北村周一展
フラッグ《フェンスぎりぎり》一歩手前
 

2017年5月11日(木) 武蔵野市立吉祥寺美術館

都心での仕事を夕方に終わられて、帰宅する途中に立ち寄った美術館。この美術館は開館時間が、平日でも19時30分までなので、丸の内で5時に仕事が終わってからでも、少し駆け足になるが立ち寄ることができる。それは、とてもありがたい。場所は、吉祥寺駅から歩いて数分の、駅前繁華街の商業ビルの最上階にある。繁華街の喧騒を抜けるのを少し我慢して(渋谷のBUKAMURAに行く途中のゴミゴミした環境に比べれば、まだましだ)、エレベーターで最上階に上がると、デパートのフロアのような、小さなギャリーがある。仕事が終わって、家に帰る前に、立ち寄って絵を見て過ごすには、ちょうどよい大きさかもしれない。入場料も、常設展100円、企画展300円と安い。これは、私のような人間にとっては、立ち寄り易いことこの上ない、しかも過去の展覧会の履歴を見ると、面白そうな企画が並んでいたので、今後、また来たいと思った。

さて、北村周一という画家については、私は初めて作品に接する人なので、画家の紹介を兼ねて、主催者のあいさつを引用します。“個展を軸に作品の発表を続けている画家、北村周一(1952年生まれ)。「フラッグ《フェンスぎりぎり》」という奇抜な展覧会のタイトルは、2008年の個展から一貫して彼が使い続けているものです。「フラッグ」とは、「上下左右に動く二本の線が一点で交差しようとするとき、その交差の直前(一歩手前)に発現する空間」についての北村独自の呼称であり、彼の作品に通底する空間概念です。彼がつくりだす画面において、「フラッグ」はさまざまな様態に展開されている。北村の作品には、「小石を繋ぐ」「縁側」「ライン消し」などのように、しばしば画面からは思いもよらない題名が与えられています。題名は、作品の背後に存在する彼自身の経験や思考の痕跡を示すものであり、彼にとっては作品を「名づける」ということも大きな意味を持っているのです。このことは、彼が日頃から取り組んでいる短歌とも深く関わっています。自らの仕事について、「ごくあたりまえのこと、基本的なことを、堂々巡りに見えることを恐れず、繰り返す」行為であると語る北村。彼の主題は、「フラッグ」のように、日常ではごくあたりまえのように目にしていながら省みられることがない、そんな事象のうちにあります。本展は、都内の美術館では初の個展となります。北村周一の特異な仕事の一端に触れる好機です。”

このあいさつは、ある程度北村の作品に親しんでいる人向けのおしゃべりで、初めて彼の作品に接する人には、北村の作品とは、どのようなものなのかは分かりようもありません。私たちが絵画を見るという経験をするときのことを考えてみましょう。例えば、私がダ=ヴィンチの「モナ・リザ」という絵画を知らなくて、初めて見た際には、それまでの似たような絵画を見た経験をなぞるように見ることになるでしょう。それまで、私が女性をモデルにした人物画を何度か見たことがあり、その時に、どのように絵画を見たのかという経験をパターンとして蓄積しています。そこで、私が「モナ・リザ」に初めて出会ったときに、中央に女性が描かれていること、女性は半身像で、斜め正面でこちらを向いていること、背景に景色が描かれていることを、それとすぐに把握することができます。その場合、そのほかの把握の仕方、例えば、地味な色だけを見て、その色で編んだ模様として捉えることは、ありえません。「モナ・リザ」という作品が、とりあえず人物を描いた作品であり、そのような形を描いていることを前提にして、作品を見ていきます。それは、私たちが作品を見ていくための手掛かりのようなものです。抽象画の場合は、それとは少し違います。その手掛かりとしての何かのパターンが決まっていないのです。それが「分からない」という言われるひとつの原因ではないかと思います。しかし、逆に言えば、そのような経験したことのない出会いによって、新たに経験をつくるということが抽象画を見る場合に可能になるということでもあります。とは言っても、抽象画の有名な作品は、そのパターンが出来合いで用意されていることもあって、それに乗ることもできるということもあります。また、人というのは、どうしても過去の似たような経験のパターンをアレンジして当てはめようとします。目で見るということは、具体的に事物を見ることです。だから、抽象画といえども、見るのは具体的な何かです。それは、上のあいさつにあるような抽象的な言葉ではありません。そのような言葉になるのは、具体的に何かを見て、それに対して言葉で意味づけをしたときに、初めてでてくるものです。このあいさつには、その見た何かが省略されています。その何かを、私なりに考えながら、感想を綴って行きたいと思います。

「瀝青.左」「瀝青・右」という2010年の作品です。二作ペアで一対として並べてありました。この作品は展覧会場の中でも奥の方に展示されていて、私が会場でずっと北村の作品を見ていて、この作品にいたって漸く作品をみる手掛かりを掴めたと思えた作品です。その手掛かりというのが、この作品をみていて、アメリカ抽象表現主義の画家マーク・ロスコに似ていると思えたことです。ロスコの抽象画というのは、赤、青、オレンジ色、緑、黄色などに鮮やかな色の塊が二つか三つ、横長に縦に積み重なる様は、まるで色を異にかる光を背後から受けた雲か霧の集積のようにも見えて、キャンバスの縁をわずかに残して画面いっぱいに茫漠と漂っているスタイルです。そこに見られる特徴としては、左右対称の構図、矩形キャンバスの内部に矩形が繰り返されるという安定感であり、そこに色彩とフォーマットの無限のヴァリエーションが展開されることでしょうか。しかし何と言っても、特筆されなければならないのは、画面が一気に巨大化して行ったことです。小さな絵とは違って、背丈を超える大きな絵は見る者をその内部に包み込むかのような感覚を与えます。作品画像を比べて見てもらうとよく分かりますが、色彩こそ違え北村もロスコも外面いっぱいに単色の絵の具で塗りつぶしている点で共通しています。その両者の違いのひとつは作品の大きさです。ロスコの作品は往々にして壁のような巨大で、見る人を包み込んでしまうところがあります。しかし、北村の作品は約1.5m×0.9mの大きさで、見る人を包み込むというより、見る人と正面から向き合うという感じです。そこで、作品を見ている私は、ロスコの場合よりも距離をおいて冷静に観察するような視線でよく観るという態度をとることになります。そのような見方で視線に捉えられるのは、細部です。

このことを覚えておいていただいて、唐突ですが、話題を変えます。ロスコの作品の特徴的な魅力について、その大きさ以外に次のようなことをあげることができます。ロスコの単に絵の具が塗られただけのような画面は、絵の具の塗りが全般に薄く、地肌が透けて見えるほど薄いところもあれば、しっかり塗りつぶされたところもあるという調子で、無地と見えて濃淡にムラがあります。無地と見えて濃淡にムラがあります。このような濃淡のムラという、それまでの絵画の常識では意識的に排斥されきた人間の手の痕を、一貫して尊重しているのです。ここに、ロスコの絵画が抽象的であっても、決して冷たくならず、暖かみと安らぎが感じられる要因の一つがあると思います。そして、濃淡だけでなく色彩の面でも、しばしば似たような色へと段階的に微妙に変化していくような、中間的な、はっきりと色の名前を言えないような色合いです。何色ということを決めかねるような色彩は、自然の光のもとでは天気や時刻によって差し込んでくる光が変化し、それにつれて色調の印象が変容していく、そういう静かなドラマを生んでいきます。こうして画面の表面全体がドラマの場となります。そして二次元的空間の中でポイントごとにたえずニュアンスが変化してやまないのみならず、外から訪れる光もまた動いてやまない。時間的な変化が加わってくるのです。だから、ロスコの絵画は時間を内包しているというわけで、ずっと作品につつまれて時間を過ごしていても、飽きることがないのです。この画面では分かり難いかもしれませんが、北村の「瀝青」にも濃淡もあり、手の痕もあります。その上、北村の作品はロスコのような薄塗りではなく、厚く絵の具が盛られていて、画面の表面にはっきりと凹凸が作られています。画像では分かり難いかもしれませんが、北村の作品は表面がゴツゴツしています。ロスコの作品の表面の滑らかさは物静かで柔らかく優しげなところは、細部に気付き難いところがあります。しかし、あるポイントの前後を楽しみ、ムラによって生み出される表面の変化を視線を移していくことで認識して、その静かな余韻を楽しむ。また、一ヶ所にポイントを絞ってじっと見ていると細部が見えてきます。それが見えてくると、薄塗りの滑らかな表面に視線を滑らせていくことが分かる変化に身を任せるという楽しみ方ができます。何か、北村ではなくロスコのことばかり語ってしまっていますが、現時点では、私自身が北村の作品の楽しさを語る言葉を見つけられないでいるので、ロスコとの比較で相対的な語り方になってしまっています。で、話を戻して、ロスコに比べると北村の場合には、ロスコのような滑らかさや柔らかさの代わりに、表面は凸凹でゴツゴツしているので、視線の滑らかな移動はし難くなっています。その代わりに、視線を止めて、一点を凝視するように誘っています。そこでは、表面の凸凹から生み出される影が表面に変化を作り出していきます。それは、少しでも視線を変えると影は変化し、その影の変化は色合いやグラデーションの見え方を変化させていきます。その変化はロスコが滑らかな、音楽で言えばメロディのように流れるものであるのに対して、北村の場合には、時には流れがストップしたり、跳躍したりするような意外性があって、視線に運動を強いる変拍子のリズムのようなところが違います。それゆえに、ロスコの作品ような観る人を沈潜させるような瞑想的というよりも、観る者の視線を裏切って驚かすようなダイナミックなところがあると思います。それは、ロスコとは違うものの対象として突き放してみるというよりも、作品に入り込んで直接体験するような、作品への対し方をすることができます。だから、この「瀝青」という作品に対しては、何かが描かれているとか、意味を読み取るとかいったことではなくて、作品の前で時間を過ごして、体験するというところがあると思います。

「ライン消し・左」「ライン消し・右」という一対の作品も、同じようなところがあります。薄く塗られた黒い墨の下に、違う種類の黒い塗料が描かれた形態が透けて見えています。ここでは、「瀝青」の表面の凸凹から生まれる影の代わりに、何重もの層に重ねられ透けて見ることのできる塗りの層があります。その層の透け方の変化が、時間をかけてみていると変化してくるわけです。それは、比喩的な言い方になりますが、ロスコが形にならない曖昧さを見出して、それをキャンバスに定着させようとしているプロセスであるのに対して、北村は曖昧をすでに持っていて、曖昧さは自明のことで、それをはっきりさせようとしている、と私には思えます。曖昧さをはっきりさせるという言い方は形容矛盾ですが、曖昧であるとは、形がないことでネガティブな言い方をせざるを得ません。おそらく、ロスコは、もともと表現というのは能動的な言い方で、ハッキリとした形をもっているものを表わす、たとえ抽象画であっても抽象的な形を描いていましたから、そういう形で表わしきれないものを見出したというのは、それだけで画期的であった、と言えると思います。これに対して、日本の絵画では余白といった描かれないものを表現として味わうこともあったことから、曖昧さということは認められていたのではないかと思います。北村にもそのベースはあると思います。そこでの課題は、それを西洋の伝統の上での絵画で描くということ。つまり、形を表現するという絵画に当てはめるていくということです。しかし、形が確立してしまえば曖昧ではなくなってしまいます。そこで、北村の絵画は形にならない形を模索するというものではないか、と私に思えてきたのです。例えば、この作品では、半透明で多層化された画面に透けて見える下層に描かれているものが、形はハッキリしていませんが、何かの描かれているだろうことは分かります。それは、他の作品では絵の具が積み上げられた物質だったりします。

「小石を繋ぐ-@」という作品です。ここまでモノトーンの作品ばかりピックアップしていますが、北村の作品はそういうものばかりではないことを断っておきます。私が、ここで感想を述べている北村の特徴をよく表われていると思うからです。「瀝青」や「ライン消し」が黒一色であるなら、この作品は白一色です。このほうが画面上の変化が見えやすくなっていると思います。ロスコとの違いに拘泥しているようですが、私の場合は北村の作品をロスコを手掛かりに見てきたので、どうしてもこうなってしまいます。これは、私という偏向した好みの人間の視点で語っていることです。ロスコの大きな特徴として、作品の巨大さがあります。壁のように立ちはだかって、見る者を圧倒します。ロスコは絵画を距離をおいて観察するように眺めるのではなくて、作品に取り囲まれるようにして空間に包まれるような体験をしてもらうことを求めていたようです。そして、ロスコの絵画の特徴として色彩があります。これは作品スケールとあいまって、見る者を空間に包み込むようような気分にさせる機能を果たしていると思います。そして、眼を転じて北村の作品には、その両方がありません。この作品の大きさは縦横、それぞれ約30センチ前後で小さいのです。また、色彩はごらんの通り、白一色です。これでは、ロスコのさくひんのように空間をつくって、見る者を包み込むということは難しい。むしろ北村の作品は、ロスコが避けようとした、距離をおいて眺める作品になっていると思います。それは、北村の作品は画家が画面を計算して作っているように見えるからです。これに対して、ロスコの作品は、即興性がある偶然にできてしまったことを作品としているところがあると思います。絵の具を塗っていて、偶然できた画面を作品として提出する。全くの行き当たりばったりということはないのでしょうが。これに対して、北村の作品をみれば、連続模様のような菱形?が連続して、規則的に並んでいます。それも、絵の具を物質のようにして置いて積み上げています。このような作業を行き当たりばったりで偶然の結果できたとは到底考えられません。画家が、面倒な作業を、こうしようとして行った結果です。つまり、ロスコの場合とちがって、この作品では、縦横に並んでいる菱形のそれぞれについて、画家はこうしようとして作業をしているわけです。そこに偶然的な要素が入っていることはありますが、基本は画家の意図です。したがって、この作品の細部には画家の意図があるわけで、私のような作品を見る者の前に、意図が表われてきます。もちろん、私はそれを無視して、好きなように見ていいわけです。しかし、ロスコの作品のように偶然出来てしまったものに比べると、その細部に視線を誘導されるのです。例えば、同じような菱形が並んでいる、その菱形の差異を見ようとする。積み上げられた絵の具の形や高さの違いと、そこから生まれる影や白の見え方の差異といった細部です。そして、そのような細部の積み重ねが、先ほど述べましたが、北村の作品が曖昧さがすでにあることを前提にして、その曖昧であることを確固として提示するということではないと私は思います。ただし、だからといって北村のこの作品は、何かを表わそうといった意図が感じられません。いわば、この画面全体が余白のようなものに感じられます。それは、日本画であれば、何も描いていない余白が、画面全体の雰囲気とか空気感をつくったりしている。北村のこの作品は、その余白だけでできているように見えます。だから、重さとか、緊張感をあまり画面から感じ取れないのです。そこに在るのは、たんにあるということだけなのです。だから、私は、この画面をみていて、細部の差異をいちいち見て、こんなことがあるとか、ここが違っているといったことを見て喜々として戯れていました。ロスコの作品には、そのような遊戯的に楽しさがありません。

「または、逃げる韻を踏む日々・AA」という作品です。同じような白一色のモノトーンの作品です。この作品は「小石を繋ぐ」のような規則的なところは、見つかりませんが、表面の凸凹を同じような視点で見ていくと、細部の戯れが見えてきます。北村という人が絵画をどのようにかたちづくってきたかは、私には分かりません。これは、あくまでも作品を、個人的に見ての、主観的な印象で語っています。したがって、事実と違うことがたくさん含まれています。そういうことで語っています。これまでロスコとの対比で語ってきましたが、そのことも含めてそもそも論に遡ってみたいと思います。最初にも少し述べましたが、絵画というのは“なにか”を対象として、その“何か”を描いたものです。例えば、人物画は人物を描いたものです。それは、歴史上の事件でも神話や物語の場面でも、人物とか建物とか物体としての“何か”でするそういう絵画は、後年の抽象画との対比で具象画に一括されるようになりました。これに対して抽象画は、具体的な物体を描くことがありません。その代わりに不可思議な図形だったり、模様だったりしても、それは事物を視点を変えて見た“何か”であったり、イメージという“何か”であったり、そのような“何か”を描くものであり、抽象画であろうが具象画であろうが、絵画という点で“何か”を描くという点で一緒です。しかし、ロスコの抽象画は、その“何か”があって、それを描こうとしたというよりは、描かれてしまった画面を見た人が、ある効果を受けた、例えば、瞑想に誘われるという効果がうまれたということから、仮に画家がその効果を認めて、その効果を生み出すことを狙って絵画を制作していこうとした。つまり、“何か”を描くということを否定した。描くということが先にあるという姿勢の転換があったという。絵画のあり方に、ロスコの絵画は特徴があると思います。私は、そのロスコの絵画の在り方に、北村の絵画は近いところがあると思います。しかし、日本の伝統的な絵画には“何か”を描くというあり方が徹底していないところがあると思います。それが余白という“何か”を描かない空白が意識的に画面に導入されているという点に、典型的にあらわれていると思います。北村の作品の姿勢にも、そういうところがあると、私にも見えます。それが、前に少し述べましたが、曖昧さを明瞭にしようとしているというのは、その在り方の具体的な表われではないかと思います。

この作品で、それが表われているところを見ていきましょう。ここで、もうひとり瑛九という画家の作品と比べて見たくなりました。瑛九は“何か”を描くというあり方でない作品に、多様な色彩という要素を排除していない作品です。そこで、北村の作品を見ていると、作品を全体して構成されていないと感じられます。というよりも、全体としての印象というのが稀薄で、作品を見ていると、細部に視線を導かれます。この作品のように色彩を白一色にして画面の凹凸から生まれる陰影が際立っています。視線は、そこで生まれる細かな陰影の変化に導かれます。ここに、色彩という要素が加われると、むしろ注意が散漫になってしまいます。ここでは、色彩という要素の加わった複雑な構成を作られていません。北村は、菱形を並べて、その変化を積み上げて、結果として全体の画面が出来上がっているように見えます。ここで、私には、この作品で明瞭にみえるのは、そういう一つの単位を素材にして、それを変化させて画面を作っていくということです。言ってみれば、言葉の世界で文章を作っていくときに従う文法のようなものです。その文法に従って出来上がった画面が、結果として、見る者に何がしかの効果を及ぼすということ。それが、北村の絵画の基本的なあり方ではないかと思います。

 
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