2025年10月15日(水)泉屋博古館
東京地方の朝は肌寒いが、上着を着ずに出かける。少し寒いが我慢して、新横浜で新幹線に。新大阪行きの「のぞみ」は満席だったが、名古屋で半分が降りてしまった。京都で降りる人は少なかったので、噂に聞く混雑は免れたと思い、ほっと一息。と思ったら、地下鉄に連絡する八条東
口の改札は大荷物の外国人観光客で渋滞していた。地下鉄は満員。途中で東西線に乗り換えると、ようやく席に座れた。蹴上駅で下車。道路に出ると、ここも観光客の姿。まあ、東山の寺院の散策路なので仕方がない。煉瓦のトンネルを通り、細い道を少し歩くと、金地院(これって黒衣宰相の金地院崇伝?)、そして南禅寺。さすがに南禅寺は人が多い。その大半が白人の観光客。ここを足早に通り過ぎて、永観堂の方に向かう。永観堂なんて比較的地味なのに門前には列が出来ている。混んでいるなあという感想が思わず漏れる。永観堂を過ぎると銀閣寺への散策路と別れ、静かになった。でも、道の雰囲気、風情は変わらない。泉屋博古館は、その一画に静かに佇むようにある。地下鉄蹴上駅から泉屋博古館は歩いて20分足らず。途中に寺院が散在する風情ある道なので、時間をとって途中の寺院に参詣したりして寄り道しながらゆっくり散策するのもいいと思う。
泉屋博古館は玄関脇にベンチがあって、中に入らなくても、ちょっと休憩できるようになっている。玄関をはいると、すぐ受付と広くゆったりしたロビー。なんか、とても贅沢な空間の使い方をしている。企画展の展示室へはロビーの奥の中庭の向こうの別館に行く。中庭も芝がきれいで、しばらくそこでのんびりしたくなるようなところ。東京の泉屋博古館とは全然違う。実は、この鹿子木孟郎展はこの後東京の泉屋博古館に巡回する予定なので、東京に来るのを待っていてもよかったのだが、無理をして京都まで来て、この美術館の雰囲気で見たのはよかったと思う。参観者は、それほど多くはなく、落ち着いた雰囲気。着物姿の女性が見られるのが京都らしい。
いつものように鹿子木の紹介もかねて主催者の挨拶を引用します。
“1874(明治7)年、現在の岡山市に旧岡山藩士の3男として生まれた鹿子木孟郎(1874〜1941)は、14歳で洋画家・松原三五郎の天彩学舎に入学、18歳で上京し、小山正太郎の画塾・不同舎に学びました。洋画の草創期に青春を過ごした鹿子木は、絵画の中心が伝統的なアカデミズムから印象派などの新しい芸術運動へと移り行く時代に留学しました。鹿子木は都合3度パリへと留学し、19世紀フランス・アカデミズム「最後の歴史画家」と称されたジャン・ポール・ローランドに師事し、また象徴主義の画家ルネ・メナールに接するなど、多くの学びと新しい刺激を受けました。そして帰国後は、文部省美術展覧会の審査委員を務めるなど、関西洋画壇の中心的な作家として活躍する一方で、自身の画塾を主宰し、京都高等工芸学校講師や関西美術院の第3代院長務めるなど、多くの後進を育てています。
鹿子木はフランス・アカデミスムの正統を継承して日本への移籍を試みつつ、一方で日本独自の油彩画の確立を目指していきました。その作品は、観る者の視線を釘付けにするような力強い写実表現が最大の特徴ですが、さらにはメナールを通じた象徴主義といった同時代絵画の刺激を受けた豊かな展開も認められます。
鹿子木孟郎の回顧展は、2001(平成13)年に府中市美術館で開催されてから四半世紀ぶりの開催になります。本展覧会は、生誕150年を記念して、広く知られた画家の代表作から、新たに発見された作品まで、鹿子木の画業をたどることができる作品を紹介するものです、日本近代洋画に本格的な写実表現を移植した鹿子木の足跡と、次々と押し寄せる西洋絵画の新しい思潮のなかで、写実を貫きとおした鹿子木の魅力を再確認する機会です。”
日本の洋画の歴史の中で、写実的作品を描く人の中には、偏執的性格の強い人が何人かいます。岸田劉生とか、先日見た高島野十郎もそうですが、写実ということに執拗に拘泥しているうちに、いつしか写実の枠を超えて思いもかけないような作品を描くにいたる。画家本人は写実だと思っているので、質が悪いのですが、妄執の果てに、といったことなんでしょうが、そういう規格外の写実家、鹿子木もその一人だと思います。もちろん、そういう画家は、とても魅力的です。
それでは作品を見ていくことにしましょう。なお、会場で配布されている展示作品リストと販売されている展覧会図録の番号は一致しないので、展示作品を図録で見直すにはちょっと不親切です。
第1章 「不倒」の油画道への旅が始まった。
まず、修業時代の習作のような作品からで、「養母」という作品。この後、風景のスケッチを見ていくのですが、まさに写生というものになっています。同時代の日本画の画家たちのスケッチでも、風景や静物のスケッチは、ある程度写生的なものとなっているのに、人物は写生からはかけ離れた、様式的なターンの踏襲にとどまっています。例えば美人画の顔が浮世絵の焼き直しだったりする。それに比べれば、この作品は、少なくとも伝統的な日本の絵画のパターンを踏んでいません。おばあさんは美人のパターンを踏んでいなくて、老婆の顔をちゃんと描いている。その点が、鹿子木という画家の伝統から離れた新しさだろうと思います。黒一色の背景から、黒い羽織と黒に近
い深い緑の着物という、日本画では考えられないような地味で深みを感じさせる色調で、白ではないくすんだ肌色の老婆の顔を浮かび上がらせています。しかし、近代日本の西洋画家の肖像画のような重い感じはしません。水彩画であることからかもしれませんが、それは、その正面からの顔はシワや、それがうつる陰影を克明に描いているにもかかわらず、老婆の顔が平面的であるからかもしれません。
同じように正面のアングルの人物画として「少女の顔」という作品です。この作品は「養母」が水彩画であるのに対して、こちらは油彩画です。水彩画と油彩画では絵の具の性質が異なるので、色の使い方や絵の具の扱いが不慣れなのが分かります。不慣れなのか、鹿子木という人が油絵の具の色とは合わない感性の人なのかは分かりませんが、ベタッと平面的に塗っているという印象です。塗り絵の範疇を出ていない。その範囲内で陰影をつけようとしている。そのためなのか、右側に強い光を当てて明暗のコントラストを強調するようにして、顔の陰影を表現しようとしているように見えます。まだ、細かなグラデーションをつけるには至っていなくて、ベッタリとしている。それとも、陰影のグラデーションを色の変化として見るという感覚がないのか。もともと、日本の絵画には、そういうものが見られないからかもしれません。しかし、これらの作品から、それらが習作的に作品であるからこそ見えてくるのは、鹿子木という画家が、ものの形をハッキリと捉えるという特徴です。
「横向きの男」は19歳の時の木炭によるデッサンです。前の女性像がそれぞれ彩色すると、どこか写実から離れてしまうのに対して、こちらは、まるで写真のように写実的です。彩色された作品では見られなかった陰影の微妙なグラデーションは、ここでは緻密に描かれています。このころの鹿子木は彩色ということが、デッサンで形を捉えて描写するということに比べて、追いついていないと思います。しかし、形を捉えるということには秀でていた。スケッチは一流。これは、鹿子木という人の対象を色彩ではなく、形として捉えていたということを示しているのではないかと思います。彼は、終生、この明確な形を捉えて表わすということをやめなかった。それはここで展示されている作品を見ていくと、分かります。それが、このころ、すなわち、画家の修業時代から明確に表われている。
こんどは風景のスケッチです。「駒込坂上り口」は1892年の東京の駒込の風景ということです。画面左手前から奥へと緩やかに伸びる道の途中に、馬に引かれた荷車が描かれています。遠景には木々の茂みや田園が広がっている。明治の中頃で、18歳の若者が、これほどの西洋画的なスケッチを描いていたというのは驚きです。当時の鹿子木が学んでいた小山正太郎の不同舎では、“紙の四辺に鉛筆で枠を引き、そのなかに風景を収める(図録P.42)”という手法が採られていると説明されていました。風景は、日本画の画家も比較的写実的なスケッチを残していますが、それは人物画に比べて、線描の輪郭を捉えやすいからでしょうか。鹿子木の、このスケッチは草木や地形、そして家屋などを明確な形として捉えて、それを鉛筆の線で描いています。その線には迷いがなく、1本スゥーと伸びるように引かれています。細かな線を何本も引いて、その繋がりで1本の線となるような描き方もでき、それは間違いのリスクを低下させることができます。しかし、鹿子木はリスクを採って、決然と1本の線を引いています。そこに集中力を感じます。それゆえ、線に強さが感じられます。それは、対象には明確な形があり、それを捉えているという確信がある故だと思います。鹿子木の線は、ただ強いだけでなく、線の濃淡や太さの使い分けが繊細で、それが彩色にも勝る陰影や質感を表現している。
「赤坂風景」は、「駒込坂上り口」の2年後の木炭によるスケッチです。奥へと続く広い道沿いに家々が軒を連ねる街並みの風景です。左右に配された建物群と落葉した背の高い木々は、緻密な線描によって繊細に表現されています。中央の道の土の質感や建物の風合い、空の広がりにいたるまで、陰影と線の変化によって、どこか湿った空気感が表現されています。まるで。セピア色に色褪せた古い白黒写真を見ているようです。「駒込坂上り口」より、さらに繊細な線描で、空気感まで表現されていると言えます。
「老女」(左側)は「赤坂風景」と同じ年の油絵作品です。暗い背景の中に左から光が当たり、陰影の深く老女を描いています。日本人の顔は西洋人に比べて扁平なので、正面から描くと前に見た「養母」のように平面的になってしまうので、立体的に描くために工夫が為されていると思います。その結果が、バロック絵画、レンブラントのような光と影のコントラストを強調したような画面になっています。後年の岸
田劉生に通じるところがあるようにも見えます。しかし、どこか彩色がギクシャクしていて、陰影がうまく表現されているとは言い難い。そのあたりが、鹿子木が留学する動機のひとつだったのかもしれません。
「日本髪の裸婦」(右側)という作品です。これも輪郭がハッキリしていて、明確な線描の下絵に従って色が配されていることが分かります。あくまでも形が先行している。描き方として、絵の具を置いて、それでつくられる面から画面が構成されるのではない。形が第一で、それに陰影や質感が加えられていくのが分かります。それゆえなのか、この人の裸婦像はエロス的要素が感じられない。この裸婦も若い女性なのでしょうが、野暮ったいというか田舎娘でアカ抜けていない。その代わり、鹿子木の人物画は描かれている人物の物語を想像させるところがあります。
第2章 タケシロウ、太平洋を渡ってパリまで行く。
鹿子木はパリでアカデミスムの絵画を学びます。それまで、鹿子木は風景や静物のスケッチが主に、身近な人物の半身像はあるものの、全身像の人体デッサンはそれほど行っていなかったといいます。鹿子木はパリで“ジャン=ポール・ローランス教室に入学した鹿子木は、西洋絵画の基礎である人体デッサンに熱心に取り組み、コンテや木炭によるデッサンからやがて的確な陰影表現を油彩で行う《裸体習作》へと進(図録P.75)”んだと説明されています。例えば、「男裸体習作(背面)」という木炭によるスケッチです。線によって形を捉えることから、面としての構成になってきています。これにより、重量感が加わっています。描かれているのが、形態から物体に変わってきていると思います。
「裸婦(後向き)」は油彩画です。渡欧前の「日本髪の裸婦」と違って、こちらの裸婦は肉が弛んで垂れ下がっている。それが、そういう身体の形として描かれているのではなく、肉の重みで垂れ下がっているとして描かれている。何か回りくどい言い方ですが、肉の重量感がリアルに感じられるような質感が表現されている。それは、形ではなく、物体として肉体を捉えるようになってきている、ということでしょうか。そしてまた、この作品は「日本髪の裸婦」とは光の当て方が反対で、こちらを向いている背中が陰になっています。光はこちらを向いていない正面に当てられています。こちらから顔は見えません。それゆえ、「日本髪の裸婦」には物語を想像させるところがありましたが、この作品にはそれがありません。ただ物体としての肉体がそこにある。そういう作品になっています。それが彼の渡欧のひとつの成果ということでしょうか。
「髭の老人」という作品は、まるでレンブラントのようです。ここには、鹿子木が現地で模写した作品がいくつか展示されていますが、それらはアカデミズムといいますか伝統的な作風の作品ばかりです。当時のヨーロッパ留学は、例えば黒田清輝のように最新の流行を日本に持ち帰って、そ
の紹介者として日本国内での権威者となるのが一般的だったと思います。これは絵画の世界に限らず、学問や技術の世界ではヨーロッパ留学で最新の書籍や資料を持ち帰るが出世コースだったわけです。しかし、鹿子木は最新流行を追うことなく、むしろ流行からは古いとされたアカデミスムの伝統的な絵画を学んでいたようです。それは、彼が対象を捉えるに際して、明確な形を第一と考えるからだと思います。そういう彼にとっては、アカデミスム絵画の方に親しみを感じたのでしょう。そこに、鹿子木という人の、流行などといったものによそ見をしない、よく言えばゴーイング・マイウェイ、悪く言えば視野の狭いところがあると思います。
ここで展示されている渡欧時代の鹿子木の油絵作品は、総じて暗い色調のものが多く、「白衣の婦人」も例外ではありません。この作品の趣向は印象派にもありそうなのですが、印象派ならは降り注ぐ陽光の下で、それを遮るように帽子をかぶり、白い服が陽光を受けて光るように映えるという明るい作品になるところです。しかし、この作品は暗褐色の背景の中に白い帽子と白い服の女性が光を発するかのように浮き上がるという、バロック絵画にありがちな明暗のコントラストを強調した画面になっています。全体の雰囲気は影を主体としていて暗い。顔は帽子の影となって、よく見えません。
「川辺夕景」という作品は、欧州から帰国後に、京都鴨川流域の下賀茂から上賀茂周辺を右岸から眺めた夕景を描いたと説明されていました。渡欧時代にクールベの「嵐の海」を模写した作品が並んで展示されていましたが、よく似ています。絵の具をベタッと塗り重ねていくのはクールベに倣ったものでしょうか。それにしても、調子が暗くて重い。日本の風景には重すぎるように思います。戦前のパリ留学帰りの画家が日本の風景を描くと、南欧の明るくカラッとした光とはちがって湿った日本の光と風景に、パリ仕込みの感覚が対応できず色調などの表現に悩んで、重苦しい作品を一時描くことが少なくなかったように見えます。鹿子木の作品もそうなの
でしょうか。しかし、パリにいたころも暗い色調の作品を描いていたので、この作品は鹿子木のもともと持っている性格が表われているのでしょうか。それにしても、以前の緻密な風景のスケッチとは、どこか異質な感じがします。プラスアルファがあるような。
「黄昏」はパリからの帰国後の作品です。“一日の労働を終えて庭先に集い佇む農夫一家を柔らかい黄昏の光のなかで写実的に捉えている。…暗褐色の下地に、固定した光線が各モチーフの形態を浮き出すように彩色を微妙かつ丁寧に重ねる写実表現にぶれはなく、とりわけ光が生み出す陰影の違いを表現した人体表現の充実ぶりは目をみはるものがある。画中の赤と白、緑の色彩はローラン譲りの色使いだが、白い布を通して幼子の顔に当たる柔らかな光は、一方で赤い衣を鮮やかに強調もしている。
この幼子を中心とした構図からキリスト教における聖家族と見立てることも可能だろう。幼子背後の黄昏の空が頭光のようにも見え、画面に敬虔で犯しがたい雰囲気を与えている。(図録P.104)”と説明されていました。しかし、私には、以前の風景スケッチにあったような緻密な写実が影を潜めてきたように見えます。色彩のグラデーションも、どこか大雑把で、塗り絵のような感じがしなくもありません。日本風景の情緒が西洋画的な描写とうまく噛みあっていないようにも見えます。それよりも、風景を写実的に表す以上に、何らかの雰囲気とか空気感を表わそうとしているように見えます。
ここでの作品は、いわば鹿子木の習作の時期、自身の画家としてアイデンテティを模索している時期の作品と言えると思います。その萌芽的なものは随所に見られましたが、鹿子木が画家として確立していくのは、この後の作品からということになります。
第3章 再び三たびのヨーロッパ。写実のその先へ
鹿子木は帰国後、その2年後に再び渡欧します。当時、洋行は一度だけでも大事業のはずですが、たいていは洋行帰りを大きな実績として国内での地位を確立して、そこにおさまることで出世を果たすのがパターンでしょう。しかし、鹿子木は、間をおかず再渡欧するというのは、出世をして安定した地位を築くことに興味がないのが、絵画を追求しようという向学心がそれに勝るのか、それ以上に多額の費用がかかる留学について資金面での援助があったのか。資金面でのパトロンはあったのは説明されていますが、鹿子木という人は一途な性格というか、絵のことを考えたら、出世などといった他のことは二の次にするか忘れてしまうようなところがあったのではないか。それがこのような事実から窺うことができます。
芸術の都パリで修業して帰国したものの、ヨーロッパの光や空気とは異なる日本を描こうとすると、ヨーロッパを描くのに適した手法では、うまくいかず、多くの画家はギャップに悩むというのが多いようです。鹿子木も例外ではなく、最初の留学から帰国後に描いた作品には、ギコチなさが見えます。そこで、多くの画家は、学んできた手法を日本の環境に合わせてアレンジしていく、つまり、妥協していくわけです。それが、その画家の個性の確立ということになっていくわけです。ところが、鹿子木はそのような妥協をしなかった。それよりも、彼は、パリでの修業が不十分だったから、無帰国してからの作品が満足いくものにならなったと考えたのではないか。それで、再度、パリに渡り、不十分と思われた修業をやり直し、今度は突き詰めようとした。鹿子木には、そんなストーリーが当てはまるような気がします。彼の作品を見ていると、勝手に、そんな想像をしたくなってきます。
「赤い服の西洋婦人」は二度目の渡欧時の作品。「黄昏」の日本人の顔はベッタリと塗り絵みたいだったのに対して、この作品では繊細なグラデーションで顔の陰影が描かれています。これは、鹿子木の上達なのか、ヨーロッパで西洋人の顔を描いているからなのか。たしかに、彫の深い西洋人の顔は立体として陰影をつけやすい。それだからというわけではないのでしょうが、鹿子木の絵画では西洋人は形体・物体として見ることができるのに対して、日本人は陰翳とかが上手く描かれていないで、それゆえに物語を想像させるように描かれているような気がします。
「車夫一服」という作品は、おそらく二度目の渡欧の直前に、日本にいる時に描かれた作品だと思います。“板敷の部屋の片隅でひとりの逞しい和服の男が腰かけて一服している。手には煙管と煙草入れを持ち、煙管から白煙が上がっている。足元の床にはマッチ箱がひとつ。また、画面空間に奥行をもたらしている壁から垂れた布地や着物の質感表現の違いなどにも細かい注意が払われている。…重厚な明暗法で処理された画面が印象的だが、男の顔や手足の部分は明暗表現だけでなく、骨格や筋肉の付き方と筆の動きとが的確に対応した表現がなされ、なおかつ皮膚の感触まで伝わってくるリアルさである。(図録P.106)”と説明されていました。しかし、私には「赤い服の西洋婦人」に比べると粗いというか雑に見えます。顔の陰影のグラデーションが大雑把に思えるのです。西洋人の彫の深い顔の骨格には適している描き方が、日本人の扁平な顔には大雑把になってしまう。扁平な顔の動きは小さく、西洋人には無表情にも見えてしまう日本人の顔は、西洋人の顔に適した描き方では表情を捉えきれないのかもしれません。しかし、顔を骨格という形体の本質で捉えるという点には、鹿子木は惹きつけられたのでしょう。それゆえ、アカデミックな描き方の修得にこだわっていたのだろうと思います。
「加茂の競馬」は帰国後、「車夫一服」の7年後の作品です。「車夫一服」のころの暗褐色を基調とした色調から、強い陽光の下という明るさが画面を支配しています。たとえば白い衣の馬の世話をしている人たちの影は紫色に着色されています。あるいは奥の森の影も紫色です。これにより、強い陽光の下で、影も光によって薄くなる様子が、それで、画面全体に暗い黒がなくなって、明るさが阻害されるものがなくなった。そして、その明るい画面で馬に乗る人物と、その馬の飾りの赤が強く映える。それが、陽光の当たる明るさをさらに強調しています。それほど強調される光で、画面で描かれる馬や人物たち、その他の諸物の形がくっきりと表わされる。この明確な形は強い陽光の下であるということから不自然さを感じさせることがない。印象派とは異質な光の表現で、これは鹿子木独自の光の表現ではないでしょうか。特筆すべきは、印象派は光そのものを表現しようとしますが、鹿子木は強い光に照らし出される形の明確さを表現しようとしている違いです。
「舞妓緑陰」という作品。緋毛氈をかけた床几の上に腰掛けた舞妓が草花が生い茂る庭先で、お茶と甘味で一服する様子です。それにしても、生い茂る草木の勢いはどうでしょう。まるで侵食してくるかのように暴力的に画面全体を覆い尽くすよう。その草木の強い緑色に対して舞妓の腰掛ける緋毛氈の赤がつよく対立していて、互いに緑と赤が強調されています。この緑の侵食はタイトルの「緑陰」という言葉から想像されるイメージを超えて不自然です。そして、そんなところで、一服している舞妓の姿は異様ですらあります。舞妓の顔はボカされていて、表情をうかがい知ることはできません。そして、右上に白い提灯が宙に浮いています。一見、のほほんとした風景のようですが、現実にはありえない異様な光景。いわば幻想的風景です。写実を突き抜ける鹿子木の姿が少しずつ現われてきたのではないかと思います。
「運河」は三度目の渡欧の際のパステルによる作品です。ベルギー象徴派の画家クノップフの「ブリエージュの思い出──ベギーヌ会修道院入口」という作品を想い起させる作品です。このパステル画では、まず水路に映る橋と建物の影が目に入りますが、次の瞬間、見る者は空の青に目を移す。この鮮やかな青色は,運河周辺の建築物すべてをシルエットにしてしまう程に強い。水路に地上の形態が影となって映し出されているように、この空のもとでは,地上の建築物は悉く影と化してしまう。この光と影の強い対比が、この作品の特徴となっています。そこに象徴派的と言いますか、何か意味がありそうな雰囲気が感じられます。
第4章 象徴主義の光を受けて─不倒の画家、構想の成熟
展示の最終章です。いままで回顧展というと展示の最終章は画家の晩年の作品となって、枯れてしまうというか、最後のひとつ前くらいが最盛期で、盛りを過ぎて力が抜けてしまうことが多かった。しかし、この展覧会では、鹿子木は最後まで上昇を続けたのが作品を見ていて感じられます。最終章が最盛期と言えます。つまり、ここが今回の展覧会の核心部です。
「木の幹」という作品です。“本作は鹿子木の自宅近くにある下鴨神社の境内に広がる糺の森を舞台に、悠久の時を経た老木の姿を捉えた作品である。画面中央に描かれた巨木は、ねじれた幹と広がる根元に力強さを宿し、周囲の木々や地面との対比によって圧倒的な存在感を放っている。背景には複数の木立と人影が控えめに置かれ、森が人々の営みと共にあることを示すと同時に、老樹の孤高を引き立てている。鉛筆による細密な描写と部分的に用いられた彩色は、樹皮の質感や樹勢の複雑さを忠実に伝え、静謐な森の空気感と自然への畏敬の念が画面全体から感じられる。糺の森が育む記憶と時間の重みを象徴するかのような、荘厳で力強い作品である。(図録P.185)”と説明されています。このような孤高の老樹の焦点を当てた作品は、他の画家にも、例えば高島野十郎の「御苑の春」があります。高島のモミジバスズカケノキの大樹は、風雨に耐えながら長年生きてきた存在ですが、背景の若木は移ろいゆくものというのではなく、これから風雪に耐えて大樹となっていく可能性の存在です。そこで強調されるのは大樹の孤高さではなく、長年の風雪に耐えながらも枝を繁茂させる生命力であり、自然の大きさ、そして、若木が背景に控える自然の大きさであり、若木と対比される時間が込められているというものです。それらは、さらに大樹の根元の奥には3人の人の姿が小さく描かれていて、自然の大きさと人の小ささが対比的に描かれています。これに対して、鹿子木は高島のように他の木や人の姿が老樹と対比的に扱われているわけではなく、そこにあるから描いたという感じです。高島の作品に比べて、鹿子木の老樹には重量感が稀薄で、しかも、背景となっている他の木々は老樹と対比的になるほどは存在感がありません。つまり、描写に力が入っていない。これは、たまたま瘤がある老木を細密に描いた結果、何か意味ありげに見えてきた、という作品であるように、私には見えます。ただし、そういう老木を見つけて、描いたということには、それなりの意味はあると思います。
「婦人像」は展覧会チラシでも使われた作品です。こちらに向かって何かを訴えかけるような表情をしている。このような顔は、これまでの鹿子木の作品には見られませんでした。それは、物体としての人の顔の形を明確に描くということから、もう一歩進めて、生命感とか生気といったものも描く対象に入ってきたということでしょうか。それとも、日本人の扁平な顔を立体的に陰影をつけて描くやり方が分かったからでしょうか。それにしても、この女性の顔は竹久夢二の描く女性に似ていると思ってしまうのですが。しかし、やはり鹿子木は形のひとなのだと思います。例えば、人の肌と着物の布の質感の違いといったことは、見ていても分からない。描き分けられていない。明確ではないんです。そのくせ左手前のソファーに掛けられている白いレースは、その形や織り目という形が細かく描かれています。その透けているところには拘りがあるかのごとくです。ただし、レースの柔らかな質感は分かりません。
「浴女」は、19世紀フランス象徴主義のシャヴァンヌの壁画を想わせる作品です。“緑に包まれた水辺の風景のなか、裸婦が枝に手をかけて立つ姿が描かれている。右手で枝を握り、左腕で布を支えるその姿勢には、慎ましさとかすかな緊張が漂う。顔はやや俯き加減で、内に向かう感情がにじむ。肌は温かみのある色彩で描かれ、身体の曲線と量感が自然に浮かび上がる。背景の草木は鮮やかな緑と細やかな筆致で描かれ、画面に幻想的な空気を添えている。画面下部に描かれたハグロトンボが、自然の気配をさりげなく強調する。(図録P.213)”と説明されていました。背景の草木は、ひとつひとつは細密で写実的なのですが、全体としては奥行を欠いて平面的で、その草木の配置が恣意的で、どこか意味ありげです。現実にはない幻想的な風景を作っています。まあ、こんなところに裸女がいること自体が現実にはありえないでしょう。日本人画家の描く幻想的風景というと、仏教的なものや伝統的な山水画のようなものになるのが普通ですが、ここまでヨーロッパの幻想画風のものは珍しいのでは
ないでしょうか。しかも、鹿子木は描写力が半端ないので、個々の草木などは細密でリアルに描かれていて、その描写が却って幻想性を高めている。しかも、その中心にいる裸女は純日本的な女性です。シャヴァンヌの象徴的作品との大きな違いは、シャヴァンヌの場合は女性は象徴的で美そのものとでもいうように女性一般としていわば女性の理想像のように個人性を剥奪されて一般化されて描かれているのに対して、鹿子木のこの作品では、おそらくモデルの女性でしょうか、鹿子木は写生的に描くことを止められなかった。女性一般としてではなく、誰々さんが描かれている。幻想的風景のなかにリアルが入り込んでいる。幻想的世界に一人の現実の女性がいるのです。そこが、この作品をユニークなものにしていると思います。
「画家の妻」という作品は、どこかラファエル前派を想わせる作品です。室内の描写は細密です。床に落ちた白い花は何か意味ありげです。そんな西洋風の空間に純日本的な顔つきと身体の小柄な女性が裸体でいることに違和感をおこさせず、むしろそれゆえに幻想的な空間を作り出している。鹿子木のヌード作品は、美の理想というものでもなく、かといってエロチックな官能性を感じさせるものでもない。あくまでも写実なのです。このように写実的に描いているのに、そこに一味加えるだけで、出来上がった画面は幻想的なものになっている。現実を突き抜けたといいましょうか。晩年の鹿子木の作品には、そういう作品があります。こんな作品は、おそらく鹿子木以外にはありえないものではないかと思います。
「光を求めて」は暗闇に古代風の衣装を着た女性を写実的に描いている。それが、かえって神秘的に見えるという作品です。
鹿子木孟郎展はこのくらいにしてロビーに戻ったら、他にも「中国青銅器の時代」の展示をやっていたので、ちょっと覗いてみました。こういうのには、全く知識がなくて、見方も分からないので、ただ眺めるだけでした。いちおう挨拶を引用します。“模と範が生み出す青銅芸術──いまから約三千年前の殷周時代、古代の工人たちのイマジネーションと超絶技巧によって生み出された青銅器の数々は、美術工芸の「模範」としてのちの時代に大きな影響をおよぼしてきました。今年、約半世紀ぶりのリニューアルを迎えた泉屋博古館では、世界最高峰とも称される住友コレクションの青銅器を、新しくなったブロンズギャラリーにて一挙に公開。動物をかたどったユーモラスで愛らしいものから、金属ならではの厳しくも優美なる造形まで、中国古代の青銅芸術を存分にお楽しみいただけます。秋季は殷周青銅器の鋳造技術にせまる特集展示を公開。奥深き殷周青銅器の世界へとみなさまをご案内いたします。”
たしかに、考古学的な価値といったことは全く分かりませんが、造形的におもしろいものは、いくつもありました。
「虎?」は、後肢で立ち上がった虎が大きく口を開け、人を丸呑みするかのような姿。人は赤ん坊のように虎に抱きついている。これがどのような意味をもつのか、この像が何に使われたのかは分からないらしいですが、この造形そのものが面白い。
「饕餮文方座?」の器の正面の模様が饕餮です。中国の古代神話の魔を食べるという怪物で、貪るということから器の文様に用いられたということです。この左右対称の図案としても面白い。
銅鏡もたくさん展示されていました。鏡というくらいだから、見ている私の姿は写っているのだろうかと探しましたが。そういうのではなさそうです。ただ、表面に浮彫のように文様がつけられているのは、かなり複雑で興味深かった。
展示品を見ていたら、係員の人が声をかけてきて、説明してくれて、とても親切だったのですが、この後の予定もあって、長居できないのが残念でした。ロビーでゆったりしている人も見かけましたが、ここは展示品を見ながら、ゆったりと時を過ごすのに、いい場所だとおもいました。午後いっぱいくら
いの時間をかけてゆっくりすごしたい場所です。今度来るときは、たっぷりと時間をとるようにしたいと思いました。