戦後船田は故郷である広島に帰り、そこに居を構え、中央画壇とは距離を置きながら自由に制作をしていきます。
基本的に、この人はデッサンというのか器用なことは苦手なのかというほど、上手くないので、風景のなかで建築物のようなきちんと描かないとサマにならないものは下手です。「雪の九品仏」(右図)という作品は院展で入選したそうですが、ちっとも面白くないお絵かきにしか見えません。しかし、画面を白絵具で塗り潰そうという面はいいのですが、お堂がサマになっていないので魅力半減です。似たような題材なら「雪の灯ともし頃」(左図)と言う作品では、建物をうまく省略して、雪の積もった屋根を中心にすることで、白のグラデーション効果を生かした作品になっています。
その後、院展などからも遠ざかって広島に引きこもってしまったようです。さて、前回、この画家について過度のものがたり化を避ける旨を書きました。そのことについて、この展覧会の出品リストを見てみると、この時期以降の作品は大部分の所蔵先が空白になっています。つまりは、作品としては売れていないということです。広島県立美術館などいくつかの美術館で所蔵されていますが、それでこの人は画家として生計が立ったのでしょうか。そうだとすると、この人はプロなのか。誰のために画を描いているのか、ということが切実さをもって画を描いていたのか。疑問に思われるところがあるからです。そうでなければ、こうしてわざわざ作品を見に来ている私は何なのかということになるわけです。他人に見せることを、最初から考えないで自分のためだけに画を描くというのを、否定するものではありません。しかし、そういう人はアマチュア、いうなれば素人です。中には、その中でも天才が現れることもあるでしょうが。プロの画家として画を描くということは、その作品を見てもらえること、見てもらえる人のために描くというのが前提ではないかと思います。それがあって初めて、その作品に金を払ってもらって、その対価で生活していくのが本筋のはずですから。そういう姿勢が、ないものは単なる独りよがり、あるいは才能の排泄物となんら変わりはないはずです。“孤高の”というような大仰な形容詞のついた展覧会ポスターに対して、警戒感を抱いてしまったのは、そういう理由です。
船田の戦後の作品として展示されたものを見ていると、例えばサイズの巨大なものが多く、しかもたいへんな迫力のもので、これをいったい何処に飾るのか、ということを画家本人は考えたことがあるのか、と疑問に思いました。まして、解説のところで院展から大きい作品ばかりということに反発して院展から離れてしまった、というエピソードを読んで、誤解を誘うものではないかと、思いました。多分、画家本人は、あんまりそういう細かなことは考えない大らかな人ではないかと思います。周囲が孤高とか、そういうことを煽っていたのではないかとも思います。もちろん、私がここで書いていることが絶対的に正しいということではありません。船田の作品から感じられる大胆さとか、力強さという面には、大変魅力を感じることには吝かではないのですが、彼にとって、他者というものが見えていたのか。価値というのは相対的で、人と人との関係から徐々に固まってくるものと、私は思っています。例えば商品の価格は市場で交換されるときに、どのようなものとどのくらい交換されるかということで、売る人と買う人が合意して初めて決まるものです。誰かが一方的に決めて、それで通るというものではないと思っています。船田の作品を見ていると、作品の価値は船田が絶対的に決めているという印象を拭いきれません。(もっとも、いわゆる芸術作品はそういうところが、たいていは少なからずあるものです)作品を売らなくても裕福な家で食べて行けたのか、教師とか別の職業で生活していたのか。それは分かりませんが、日本の近代以降のメジャーな画家たちには、一部を除いてそういう切迫感が感じられず、船田も例外ではないということでしょうか。仮に、現代の作家ならば、村上隆が芸術起業論で明らかにしているような、新しいユニークなことをしている場合ならば、このコンセプトを人々に理解してもらうために最善を尽くし、その結果として作品を人々に見てもらえることになるということを自覚して、そのための努力を惜しまないということになるでしょう。解説などを一通り読んでみても、船田にそういう努力をした形跡は見えません。ただし、これは商業主義とは、また別のことです。
しかし、そのようなことがあっても、自らの才能の赴くままに線が縦横に伸び、絵の具が塗り重ねられていった様を見るのは、楽しいことに違いありません。閉塞状態というと語弊があるかもしれませんが、こんなにもエネルギッシュで、伸び伸びとした、描く喜びが伝わってくるようなものを見ると、それはそれでポジティブな姿勢になれるのは確かです。
例えば「臥龍梅」(左下図)という作品の大胆としか言いようのない梅の幹や枝の描き方。安土桃山時代の狩野永徳の襖絵を彷彿とさせるような豪壮で力強い描線は、まるで墨が暴れ回っているかのようで、江戸期や明治の日本画が洗練を極めて行った一方で無くしていった奔放さで、見る者を圧倒してきます。
また、竹林を描いた作品は1本の竹の図案を画面いっぱいに描いて、まるで画面の竹が増殖しているような印象さえ受けるしまう位、その量に圧倒されます。一般的な日本画の竹林の風情とは全く別の、そこまで無数の竹がこちらに迫ってくるような数で圧倒され、だんだん竹林ではなく抽象的な図に見えてきてしまうのです。
滝をさまざまな季節にさまざまに描いた作品群(展覧会では画像のように滝の画をまとめてひとつの壁面に飾っていました)あるものは、キュビスムのような描き方だったり、以前によく試みていた一色のグラデーションで描き切ってしまったり、厚く絵の具を塗り重ねた立体感溢れるものだったりと、まあ、よくもこれほどと感心するほど豊かな作品のバリエーションなのです。悪意で言えば節操がないほどです。特定のスタイルとか理念とかに凝り固まっていると、こういうことは出来ないだろうと思います。これはひとえに、ひとつの滝を様々に見えてしまう、画家の豊かさがそのまま作品として結実しているものではないかと思わせるものです。