面をつくるという方向性をさらに推し進めたといえると思います。使っている色はどぎつい原色でこそありませんが、フォービズムの絵画を想わせる作品です。緑色の濃淡の地は花園という背景ということなのでしょうが、それだけで幻想的です。その地の上に椿でしょうか、あるいは牡丹か分かりませんが赤(少し緑が入っている)と白の花が全体的に散りばめられています。それは、中心である女性の背後で花が咲いているというよりは、緑の地の上に赤や白で花の形が模様のように散りばめられている、その花々の間を埋めるように葉の形の緑が描かれている。そして、中心の女性の来ている着物の柄が、その背景と連動するように無数の赤い花が並んだ柄になっている。これによって画面全体のリズムが作られている。その中心にある女性の肌は色面のなかで白に近い色で、むしろ空虚に見えてくる。というより、黒地に赤い柄の着物の印象が強い。ところが、並べて展示されている下図を見ると、女性のポーズが動的で、顔は口を尖がらせているようにも見えて、その存在を主張しているように見えます。それまでのお淑やかな女性のイメージから脱して、自身の存在を主張しているように見えるのです。これは、おそらく下図では輪郭線がはっきりしていて、その印象が強いのに対して、本番の作品では、色面の要素が強くなり、線が隠れてしまったためだろうと思います。この頃の北澤の作品は線と色面の力関係によって作品全体の印象が変わってくるようです。作品によって、それが変わってくるので、その違いを見るのも面白いです。

少し戻って1951年の「二面像」(右側)という作品。仏像がモチーフでしょうか。そういえば両面観音像とかあります。表面は慈悲の顔をしていて、裏面は憤怒の表情をしている。それを、右側の白と左側の黒とう対称で表わしている。この人物は左右対称でしかも反転するように表わされています。陰と陽の対称のようです。そのように見れば、人間の表の顔と裏の顔という二面性を象徴的に表しているという物語で、この絵を見ることもできます。ただ、北澤という画家は、物語とか言葉による絵画以外の情報を画面に持ち込むことは、ほとんど行っていない人です。だから、私には、この作品は純粋に画面の表層を楽しむ方がいいと思います。それは、両面観音像とか仏画の様相というスタイルを利用しているが、もしかしたらキュビズムを真似ているのではないかということです。そう考えると、ピカソのキュビズム時代の人物画(左側)で顔の左右を白と黒に塗り分けた作品と似ていると思いませんか。

1955年の「婦女曼荼羅」(右側)では、それがハッキリしてきます。これは、まるでピカソの「アビニヨンの娘たち」(左側)です。中央の女性の顔は左右で肌の色が違うのはピカソのキュビズム時代の描き方そのものです。こちらに顔を向けている4人の女性は、多かれ少なかれ、そのような顔の描き方をしています。この作品では部分的に分かる程度ですが、下図のスケッチを見ると、全体的で、もっとピカソに近寄っていたものだったのが分かります。おそらく、本番の作品では、彩色の過程で色面で画面を構成させていくので、キュビズム的な細かい画面分割を放棄することになったではないかと思います。そのような想像をしながら作品を見ることができるのは、とても楽しいことです。そういう物語を見る者に想像させる楽しさを、この時期の北澤の作品にはあります。とはいえ、ゴーギャンだったり、フォービズムだったり、キュビズムだったりと、当時の西欧の最先端と言える思潮を、軽薄と言えるほどあっさりと取り込んで(パクって)しまっているのは、どういうことなのでしょうか。というのも、おそらく西洋画の画家であれば、とてもそういうことはできないと思うからです。それは、北澤という人が好奇心旺盛で物事にこだわらない性格とか、そういうことを言っているのではないです。北澤という人物の性格など、私は知りません。そうではなくて、西洋画にはそれなりに文化的な背景があって、キュビズムが生まれてきたのには、その独特の文化的なバックボーン(伝統と言ってよい)から生まれてきたものだからです。西洋画を学ぶ人は、その文化的バックボーンを否応なしに受け入れざるをえません。それが、西欧の地元の人であれば尚更です。例えば、オランダなどの北方的な絵画の伝統で育ってきた人は、その色遣いや物の見方から、キュビズムとは相容れないところがあり、流行だからといって、安易に飛びつくことはできない。それまで学んできた絵画を否定することもなりかねないからです。極端なことをいえば、それは当人のアイデンテティに関わる問題となるわけです。とこが、北澤は、日本画という異質の伝統の中にいる。西洋画からみれば部外者です。西洋画の文化的バックボーンとは関わりを持っていないのです。そこで、文化的バックボーンの違いという問題は起きない。だから軋轢が起こらない。北澤から見れば、それぞれの流行は文化的バックボーンとは切り離して、表層のスタイルとして見ることができる。だから、スタイルとして真似することについて、軋轢や葛藤が生じない。あとは、審美的な判断だけです。それは、文化的バックボーンの縛られた人からは軽薄に見える。

1958年の「壺と坐婦」(左側)という作品。これも下図と並べて展示されていました。下図にあった背景の埴輪が本番の作品では削除されて壁になっているという違いが目立ちます。そんなことよりも、本番の作品を見てみましょう。この作品では、いままで着物を描くことで隠れていた、つまり描かれていなかった着物を着ている女性の肉体が描かれています。例えば、胸元の乳房の二つのふくらみが着物が凹凸になっていることで描かれています。また、腰部の日本の脚が着物越しに表わされています。顔についても、いままでは赤いおちょぼ口の唇のパターンであったのが、ここでは赤く塗られていません。そのた、顔の印象が変わってきています。もともと、北澤の作品は美人画のパターンから外れる傾向にありましたが、戦後の作品で欧米の様々な絵画の影響を受けることで、表現の幅が広がり、それが、この作品の表現に新たなものを加えることになったと思います。それをさらに推し進めたのが、「羅」(右側)という作品でしょうが。薄い着物を羽織った裸婦ともいえる作品です。しかし、それならストレートに裸婦を描いてもいいだろうに。この作品では、裸婦そのものよりも白と黒の薄い着物でつくられる色面の方に重点があるのかもしれません。それならば、この作品の主菜は白と黒の色面で、裸婦はツマなのかもしれません。「壺と坐婦」にしても「羅」にしても描かれている女性の肉体に対して官能性は感じられないのも、その理由です。この「羅」の女性、黒いアーモンド型の目や人形のようにパターン化されたところなど東郷青児の描く女性に似ていると思いませんか。

1961年の「花と舞妓」は咲き誇る紅白梅の美しさを楽しむ舞妓を描いた作品です。戦前の「明裳」もそうですが、横長の作品で、おおきな画面を場面として人物をその一部とする作品を制作しています。この作品も、そのひとつです。この画面の中心は紅白の梅で、人物(舞妓)は紅白の梅を眺める存在として脇役になっていると思います。この作品を見ていると、どうしても視線は梅の花の方に向かいます。赤(というよりピンク)と白い無数の点のような画面の上下を埋める梅の花は絵の具が盛り上がるようにボチッとしていて、見る者に対して前面に出て来るようです。それだけ存在の主張が強い。そして、背後の梅の枝は紅梅は茶色、白梅は黒に近い青で、絡み合い、まるで混線しているようにみえます。いわば、点と線がゴチャゴチャに絡み合ってカオス状態になっている。その脇に、薄っぺらい平面的な舞妓が描かれている。そういう視点でみると抽象画のように見えてきます。この絵には、そういう要素があると思います。

1962年の「花の中」は同じような傾向の作品です。淡いピンク色に包まれた靄のような画面は、クロード・モネの日傘をさした女性の作品を想わせる。無数のピンク色の花が画面を埋め尽くして、ピンク色の靄がかかったような中に、ピンク色に染まった洋装の女性がいる。これは、日本画というよりファンシーなイラストの構成です。しかし、主眼はピンク色のグラデーションでしょう。色面で画面を構成していた、その色面が細かくなったということでしょうか。こうしてみると、北澤という人は色の画家でいえるところがあります。

1968年の「きもの」はこれらの作品の傾向をさらに推し進めた結果、画面から人物を取り去ってしまった作品と言えます。色による構成なら、とくに人物がいなくてもいい。色鮮やかな反物の模様をレイアウトして、その反物を織る織機や糸をデザイン的に組み合わせた作品です。このようなコンセプト的なデザイン画は日本画にはなかったものではないかと思います。このなかに点景として着物を着た女性がいてもおかしくはないと思いますが、あえて、女性をいれなかったところに新しさがあるといえるかもしれません。

1967年の「或る日の安英さん」という作品です。“木下順二の戯曲「夕鶴」のヒロイン・つう役を演じた女優山本安英をモデルにした作品である。淡い輝きを放つ背景にシルエットのように浮かび上がる機織り機の前に鶴の白い羽を想起させる白い着物を広げ、愁いを帯びた表情で座る山本安英の姿が描かれている。…山本の人物そのものを描くというよりは、その姿に人間と分かり合えない夕鶴のつうの悲哀を投影することが制作の意図であったことが背景を含めた全体の描写からうかがえる。山本安英は当たり役の通を千回以上も山本安英演じたといい、山本といえばつうという認識を多くの人が持ち、役の人格を女優に投影しやすい環境が整っていたと推察される。着物の紫色に対応するように顔の輪郭線や髪にも紫を用い、背景の淡く複雑な色彩の中で画面全体の調和が目指されている。山本の着衣に注目すると、一見、着物には赤紫輪郭線が引かれているように見えるが、襟のあたりに目を凝らせば、赤紫の色面で着物の形態をとり、その上から濃淡を色面で塗り重ねて、塗り残したところを赤紫の輪郭線のように見せていることが分かる。1950年代から色の諧調で形態を表わす手法を試みていた映月の、色面と線の関係を的確に見極めた描法といえるだろう。(図録P.131)”と説明されていました。ただ、この中で、山本安英の姿に「夕鶴」のつう役の心情を投影しているという説明は具体的にどこでそれが分かるかが説明されていないので理解できませんでした。私は、作品を見ていて、どこでそんなことが感じられるのか分かりません。それよりも山本安英という女優を見たことがないので、果たして、その人を描いたのか分からない。しかし、北澤が、もともと女性を理想化された美人として描くことから距離を置いていたことから、個性をもった特定の人物とみられる人物を日本画で描こうとしたのが、この作品であると思います。しかし、写実的に、この人物を山本であると特定できるほどリアルに描くことではせず、制作当時の人々なら山本といえば「夕鶴」と知られていることを利用し、「夕鶴」の舞台装置を山本を想起させるものとして背後に配置した。西洋画の聖人像でアトリビュートを画面に配置するのと同じ手法ではないかと思います。

 

3章 成熟 時代考証と現代性の融合

北澤の1970年以降の晩年の作品です。いろいろなことをやってきて成熟にいたった晩年の作品というストーリーです。ここからの展示作品については、成熟したということなのか、北澤の手法が固まってきたようで、これまでの作品のように、“こんなことをやっている”というような多様さがなくなり、同じような作品が並ぶようになります。ここからの作品の違いは、取り上げる題材の違いとそれにともなう作品の趣の違いになっていきます。そこで、これまでのように作品について言葉で説明するということが難しくなります。それは、単に美しいとか、風情があるといった形容詞で、大雑把に語るようになります。私としては、作品の面白みという点では、ここからの作品は驚きがなくなり、安心して見ていられる作品になっていくのです。

1972年の「女人卍」という作品です。時代の違う歴史上の女性を5人をひとつの画面に描きました。その5人とは、まん中の淀君を中心に、そのまわりに左上から時計回りに出雲の阿国、細川ガラシャ、樋口一葉、加賀千代女です。それぞれが同じ黒の着物を着ていながら、柄はそれぞれの歴史上のイメージに沿うように変えられていて、手にそれぞれの人々が抱く象徴的な小道具を持っています。時代の違う歴史上の女性をひとつの画面に集めた理由は分かりませんが、あえていえば、それぞれの来ている着物の黒のバラエティが、この作品の眼目のような気がします。

1975年の「江戸と上方」も、「女人卍」と同じように、実際に女性を描写したというのではなく、想像により描いたというが分かる作品です。これらの作品では、なんらかのナラティブがもととなって画面を構想し、それに当てはめるような女性をイメージしている。そこには実際の女性を描く必要はなく、頭の中にあるイメージを手慣れたパターンで描いている。ここで必要なのは、写実ではなく“らしさ”です。“向かって左に配置され小紋の着物と縞の帯を締めた女性は、写楽の羽子板を持っている。背景は富士をのぞむ武蔵野と思しき風景と日本橋を描いた浮世絵で、まさに江戸の表象である。一方、右の少女は裾模様の振袖に金銀の鶴を文様とした帯を締めている。帯は俵屋宗達の「鶴下絵三十六歌仙」和歌巻”を彷彿とし、背景には大津絵、手前には蒔絵が施されたみやびな棗が置かれている。狐目の江戸の女性が勝気な表情を隠しもせずにやや顎をあげ、今にも立ち上がりそうなのに対して、京の女性はおっとりとした表情を浮かべて座っており(図録P.132)”と説明されていますが、ここでの描き分けは、もはやそれらしいポーズと小道具の工夫という演出に因っています。北澤の成熟した様式とは、このように固定した(安定した)パターンの女性の描き方に演出を施して、画面をつくる。作品の違いは演出の趣向の違いというように、見る者は演出の趣向を堪能するというものになっていきます。これって、安心して眺めていられるのですね。ホッとするというか、見ていて疲れない。それでいて、ある程度の“見た”という充実感を得ることができる、というわけです。こういうのを大人の鑑賞というのでしょうか。ただし、色面という要素は残っていて、この作品では二人の着ている着物は紫色を基調としていて、その紫の違いが目を惹きます。

1987年の「花の中」は、そういう成熟した北澤の最大公約数的な作品ではないかと思います。この女性の顔は上村松園とは違うパターンによる様式化されたものですが、現代女性の感じに近く、金髪でも違和感がないのです。さらに、表情をつくりだすことができています。日本画だからと意識することなく、可愛らしい、ファンシーな絵として見ることができるものです。

1981年の「つぼみ」と1986年の「緑蔭」は緑色の印象的な作品。1948年の「緑衣」で鮮やかに輝くような緑を見つけた北澤は、その緑のグラデーションで、さらに緑色の印象が深い作品を制作しています。

 

「国立劇場の名品展」

第二展示室では「国立劇場の名品展」をやっていたので、これも見てきました。現在、閉鎖中の国立劇場に飾ってあった絵画作品を預かっているので、それを展示しているということで、つぎのように説明されていました。

“国立劇場の場内には、設立当時より日本画を中心とした当時の画壇最高峰の作家による作品が飾られ、格調高い趣を作り出す一翼を担い続けました。近現代の日本画の収集・展示を積極的に行っている当館では、国立劇場の再整備等事業のための閉鎖期間中に、これらの作品をお預かりすることになりました。本展では、全36点を一堂に会します。

このたびお預かりした作品は鏑木清方の「野崎村」を除き、すべて1940年代以降に制作された作品です。日本画は、戦後の1940年代、新しい現実社会を生きる人々の感覚と伝統的な日本画との間に差異が生じ、大きな転換期を迎えました。新しい日本画の在り方を模索する画家たちは、西洋絵画の表現手段を参照し、あるいは東洋古典の新解釈を試みるなど、意識的にも造形的にも試行錯誤を重ねました。国立劇場のコレクションには、それらの傾向があらわれた作品が多く含まれており、多種多様な作品が集められています。

本展では、これらの作品を主題やモチーフをもとに「1.物語・役者を描く」「2.風景を描く」「3.花・動物を描く」「4.人を描く」という四つのテーマに分けてご紹介します。長きにわたって劇場内を彩り、幕間や上演前後の来場者に楽しまれてきた国立劇場のコレクションは、場外で一堂に展示されたことはなく、本展は貴重な機会となります。劇場内とはまた違った美術館の展示室という空間で、作品の魅力を心ゆくまでご鑑賞ください。”

ということで、ここでは目についた作品を紹介していきます。

.物語・役者を描く

田島なす美「真夏の世の夢」はよかった。

.風景を描く

染谷祐通の「仁和寺門」や高山辰雄の「水辺の家」がよかった。

.花・動物を描く

浜田観の「芙蓉」や高山辰雄の「晝」がよかった。

これらは、他の劇場の飾りと違って絵画として鑑賞できる作品でした。 

 
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