生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。 |
2018年8月24日(金)東京ステーションギャラリー
ただ、この展覧会は、そういういわさきちひろについて、画家としての技術や作品を改めて見るという趣旨で、それが展覧会タイトルにあらわれている、ということで見に行きたいと思っていた。 その主催者のあいさつは明快なので引用します。“2018年、いわさきちひろ(1918~74)は生誕100年を迎えます。にじむ色彩で描かれた子どもたち、花々、そして大きく空けられた余白。絵本、挿絵、カレンダーなど、さまざまなメディアを通じてその絵は生活の隅々にまで浸透し、没後40年を超えてなお膨らみ続ける人気は今や世界に広がりつつあります。 一方で、その作品に関しては、「子ども、花、平和」などのモティーフ、あるいは「かわいい、やさしい、やわらかい」といった印象ばかりが注目されやすいようです。「いわさきちひろ、絵描きです。」――のちの伴侶と出会った際に自己紹介したちひろの言葉をタイトルに掲げる本展は、「絵描き」としてのちひろの技術や作品の背景を振り返る展覧会です。ちひろはどのような文化的座標に位置し、どのような技術を作品に凝らしたのか。新出の資料も交えた約200点の展示品を通じて作品の細部に迫り、童画家としてのちひろイメージの刷新を試みます。”しかし、最初にエレベータをおりたプロローグという一画はいわさきが使っていた手袋や帽子や持ち物が展示されていて、それに人が群がっていました。ここでちょっと落胆しました。話は脱線しますが、石原裕次郎の記念館とかデパートの浅田真央展とかいったような催しで、当人の持ち物とか衣装とか飾ってあるのを人々が喜んで見ているというのを聞いたことがありますが、そういうのか、私には何に価値があるのかわからず、石原裕次郎とか浅田真央というのは、スクリーンに映っている姿とか演技とか、あるいは競技場でスケートをしている姿に価値があるのであって、例えば衣装というのは、その演技の中で使われていて、当人の演技を引き立てているもので、そこから切り離したら、単なる布切れでしかなくて、そんなもの単独で見て何になるのか、それなら、その衣装を着て演技をしている映像をもっとよく見た方が、ずっとましなのではないか、思うのです。そういう、場所ふさぎというのか、時間の無駄のような展示はスルーして、ちょっと悪い予感がしました。帽子や手袋なら、そういうものが売っている店に行って、似たようなものを見てくればいいだけではないかと思います。どうして、そんな当たり前のことに気がつかないのでしょうか。脱線ついでに、オタクとかコレクターという人々が作品を直に手にとってみたいという気持ちは理解できますが、それ以外のグッズを手に入れようと躍起になっていて、その成果を自慢げに見せようとする、例えばスターウォーズの映画が好きだという人がそのフィギュアを沢山集めてレア物とかを自慢している、それと映画と何の関係があるのか、私には意味不明なのです。 いわさき(一般的には、この作家を呼ぶ場合には“いわさきちひろ”とか“ちひろ”といった呼び方をするようですが、それがとくに商標となっているわけ(例えば“雪舟”というような場合)ではないので、私の通例、例えば、画家を指す場合には、“モネ”とか“ルーベンス”といったようにラストネームで呼んでいるので、それに統一させたほうが混乱しないので、この作家も呼び方もラストネームの“いわさき”としています)の作品は、そういう扱い方をされやすい傾向にあると思います。そうでなくて、作品そのものを見ようというのが、この展覧会の趣旨ではないか。私は誤解しているのでしょうか。 Ⅰ.私の娘時代はずっと戦争のなかでした
Ⅱ.働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい 第二次世界大戦に敗戦したなかで、いわさきは、日本共産党入党したり、上京して、新聞記者として活動する傍らで丸木位里・丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエを訪れて技法を学んだといいます。その影響なのか分かりません。 「ほおづえをつく男」(左図)という素描です。これをひと目でいわさきの作品と分かる人はいないのではないか。鉛筆を紙に押し付けるようにして力を込めた強く太い線で描かれています。線には力の入り抜きが、まるで書道の筆の勢いのような明確に表われていて、そこに画家の強い意志が繁栄しているように見えます。それゆえに、力強い線が明確すぎるほどに輪郭を主張しています。陰影のつけ方も後年のぼかしのようなことはせずに、線を引いて明確な影をつけています。ただ、画面全部を描ききる、つまり、画面をひとつの関係した世界として、その世界を完璧に作り上げるという これも素描ですが「長男・猛」(右図)という、さっと描いたのでしょうが、実は巧いひとであったのが分かります。それが分かって、「ほおづえをつく男」を見直すと、意図的に歪めて描いているということが分かります。いわさきという画家の方向性は、だから、何か伝えたいことがあって、そのために画面をつくっていく、それが写実ということから離れても気にしない、そういう志向性の人であったのが分かります。もしかしたら、そういう姿勢を丸木夫妻から吸収したのかもしれません。
また、この時期に紙芝居の挿絵も手がけていて、そのための習作として「死神を追いかける母親」(右図)という作品。まあ、いろいろ試しているんですね。この他にも、広告の挿絵など、後年では考えられないような仕事をやっています。 Ⅲ.私は、豹変しながらいろいろとあくせくします
いわさきは、同じようなものを対象として作品を描いていたわけですが、その描くたびに様々な描き方のバリエィションを試みます。鉛筆、パステル、インク、墨、水彩などなど。その手法の特徴を活用して、かつ印刷されることを前提に、印刷された際に、その効果が最大限になるように考え抜かれていたと言います。そこで「線」です。60年代半ばのころの水彩は、彩色もしっかりしていて、子どもたちの輪郭や細部も明瞭に描かれています。それから徐々に余白を多く残して、その余韻を効果的に使う画面構成を獲得していきます。そこで活きるのが線です。鉛筆の強弱やかすれ、パステルの線の太さや力 「あごに手を置く少女」(左図)というパステル画。典型的な、この人の少女像という印象なのですが、シンプルすぎるというのか、必要最低限などと言いますが、例えば、Ⅱのコーナーで見た「ほおづえをつく男」と比べて見てください。同じポーズの人物を描いているのに、「あごに手を置く少女」で引かれている線は「ほおづえをつく男」の1割にも満たないのではないか。例えば、少女の顔の下半分は輪郭が省略されています。「あごに手を置く少女」のあごが省略されているんです。手にしても指らしきものが一部だけ描かれている。最低限にも満たない線です。それでも、見る者に顔を想像させてしまう。その見事さ。そして、その数少ない線が、それぞれ皆違う線になっている。それだけ、一本の線に集中しているのでしょう。おそらく、こんな芸当のできる画家はいわさき以外にいないのではないか。「帽子の少女」(右図)は少しだけ線が増えますが、それだって超シンプル。
1967年の赤ちゃんをペンでスケッチした小さな作品が4つありましたが、まさに赤ちゃんが何ヶ月目かも描き分けるという説明も分かる。それだけすごい。しかも、ペンの線は、ここまで削るかというほどに極限まで省略されていて、さっと走り書きのように、さりげなく描かれているのです。
これらを見ていてると、まるで企業の新製品開発秘話を聞いているかのようです。たとえば、トイレで詰まることのないトイレットペーパーは水に融けやすい方がいい、しかし、あまり融けやすいと本来の用を為さない。その二律背反を克服するために、適度な融けやすさを求めて、様々な柔らかさのペーパーの試作を繰り返し、適度な融けやすさを探していく。いわさきの画面つくりの作業に、とても似ていると思います。その似ている点は、プロセスだけではなくて、おそらく、そのようなプロセスが可能となるというところも似ているのだと思います。というのも、トイレットペーパーの適度な融けやすさを追求するということは、トイレットペーパーというのはこういうものだという基本設定があって、そ アンデルセンの『絵のない絵本』のための描いたものから「墓地に腰をおろす道化」(右図)です。いわさきが、いつものパターンのキャラクター以外のものについても、鉛筆と墨だけのモノクロームの画像で、この人のデッサン力が尋常でないことを示しています。
『あめのひのおるすばん』という絵本の中から「子犬と雨の日と子どもたち」(左図)という作品です。雨の様子が、赤、青、黄、紫のグラデーションの縦の帯で表わされていて、しっとりとした空気までも描き出されているように感じられる淡い色彩の中で中央の少女の長靴と傘の柄、そして遠景の屋根の赤がアクセントになっています。輪郭線は消えてしまい、色の区分だけで表現される対象に、水のヴェールをかけたように色 「窓ガラスに絵をかく少女」(右図)では、少女と窓ガラスの部分を別々に描いて、あとで編集作業のプロセスで。それぞれの絵をトリミングして同じ絵本のページにさせてしまっています。ここでのいわさきは、たんに絵を描くだけの画家にとどまらず、絵本の紙面をまとめるために編集作業を行っています。もと現代にいわさきが生きていれば、絵を描いて、それをスキャナーで取り込んでコンピュータ上で、それを操作してデザインナーのようなことをやってしまうのではないかと想像できます。 「海とふたりの子ども」(左下図)という作品も、すごいという言いようがない作品です。青の水彩絵具のグラデーションににじみやぼかしを加えただけで、海の波や青空を表現してしまっています。しかも、水平線のようなはっきりとした線を一切使っていません。それでいて、海と空は見分けられてしまうのです。「海辺を走る少女と子犬」(右下図)もそうです。 全体として、最初の展示に閉口したのと、夏休みの子供向けなのか展示室にカーペットを敷いて寝転がって絵本を見られるようにしたり、と私のような頑迷固陋な人間からは邪魔くさいところがありましたが、この作家のテクニックには、そんなものを吹き飛ばしてしまう凄みがありました。 |