生誕150年 池上秀畝─高精細画人
 

2024年3月26日 練馬区立美術館

年度内に一定数以上の有給休暇を消化するようにと会社から言われ、最低数の休暇取得のため、慌ただしくも休暇をとることになった。とくに予定もなく、朝寝坊をし、天気は雨だし、一日寝て過ごそうと思ったが、折角の機会だからと、インターネットで開催中の展覧会を調べて、面白そうなものを見に行くことにした。

結構雨も強いし、展覧会の会期初めでもあるし、会場は比較的すいていた。といっても閑散としているわけでもなく、会場に他人がいることで緊張感があるという、私にはちょうど良いくらいの状態。

私は、池上秀畝という画家については何も知らないので、主催者の挨拶を紹介がてら引用します。“池上秀畝(1874〜1944)は、長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に生まれ、明治22年(1889)、本格的に絵を学ぶため上京。当時まだ無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となります。大正5年(1916)から3年連続で文展特選を受賞。また、帝展で無鑑査、審査員を務めるなど官展内の旧派を代表する画家として活躍しました。同じく長野県出身で同い年の菱田春草(1874〜1911)らが牽引した「新派」の日本画に比べ、秀畝らの「旧派」と呼ばれる作品は近年展覧会等で取り上げられることは少なく、その知名度は限られたものに過ぎませんでした。しかし、伝統に基づく旧派の画家たちは、会場芸術として当時の展覧会で評価されたことのみならず、屏風や建具に描かれた作品は屋敷や御殿を飾る装飾芸術として認められていました。特に秀畝は徹底した写生に基づく描写に、新派の画家たちが取り組んだ空気感の表現なども取り入れ、伝統に固執しない日本画表現を見せています。本展は生誕150年にあたり、秀畝の人生と代表作をたどり、画歴の検証を行うと共に、あらたなる視点で「旧派」と呼ばれた画家にスポットを当てる展覧会です。”

展示作品は5章に章立てされ、展示リストには番号が振られていますが、会場の展示は、必ずしも、その順番に従っているわけではなく、スペースの都合なのか、モチーフやテーマの関連で並べられたのか分かりませんが、その展示の意図を考えだけでも面白く、いつも展示リスト片手に展示を追いかける私としては、一つの作品を見て、次の作品に移ると、「こんなこともやっているんだ!」と驚くことも少なくないという、手に汗握るといったに大袈裟ですが、面白い展示でした。それに加えて、展示作品に付加されている作品説明にタイトルづけがしてあって、例えば「爽やかなペパーミントグリーンの風」とか「七面鳥ってなんかキモカワ」といったキャッチーなものがあったりして、普段は見ないことが多い説明文を、今回は、作品とともに追いかけていました。これらのことから、美術館の人々の力が入っている思い入れが分かるようで、そういうのを感じさせられることもあって、充実感の高い楽しい展示だったと思います。個々の作品の感想は、章立てを尊重しつつ、展示されたものを見た順に書いて行こうと思います。

プロローグ 池上秀畝と菱田春草─日本画の旧派と新派

会場は美術館の1階と2階に分かれて、1階の展示室では、このプロローグ、第1章、第2章の展示にあてられていましたが、スペースの制約があって、屏風をはじめとした大作のいくつかで展示室がいっぱいになってしまうようで、各章の説明のパネルは大作の展示の隙間に挿入されているような、展示作品に番号が振ってあっても、その番号が33→1→3→5→69→17というように飛び飛びで、順路とか関係なくなっている。それで結果として、ひとつひとつの作品に、それぞれ向き合うことになる。そういう展示でした。これって、ひとつひとつの作品に驚いてほしいという展示側の意図なのでしょうか。この展覧会は、そう勘繰りたくなるような、美術館の人々の思い入れが随所に感じられるような展覧会だったと思います。

さて、主催者あいさつにあるように、同郷、同い年ながら、秀畝は長野県の商家出身で、画家の家系に生まれ、15歳で荒木寛畝に師事したのに対して、春草は飯田藩士の家系で、15歳で上京し東京美術学校に入学。二人はそれぞれ徒弟制度と学校制度という異なる教育を受け、秀畝は旧派、春草は新派の日本画家として成長した、と対照的な存在に映ります。その二人の作品が並べられて展示されていました。ただし、これって、単に並べただけではないの?作品に並べた意味があるの?両作品の共通性?関連性?対照性?まあ、それぞれの作品はよかったので、そういうことでしょう。

「秋晴(秋色)」という作品です。並べて展示されているのは菱田春草の「伏姫(常磐津)」という作品です。春草の「伏姫」は『里見八犬伝』という物語の人物を描いたのに対して、秀畝の「秋晴」で描かれているのは市井の人物です。おそらく、秀畝は実際に機織りをしている人をスケッチしているのでしょう。この機織りをしている女性の描かれているのをみると、旧派という伝統的というニュアンスとは違った印象を受けます。図式的でないのです。後の美人画のような図式化をより進めた記号のような人物ではなく、現実感があり、動きがある。後ろ姿で顔が見えていないからかもしれません。横に展示されている春草の作品の方が古色蒼然としているのです。しかも、画面は遠近法的です。ただし、画面全体の構成が現実にはありえない、いわばご都合主義的に並べられているので、現実感は無いのですが。春草の作品が朦朧体で霧のなかに人がいるようなうすぼんやりしているのに対して、輪郭をはっきりと線で区切られて、それが画面全体の細部にまで及んでいます。そういう明確さは、秀畝の特徴ではないかと思いました。

これに対して菱田春草の「伏姫(常磐津)」は、想像上の人物である伏姫が画面中央に描かれていて、画面のほとんどが木、湖面などの自然物で覆われており、画面の大きさに対して人物が小さく配置されています。しかも、彼女は平面的で図式的ですらあり、存在感が稀薄です。輪郭線は薄く描かれ、湖面に映る姿は曖昧に描かれています。画面のほとんどを占める木などの輪郭線も曖昧に描かれて、モチーフが画面上部に集中していて、不安定な構図になっています。それが、薄ぼんやりしていることもあって、伏姫という存在の儚さ、幻想性を際立たせています。秀畝の作品が現実の風景を物語絵巻のようにご都合主義的な画面にしているのに対して、春草の作品は物語の場面を現実の風景のように描いています。そういうところは対照的かもしれませんが、これは新派と旧派というよりも、二人の画家の資質の違いではないかと思います。

第1章 「国山」から「秀畝」へ

少年期から「國山」と号して絵を描き始めた秀畝は、15歳で上京し荒木寛畝に師事、明治23年頃から「秀畝」と名乗ります。寛畝から写生の重要性を学び、その影響は秀畝の作品に深く根付いているといいます。

先程の「秋晴」「伏姫」のとなりに荒木寛畝の「狸図」がありました。荒木寛畝は秀畝が15歳の時に弟子入りした師匠です。この人は、狩野派の伝統を受け継ぐ絵師でもあるが、西洋絵画も学んだ人でもあるということです。そういうことで、この作品は油彩画です。それで、会場のなかで違和感アリアリです。場違いで、何でこんな絵があるのかと戸惑うほどです。この作品の狸は、一般的な日本画で描かれている愛らしい姿と違って、生々しいケモノです。陰影による立体感があるし、背景の空間もしっかりしています。全体に明るく、派手な色彩の作品が並んでいる中で、重く暗い色調で異彩を放っています。でも、これは参考として、このような師匠から、秀畝は西洋画の要素、例えば解剖学的な人体把握、遠近法的な空間描写など、を学んだということを示していると思います。あと、絵画ならなんでも、という好奇心の旺盛さを荒木から秀畝はしっかり受け継いでいると思います。

池上秀畝にもどって「日蓮上人避難之図」は、順番ではなく、会場では対角線の反対側に展示されていました。日蓮は、鎌倉の松葉ヶ谷に草庵を結び、精力的に布教活動を展開していたが、焼打ちに遭う。そこで、彼の命を救ったのが、日蓮がかつて修行した比叡山の山王権現の白猿たった。その白猿の案内で、日蓮は草庵のあった松葉ヶ谷から、名越の尾根伝いに逗子の「法性寺」の裏山の岩窟に逃れることができたということです。そういう日蓮の伝記の場面を描いた作品です。伝統的な物語絵巻のようではなく、まるで映画の一場面を切り取ったかのような躍動感に満ちています。しかし、日蓮の目線の画面右下に向けられた先には松の葉越しに遠く赤い炎が上がっているのが窺え、草庵が焼かれていることを示しています。心配そうに振り返る日蓮に対して左下の白猿は袖を引っ張り、右下の猿は後押しするように、退避を促しています。それぞれのポーズは計算されたものではあるのでしょうが、その姿態に躍動感があります。しかも、白猿の白くて分かりにくいかもしれませんが毛並まで細かく描き込まれていて、その緻密さは驚くほどです。猿だけでなく、松ノ木は割れた幹の皮や針のような葉まで細かく描き込まれています。その描き込みの凄さ!画面すべてが明解に描き込まれていて、まるで、全画面にピントがあったパンフォーカスの映画の場面を見ているようです。おそらく、秀畝という画家は描かずにはいられない人なのだろうと思います。余白とか余韻などといっている暇があったら、筆をとって余白を埋めるように描き込んでしまうひとなのだろうと思います。それが、いわゆる新派の近代日本画の西洋に対して日本的な「間」とか余韻を強調したのとは異質な方向性だったことは、この作品や同じ部屋に展示されていた「四季花鳥」といった作品が端的に示していると思います。ちなみに、この作品の日蓮上人の目に星が描かれているということです。少女マンガみたい。

第2章 秀畝の精華─官展出品の代表作を中心に

秀畝は荒木寛畝主催の展覧会や旧派の公募展で実力をつけ、文展で横山大観や菱田春草といった新派の画家たちと競いました。とくに、第10回から12回の文展で3年連続特選を受賞する快挙を成し遂げ、画壇の大家、人気画家となっていきます。展示のメインとなる作品はここでしょう。

「四季花鳥」という4枚1組の大作です。これはインパクトが大きかったです。画面が大きかったのと、明るく派手で、鮮やかな色彩の洪水という感じです。しかも、その大きな画面を埋め尽くすように描き込まれていて、その描き込みが高精細というほど細かいのです。それぞれで競うように咲き誇る数々の花や埋め尽くすように生い茂る葉や茎や枝。不思議なのは「四季花鳥」といいながら、秋は紅葉の枯れを感じさせるものはなく、冬での葉が落ちたり枯れ木のような寂しいところは全く見られません。すべてにわたって生命感に溢れ、葉は青々とし、冬でも花が咲いています。伝統的な四季の形式的なパターンには当てはまりません。これが伝統を重んじる旧派の画家なのでしょうか。私は、ジャンルは異なりますがアンリ・ルソーの「夢」に代表されるジャングルを描いた作品を連想してしまいました。例えば、真ん中向かって右の「夏」を見ると、見上げるほどの大画面に、紫陽花や朝顔の濃淡の青が群れ、芭蕉の茎と葉が上昇していくように高揚感を生み出し、上方には石榴でしょうか真紅の花が散りばめられています。それぞれ植物が植物図鑑を思わせるほど鮮明かつ精妙に描かれているのです。また、左隣の「秋」はどうでしょうか。中心部の瘤をもつ屈曲した枝はゴツゴツした線で描かれて、この様子は狩野永徳の「檜図屏風」の屈曲した枝が伸びて画面全体を覆い尽くすようなのを自然科学的な客観性の高い描写でやり直しているかのようです。しかし、これだけ植物が大きく生き生きと描かれているのに対して、空間で飛んでいる鳥が相対的に不釣り合いなほど小さいとは思いませんか。

続いて「晴潭(紅葉谷川)」これも圧倒的。展示室で、「花鳥四季」とこの「晴潭紅葉谷川)」という鮮やかな大作が並んでいるのって想像できないかもしれません。「晴潭(紅葉谷川)」は六曲二双の屏風で、「四季花鳥」よりさらに大きい。全体として谷川沿いの紅葉の風景ですが、全体として明るく色彩が鮮やかです。とくに左側の下部の流れる川面は、伝統的な波模様が描かれ、流れのなかにある岩は水墨画の山水の岩のようなゴツゴツとした線で描かれていて、形式的に描き方とは思いますが、全体として少し離れて見ると、少しも形式的な感じがしません。そのひとつの理由として考えられているのが、3羽の鴨で、とくに中央で羽ばたいている鴨は不自然に頭が大きい感じがしますが、その不自然さが却って羽ばたいている躍動感を生んでいる印象で、リアルな印象を与えてくれるのです。また、右側の無数の紅葉した葉は、一枚一枚が違って描かれていて、それが生き生きと存在主張しているようで、それがリアル感と生命感の横溢を感じさせていると思います。

1階の展示室については、このくらいに留めておいて、2階に上がります。

第3章 秀畝と写生 師・寛畝の教え、“高精細画人”の礎

秀畝の写生帖やスケッチ画が数百点残されており、これらは師である寛畝によって重視された写生の習慣によるものだということで、寛畝は日常的に写生帖の提出を求め、秀畝は動物園や街中で多様な被写体を描いてその技術を磨いたそうです。

2階に上がると、壁一面にずらりとそのスケッチ画が並んでおり、壮観です。秀畝という人の印象を一言でいうとボリュームです。それは、大きさであり、さらに数です。なお、この人の場合はねそのボリュームに質が伴っているから圧倒されるのです。これらのスケッチ画をひとつひとつ追いかけていたら日が暮れてしまうし、そのなかから採り出すのも難しいので、ここではあえて触れません。そこで、展示室の向かい側にはスケッチ画以外の作品が並んでいました。

「暮雪」は第2章に属する作品です。絹本に着色された作品で、今まで見た大作に較べれば小品です。雪の積もった木に登る動物はテンというイタチの仲間で、黄褐色の体は冬毛の特徴なのだそうです。細かな毛並みや鋭い爪がリアルに描かれる一方、その表情はなんともユーモラスです。あまり、日本画では描かれない動物だと思います。秀畝は、様々な鳥や動物をスケッチしていますが、おそらくテンもどこかで見てスケッチしたのでしょう。そして、面白かったのは雪の描き方で、重いのです。この雪は重量感かあって存在感があるのです。こういう場合、雪景色が背景になって、白い世界で、それを演出しているのが雪というのではないのです。雪は白い背景ではなくて、少し絵の具が盛られているようで確固として存在感があります。白が背景で引っ込んでいなくて、鮮やかなのです。だから、この絵の主役は題名のとおり雪なのではないかと思います。

「歳寒三友」も第2章に属する作品で、「暮雪」と同じ季節、雪が印象的な作品です。「歳寒三友」という題名は、厳寒を共に耐え忍ぶ3種の植物を意味し、一般に松竹梅を指すということです。しかし、秀畝は本来「松」を描く所をあえて「椿」に差し替え、鮮烈な赤を画面のアクセントとしました。この作品の雪は、「暮雪」よりももっと存在感がある。胡粉を盛り上げた雪は、実際に触れそうなくらいリアルです。しかも重量感がある。その雪の鮮やかな白の下から木の幹の黒々としたのと、梅の花のピンクと椿の赤がとても印象的です。この人の描く冬は寒いとか、寂しいという感じがなく、鮮やかなのです。この人の特徴なのでしょう。この人は鄙びたとか、枯れるという性格の絵は性に合わないのでしょう。

「盛夏」も第2章に属する作品です。六曲一双の屏風は、先程見た「花鳥四季」の「夏」を横長の画面に拡大し置き換えたような内容です。真ん中に芭蕉の葉がデーンとあって、それを上から地面を見下ろすようにして、下の地面には紫陽花などの花が、芭蕉には朝顔のつるが巻き付いて、ところどころで青い花を咲かせていて、木には石榴の赤い花が咲いている。真ん中の鮮やかな緑の芭蕉を中心に、石榴の花の赤、そして紫陽花と朝顔の青が点描のように散りばめられている。さらに、その周囲を黒い鳥がアクセントをつけています。大胆な構図で、鮮やかな色彩が印象的です。日本画というよりグラフィックなイラストを見ているような気がします。

「桃に青鷺・松に白鷹」も第2章に属する。杉戸絵ということで、杉の戸の裏表に直接描かれているので、展示室の中央に置かれて、表と裏と両方から見ることができるようになっています。「桃に青鷺」に描かれているのは、最初は孔雀と思ったら、青鷺という鳥だそうで、東南アジアに分布する鳥で、一説によれば想像の鳥である鳳凰のモデルになったとも言われているそうです。そんな、あまり知られていない鳥を、多分、画題として一般的でないところ、どこで知って、スケッチできたのかと知りたくなります。その羽のひとつひとつが精緻に描かれています。杉の板目に負けていないのは、その鮮やかな色彩ゆえでしょうか。その裏面は「松に白鷹」で、白い鷹の白い羽の細かな描写を白の使い分けで描き切っている。

第4章 秀畝と屏風 画の本分

文展や帝展などの展覧会では、大型の掛軸や屏風が主流で、特に六曲一双の屏風は人気のアイテムでした。秀畝はこれらの展覧会用作品だけでなく、旧家や大家族向けにも多数の屏風を制作していたそうです。

ここで、別の部屋に移ります。廊下に椅子があって、そこで一休み。圧倒され続け、疲れました。ここで、スケッチ画のことを全く書いていないことに気がつきました。書き切れません。ここまできたら、いっそのことスルーことにします。

そして、新しく部屋に入って、目に入ったのは屏風ではなく掛け軸でした。「秋日和」、これも第2章に属する作品でした。この作品で描かれている鳥は七面鳥です。さきほどの青鷺といい、ここでの七面鳥といい、秀畝は好奇心が強いといいますか、従来にない題材にも果敢に挑戦するひとのようです。しかも、しっかり実際にスケッチして細かく描写している。伊藤若冲にも負けないですね。そして、縦長の画面は上に行くにしたがって遠方になるという遠近法で構成されているようです。この人の描き方は概して、空間が感じられるようで、平面的な印象の作品は、あまりありません。そんなところからも、旧派と称するのは適切ではないと思います。

「竹林に鷺図」は六曲二双の屏風です。この展示には屏風を座敷で鑑賞するかのような体験を提供するための工夫が施されていました。水墨画のような作品ですが、竹の葉が薄い緑で描かれていて、それが画面に清涼感を与えています。秀畝は色彩を作品から切り離すことがない人なのですね。

エピローグ 晩年の秀畝 衰えぬ創作意欲

「片時雨」という作品です。後景の黒い森や岸壁は朦朧体で描かれているようです。時雨でもやっている景色、新派とか旧派とか関係ないですね。この遠近感による空間の広がりと、前景の紅葉と、葉が散って舞っているのを細かく描いているのがクローズアップされていて、3匹の猿が点景としてアクセントとなっています。風景の中に入っていってしまいそうな作品です。

展示を通して見ると、池上秀畝という人は画家というよりは絵師と称した方が似つかわしいのではないかと思います。展覧会あいさつで対比的に取り上げられていた菱田春草と比べると、春草は画家というとイメージが掴みやすいでしょう。春草は新たな日本画を求めて試行錯誤をしながら自身の画風を確立していきました。彼の短い生涯を追いかけると、成長、成熟の過程が見えてきて、そのプロセスで画風が変化したりします。それに対して、秀畝の若い頃と晩年の作品を並べて見ても、画風はほぼ同じように見えます。一貫しているというか。ある意味、スタートの時点で、ある程度出来上がっていた。迷いがなかった・・・、というよりも、自身の画風云々といったことは、あまり考えなかった(といったら馬鹿みたいですが、そうではなく、却って春草方が頭でっかちで考えすぎではないかと思えてくるのです)のではないか。芸術とか、画風、個性とかを考えることよりも先に、筆を持つ手が動いてしまう、そんな風に見えるのです。秀畝は旧派に属する日本画家ということらしいのですが、それにしては、遠近法的な描き方をしていたりするし、花鳥風月のパターンによらず写実的なスケッチによって描いたりしています。また、一般的にいわれる日本画の特徴とされる画面に余白を残すことをあまりしていないように見えます。彼の作品は、西洋絵画的に見えるところがあります。それは、秀畝が鳥や花を見ていて、無意識のうちに筆をとって描いている、その結果、作品が描けてしまった、というように見えるのです。だから、余白をあまり残さずに細かく描き込まれている作品を見ていても、重苦しさのようなものは感じられないのです。西洋絵画は余白が残っていると未完成と見られるところがありますが、画家によっては余白恐怖症とでもいうような、画面を絵の具で塗り重ねる人もいて、例えばゴッホなんかがそうですが、そういう人の作品は重苦しいところがあります。そういうのを好きな人は深刻とか精神性などと称揚するのです。ところが、秀畝の作品には、見ていて楽しい、明るいのです。その理由のひとつに、鮮やかな色づかいがある。色を混ぜると鈍い色になり、重く暗い印象が強まります。秀畝は色を混ぜることをあまりしない。また、“高精細”とは、この展覧会で秀畝を評していますが、たしかに精密に描き込まれていますが、細かいという感じはしません。それは、秀畝の描く線が意外とゴツゴツしていて、しかも入りと出がはっきりしている。それによって、線が生きいきとした生命感(躍動感)がある。だから、精密な静止ではなく生きている。それは、頭でいろいろ考えるのではなく、身体感覚として手で描いているというものであると思います。春草の作品が、その当時は新しい日本画として時代をひらくものだったのに現代の今見ると古色蒼然と移るのにたいして、秀畝の作品は時代を感じさせず、今、古い感じがしないのは、そのためではないかと思います。

 
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