没後50年 鏑木清方展 |
2022年3月23日(水)東京国立近代美術館 朝から、1年に1度の人間ドックを受けた。コロナ感染防止対策のためか手順が大幅に変わり、早朝に受付し、昼前には終わってしまった。いつもなら1日かけるのに、そう思って1日の休みをとっていたので、時間が空いてしまった。それで、何かないかと探していたら、見つけたのが、この展覧会だった。名前だけは耳にしたことがあるから、日本画の世界ではビッグネームなのだろうから、それなりに楽しめると思って、出かけることにした。 地下鉄竹橋駅を降りて、近代美術館までの堀端の道は、蔓延防止措置が終わったためか、コロナ前とあまり変わらない雰囲気で、歩く人の姿もそこそこ。平日の昼ごろという時間のせいもあって、美術館は、それほど混んでいるわけでもなく、落ち着いて鑑賞できる程度の人の数。若い人は少なく、ほとんどが中高年で落ち着いた雰囲気だった。 さて、私は鏑木の作品を見た記憶がないので、どういう絵を描く人なのかよく分からなかったので、いつものように主催者の挨拶を引用します。 “鏑木清方(1878〜1972)の代表作として知られ、長きにわたり所在不明だった「築地明石町」(1927年)と、合わせて三部作となる「新富町」「浜町河岸」(どちらも1930年)は、2018年に再発見され、翌年に当館のコレクションに加わりました。この三部作をはじめとする109件の日本画作品で構成する清方の大規模な回顧展です。浮世絵系の挿絵画家からスタートした清方は、その出自を常に意識しながら、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けました。本展覧会では、そうした清方の関心の「変わらなさ」に注目し、いくつかのテーマに分けて作品を並列的に紹介してゆきます。関東大震災と太平洋戦争を経て、人々の生活も心情も変わっていくなか、あえて不変を貫いた清方の信念と作品は、震災を経験しコロナ禍にあえぐいまの私たちに強く響くことでしょう。” この紹介では、どんな絵を描くのかマチイチ分からないので、ネットで検索してみたら、上村松園とならぶ美人画の大家とのこと、上村松園という画家もよく知らないのですが、美人画かあと納得しました。それで、今回の展覧会のチラシには、主催者あいさつで真っ先に言及されていた「築地明石町」が使われていましたが、私の正直な感想として、これが美人?です。もちろん、鏑木が作品を制作した昭和の初めと現在とでは美意識が違うので、当時は美人だったといわれればそれまでです。でも、美人から美人らしさってあるじゃないですか。これは美人ですよ、そういう約束になっています、それを見るものに感じさせる、そういうものが感じられない。例えば、マンガの世界で、ちゃんと顔を描いているわけでなく、省略した記号のような顔でも、マンガのお約束のヒロインですよということになれば、作品を読む人は、それを美少女なり、美人とみなします。そういうお約束を鏑木清方やその作品を好む人たちは私は共有していないと思われるので仕方がないのかもしれません。しかし、描かれた顔を見ていると、睨んでいるような眼が意地が悪そうで、しかも、瞳に生命感が希薄で、口を突きだして、という却って美人ではないように、わざと描かれている。しかも、描き方が淡白すぎるというか、描く人の思い入れたいなものが感じられない、とこれを果たして独立して完結した作品として提示する意志があるように見えないのでした。この展覧会には、100点以上のたくさんの作品が展示され、会場には少なくない人作品を身に来ていましが、私には、ほとんどの作品は立ち止まらせるようなものはなく、並んでいる前を素通りしてしまいそうなものばかりで、何がいいんだろうというこが分からない。私にとって難解な作品ばかりで、会場を通すのに時間がかからず、1800円という入場料を払ったから、というのでもったいないし、そういう意味で焦ったりして、という全体の感想でした。 展示は、「生活をえがく」「物語をえがく」「小さくえがく」といった3つのテーマに分類して作品を紹介していて、美人画や風俗画、風景画、肖像画といったジャンルで分けるのではなく、あるいは、画家の生涯に沿って編年順に展示するのではなく、作品の中に描かれた題材や表現形式を軸に展示されていました。 第1章 生活を描く 主に明治や江戸末期という、鏑木が制作していた昭和や大正時代からは古き良き時代とノスタルジックに回顧された中層以下の階級の市井の人々の生活や人生の機微を描こうとした作品群です。 「雛市」という1901年の鏑木23歳の時の作品です。彼の略歴を調べてみると、浮世絵派の絵師の下で修業し、若手の挿絵画家とともに烏合会という団体を設立したころということです。つまり、修行時代の作品です。雛市での一こまですが、当時は日本橋の十軒店(いまの室町付近)に人形店が集中していたということで、そのうちの一軒の前で立ち止まって、人形の物色をしている母娘と、その周辺にいる人々を描いたもので、娘が人形をねだり、母親がそれを物色しています。母親の視線の先にある人形を、使いの小僧や青年らしいものも眺めています。二人が視線を共有していることがわかり、右手の男とその隣の子守娘は表情が見えません、そのかわりを履物がつとめています。子守娘の履物は、すり減った草履のようです。一方人形をねだる少女は、かわいらしい駒下駄を履いています。物語の場面のようで、鏑木が挿絵を描いてということから、物語の挿絵のようです。なんだか、17世紀フランスのジョルジュ・ド・ラトゥールの「いかさま師」を見ているような、物語の一場面を彷彿とされます。というのも、「雛市」に描かれている人物たちは、それぞれに個性があって表情が分かって、独立した存在として、何を思っているかが想像できるというのではなくて、いわば場面の構成要素のように、この場面のなかで、他の人との関係で、このようなポーズをとっているから、こうなのだという、いわば人間として内面のある存在ではなく、場面の構成要素として描かれているのです。だから、おめかしをしている少女と手前の裸足のこどもが肩に背負っている花の咲いた枝とは、画面上の存在は同じ比重なのです。いわば表層的。実際、描かれ方も同じような丁寧さで描かれています。そういう意味で、ラトゥールと同じようにバロック的に見えます。ということは、鏑木の作品の人物というのは、人というより物に近い、これは鏑木の他の作品にも共通して感じられることです。それで、よく美人を描くことができた、と感心します。 「ためさるゝ日」という1918年の作品です。鏑木は1916年に中堅の日本画家と金鈴社を結成し、同人の影響を受けながら古典を研究していた時期の作品ということです。「雛市」が背景もびっしりと描き込んでいたのに対して、この作品では、背景が描かれなくなり、単一色に彩色された画面になります。しかし、これはいわゆる余白として、見る者に空間を想像させるようなものとは違うようです。この絵全体が、背景の緑や橙色、女性の衣服の黒や緑や紫といった塗り絵のような平面的な色面が組み合わさって画面が出来上がっているように見えます。いちおう、描かれている題材は、長崎の遊女が隠れキリシタン摘発のための踏み絵をしている場面ということですが、色面の組み合わせのために、女性の形態は図案化されているようです。それは、まるで浮世絵版画のようでもあります。左側の踏み絵をしようとしている女性のポーズは不自然なほどわざとらしいし、画面の女性の顔は陰影がなくて平面的なのは、そのためかもしれませんが、もともと鏑木というひとは、顔の陰影とかむ表情とか生き生きとした生命感のようなものは描かない、たぶん、そういうものが描く対象として認識されていないのだろうと思います。もともと、そういう認識なので、画面を塗り絵のように色の組み合わせ配置で見栄えの良いものにするという作品制作は、自然だったのだろうと思います。そして、この作品の女性たちの顔を見ていると、目は細い線のようで小さく、口は唇を突き出すように尖がって、美人ではない条件を持たせていて、鏑木は美女とか理想の女性を描くといったことには、興味がないのではないか、と思われるものでした。ここで描かれている顔は、江戸時代の浮世絵の歌麿なんかのリアルではなくデフォルメを利かせた顔を、近代化したというか、文明開化で西洋のリアリズム絵画に接した人には、歌麿などの浮世絵のデフォルメした顔はグロテスクに映るところがあると思います。鏑木がこの作品で描いているのは、浮世絵の顔の、そのようなグロテスクさを取り去って、浮世絵独特の顔の感じは残しても、西洋画のリアルさと比べて違和感の起こらないような顔になっていると思います。多分、それは当時の中産階級の人々にとって、浮世絵というのは庶民向けの、いわば下品なもので、鏑木は、その下品さがデフォルメの過剰によるグロテスクさだとして、それを薄めることをしたように思います。その結果、お上品な趣味を嗜好する中産階級向きにして、顧客を開拓したのだろうと思います。 「雪つむ宵」という1920年の作品です。「ためさるゝ日」が背景を単一の色面にしているのにたいして、この作品では、雪が積もって白一色となった景色を背景にしています。一見、白で単一に塗られているようで、ちゃんと見ると、白のグラデーションで雪景色がぼんやりと見えてくる。画面の中心にいる女性は、背景と同じようにグラデーションをつけた色の面の組み合わせになっている。それにしても、描かれている顔は、シンプルというか、顔の造作を図案のように表わす最低限の線しかなくて、顔であることが最低限分かるという程度しか描かれていません。この顔を描くアングルとか、女性の姿勢とかは、浮世絵、たとえば、歌麿の「ビードロを吹く娘」とよく似ていると思います。ただし、国粋主義とまではいいませんが、西洋画に対抗するように庶民向けの下品なものではなくて日本の伝統芸術とでもいえるように体裁を整えて、立派に見えるようにした、そういう風に思えます。むしろ、浮世絵が海外でもてはやされ、それが外国人から、外国人と交流のあるような日本人、つまり一定程度の教養とか経済的にも豊かである人々にとって受け容れることができるような体裁に整えた。それが鏑木の絵画の特徴のひとつであり、この作品などは、そういう要素がよく分かると思います。 「泉」という1922年の作品です。同じころに鏑木が伝統的な浮世絵や風俗画が低俗とか下品とみなされていたことに対して、ハイアートである芸術の仲間に入れようとして、デフォルメを抑制して西洋画の写実のテイストを加味した描写を試みたり、この作品では、鏑木の呼び方で言えば社会画という、旧来の浮世絵が遊里が悪所を題材としていたのに対して、社会に生きる庶民の日常の生活を描こうとしたといいます。この作品では、山間部の泉で水汲みをしている女性の姿を描いています。ただし、労働の風景と言えばそうかもしれませんが、たとえば、水汲みをしている後ろ姿の女性のポーズは浮世絵の花魁のポーズとよく似ていますし、来ている野良着の淡い緑色は、労働で汚れたいろというよりは、上品な着物のように映えて、周囲の山間部の草木の緑のバリエーションと調和して、映えています。私には、この人物は労働をしているようには見えないのです。それゆえ、社会とか生活とか労働を題材にしているというよりは、コスチューム・プレイで目先を変えて楽しんでいるように見えます。画面の人物は、後ろ姿で顔を見せてくれないので、表情が分からず、労働の辛さとか、水汲みを待って休んでいるときのほっとしたとかいった表情も見えてきません。そこに、生活とか労働の実感を見ることはできないのです。そもそも、鏑木には、そのような実体を描こうという気はさらさらなかったのだろうと思います。社会画などいう説明を受けないで、単に作品を見るなら、緑のバリエーションで目に鮮やかなイメージの絵画と見えます。 「初冬の花」という1935年の二曲一双の屏風の作品です。空間を広くとって、そのなかに余裕をもって人物を配しています。人物は、左側に寄せて、右側に広い空間を作っています。背景はほとんど描かれず、形も省略が利いていて、線も1本の息が長い。女性の全体のかたちや線などもシンプルに表わしたというものです。薄い銀鼠の地色に派手なあずき色の細かい縞の衿で濃紫の裾回しをつけ、菊染め縮緬に黒繻子の昼夜帯をしめた女性が、煙管で煙草に火をつけようとしている姿です。そういうシンプルな描き方に対して、髪の生え際は、墨で細かく描かれていて、肌との境目がはっきりしていて際立っています。浮世絵では生え際は美人の見せ所とでもいうように、ほかはシンプルなのに、髪の生え際だけは細かく描いている。はっきりいって、人を一個のまとまりとしてトータルに捉えているのではなく、見せどころの細部という要素の集まりのようになっているのです。 「鰯」という1937年の作品です。鏑木が少年期を過ごした明治初めころの風景で、鰯を売りに来た少年を若女房が呼び止める情景です。画面中央のすだれ越しがかかった台所に駒込富士神社の麦わら蛇や、左側に関西発祥の姫のり看板、芝居番付、有平糖やういろうなどのお菓子などの細々とした物が、右側の玄関の土間には脱ぎ捨てられたような履物、左側奥には路地裏に駆け込む子供の後ろ姿などが描き込まれています。前に見た「雛市」と比べてみると、「雛市」が大和絵のように明確な輪郭でくっきりと彩色されていたのに対して、この作品では全体に薄い色でぼかしや滲みの効果を活用して淡い感じがするように描かれています。この作品が制作された昭和の初めのころでは、もはや、この作品で描かれているような明治の初めの光景は見られなくなっていたはずで、ノスタルジーの対象となっていたはずです。この「鰯」で描かれて情景は現実には、もう見られなくなったもので、思い出の中でのみ生きている風景であったと思います。鏑木は、そういう情景を、現実とも夢とも見えるような、フワフワして、淡い感じと描きました。それはもひとつには思い出の理想化された姿であり、昔はよかったというノスタルジーを伴うものであったと思います。しかも、そういうノスタルジーを助長させるのが、さきほど列記したような、台所や土間に細々と描かれた小物類だと思います。それが、淡い色彩で、溶け込むように描かれています。それゆえに、現実の存在感が希薄で、夢うつつのような透明なヴェールのように見えます。それゆえ、細々とした小物がノスタルジーを呼び起こすツールとなっています。それは、映画「三丁目の夕陽」で昭和ノスタルジーの雰囲気を作りだしているのが、オレンジを帯びた画面の色調だったり、オート三輪やちゃぶ台といった小物だったのとよく似ていると思います。その中の人物たちも、ノスタルジックな風景に溶け込んでいるように、顔の表情は明確に描かれず、その人物も特定の誰かというより匿名の下町の若奥さんだったり子供だったりというように存在感が希薄です。「雛市」がバロック的であるのに対して、この「鰯」は現実にない風景を観念的に描いているという点でシュルレアリスム的です。 「春雪」という1946年の作品。第二次世界大戦の敗戦の翌年で、鏑木の住んでいた東京は焼け野原だったでしょうから、彼の描くものは現実にはないノスタルジーの幻想的なものであること、さらに進んだと思います。鏑木は、春に富士の頂に積もった雪をイメージしながら描いたということですが、その富士は画面には見えず、見た目の感触を、女性の小袖の深川鼠の色に込めているそうです。しかし、ここで描かれている女性は武家の妻女のように姿ですが、描かれ方は浮世絵の芸者か遊女のような描かれ方をしています。江戸の粋を描いていると言えばいいのでしょうか。ここでは、女性の姿が、現実の姿ではなく、人工的に作られた観念的な姿になっていると思います。これは、根拠のない想像なのですが、制作されたのが1946年という敗戦による占領下で、アメリカをはじめとした連合国の人々が日本を統治していたという時代ですから、そういう人々の日本理解はフジヤマ、ゲイシャ程度のものだったのではないか、そのゲイシャの画像イメージは浮世絵によるもの、ということから、そういうイメージに沿った、そういう市場ニーズに応えることも考えているのではないか。それが、武家の妻女の姿を浮世絵のゲイシャ風に描いて、外国人にウケることを狙った。また、国内向けには、武家の女性ということで下品ではないということをイメージさせる。前のほうで、ここで描かれているのは実在の女性ではなく、観念的な女性像というのべましたが、その観念は作者である鏑木が醸成したイメージというより、人々、もっというと顧客の求めている姿ということになるのではないかと思います。というのも、鏑木という個人が醸成した理想の姿であれば、もっと明確に顔の造作など細かく描いてもよさそうなものですが、鏑木の作品では、そういうところは曖昧にして、描き込まれていません。その代わり、見る者は、そこが描かれていないからこそ、それぞれの理想の美人をそこで想像して当てはめることができることになります。そして、見る人の、そういう想像を促すために、周辺の細部、たとえば背景の小物を描き込んでいく。そういう作品になっていると思います。だから、鏑木の作品では、中心の人物よりも背景の小物などの方が意味ありげに描き込まれている。見るものの視線を引き寄せるようになって、最終的に、見る者がそれぞれの美人を想像させるように誘導している。 特集1 東京 おそらく、この展覧会の目玉でしょう。 「佃島の秋」という1904年の作品。こんな作品も描いていた、という驚きで、手前下方の鶏の描写など写実的で、色使いなども日本画的ではないように思えます。 「築地明石町」という1927年の作品。この展覧会のメダマであることは疑いの余地はないことでしょう。この作品は、制作時の数年前の関東大震災で全壊した明治時代の築地明石町の前でたたずむ風景を思い起こすようにして描いた作品ということです。築地明石町は明治時代中期まで外国人居留地であったため、異国情緒あふれる場所として知られていたそうです。つまり、築地明石町というと、関東大震災で完全に取り壊され、いまはかつても面影はないということが、当時の観衆たちには共有されていたと思います。江戸時代の名残りの上に滔々と西洋文化が流れ込んだ居領地のロマンチックな風景と、それが現実に関東大震災で失われてしまったという街並みという二重の喪失感を想起させるでしょう。そのうえで、失われたものを回顧する幻想的な情景として再現したものと言えます。朝霧に包まれたようなぼんやりした背景は、ノスタルジックな幻想の世界の雰囲気をつくり上げ、女性の肩越しに佃島の入り江に停泊する帆船がうっすらと浮かび、右手に見える洋館の水色の柵には朝顔が咲いているというところで、外国人居留地を見る者に想起させるわけです。中心は黒い羽織を着て黒髪を結ったという深くくっきりとした黒の面積がおおきい女性が背景から浮かび出すように立っています。その人物のとっているポーズは浮世絵の「見返り美人」とそっくりのポーズで、有名な作品ですから知っている人は、当然想起するに違いありません。そこでまた、見る者の想像を促しているわけです。この作品では、引用によって想像力を喚起するという仕掛けがいくつも仕掛けられている。そして、当の人物の描写については、指輪をはめた女性の指先の、ほんのりとした、でも意味深な赤み、細く繊細に描かれた後れ毛など、細部の描写に凝っているのです。しかし、その反面、顔には陰影とか表情が、それほど描き込まれていない。だから、全体として、画面のから浮かび上がるように人物が描かれていますが、存在感は強くない。したがって、見る者の前に人物である女性を提示して、「これだ」と存在を主張しないで、どういう人かは「ご想像にお任せします」とし、その想像を細部の描写や引用による想像の喚起で促している。そういう作品に見えます。ただ、この描かれた女性の目つきの悪さは、どこか陰険そうで、それ以外の顔の部分は特徴のない可もなく不可もないという鏑木のいつものパターンなのだけれど、この目つきの悪さは好きになれない。 「浜町河岸」という1930年の作品です。「築地明石町」、「新富町」とあわせて美人画三部作と呼ばれているそうです。構図も似ており、サイズも同じであることは、鏑木がこれら三つの作品をシリーズものとして意識していたと言われています。鏑木は明治末に実際に浜町で暮らしていたので、町の雰囲気は実感として分かっていたといいます。そういう浜町にふさわしい女性として踊りの稽古に通う町娘を選んでいます。髪にバラの簪をさした娘が浜町藤間の稽古から帰りの姿で扇を口元にやり左手で袂をすくう仕草をして、習ったばかりの所作を思い返しているように見えます。この作品は、全体に温かみのある色彩が巧みに挿入されています。例えば、お太鼓に結んだ帯の内側に当てている朱色の帯揚げでくるんだ帯枕、着物をたくしあげたおはしょりの下から見える赤いものはしごき帯で、この帯をチラリと見せるのがお洒落であり、竹久夢二の絵にも似たような色の使い方を見ることができます。帯周りが複雑に描かれているのに対して、女性の肌が単純に描写されているのが好対照です。顔は陶器のように白い肌で、薄い朱色で血色の良い両頬を強調し、耳や舞扇を持つ細い指先も、朱でほんのり赤く縁取られている。このわずかに見える朱色が、女性の白い指や耳に血が通っているように見せ、よりなまめかしさを見る者に感じさせるように描かれています。景には墨田川が広がり、対岸の深川安宅町の町並みが見え、右に新大橋が描かれています。その傍ら 大橋あたけの夕立にあった安宅町の火の見櫓は、江戸時代の歌川広重による「名所江戸百景」にも描かれているものだそうです。 「瀧野川観楓」という1930年の作品です。渓流沿いの土手に席をもうけ、そこに母子と見られる二人組が、観楓を楽しんでいる情景です。彼女らの頭上には、真っ赤に染まった楓の葉が、色鮮やかに拡がっています。だが母子は、それぞれそっぽを向き、また楓の葉を見ているようにも見えません。母親は下を向いているし、娘は母親とは逆の方を向いているのですが、二人の視線の先に楓の葉はないのです。母親はおそらく渓流に眺め入っているのであろうし、娘は茶菓子に気をとられているのでしょうか。作品タイトルもそうだし、画面には色鮮やかな紅葉が入念に描かれ、それに応じるように二人の女性が座っている緋毛氈の赤が作品画面の全体を支配している。しかし、二人の人物は、そこら視線を向けていないという。そこに、見る者の物語的な想像を掻きたてている、と言えるかもしれません。こういうやり方は、18世紀フランスのシャルダンが家庭の情景を扱った作品によく似ていると思います。 第2章 物語を描く 鏑木は、戯作者で新聞社主の父、無類の芝居好きだった母のもとに生まれた清方は、幼少期より文芸に親しんだそうで、本人も文学と芝居の熱心なファンであったといいます。そういう鏑木の嗜好が表われた作品の展示ということです。 「曲亭馬琴」という1907年の作品です。この会場で見てきた作品とは、かなり異質な作品なので、とくに印象に残っています。視力を失った馬琴が、「南総里見八犬伝」を息子の嫁おみちに口述筆記する様子ということです。おみちはもともと字が読めなかったところ、馬琴が手とり足取り教えて覚えさせたという。若くて覚えが早く、舅馬琴の要求に応えて、口述筆記をした。この絵には、そんなおみちが、坊主頭の馬琴の語る声に、必死に耳を傾ける彼女の表情が、印象的に描かれているといいます。この作品の室内は、鏑木の作品では唯一と言って遠近感のあるパースペクティブな空間が捉えられているように見えて、しかも、中央の行燈の灯りによる陰影が深く表現されています。そして、画面の中央左の馬琴の描き方が、他の鏑木の作品には見られない、たとえば馬琴の身体に施された陰影がその表情と相俟って一個の人間を表わそうとしているのです。多分、鏑木は試行錯誤しながら手探りで描いたのだろう手際の悪さが見て取れます。そのため、馬琴の顔がこわい顔になっています。かつて史実のなかに生きた人間としての馬琴という人物の生々しい姿ではないかと思います。しかも、室内とそこにある諸々の物がくっきりと質量のある物として描かれているように見えます。ちゃんと絵の画面になっています。うまい下手は別として。ただし、馬琴に対向しているおみちは人形のような普段の鏑木の描く女性のままです。
「一葉女史の墓」という1902年の作品です。一葉女史とは夭折した小説家の樋口一葉のことであり、その墓は築地本願寺にあったといいます。画面左上に弦月が見えますが、それゆえに夜が更けてきて、墓参に訪れる人影も途切れて、あたりは静寂に包まれているのが分かります。墓に供えられた線香の煙が漂うなかで、一葉の小説「たけくらべ」のヒロイン美登利が現われて、水仙の花を抱えて墓にもたれかかっているという幻想的な光景を描いています。背景の石垣、墓石、香炉などには明暗が施されて立体感が表現されていて、後年の平面的な塗り絵のような画面とは違いますが、それでも薄っぺらくて、石の重量感が感じられません。一方、美登利の服は藍色を帯びた灰色であり、衣紋に沿って暗い灰色の暈しが入り、この明暗の差によってこの人物の立体感が生まれています。それゆえに、現実の存在感が薄くて、幻想である美登利の存在の薄さと変わりません。その結果、現実と幻想の区分が曖昧になって同居する画面になっています。また、背景である墓場と人物である美登利の存在感が同じように薄いのは、現実と幻想の区分が曖昧なだけではなく、画面のなかで美登利が主役としての存在の強さがなく背景との関係も同じようです。つまり、この画面には主役がなく、描かれているものが並列的です。この展示コーナーのテーマが物語を描くということになっていますが、それは画面として完結した世界を独立させるのではなく、挿絵の要素が強いということなのだろうと思えてきます。 このことは、日本の近代小説が始まったときの主体性の問題と、すごくよく似ていると思います。教科書の文学史でいうと日本で初めての近代小説というと二葉亭四迷の「浮雲」とされていますが、これを読んでいると(実際に読んでいる人はほとんどいないと思いますが)、章か変わるごとに物語の語り口が変わっていることに気がつきます。それで統一感がなくてバラバラな感じがするのですが、これは、作者の二葉亭が西洋の小説のような絶対者の視点による物語の語りができなくて、物語をどのように語るかを試行錯誤して、結局うまくいかなかったとされています。西洋文化の場合、神という絶対者がいて、その下で統合されている。小説の語りについても、神というすべてを見渡し、コントロールする存在があって、作者がそれになり代わって、テーマのもとに物語を統合して語ることが出来る。それに対して、日本の文化には神にあたるような絶対者がいないので、どうしても相対的になってしまう。テーマのもとに物語を統合する語りをするものがいないというわけです。その後、解決策の一つとして、自分で自分のことを語るなら、その限りで統合できるとして私小説というのが考え出されることになるのですが、ここで小説をかたってもしょうがないので、話を戻します。絵画の世界でも、例えば遠近法という手法は、焦点を中心に放射状のひろがりに沿って事物を描くことで空間的な奥行きを表現するものですが、その焦点という点は視点と言い換えることが出来て、その視点の下に空間が作られていることになります。それは、いわば神の絶対的な視点といってもいいものです。それだけでなく、テーマとなる中心を決めて、背景を従わせるという画面内の主従の選択という構成の視点とか、そこに絶対的存在によって全体を構成するという作為が西洋絵画には当たり前のようにありますが、鏑木の作品には、それが根本的に欠けている、というより、日本画にはもともとないのだろうと思います。だから、屏風や掛け軸をたんに額装しただけで絵画の画面になるというわけではなく、そこで画面にする、つまり絵画にするという作為が必要なわけで、西洋画とは違ったやり方で、それぞれの日本画家はさまざまな努力をしてきたと思います。しかし、鏑木の作品では、あまり、そういうことが意識できい、つまり絵画になっていない。敢えて言えば、挿絵という物語の付録のような在り方を土台に、それにいろいろな意匠を凝らして絵画らしく仕立てているように見えます。ここで物語を描く作品が展示されていますが、その物語の作家は泉鏡花だったり樋口一葉だったり江戸時代の作家だったりと、近代小説以前の人たちであることが明らかです。それゆえに、鏑木の個々の作品が印象に残らない理由なのかもしれません。 「遊女」という1918年の作品です。泉鏡花の「通夜物語」の遊女「丁山(ちょうざん)」に題材をとっているということです。「通夜物語」のあらすじを簡単に述べると次のようになります。画家玉川清は伯父久世友房の娘で従妹にあたるお澄と愛し合っていたが、親の意向によりお澄が陸軍軍人篠山佐平太に嫁いだことから、北廓源楼の遊女丁山と入魂の仲となる。ある時、友房の辱められた清は連れの丁山を思わず妹だと偽ってしまう。友房がそれなら息子の嫁にと揶揄したのを逆手にとって、後日、二人は久世家に強請をかけた。ところが相手は友房が急死した通夜に見せかけ、篠山が悪態をついて清の左腕を折る。篠山を出刃包丁で刺し、「手前たちは、だれだと思ふ、丁山さんの遊女だよ」と言い放つ丁山。「覚えておけ、逢引はこうしてするもんだ」と啖呵を切って、返す刀で自らの乳房のあたり突き立てた。その血潮で襖に丁山の立ち姿を清は描いた。泉鏡花らしい怪奇で耽美な物語で、この絵画で描かれた丁山という女性は、狂気と侠気を秘めた人物です。そういうことが、この絵画のバックボーンとしてあるとして、作品を見る。おそらく、作品が描かれた当時の観客は、この物語を教養として知っていて、「遊女」が誰であるかを分かって見ていた。そうであれば、見え方が、何も知らない現代の観客とは違っていたと思います。そうでないと、この作品を、単に見る限りでは、例えば喜多川歌麿の「美人納涼図」のような浮世絵のパターンを現代的にお上品に描いて、日本画というゲイジュツに仕立て直しました、としか見えません。ただし、それができるのは、本当にお上手な人でないとできないだろうから、お上手ですね。すごいですね。そういう作品だと思います。同じ作者の同じようなパターンに「襟おしろい」があったりして、このパターンだなと思ってしまう。ただ、物語の知識がないまま作品を見て、丁山の凄絶さは感じられないでしょう。 特集2 歌舞伎 「桜姫」という1923年の作品です。四代目鶴屋南北作「桜姫東文章」で、清水寺の僧清玄が、高貴の姫君桜姫に懸想したうえで悶死し、死後も桜姫にまとわりつくという物語です。一人の女が立ち姿で、着物の袖を顔にあてて、何かを避けているように見えるのは、おそらく幽霊となって現われた清玄から逃れようとしいている。腰をひねったその姿は、幽霊を恐れているというよりは、男を挑発しているようにも見えます。実際、狂言の中の桜姫は、最期は女郎に身を落とすほどの、魔性の女として描かれているといいます。これも、私には、物語や狂言を知っていて、舞台で役者がどのような演技をしているのかを知っていて、それを前提に絵画に仕立てましたという作品に見えます。 「道成寺 鷺娘」という1929年の作品です。どちらも歌舞伎の舞踊の代表的作品で、鏑木は京鹿子娘道成寺については、何度も題材として取り上げているように、この作品の方にも道成寺を扱った作品が展示されていました。舞踊としては見せ場は沢山あるのでしょうが、この絵画では、そういう踊りの見栄えのするポーズは描かずに、その扮装をしての立ち姿を描いているという、何か勿体ない気がします。この作品の顔を見ると、浮世絵のパターンの顔でもあり、歌舞伎の女形が扮している顔、つまり、生身の女性の顔ではないことがはっきりと分かる、鏑木の描く女性の顔がそういうものだというのが、この作品では端的に分かるのではないかと思います。歌舞伎の女形は、舞台越しで客席という離れたところから見るので、接近しないとわからない細かい表情などはつくっても分からないので、顔は白塗りにして、表情なんかはどうでもよく、離れてもわかる身体全体のしぐさとかポーズで女の形を見せている、いわば徹底的な表層の姿で、この作品に限らず、鏑木の描く女性は、そういうものだと思います。 「さじき」という1951年の作品です。歌舞伎の場面ではなく、劇場の桟敷で芝居見物をする親子を描いた作品です。後ろには枇杷やサクランボが置かれた初夏の情景で、母親の帯は紫陽花、娘の紙入れは杜若をあしらっています。それに対して、着物の柄は母親は桔梗に撫子、娘は色付き始めた楓と、秋を感じさせる演出です。全体に緑色を効かせていて、母親のかんざし、指輪も翡翠です。娘の口は少し開いていて、母親との表情にわずかな違いを見せています。娘の方は、初めて見る芝居にすっかり心を奪われてしまったのか、ぽかんと口を開け、少し身を乗り出して一心に舞台を見つめているのでしょうか。この作品が描かれた時代の、絵画を購入するような比較的裕福な人々、太平洋戦争の焼け跡で貧富とか身分とかといった階層が崩壊してしまったであろうから、成金のような人々がお上品ぶって絵画を購入するようなニーズに巧く応えるような作品ではないかと思える。鏑木は、そういうマーケティング感覚に優れたひとであるだろうということが推測できるような作品だと思います。そういう意味で、上手いと思います。 第3章 小さく描く 清方は大正時代後半に「卓上芸術」を提唱しました。これは展覧会や床の間で見せる芸術とは異なり、卓上に広げて間近に鑑賞するような小さな画面の作品を指すものです。清方は画巻、画帖、色紙などに細部の表現を凝らして、即興的にかつ自在に筆を運んだ。そういう作品の展示です。 ここで展示されている作品はつまらなかったので、印象に残っていません。 |