鴨居玲展─踊り候え─ |
2015年7月2日(木)東京ステーションギャラリー
さて、鴨居玲という人のことはよく知らず、この展覧会で初めて見たという始末なので、その紹介も兼ねて、主催者のあいさつを引用します。“1985年に鴨居玲が57歳でその早すぎる生涯を閉じてから30年目の年となりました。画家の内面性の表現であった自画像は、彼の美男でエキゾチックな風貌とはうらはらに、醜態をさらし自虐に満ち、時に死神と格闘する姿でもありました。死を意識しているような苦しい表情で、画家は何を訴えようとしていたのでしょうか。神とは何かを問い続け、描いた教会は不安定に傾き、やがて神の救いは無いかのように宙に浮遊しました。彼の孤独は彼の生きる姿そのものでありました。生の儚さと向き合いながら人間の生きる苦しさ、弱さ、醜さといった部分を包み隠さず描ききり、生きた痕跡を遺したのでした。描き終えた作品たちは言葉を発することなく静かに時を過ごしてきました。本展は没後30年にあたり、初期の作品から絶筆となる自画像まで各時代の代表作を中心に、鴨居展初出品の作品を含めた油彩、水彩、素描、遺品などの90余点から、本質的な自己投影の制作者であった鴨居玲の芸術世界をご覧いただきます。” まあ、こういうところで、展覧会ポスターなどから何となく、画家のイメージが湧いてくるのではないかと思います。そして、展覧会場に比較的年を召した人影が目立ったのも、何となく理解できるような気がします。最初に断っておきますが、私が、いつも展覧会の感想としてここで書き綴っているのは、画家に対して何の利害関係もなく、自腹を切って入場料をはらって単に時間と空間を消費したという立場で、感じたことをまとめているだけです。また、この書き綴ったものを公開する時期を展覧会が終わった後にするようにして、そういう影響とは無関係のところで、感想をここに残しているというだけのことです。だから、今までもそうですが、画家や作品に対して見当違いのコメントや、不当と思われる感想も結構ありますが、それがたとえ肯定的出ない評価に感じられることであっても中傷とかそういう意図はなく(そういうものであれば、書きませんし、書いても公開しません)、あくまでも個人的な感想であるということを了解していただきたいと思います。 私が、この鴨居玲という画家の作品を、没後30年の回顧展ということで代表作が余さず並んでいたということでしたが、見た全体的な印象を一言で言うと、“ステレロタイプ” ということです。それはよい意味でも、悪い意味でもあります。主催者のあいさつの中で“生の儚さと向き合いながら人間の生きる苦しさ、弱さ、醜さといった部分を包み隠さず描ききり、生きた痕跡を遺した”と書かれているのは、作品を見る人に、いかにもそのような印象を残すようなパターンというか雰囲気が、鴨居の作品に共通して濃厚に現われていたということです。私には、そう見えました。それは、画家である鴨居が自覚していたというよりも、鴨居自身がそのパターンの中に囚われていって、その中でものを観て描くというような、パターンを充実させていって濃密になっていった反面で、袋小路にはまっていくようにパターンから抜け出せなくなっていったような印象を受けました。そこには、画家の持つ一種のナイーブさというのか作品とか、自らの認識に対しての距離の置き方が、自覚的でないというのかダイレクトである、ある意味、自分を客観視しないという感じが見えます。それは、作風は全然異なりますが、日本で人気の高い画家である、ファン・ゴッホに通じる雰囲気があるように思えます。そのあたりが、年齢の高い美術ファンの姿が会場に多かった理由ではないかと思うのです。それでは、これから展示の章立てに沿って具体的に作品を見ていきたいと思います。
Ⅰ.初期~安井賞受賞まで 画家としての本格的なデビューは遅かったということで、41歳で安井賞というのを受賞して、そこで認められて、画風も一応確立した、それまでの展示ということです。それまでの試行錯誤ということで、その後の傾向が定まった作品に比べると、様々なタイプの作品が展示されているようです。でも、私のような下世話な人間からみると、その賞を受賞するまでの間に結婚もしたということで、どうやって生活していたのかの方に興味が行ってしまいます。第二次世界大戦の敗戦後間もなく油絵を習っていたと伝記的な説明がありましたから、いいとこのボンボンだったかなあとか、誰かに食わせてもらっていたんだろうな、と変なことを考えていました。というのも、鴨居の作品は比較的絵の具を多量に使うようなのです。
この後、鴨居はスペインに渡り、違ったテイストの方向で画風を成熟させていくことなると言います。
Ⅱ.スペイン・パリ時代
穿つような言い方ですが、鴨居の作品の魅力は“何か言いたげ”な印象を見る者に起こさせるところにあり、それには、鴨居という人物の伝記的なエピソードが“ものがたり”の要素を、作品の“何か言いたげ”な印象を補完するように、その印象を強く起こさせることに、結果としてなっているように思います。つまり、作品が作者のイメージと離れていないというものになっている。例えば、スーパーマーケットの食料品売り場で産地直送の野菜のコーナーで生産者の写真とメッセージが添えられて、誰々さんの畑で育てられた野菜として紹介されているところがあります。別に誰の畑で育てられて、その生産者の写真があるからといって、当の野菜の品質を保証するものではない、美味しいとはかぎらないのです。しかし、そういう野菜は生産者の思いが込められている、というようなイメージで思わず手に取る。ただ、ここで言っているのは、そういう野菜がまずいと言っているのではなく、生産者が分かれば野菜が美味しいとは限らないということです。しかし、また、美味しいとかとか不味いというは、あくまで個人の好みに左右されるもので、美味しいと思って食べれば美味しく感じられるということは、よくあることです。豪華なレストランや料亭の一室で、きれいに盛り付けられた料理を、高い料金を払っているから、という思いで食べれば、よっぽど酷いものでない限り、おいしく感じるものです。吉田健一という美食家の評判の高かった小説家は、そういう料理を宴会料理といって、ご馳走とは区別して嫌悪しました。私は、そこまで潔癖ではありませんが、本質的なところと、そうでない付加価値的なところを区別したいと考える方ではあると思います。
少々、キツい言い方をしているように聞こえるでしょうか。そうかもしれません。私は、この展示会場で一連の作品を見ていて、気恥ずかしさを禁じえなかったのです。一見、真摯に見えて、その実、どこか感傷的なところ。それは、恥ずかしげもなく、“オレは真摯だ”と嘯いてポーズをとってみせるような作品に対して、我ながら、距離を置いて突き放すことができなかったからです。おそらく、私にも、このような恥ずかしい要素がある。それは、決して鴨居自身が意図したこととは違うでしょうが、逆説的な意味で、私自身の内奥の恥ずかしいところを突かれたということを、たしかに感じたということなのです。それは、どういうところか、具体的に見ていきたいと思います。 試しに、前回に見た『静止した刻』と比べてみましょう。テーブルを囲んでいる男性たちは一様で、違った個性を与えられているようには見えません。それに、感情とか表情がないので、その印象を募らせます。だから、これらの人物は一種の駒のようなものです。解説の中に、鴨居が作品で描く人物はすべて自画像で、鴨居自身の姿に似ていない人物でも自画像のバリエーションのようなものという旨の説明があったように思いますが、そうであれば(そうでなくても)、この作品で描かれた人物たちは、それぞれが独立した人格と個性をもった人物ではありません。従って、『静止した刻』は群像ではないと言わざるを得ません。それに比べて、『おっかさん』はどうでしょうか。向き合う二人の人物は『静止した刻』のテーブルを囲む人物たちの一様さに対して、明らかに違う人物です。しかし、逆に違いすぎるように見えます。つまり、二人の人物の差異を強調しすぎている。ということは、この『おっかさん』の画面の二人の人物は、それぞれが独立しているから違うのではなくて、違いを強調するように見せているのでそれぞれの人物と見える、となっているように見えます。つまり、マンガやアニメで言うキャラなのです。それぞれのキャラはマンガのようなデフォルメされた姿ですが、これは、むしろキャラとしての記号的な性格が先にたって、それをリアルな具象絵画の人物像に近づけていった結果ではないか、そのように私には思われます。それは、解説にあるように、作品中の人物が鴨居の自画像のバリエーションであるとしたら、自身のある面をとくに取り出して誇張したキャラということになるのでしょうか。 前回、私は、鴨居という画家は、描こうとするものと描かれたものがズレている画家ではないかと感じたことを述べました。そのロジックでいえば、このスペイン滞在のころから、鴨居の作品は描こうとするものの比重が、どんどん重くなっていったように見えます。それは、例えば、『おっかさん』で描かれた人物の記号のようにデフォルメされた姿です。それは、見る者に、挿絵のように“ものがたり”の一場面のようにエピソードを想像させる効果を高めているように見えることからも納得できるのではないかと思います。しかし、ただデフォルメされただけでは、マンガのように背後にストーリーがあるわけではないので、見る者は感情移入することは難しい。感情移入することがなければ、見る者が、そこに“ものがたり”を想像することはできない。それで、以前の『静止した刻』のような平面的な図案のような人物像から、肉体の厚みをもった、重量感のある人物の外形を描くように描法が変容していったのではないか。そうであれば、以前の作品の、結果として描かれたものから“ものがたり”を感じられるようなことがあったので、それでよしとするような“できちゃった”即興性があったのを、この時期の作品では、それを意図的に“作ろう”とした。そこに人為性の強い作品になっていると思います。それだけに、人物のポーズなどに感じられる過剰なポーズ、わざとらしさが、作品から想像できる“ものがたり”のバリエーションを限られたものにしてしまった単調さが生まれてしまったとも、考えられなくもありません。
これを、読んでいる方は、私が鴨居を中傷しているように感じられると思います。弁解に聞こえるかもしれませんが、このような書き方をしていますが、だから、鴨居の作品を見る価値がないとは言っていません。むしろ、そういう面も含めて、鴨居の作品を見て、その感想を書いている。もし、見る価値のないと思ったのであれば、最初から感想など、ここに書きません。ただ、どうしても鴨居の作品について、私が書こうとすると、ネガティブな書き方の方が書きやすいのです。多分、逆説的な対し方をしているためではないかと思います。それは、私自身の屈折した性格に起因するところが大きいと思いますが、そういう屈折にハマるのが、鴨居の作品と言ってもいいかもしれません。正直にいえば、これらの作品に感情移入して、尋常でない何かをストレートに感じるような接し方をするのは、恥ずかしさが先行します。
Ⅲ.神戸時代─一期の夢の終焉 鴨居の欧州から帰国後、神戸に居を構え、新たな画題を求めて模索を繰り返すが、従来の作品の焼き直しにとどまり、そのプレッシャーから自らを追い詰めていったという伝記的な説明が為されている晩年の作品です。
なんとも大仰な、けれども、作品のそれぞれのパーツに象徴的な意味づけを施して“ものがたり”をつくりだして、それが作品の価値であるというように説明されているのが、よく分かります。べつに批判するつもりはありませんが、この解説者は作品自体の美しさとかそういうものには無頓着で、“ものがたり”という付加価値にもっぱら注目しているように見えます。もしかしたら、鴨居自身も、そういうものに引き摺られたのかもしれません。鴨居作品のキャラ大集合というこの作品を見ると、鴨居の作品は、スペイン以降、画面上にキャラを幾つか生み出し、それが画面の中で組み合わされることで作品が制作されていたものが分かります。それらが集まった画面の全体が暗い色調で、悲劇的な様相を呈しているように見えるところに、鴨居という画家の特徴、あるいは、彼の作品の本質的な魅力があるのではないかと、私には思えます。
私は、そういう質の高いギミックさがあるという点で鴨居の作品を面白いと思います。それは、鴨居自身は、そのようなことなど露ほども思っていなかったでしょうけれど。 |