生誕100年船田玉樹展
─異端にして正統、孤高の画人生─
 

  

 2012年 8月17日(金) 練馬美術館

夏休み中ではあるけれど、都心のセミナーに出かけなければならない。幸い、セミナーは午後3時からなので、少し早めに家を出て、練馬美術館に寄ってみることにした。西武池袋線の中村橋という、都心から少し離れ、自宅からは距離があるため、なかなか出かけにくい場所で、敢えてそのために無理して出かけるのもどうか、しかも、この猛暑の中で、ということで、ちょうどよいついでとなったので出かけることにした。美術館は駅前の商店街の裏を抜けてすぐのところで、公園の中の静かな環境の中にあった。しかし、夏休みで子供向けのワークショップが開かれていて子供が走り回っているのと、節電の関係で近所の老人たちがロビーに涼みに来ているのとで、美術館にしては雑然としていて、なかなか落ち着いて作品に対峙することができなかった。また、なかなかペースが掴めない中、展示作品数が多いのと、各作品の密度が濃いので、全部観て回るのに時間が足りなくなって、最初にざっとみただけで時間が足りなくなってしまったのは、とても残念。とはいっても、濃厚でこってりした作品の数々に徐々に満腹感がつのっていったのも事実で、しかし、意外に食傷することはなかったけれど。

船田玉樹という画家については、私はよく知らないのでパンフレットの文章を引用します。

「船田玉樹と聞いて分かる人は、よほどの日本画通。と言うのも、後半生のほとんどを郷里広島に隠棲して中央画壇から遠ざかっていたからです。1912年、広島県呉市に生まれた玉樹は、最初は油画を学ぶために上京しますが、琳派の華麗な作品を見て感銘、すぐに日本画に転向します。最初の師は、かの天才日本画家、速水御舟でした。しかし、まもなく御舟が没したため小林古径に師事。そこで、まずは謹厳な線描と端麗な色彩を駆使した日本画表現を学んだ玉樹でしたが、その後、1938年からは岩橋英遠や丸木位里らと「歴程美術協会」を結成して、シュルレアリスムや抽象主義などを積極的に取り入れ、日本画を基礎にした前衛表現を戦中まで追求しました。いわゆる、日本画のアヴァン・ギャルドとして名を馳せたわけです。しかし、戦後は、郷里の広島にひきこもって創作を続け、岩絵具や墨のみならず油彩やガラス絵など様々な画材とひたすら向き合った作品を残しました。その作品は、御舟や古径の芸術の精髄を正統に受け継ぎ、精緻にして絢爛、端麗にして華美、そして豪胆そのものです。さらに驚くのは、60過ぎの時、クモ膜下出血に倒れ右半身が不自由となりながらも、右手で筆を持つことにこだわり、油彩による自画像を描く習練からやり直し、やがて大画面に樹木の枝を繊細な筆致で捉えた作品を描くまでになったのです。そして、1991年に78歳で亡くなるまで、その晩年にいたってますます豊かに華やかになっている、こんな画家は過去に若冲や鉄斎くらいではないでしょうか。」

ちょっと引用が長くなりました。美術館のパンフにしてはかなり持ち上げていますが、それだけキュレーターの思い入れがあるということでしょう。ここで紹介された経歴や展示されている作品をざっと見通すと、この紹介の文章の通りなのですが、意地悪く言えば、節操がないとも言えます。油絵を志し、琳派の作品を見てひょっと日本画に転向、正統的な日本画を学びながら流行の最先端に飛びつくという具合です。軽薄な奴といってもいでしょう。というよりも、船田本人はあっけらかんとしているのかもしれません。あまりスタイルにこだわると言う人ではないようです。それは後で紹介しますが、滝を連作で描いた作品群で、よくまあ、これだけと言えるほど様々な作風で描いています。しかし、それらに共通しているのは、画面全体にわたって、それこそ隅々まで描き切ってしまっているということです。ふつう、日本画というのは、画面の一部に描き込み大部分を余白にして、そこを見る人に想像させることをします。そこから、風情とかわびさびとか、いろいろな要素が生まれてくることになるわけです。しかし、船田の作品はそんな余白が全くありません。描線や彩色で画面全体が埋め尽くされている、そんな印象なのです。そこから感じられるのは、描いているのが楽しくてしょうがないというような意欲で、余白なんかもったいない、そんな余裕があれば描いてしまおう、とでも言うような描くことに対しての欲求の漲りがかんじられるのです。これは、理論とか理念というような頭で考えことではなくて、画家の本能的なものなのでしょう。だから、大画面に描線や色彩で埋め尽くされたものが見る者に迫ってきても、強迫されるようなものは皆無で、重苦しさとか感情的なもの、心理的なものは全くないのです。神経症的なものが多い近代以降の芸術というもの(があったとして)、これほど爽やかといっていいのは珍しいのかもしれないと思いました。つい、数日前に現代作家の安藤正子(右図)の展覧会を見てきましたが、彼女の理論云々ではなくて、自己の感じたままに従って描くタイプの作家に見えましたが、船田ほど楽天的に徹底できなくて、どこかで考えている目線を感じさせられ、これでいいのかと自問するような留保がどこかにあるような感じがしました。それが、彼女独特の抑制された画面を形づくっているかもしれませんが。船田とは時代が違うといわれればそれまでですが、人物の破天荒さのスケールが違うかもしれません。きっとこの人は、周囲の人を振り回し、かなり迷惑をかけたのではないかと思います。しかし、当人はそれに気づいていないというような人だったように想像してしまいます。

そういう意味では、展覧会ではいくつかの時期を画して、スタイルの変遷などを追っていますが、表面的なスタイルは変わっても、首尾一貫してぶれることはなかった画家だと思います。 


第1章 画業のはじまり

船田が画業に入ってから戦後までの作品が展示されていましたが、はっきりいって習作というのか、いわゆる日本画らしい日本画は、私にはちっとも面白くないです。日本画をよく知らないので、船田の師匠として紹介された御舟も古径のよく見たことがないので、2人の作品の違いもよく分かりません。だから、利休だか誰だかの人物画は下手なデッサンの塗り絵みたいだ、何か借りてきた猫のようでした。それは、その後の「花の夕」を見てしまってからいえることなのでしょうが。そこで感じるのは、“らしく”描けないというのでしょうか。どんどん筆が動いて行ってしまうのを、かろうじて抑えているという感じがします。

古径は繊細な線が特徴だそうですが、この「花の夕」(左図)を見ていて、繊細な線があるでしょうか。樹木の幹にしろ、枝にしろ、むしろ骨太で、陰影とか立体感とか、遠近とか、あまり気にせず一気に引いてしまったというような力強さです。幹の下の方は、陰になっているということからか真っ黒な太い線です。でも、花が咲いているだけなら、そんなに陰になるはずはないので、画家がそのように線を引きたかったとしか思えません。そして、花です。何の花か分らない。というよりも、本当に花なのだろうか。一応の日本画の屏風で、木の幹が線で引かれていて、そこに紅色の丸がボタっとあれば、花と思うでしょう。それで花だということで見ています。でも幹に比べると不自然に大きい、では果実かというと、そんなに沢山ついているのはおかしい。そもそも、花とはいっても、花弁が描かれといるわけでもなく、ただボタっと紅色の絵の具が丸く塗られているだけ。それが、画面を覆い尽くすようにボタっ、ボタっと無数にある。紅が朱にと多少の色分けされているけれど、この原色のような鮮やかさ、一緒に展示されていた御舟や古径の作品と比べるとショッキングなほど刺激的に目に跳び込んできます。見る人によっては紅梅だ(ところどころに白の塊もある)とか桃の花だと言う人もいるようですが、抽象化された花という見方もあるようですが、あまり面倒なことを考えずに、紅い塊の塗りの迫力に素直に圧倒されていたいと思います。私には、画家が嬉々として紅い絵の具で画面を埋めていく様子がなんとなく想像できてしまうのです。実際、後年には、こんなものではない程、もっと徹底して画面を埋め尽くすような作品がどんどん出てきます。このころは、未だ全部出し切っていなかったのではないかと思います。

「花の夕」ですが、画像では目立たないのですが、真ん中右手に白い大きな丸が描かれています。多分、月なのでしょうが、樹の幹の前に出てきているという不思議な構図になってます。こんどは、その上に花の紅いボッチが置かれていて、その対照が、幹の黒、月の白に対して花の紅が一際目に強調されていて、そういう目で見ると、下半分の余白と、上半分の紅いボッチで埋め尽くされた部分の対照が絶妙で、おそらく、そのために後年の作品のように、見る者を疲れさせてしまうことから免れているのだと思います。

同時に、歴程美術協会で一緒だった丸木位里らの作品も比較のために展示されていますが、似たような大作で画面を塗り固めるような作風ですが、どこか重苦しい、硬い感じが強いします。これは船田の作品からは、ほとんど感じられないものです。

1941年の「紅葉」(右上図)も下半分の、紅葉というよりは紅い靄、というよりは紅の絵の具をとにかく塗りたかったかのような、風景が赤のグラデーションだけで描かれているのは、圧巻です。上半分の山の風景(もしかしたら家の屋根?)が、かろうじて日本画らしさを取り繕っている感じですが、焦点は全体の3分2を占める下の紅い世界です。赤一色の世界で赤のグラデーションで木々や紅葉の葉っぱの様子が描き分けられています。画像はありませんが、並んで展示されていた「夜雨」は夜のお堂に降る雨を黒一面の画面で黒のグラデーションで描き切っています。

大作「大王松」は、果たして松の画なのかどうかわからないくらいに、松葉の緑の線が縦横無尽に引かれ、その快感に翻弄されるような作品。

戦後に描かれた「暁のレモン園」(右下図)は夜明け前の暗がりの中で、レモンの黄色がまるで灯かりのように光っているように見える。全体の闇が立ち込めるように群青のような濃い青のグラデーションでレモンの葉や茎が描き分けられています。この作品はレモンの黄色というアクセントがありますが、「紅葉」は紅で、「夜雨」は黒で、それぞれ画面全部を塗りきってしまう、そしてその塗りきった色のグラデーションを用いて、内容を表現しているとても印象深い作品です。これらの作品を見ていると微妙な色彩の塗り分けに、単に大胆とか力強いだけではない、繊細なセンスも持ち合わせているのが、わかります。しかし、それが繊細だけで終わらず、大胆な画面の中で隠し味のように活かされているを見ると、この画家の力量の奥深さが分かるような気がします。

船田の作品を見た私の印象は、全く作風も違うのですが、ヴァン=ゴッホを想ってしまうのです。とくに、この「暁のレモン園」は色調が似ているので、有名なゴッホの「ローヌ川の星月夜」(下図)という作品を想ってします。たんなる一個人の独断的な主観によるのですが、思わず画面を厚く塗ってしまいながら、重苦しいとかそういうことは感じずに、純粋に絵とか色彩の力強さが伝わってくる、デッサンは下手な所も似ているし、それよりも画家の本能的とでもいうような頭で構成するとか、コンセプトを考えるというのがなくて、筆が自然と進んで行ってしまったら、こんなものが出来てしまったというような感じが、何かとてもよく似ているような気がしました。ゴッホのそうですが、船田玉樹という人も生涯やエピソードからものがたりがふくらんで誤解を受けやすい気がします。今回の展覧会のコピー文言も、下手をすると誤解を招くかもしれないことに、多少の危惧を感じないでもないではありません。私は、この画家の実際の人を知らないので。無責任なことは言えないのですが、あまりものがたりをつくる必要はないのではないか、例えば孤高の画家、とかいうような、そんな気がします。実際には、そうやって売れないと困るのでしょうが。 

 

第2章 新たな出発



戦後船田は故郷である広島に帰り、そこに居を構え、中央画壇とは距離を置きながら自由に制作をしていきます。

基本的に、この人はデッサンというのか器用なことは苦手なのかというほど、上手くないので、風景のなかで建築物のようなきちんと描かないとサマにならないものは下手です。「雪の九品仏」(右図)という作品は院展で入選したそうですが、ちっとも面白くないお絵かきにしか見えません。しかし、画面を白絵具で塗り潰そうという面はいいのですが、お堂がサマになっていないので魅力半減です。似たような題材なら「雪の灯ともし頃」(左図)と言う作品では、建物をうまく省略して、雪の積もった屋根を中心にすることで、白のグラデーション効果を生かした作品になっています。

その後、院展などからも遠ざかって広島に引きこもってしまったようです。さて、前回、この画家について過度のものがたり化を避ける旨を書きました。そのことについて、この展覧会の出品リストを見てみると、この時期以降の作品は大部分の所蔵先が空白になっています。つまりは、作品としては売れていないということです。広島県立美術館などいくつかの美術館で所蔵されていますが、それでこの人は画家として生計が立ったのでしょうか。そうだとすると、この人はプロなのか。誰のために画を描いているのか、ということが切実さをもって画を描いていたのか。疑問に思われるところがあるからです。そうでなければ、こうしてわざわざ作品を見に来ている私は何なのかということになるわけです。他人に見せることを、最初から考えないで自分のためだけに画を描くというのを、否定するものではありません。しかし、そういう人はアマチュア、いうなれば素人です。中には、その中でも天才が現れることもあるでしょうが。プロの画家として画を描くということは、その作品を見てもらえること、見てもらえる人のために描くというのが前提ではないかと思います。それがあって初めて、その作品に金を払ってもらって、その対価で生活していくのが本筋のはずですから。そういう姿勢が、ないものは単なる独りよがり、あるいは才能の排泄物となんら変わりはないはずです。“孤高の”というような大仰な形容詞のついた展覧会ポスターに対して、警戒感を抱いてしまったのは、そういう理由です。

船田の戦後の作品として展示されたものを見ていると、例えばサイズの巨大なものが多く、しかもたいへんな迫力のもので、これをいったい何処に飾るのか、ということを画家本人は考えたことがあるのか、と疑問に思いました。まして、解説のところで院展から大きい作品ばかりということに反発して院展から離れてしまった、というエピソードを読んで、誤解を誘うものではないかと、思いました。多分、画家本人は、あんまりそういう細かなことは考えない大らかな人ではないかと思います。周囲が孤高とか、そういうことを煽っていたのではないかとも思います。もちろん、私がここで書いていることが絶対的に正しいということではありません。船田の作品から感じられる大胆さとか、力強さという面には、大変魅力を感じることには吝かではないのですが、彼にとって、他者というものが見えていたのか。価値というのは相対的で、人と人との関係から徐々に固まってくるものと、私は思っています。例えば商品の価格は市場で交換されるときに、どのようなものとどのくらい交換されるかということで、売る人と買う人が合意して初めて決まるものです。誰かが一方的に決めて、それで通るというものではないと思っています。船田の作品を見ていると、作品の価値は船田が絶対的に決めているという印象を拭いきれません。(もっとも、いわゆる芸術作品はそういうところが、たいていは少なからずあるものです)作品を売らなくても裕福な家で食べて行けたのか、教師とか別の職業で生活していたのか。それは分かりませんが、日本の近代以降のメジャーな画家たちには、一部を除いてそういう切迫感が感じられず、船田も例外ではないということでしょうか。仮に、現代の作家ならば、村上隆が芸術起業論で明らかにしているような、新しいユニークなことをしている場合ならば、このコンセプトを人々に理解してもらうために最善を尽くし、その結果として作品を人々に見てもらえることになるということを自覚して、そのための努力を惜しまないということになるでしょう。解説などを一通り読んでみても、船田にそういう努力をした形跡は見えません。ただし、これは商業主義とは、また別のことです。

しかし、そのようなことがあっても、自らの才能の赴くままに線が縦横に伸び、絵の具が塗り重ねられていった様を見るのは、楽しいことに違いありません。閉塞状態というと語弊があるかもしれませんが、こんなにもエネルギッシュで、伸び伸びとした、描く喜びが伝わってくるようなものを見ると、それはそれでポジティブな姿勢になれるのは確かです。

例えば「臥龍梅」(左下図)という作品の大胆としか言いようのない梅の幹や枝の描き方。安土桃山時代の狩野永徳の襖絵を彷彿とさせるような豪壮で力強い描線は、まるで墨が暴れ回っているかのようで、江戸期や明治の日本画が洗練を極めて行った一方で無くしていった奔放さで、見る者を圧倒してきます。

また、竹林を描いた作品は1本の竹の図案を画面いっぱいに描いて、まるで画面の竹が増殖しているような印象さえ受けるしまう位、その量に圧倒されます。一般的な日本画の竹林の風情とは全く別の、そこまで無数の竹がこちらに迫ってくるような数で圧倒され、だんだん竹林ではなく抽象的な図に見えてきてしまうのです。

滝をさまざまな季節にさまざまに描いた作品群(展覧会では画像のように滝の画をまとめてひとつの壁面に飾っていました)あるものは、キュビスムのような描き方だったり、以前によく試みていた一色のグラデーションで描き切ってしまったり、厚く絵の具を塗り重ねた立体感溢れるものだったりと、まあ、よくもこれほどと感心するほど豊かな作品のバリエーションなのです。悪意で言えば節操がないほどです。特定のスタイルとか理念とかに凝り固まっていると、こういうことは出来ないだろうと思います。これはひとえに、ひとつの滝を様々に見えてしまう、画家の豊かさがそのまま作品として結実しているものではないかと思わせるものです。 


 第3章 水墨の探求

前回の最後のところで見た「滝」をめぐる様々な作品が、私には船田の創作のピークではないか思えてしかたがないのです。もともと、線を引いたり、色を塗り重ねたりすることが楽しくてたまらない人が、日本画とか西洋画とか、きまりとか、゜なんかという描くということに派生して重要なことと思われてしまっていることを、それに反抗するでもなく、意識するというのでもなく、何にも考えず、手の赴くままに筆が走ってしまった結果、沢山の線や色を重ねたのに出来上がったのは単純化された画面でした。しかし、よくよく凝視してみると、そこには驚くほど沢山で様々な線や色の重なりが小さな綾を無数に、しかも何層にもわたってつくっており、その深みにはまると、抜け出せないような複雑さが隠されています。大袈裟な比喩かもしれませんが、地表の谷となって水が流れているところは、その地下に何層もの太古からの地層が積み重なって、しかも谷をつくるような地殻の動きがあったということは、底の奥深くにはマグマが蠢いているわけで、そういう地下深くまで掘り下げ、地球の根源的なマグマの一端まで迫っているのではないか、と思わせるような、見る者を掴んで離さないものがあります。

しかし、その反面、このような世界は広く間口が開かれたといは思えません。前回も書きましたように、この画家には他人に描いた作品を見てもらうということが頭の片隅にあったのか、あったとしたら、それはかなり限定された人のことしか頭になかったのではないかと、思わせるところがあります。端的に言えば、取っ付きにくい。ましてや、日本画という世界は、言うなれば限られた人々の中で、定型的なやり取りが形式化されているような世界に見えます。大きく言えば、この国の絵画鑑賞も同じようなものですが。そのなかで、こういう作品を誰が見るのかということです。そういう配慮がない、よく言えばナイーブな行為も、現代では独りよがりと突き放されてしまう可能性が極めて高い。もっとも、個人に独立した内面とか才能とかがあって、その赴くままに行動する奔放な天才芸術家というような芸術家の捉え方は、近代市民社会の極めて限定された時期に、限定された地域でのみ仮初に生きていたことでしかなく、船田はそのようなあり方をあえて突き進んだ誤解野郎と言えるかもしれません。

しかし、このピークを過ぎ、くも膜下出血で倒れてもなお、筆をとろうという執念には、伝記的事実としては関心しますが、それを物語として、消費者に押し付けるようなところは、作品の価値とは別物ではないかという反発も起きるのです。ただ、執拗な描き込みに、「これでもか、これでもか」と迫ってくるような迫力は、たしかに一部の作品では感じられ、そういうすばらしい作品を貶めるつもりはありません。水墨画に関しては、今言ったような竹1本1本を際限なく描き込んで、画面を埋め尽くすような、まるで1本1本の竹が画面を浸食するような迫力を感じさせれるものはべつとして、もともと、沢山の色を重ねて、重ねて絵の具の層が分厚くなってしまって、様々な色が混ざった結果、黒っぽくなってしまったというのが、これまでの船田の作品だったと思います。だから、その黒は豊かなヴァリエイションと多様さを秘めたものだったと思います。これに対する水墨画の黒はそういう色の要素を削ぎ落とした無彩色の黒で、それまでの船田の行き方と正反対の方向性です。そういうことで、画面の構成とか題材とかが大きく変わったかというと変わっているようには見えない。なかには、竹林や松、枝垂桜のような、黒の線とか、濃淡を分けた線を重ねることで迫力を産み出していますが、それ以外は、お稽古のような感想しか出てきませんでした。

この回顧展を見て感激したという方が、このような文章を読まれると不愉快に感じられるかもしれませんが、素晴らしい作品は素晴らしいです。しかし、全部がすばらしいとは言えない。この回顧展の展示を見ていると、とくに2階の展示からは、船田の伝記的事実からものがたりを紡ぎ出して、それをバイアスに展示品を見るように仕向けられている、何となく押し付けがましさを感じ、そういうものを削ぎ落として作品に接したいため、こういう書き方になってしまっていると弁解させてほしいと思います。そういうように、作品と向き合うことを見る者に強いるようなものが船田の作品には、あると思うゆえです。 


第4章 孤高の画境へ 

大病に倒れ、身体が不自由な状態となって、リハビリしながら画業を再開したというのは、たしかに、伝記的事実として鬼気迫るものがあります。だからと言って、そういう不自由な状態で描いた作品が素晴らしいかというと、それはまた別のことです。(何か、こういう書き方は船田に対して悪意があるように誤解されると困るのですが)展覧会の展示では、その辺りの区別がはっきり意識されていないため、孤高の巨匠が不自由な身体のなかで描いた執念の作品というゆうような観方をどうしてもしてしまう。この船田という人の作品には、どうしてかそういう“ものがたり”を付随させてしまう何かがあると思います。それを、そういうものとして作品を楽しむための、言うなれば、アクセサリーのようにして楽しめばいいのでしょうが、制作している画家もそのことは意識的にされていなかったと思います。例えば、現代の松井冬子のように、絵画そのものというよりも、そこにいかに付加価値を加えていくかということが意識的に行われ、見る私たちは、そういうオマケが追加されていくのを楽しむことが、その作品を追いかける大きな魅力になっているのですが、船田には、そういう戦略性がないだけに、却ってたちが悪いという考え方もあると思います。だから、一連の洒脱風な河童の作品は、私には面白くない。何か惨めったらしい、というのか。画家本人には、そういう意図はまったくないのでしょうが、観ている私の側からは、同情を買おうとしているさもしさといった感想を抑えることができないのです。それは、河童の周囲に弁解のような下手くそな字で書き連ねなれた文が助長されます。

この一連の文章を読んで不快感を持った方もいらっしゃると思います。勝手なことを言って、と。船田の作品は、すべてが傑作とは思わないけれど、ほとんどすべての作品が、観る私に向かって正面から対峙するように迫るという面があると思います。そして、こう問いかれられるようなのです。「おまえは、どうなのか」と。黙ってやり過ごすことを許さないような雰囲気があって、この展覧会を通して見るのは正直疲れました。

そもそも、絵画作品が何かを伝えるとは、どういうことなのでしょうか。ここでも、私は安易に“伝わってくる”というような書き方をしています。例えば、言葉ならば、話される内容というのが比較的はっきりしているものです。また、音楽のようなパフォーミングアートはプレイする側と受け取る側があって、そこでコミュニケイションが成立するように見えます。しかし、絵画の場合はどうなのでしょうか。画家が作品に何かの思いとか感情とか理念を託して制作し、それを見る者が受け取る。といった、記号のようなものとして絵画を捉えているでしょうか。たぶん、そう考えている人は少ないと思います。作品は、ある程度、独立したものとして見ているという人が、ほとんどでしょう。(ただし、画家の伝記の方が主でその情報の確認とか、作品の解説を理解するために絵画を見ている人等は、ここでの考えの対象から外します)だから、作品の迫力などといった場合は、そこに込められた作者の感情の迫力ではなくて、作品から感じられるものです。それは、具体的には、構図や色遣いやいろいろいな画面上の工夫が観る人にそういう感じを抱かせる、という、いわば効果です。クラシック音楽の世界で、モーツァルトという著名な作曲家は短い生涯で膨大な手紙を残しています。その中で、彼は、自分の作品について、それが聴衆に与える効果について事細かく説明しています。そこには、感情をゆすぶられるとか、感動するといったような、今でもお決まりのことは、全く触れられていないのです。例えば、ある個所で三度転調した場合と七度転調した場合のインパクトの違いとか、ある場面ではクラリネットとオーボエの音色のどちらが効果的か、とかそういうことばかりです。彼の時代の音楽が聴衆を喜ばすエンターティメントだったと思われるかもしれませんが、モーツァルトはクラシック音楽を代表するような大作曲家です。今回の記事では、なかなかそうは行っていませんが、これまでも見てきた展覧会のことを書いている時、上述のモーツァルトの手紙ではないですが、できるだけ個々の作品の画面を追いかけて、そこで実際に受けた効果を語ろうとしてきました。とくに、今回の船田玉樹の場合は、日本画ということもあって題材が限定されてしまうため、何を描いたのか、ということよりも、どのように描いたのかというによって特徴が分かるタイプの画家だと思います。つまり、より効果いうことにウェイトを置いた画家ではないかと思います。そして、効果という点について、さらに考えてみると、人々というのは一様にできないので、効果といっても、どのような人を対象としているかという、対象の限定が必要になってくると思います。とくに、船田という画家は、画業の初期より前衛的というのか、突飛な変わったことを試みていた画家だったので、当時の一般的な美術鑑賞者、実際に作品を買ってくれたり、展覧会に金を払って見に来てくれる人だけを対象に限定していなかったと思います。そこから外れる人としては、既存の作品に物足りなさを感じる人や美術の世界に入ってこない人たちです。多分、師匠である古径という人たちとは、対象がずれていたのではないか思います。ちょっと話は、脇道にそれますが、サッカーというスポーツで名プレイヤーといわれるAさんの言葉で、「パスは人に向かって出すのではない」というのがあます。サッカーの試合で選手と選手との間でパスのやりとりがありますが、そのパスを送るため、ボールは相手に向かって蹴っていないといいます。では、何処に向けて蹴っているのか。誰もいないところです。そこに味方が走り込んで、そのボールを受取るようにトラッピングしたときにパスは成立するのです。ある人が、サッカーが誰もいないところにパスを送るのは、可能性に向けてなのだそうです。ここで話をもどしますが、船田玉樹の対象とは、このサッカーのパスのような、未だ誰も来ていないところ、しかし、誰かが走ってきて受け取ってくれるような可能性のあるというものだったと思います。だから、初期の「花の夕」という作品は突飛だけれど、これだ!というのが分かり易い。今回、このような文章を書きながら、船田でグーグル検索すると、画像検索では、この作品ばかりが出てくるのです。つまりは、パスは受けられている証拠です。しかし、それ以外の作品は、ほとんど検索でも引っ掛かりません。「花の夕」が強烈すぎると考えましたが、他作品には「花の夕」に負けない強烈なものは沢山あります。しかし、なぜか「花の夕」だけがネットで検索にひっかかるのです。また、作品一覧に作品の所蔵先が空白がほとんどとなっています。これは、パスが可能性のままで現実に受け取られていないのでは、と思うのです。そのことをパスの送り手である画家が認識していたとは、どうも思えない節がある。今回の展示も、第1章に「花の夕」展示されていて、それをポスターにあった絵だと見て、底で終わってしまって、後は付録のように回ったという人も多かったではないか。それは主催者の意図でもあったのか、「花の夕」だけがやたらと強調されていたのも確かです。その意味では、この展覧会のポスターや惹句には、違和感を持ちましたし、船田が故郷に戻って以降の作品にはズレと、展示方法への違和感を感じたという展覧会でありました。

 
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