瑛九1935→1937─闇の中で「レアル」をさがす |
2016年11月23日(水) 東京国立近代美術館
瑛九という画家は、一般に馴染みが薄いと思います。私は水玉を用いた抽象的な作品が大好きなのですが、展覧会チラシが、瑛九の紹介と展覧会の趣旨を紹介しているので引用します。
展覧会のあいさつとしては、攻撃的な方ではないかと思います。しかし、私の個人的な感じ方かもしれませんが、瑛九の作品には、抽象的な作品で最終的には見る者の想像力に任せることになるのですが、旗幟を鮮明にしているところがあるように、決して強い訴えかけをして見る者の想像力を縛ることはしないのですが、感じられるのです。 小さなスペースでフォト・デザインというのはスケッチと同じようなサイズだったので、油絵の大作が並ぶ様相ではなくて、展示は地味な印象でした。 展示は以下のような章立てでしたが、規模の小さな展覧会だったので、この章立てにこだわることなく、感想を述べて行きたいと思います。 ⅰ.1935「瑛九」以前の杉田秀夫 ⅱ.1936杉田秀夫が「瑛九」となるとき─『眠りの理由』前後 ⅲ.ほんとうの「レアル」をもとめて─第1回自由美術家協会展への出品前後 エピローグ.その後の瑛九と山田光春
ⅰ.1935「瑛九」以前の杉田秀夫
ⅱ.1936杉田秀夫が「瑛九」となるとき─『眠りの理由』前後
そのあとで、ペン書きのフリーハンドのデッサンが何点も展示されていました。神経質なほどの細い線で、走り書きのように書かれたデッサンと言うのが適切なのか。たまたま
ⅲ.ほんとうの「レアル」をもとめて─第1回自由美術家協会展への出品前後
ところが、1937年の「レアル」では、既存の物体を持ち込んで、その組み合わせというマン・レイたちのレイヨグラフと同じことを始めてしまって、『眠りの理由』にあった自作の要素を放棄してしまっているのではないかと思えるのです。その結果、素朴ではあっても今までになかった形が画面から消えてしまいました。作品画面は洗練され、すっきりしたものになっていますが、見慣れないかたちのものが画面にはたしかに見ることはできるのですが、「何だろうか?」という不思議さとか違和感のような感じは受けなくて、それを美しいとか評価できてしまうのです。つまり、その見慣れないものの存在が、見る者に強烈に迫ってこないので、距離を平気でとることができて、既存の価値規準にあてはめて評価できてしまうのです。これは、私の個人的な印象なので、そうでないと感じる人も少なくないと思いますので、これが「レアル」という作品の評価とは誤解しないでほしいのですが、念のために。
端的に言えば、たしかに不可思議ではあるのですが、洗練されていてオシャレで、インテリアのようなものにうまく使えそうなものではないか、瑛九が抵抗した流行のような風俗的なものにハマってしまうものではないかと思います。それは、私の偏見から言えば、瑛九の志向とか考え方は後世のコスモスとしか言いようのない抽象画と共通しているとは思うのですが、後世の作品は、そのつくりの論理が自立しているのに対して、この「レアル」の場合には、借り物のような感じがします。例えば、コラージュという手法もそうであるし、画面の素材として集められたパーツもそこらにある既存のものを既存のそのものの論理で使いまわしているように見えます。その結果として、できたものは既存のものを既存のまま構成したもので、せいぜいのところ既存に対する反抗が関の山というのか、既存の範囲内で遊ばれているといったものに感じられるところです。 否定的な言い分を並び立てていますが、作品としては面白い作品で、うまく部屋に飾ると映えると思います。
エピローグ.その後の瑛九と山田光春 このコーナーはエピローグとされて、展示の章立ての番号が付されていません。したがって、この展覧会では、この部分の展示はメインではなく、後日談(エピローグ)という位置づけになるのではないかと思います。しかし、展示されている作品について、この部分展示はレベルが違うので、どうしても、展覧会の企画者の意図はどうあれ、ここに眼が行ってしまう。ここに展示されている作品を見ていると、このような作品があるからこそ、この前に展示されている作品を見る気になる(そうでない人もいると思います)と思います。瑛九という画家は、作品がすべてで、方法論とかコンセプトとかいったことがあったとしてとして、そういうものに則って制作されたのが作品であったとしても、仕上げられた作品は、そういうことを超越してしまって、作品そのものが見るものにとって雄弁(といっても瑛九の作品は静謐な印象ですが)に語りかけてくる。そういうことをいうと、これまでの展示で画家が書簡で語っている言葉の引用などをみてきたのが無意味になってしまいそうですが、実際、ここでの作品だけを見ていると、画家が悩もうが試行錯誤しようが、見ている私には、ここにある作品を見ているだけでよくて、別に画家がどれだけ苦労しようがしまいが、私が見ている作品の印象とか意味づけには関係がないと思わせられるものであると思います。この展覧会を企画した人には申し訳ないと思いますが、それが分かったというだけで、私は、この前の展示を見た意味があると思いました。おそらく、『眠りの理由』も「レアル」も、今後、それだけを、それ自体を見たいと思うことはないと思いますが。
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