加納光於
色身─未だ視ぬ波頭よ2013
 

 

2013年10月17日(木) 神奈川県近代美術館 鎌倉

仕事の関係で近くまで出かけたので、折角の折なので足を伸ばしてみた。名にしおう観光地。古都とか色々言われているようですが、どこにでもあるような普通の観光地でした。途中に有名な鶴岡八幡宮がありましたが、何の変哲もない普通の観光地でした。たぶん、その普通さ、凡庸さが有名な観光地たる所以なのだろうと感心した次第です。そのため、周辺に住む人にとっては、いかにも住みにくそうな感じで、絶対にこんなところには住みたくないなと強く思いました。いずれにしろ、街としては退屈さとか、無意味さのオーラが強く放たれている印象でした。そういう、居ると落ち込んでしまいそうな街並みを抜けて、鶴岡八幡宮の裏手に一昔前のモダンなデザインの手入れがされていないような寂びれた感じのコンクリートの建物が神奈川県近代美術館でした。当時としては凝ったデザインだったのでしょうか、入口がよくわからないところで入場券を買い、暇そうな受付を通って、会場に入りました。

加納光於という人について、主催者のあいさつの中では次のように紹介しています。“加納光於は1933年東京に生まれ、80歳を迎えた今日もなお以前にまして旺盛な制作を続けています。加納が版画家として登場した1950年代は、敗戦の影響もあり経済的には困難でしたが、文化全体が活気に溢れた時代でした。そうしたなか、加納は目先の新しさや前衛性に与することなく、自身の目指す「孤絶している精神の明朗さ」を手放さず、ひたすら自らの鉱脈を探り続け、豊かなイメージを追求してきた特異な独行の作家です。1955年、銅版画の作品集<植物>を自費出版し、瀧口修造等に、その幻想的な作風を高く評価されました。初期のモノクロームの銅版画は、その後、「版」を起点に、多様に変容していきます。1960年代後半の亜鉛板によるメタル・ワークと色彩版画の誕生、1970年代からはリトグラフ、エンコスティックなど次々と技法を広げ、1980年前後からは油彩を本格的に開始します。加納の多様な表現を通して、平面と立体、言葉と造形の間を往還していくその独創的なイメージの変容を確認するとともに、本展のタイトル「色身」という加納の制作の根幹に隠された色彩への問いが、わたしたちにとって未見の経験の鍵をひらくきっかけになることを願わずにはいられません。”と、少しアレンジして引用しました。メッセージを籠めた、ひとつの視点でまとめられた紹介になっていると思います。おおよそのことは、これで十分ではないかと思います。

展覧会チラシの図像の真ん中の水玉の図柄などは、今、世界的にメジャーになっている草間彌生の作品とも通じるようなところもあるし、色合いのインパクトとかグラデーションの意外性が印象に残る。あるいは、抽象的な作風、カンディンスキーとかモンドリアンとかロスコとかいうような有名な抽象画家の抽象を見ていると、そこに画家の想いとか精神性とか無形の何かが反映しているような印象があって、そういうものが具象的な写生では表わしきれなくて、形の束縛を取り払った試みの果てに抽象にたどり着いたというところがあります。ところが、加納の抽象には、そういう精神的なもの、あるいは意味というものが全く感じられないという感じです。端的に言うと空っぽ。表面的、あるいは表層だけの世界。そういう加納の作品の印象は、というとシンプルに「美」という他は言うことができないものです。

例えば、ギリシャ神話にアドニスという美少年の話があります。ヨーロッパではアドニスといえば美少年の代名詞となっているものですが、両親と死別し、少年のこととて、自力では生きられえない彼を、容姿の美しさ、愛らしさゆえに女神ヴィーナスたちが手厚く手許において庇護します。そして、大人の男として一人前になるために、ヴィーナスにすすめられて狩りに行き、猪の牙にかかって死んでしまうわけです。俗な言葉で“色男、金も力もかなりけり”です。美しいというだけでは、個体として生存していくためには、何の力にもならない。つまり価値がない。後年、芸術という概念が市民社会で生起して、だからこそ美は純粋で、崇高なものだという意味が再定義されていくわけですが。加納の作品には、そんな近代の垢にまみれない、古代のギリシャのアドニスのような無意味な「美」なるものが追求されているように、私には見えます。表面的とか、感覚的とか、刹那的とか、いい意味でも悪い意味でも、です。私は肯定的に受け取っていますが。

「美」ということもそうですが、純粋に抽象化された概念というのは机上で思考を積み上げていくときには便利なものですが、実際の生活の中で生きていくという際には、「美」ということは様々なことと複雑に絡み合ったり、関わったりして在るというのが、一般的です。例えば、動物で私たちから見て美しい姿をしていると感じられているケースは異性を惹きつけ、自らの子孫を残すために必要なもの(と傍らで観察する人間は理屈をつけますが)と考えられるものです。絵画においても、タテマエとして「美」を追求しているかもしれませんが、その裏の目的は画家が生活費を得るためであるとか、それを注文する者の富や権力を誇示する必要があったとか、何らかのメッセージを伝える必要があったりとか。さきほど少し述べましたが、美を崇高とみる考えにしてもそれ自体純粋ではないわけです。そのため、抽象絵画というものを見てみれば、その名の通り抽象化したというのではなくて、海外の在り方は純粋ではないわけで、画家の手段として抽象的に見えるかのような外観を呈するようにして従来の画家と、自分は違うという、マーケティングで言えば差別化を図って売り込みを狙ったとも言えなくもないのです。(私は、それを決して悪いこととは思いません。)しかし、加納の作品を見ていると、その純粋への志向があるように見えるのです。じっくり構想していれば、考えているうちに余計なことが紛れ込んでくる。それを可能な限り排除するためには、一瞬の感覚を大切にして、とっさに美しいと感じたことを瞬間的に定着させることに努める。意味とか考えとかは、その一瞬に対して後付けのものです。インクが融けて流れる一瞬に美があると感じたら、それをそのまま定着させてしまえばいい。それは行き当たりばったりで、よく言えば即興的です。そしてまた、それを美として定着しようとする選択にある意思が働いているかもしれない。追及すればいくらでも反証は可能でしょうが、そこを敢えてやってみる。そこに加納の作品があるように見えます。私が、加納の作品を見ていて、初期の作品は別にして、作家の個性とかそういうものを感じることが、ほとんどない(ちゃんとした人が見れば、そんなことはないのでしょうけれど)のです。そのことが、今ここで述べたことの証ではないか、と私は思っています。

美術展の主催者あいさつとは異なるとは思いますが、このような視点で具体的に作品を見ていきたいと思います。


 Chapter  強い水─銅版画 

1955年に限定8部の私家版として編んだ5点組の銅版画集《植物》(上図)が、公式なスタートということなのでしょうか。これが瀧口修造の評価を受けることにより、加納は個展の機会を得て注目を浴びることになる、と解説されていました。多感な青年が溜め込んだ様々なイメージをぶち込んだという印象で、全体のテイストは、オロディン・ルドン(左図)とか版画でいえば駒井哲郎(右図)のある傾向の作品に通じるような。というより、そういうものをベースにして植物、甲殻類、魚、天体、深海をイメージさせるパーツを入れて行ったように見えます。銅版画のモノクロで線と点を描き込んでいくので、稠密に見えて、そこにさきに述べたようなパーツがあると濃密でシュールな雰囲気を醸し出すという印象を与えるのでしょう。ただ、私には後年の加納の作品を知っているから言えるということでもないのでしょうか、借り物という感じを拭いきれません。ルドンや駒井のスッキリして洗練された画面にはなれなくて、不器用にパーツや線や点を溢れんばかりに画面に入れ込んだ習作を一歩出たものというように見えてしまいます。何よりも、多分書物から得たような加納の頭の中に溜めたイメージを吐き出すの精一杯のように見えます。何よりも「美」ということを感じられない。後年の加納の作品にあるような、パッと見で、理屈抜きにキレイとしか言えないようなものではありません。また、駒井哲郎のようにモノクロという二項対立によって画面を追求していくようなこともなく、そういうところまで配慮が行っていないのが明らかです。

このChapterのタイトルになっている「強い水」について、展示では次のように解説しています。“「強い水」とは、銅版画を意味するフランス語のeau-forteを直訳した言葉で、加納にとっては銅版の腐蝕液と結びついている。加納は版に線を刻み、描き、刷るといった技法より、「強い水」=腐蝕液による版に出来た偶然の腐蝕効果や傷痕といった版の変容に力点を置くようになる。”《星・反芻学》とタイトルされた一連の作品をみると、その効果を様々に試みているのが分かります。

右図と左図はその内の一つです。さきの《植物》の諸作が何かをイメージしたものを描こうとしていたものが、この作品ではなくなってしまっているのが、大きな違いであると思います。銅よりさらに腐蝕を受けやすい亜鉛合金の版に腐蝕液を流し、そこで生じた形態をタイトルにあるように反芻させます。私は、自分で版画や絵を描くことをしないので分かりませんが、反芻ということから、版の上で、今のイメージで言えばコピーアンドペーストのような作業で、この形態を並べて行ったのでしょう。たまたま、この作品では輪状に並べられていますが、そこで偶然に生まれた形態が繰り返して並べられることによってミニマリズムのような秩序(コスモス)を、不定形という秩序と正反対のもので秩序をつくるというようなことをしているわけです。多分、これは試みであるということでもあるのでしょう。また、私には、加納の作品の美しいというのは色彩に拠るところが大きいと思われるので、モノクロというのは方翼を持たないようなハンデにあると思います。加納は、この時点で未だ、そういう方向に行っていないのか。誤解を恐れずに言わせてもらえば、これらの作品を素通りしても、私は別に後悔しないと思います。 


Chapter   版の変容─メタル・プリント 

解説の中で次のように述べています。“1964年から始まる一連のメタル・ワークは、亜鉛板をガスバーナーで焼き切り、溶解させながら円形の突起を施したレリーフ状にしたもの。このメタルを版にして刷ったのが、メタル・プリントのシリーズ<SOLDERED BLUE>である。メタル・プリントは、時には紙やプレス機上のフェルトまで切り裂く激しさを伴いながら、紙の表のみならず裏にまで版の深みを映しだす。さらに、それまでのモノクローム調の世界から一転して、鮮烈な青色が現われる。この<SOLDERED BLUE>、すなわち「ハンダで接合された青」では、3色までコバルト・ブルーのインクを不定形なメタルの凸部にローラーでインクを盛ったりして刷る独自な技法が試みられた。”

従来の銅版画では、線を刻んで描き、部分的に腐蝕液を効果的に使うことなどによって銅版の表面に凸凹をつけてプリントするものです。加納は腐蝕液を従来以上に使って版そのものを変容させる。加納は、その様々な技法を試み、それでプリントされたものは、普通に手で描けないような不定形なものとなり、そこに鮮やかな色を施していくことにより、言葉で形容しがたい、最初にも述べたように「美」としか言いようのない作品に結実させます。ここでは、その技法の試みのひとつとして、板に炎をあてて高温に焼けたり溶けたりして、板としての形状が崩れて不定形の凹凸ができたところにインクを流して、紙にプリントさせたものと言えます。

私が好んで見る絵画の対象範囲はそれほど広いものではなくて、(現代)アート?といったコンテンポラリーなものは、ほとんど見ることがなくて、保守的な絵画の枠内に収まっているものばかりです。最近も近代日本画の展覧会に挑戦して悪戦苦闘している最中です。そのような狭い視野しか持ち合わせていない者の意見として聞いていただきたいのですが、加納のこの作品の場合、画家が自らの手で筆を持って描いたというのではなくて、何かの拍子に紙に映ったものを作品として提示しているもので、そこに加納という人の作為があるのかどうか。例えば、作家の主観性を大切に思えば、それは疑わしいことになります。多分、こんな議論は、あったとても何十年も前に解決してしまっている古い議論かもしれません。何故今さら、そんなことを、と訝しく思われる方もいらっしゃるかもしれません。私の場合、これまでも述べてきているように、加納の作品は結果として「美」で、それ以外のものは削ぎ落とされた、きわめて感覚的で表面的なものと思っているからです。それは、極端に突き詰めてしまえば、道端に転がっている石ころに「美」を見出して、それを拾ってきて作品として飾ることと、どう違うのか、ということになりかねません。例えば、そういうことを意識的にやったデュシャンのようなケースもありますが、それはデュシャンのコンテクストの土俵に乗ったうえで従来の芸術への異議申し立てというような意味づけをするという楽屋落ちのような極めて狭い範囲内でのことで、その意味で、デュシャンの作品というのはコンテクストを理解しなければならなす、不純物の多いものだと思います。加納の場合は、できるかぎり、そういうものを削ぎ落とそうとしている、感覚だけで勝負と杳としている、と私には思えます。議論に戻りますが、その点で、この議論を踏まえないと、加納の作品を見て「キレイだ!」と言うことですべてが終わってしまうことになり、ここで感想を細かく述べることもなくなってしまうことになります。

図の<SOLDERED BLUE>(左図)の1点を見てみましょう。画面の無数の泡のような形状は、金属板が腐蝕液やバーナーによる高温によって泡状の凸凹ができたところにインクを流して、それを紙に写し取ったものと考えられます。そこには、人が筆を使って、絵の具を塗って描いた場合に特有の人の手の温もりのようなものは一切感じられません。その代わりにキレの良さが、怜悧さも伴って感じられます。それは、人の手で描いた場合には、思い切りの良さとでも言われるような印象で、画面にある形状は不定形であるくせに形が、輪郭が明確なのです。それがソリッドに印象を与える。輪郭が明確で形はハッキリしているのですが、その形の意味が分からない。その形状は現実に、私たちが生活で使用したり、身近に感覚しているものとは、何も通じていません。だからどういうものかとか、何かを象徴しているかとか、その意味を詮索する糸口さえないわけです。これは、カンディンスキーの抽象的な形状が具体物を変形させたり、何かをシンボライズしたものであった場合は、まったく別の世界です。

それだけに、画面に塗られた青が無意味に鮮烈に映るのです。ここに青色の必要性とか意味が、まったくない。だから逆に、その青が際立つ。私は、そこに象徴とか作者のメッセージとか不純なものを詮索する必要なく、ただ青が鮮やかだと単純に見る。結果的に、そのように青を見るように、この画面ができている、ということなのでしょう。多分、同種のものを数多試みた後で、加納によって選別されたものが作品として、私の前にあるのでしょう。

PENINSULAR半島状の!》bW (右図)という作品では、<SOLDERED BLUE>の青一色から赤系統の色も加わり、キイホルダーか靴べらか何かのような形態と<SOLDERED BLUE>で使われたと同じような不定形な形状とが組み合わされたものとなっています。このとき、キイホルターらしき形態は本来の意味から別のところで単なるかたちとして、画面に在るように、私には見えます。 

 

Chapter3   箱の宇宙─リーヴル・オブジェ 

加納は一時、箱型のオブジェに取り組んだ時期もあったようですが、私には、あまり興味が湧きませんでした。加納の「美」は、意味を剥奪された純粋な抽象に近いので、閉じた空間で辛うじて存在し得ると、私には思えます。それが立体という三次元の広がりを持ってしまえば、閉じ込められなくなり純粋な感じがなくなってしまうように見えたからです。例えば、物体としての重量とか質感とか、モノとしての存在感がどうしても入ってきてしまう。その具体性は雑音に感じられました。

ただ、この中で書籍の装丁を手がけ、印刷、製本という工程で生産されるという制約を受けてつくられたものがありました。ここでは、それだけに触れてみたいと思います。前回に見た《PENINSULAR半島状の!》bW という作品でキーホルダーか靴べらのかたちを引用して作品のパーツとして使っていたのを、ここでは全面的に展開して、全体としてはグラフィック・デザインのようなものとなっています。

《オーロラへの応答》(左図)は、図鑑の挿図にある花などの具象的な形や幾何学図形などで構成された版に、様々な色で刷るという技法で作られているということです。加納本人は、“抽象的なイメージから色のかたちをつくりあげるより、既存の一つずつの具象のかたちとして成立しているものの方が、色の変換として意識されるのではないか”と述べているそうです。この色の変換とは“何色もの色を夥しく組み替えて刷ることで、色彩が形を浸食していく”というものだそうです。加納自身の言葉からも、かたちと色だけを純粋に取り出して、それをどうかしようという意識が窺われます。

また、《How to Flyの偏角に沿ってXY》(右図)というのも、同じように昆虫や人体、あるいは地形の図に色を替えて、もともとの意味とは無関係に形状だけに注目して並べてレイアウトしたというものでしょう。それはそれで、まあまあ、というものではあるのですが…。でも前回に見た、あるいは、これから見ていく不定形のものに比べると、イメージを引っ張られるので、感覚だけで、「美」ということを感じられることからは遠ざかってしまったという気がします。

これは、加納が迂回をしているとしか、私には思えませんでした。  

 

Chapter4   波動のさなかで─多色版画 

スポーツのゲームを観戦する魅力は、ひとによって様々です。プレイヤー個人のドラマを追体験する人や観客席でプレイそっちのけで応援というパフォーマンスに参加することを楽しむ人など、私の楽しみ方のひとつは、例えばテニスのゲームであれば、ボールが対戦プレーヤーの間で行き来する運動や、ポールの動きに応じてプレイヤーが動く運動性を観たり、その動きのリズムを感じたり、乗りに同調したりという楽しみ方をします。以前、ゴルフのプレイヤーで岡本綾子という人がいましたが、彼女のプレイを見ていると、コースを歩いたり、ボールを打つ前にコースの芝の状況をみたり、クラブを握り、構えて、ボールを打つという一連の動作のリズムの伸び縮みが、とても心地よくて、まるでダンスを見ているような錯角に捉われたことがあります。そのときに、彼女の伝記的な情報とか、重いとか、精神状態とかいうようなこととは切り離して、彼女の身体の動きと、それが刻み出すリズムの心地よさ、彼女のゴルフのプレイの魅力であると感じられたのでした。そこには、スポーツ新聞やスポーツニュースに取り上げられるようなストーリーも意味もないことです。

喩えとしては適切ではないかもしれませんが、音楽の魅力も、同じように意味がないということにもあると思います。私が加納の作品に感じる魅力は、これに近いものです。これまでの展示作品では、多少の意味を引きずっていて、それが邪魔に思えましたが、ここでの展示あたりから、その邪魔だった意味がなくなってきました。

<稲妻捕り>(右図、上図)というシリーズは1976年ころから始まった、とのことです。エンコスティック(蜜蝋)という手法は解説で“溶剤で乳化させた蜜蝋に顔料を溶かして独自に開発した、流動性の強い絵の具を床面に置いた用紙の上に注ぎ流し、そこに透明なフィルム板を近づけると、「静電反応」によって絵の具が瞬時揺れ動き、近付けたフィルムにハタハタと吸い上げられる。その発色する瞬間をデカルコマニーの技法を援用して紙に痕跡として転写する”と説明されています。実際の作品をみれば、水を張ったところにインクを流したような不定形の形とインクの色の流れるような感じのイメージが想像できます。筆で描くことは絶対にできない、そのため人為的な作為の跡を見つけにくい、人の手の暖かさを感じさせるものがない、波打つようなグラデーション。これに複数の色を同時に流すことによって、色が混じったり、鮮やかな色が波打ったりしている様は、これはこういうものだと形容することはできません。そこに映されてできたかたちや色合いには、思いとかメッセージを意図的に込めて作り出すということとは無縁です。たとえば、シリーズの中の6個の丸状のかたちがサイコロの6の模様のように配置されている作品(上図)を見てみると、黒とグレーと白の3色なのか、それらの色が波打ったり、混ざって中間色になったり、混ざらずに複雑な模様を創り出していたりします。それが偶々丸状の形状になったのが並べられて、それぞれを見比べるように見ることができる。その上に、円形の図形が線で引かれて作為が加えられていますが、それを加えた全体としての作品に対しては、言葉で、これはどうだこうだという言葉で意味づけされた形とかものが描かれているというのではないので、感覚的にどうこうと。つまりは感覚的な好悪に行き着くしかないものにっていると思います。おそらく、加納自身も感覚的な印象に頼んで、映したものを作品に選択したものでしょう。

似たような作られ方をされたものとして考え浮かぶのが、ジャクスン・ポロックによるドリッピング技法を用いたアクション・ペインティングの作品です。ポロックが即興的にキャンバスに絵の具を垂らしたり、流したりした結果が作品となるというものです。しかし、技法や用具の違いによることも大きいのでしょうが、ポロックの作品は人の手の温もりが感じられるし、色遣いや全体の印象からポロックの感情とか精神状態を想像させる余地が残されているような感じがします。以前、ポロックの作品は抽象的であるけれど、それ以前のカンディンスキー等の作品にあった精神性とか意味のようなものがなくて空虚だと印象を述べたことがありましたが、加納に比べればポロックの作品は意味の残滓が残されているような感じがします。

次の《波動説─intanlioをめぐって》(左図)は多色銅版画の作品だそうです。ここでは、流れのような不定形の形状や色の波立ちが繰り返されるように、似たような形のものを何個も並べています。それによって反復するリズムを想起させるような効果をあげて、直線を区切りのように書き加えることによって、秩序づけるような一種のコスモスのような全体の印象をもてます。とはいっても、もともとの流れの部分はコスモスに対するカオスを感じさせるので、カオスとコスモスの拮抗、というと意味づけし過ぎかもしれませんが、<稲妻捕り>の奔放さとは一味違った味わいがありますが、このせいかもしれませんが、色の変化、グラデーションの変化が、より鮮やかに感じられるような気がします。

そして《青ライオンあるいは(月・指)》(下図)というシリーズでは、奔放な流れが円形の中に閉じ込められたようなものとなり、運動が閉じられた狭い空間の中に押し込められ、その円の中が密度の高い濃密な空間と化して、色彩の鮮やかさがことさらに際立たせられているように見えます。閉じられたような円の中での対比の目立ち、それらが並べられることで、それぞれの円の違いが際立たせられていました。 


Chapter5 色身を求めて─油彩
狭い美術館の展示室に押し込められたような展示は、最期に版画では困難なためでしょうか、大画面を油彩で制作された作品が並べられていました。今まで見てきたような、鮮やかな色彩の、不定形な、波立つ流れが大画面で、見る者を圧倒する大きさで現われてくるものです。ただ、マーク・ロスコの抽象画のように大きさというスケールで、見る者を包み込み、独特の精神状態に誘うようなことはありません。そういう意味を求めているものではなくて、ただひたすらに感覚的な美しさを追求しているから、大きいゆえに迫力で迫るということはなくて、細部がよく見えるということでしょうか。

描き方については、私は不案内で、よく分りませんが、筆に絵の具をつけて塗ったということでは、できないものだろうと思います。基本的に、これまでの版画と同じような技法で、版画の場合はネガである版をポジである紙が写し取ることになるのを、直接キャンバスに定着させられているということかもしれません。その一方で、画面が大きいために、空間構成について余裕をもったデザインができることから、反復や反復に変化を加えることをたっぷりと行っているので、少しくどい感じを受けることがあります。そのわりに反復させる要素は絞ってあるので複雑な感じはしません。

しかし、《ルゥーバ、降り注ぐもの》(左図)という最後に展示されていたシリーズでは、定型化、バターン化の兆し、硬直化といってもいいかもしれません。流れることの運動性というのがなくなってきているような気がしました。

 
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