2026年4月7日(火) 国立西洋美術館
都心での用事が思いのほかスムーズに終わったので、時間が余ったので、上野の西洋美術館に寄り道。平日の午前だし、上野もそれほど混み合ってはいないだろう。そう思っていて、公園口の改札をでて、駅前の広場には多数の人の姿。ほとんどが外国人。そういえば、まだ桜の花が散っていなかった。でも、西洋美術館でやっているチュルリョーニスは、印象派でもルネサンスでもないし、日本では知られていない画家だから、展覧会の会期も始まったばかりだし、それほど混んではいないと思っていた。しかし、実際に美術館に行ってみたら、入場券売り場に行列ができていて、係員が交通整理していた。並んでいたのは、半分以上が外国人。それで、それぞれの人が売り場で時間がかかり、列がなかなか進まない。予想が外れた。よく見たら、北斎の富嶽三十六景の特別展もやっていた。外国人は、そっちか、と納得した。玄関を入って地下の企画展示室に入ると、チュルリョーニス展と富嶽三十六景の特別展の二手に分かれている。チュルリョーニス展は、それほどスペースをとらないようで、その空いたスペースで北斎をやっているという感じでしょうか。入場券売り場が行列していた割には、展示会場にはそれほど人は多くはなかった。まだ、学校は春休み中なのか、学生や家族連れの姿が目立った。少なくない外国人の姿も。チュルリョーニス展の中身は、それほど悪くはないので、会期が進むと、これから来場者は増えていくと思う。会期の早いうちに訪れてよかったと思う。
ここで、チュルリョーニスの紹介を兼ねて主催者のあいさつを引用します。
“このたび、「チュルリョーニス展 内なる星図」を開催する運びとなりました。
本展覧会は、リトアニアを代表する芸術家であるミカロス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875〜1911)について、彼の絵画作品を中心にご紹介するものです。リトアニアの地方の慎ましい家庭に生まれたチュルリョーニスは、幼少の頃から音楽の才能を示し、初め作曲を学びますが、しだいに絵画の道へと強く惹かれていきます。ところが、画家としての成熟を迎えた矢先、過労と精神的負担により健康を損ね、わずか35歳の若さで生涯を閉じることとなります。チュルリョーニスが絵画制作に集中的に取り組んだ時期は1903年頃から1909年までのおよそ6年間に過ぎませんが、その短い画業のなかで、実に300点以上もの作品が手掛けられました。一方、彼が作曲家として生涯に制作した音楽作品の数は、400点にのぼるとされます。芸術家の死後、長きにわたる不遇の歴史を乗り越え、今日その絵画作品は象徴主義と抽象を架橋する存在として国際的な美術史のなかに正当に位置づけられています。
日本で34年ぶりの大回顧展となる本展では、カナウスの国立M.Kチュルリョーニス美術館が所蔵する代表的な絵画や版画、楽譜など、約80点をご紹介します。
チュルリョーニスの芸術は、20世紀初頭という時代の転換期に、ロシア帝国の支配下で民族解放運動の只中にあったリトアニアにおいてかたちづくられ、同国の近代文化の礎となりました。私たちはその作品を介して、リトアニアの豊かな自然や古より伝わる物語と信仰、穏やかで繊細な気質といった、民族の精神そのものに触れることができます。しかし、芸術家としてのチュルリョーニスは民族的であると同時に、きわめてコスモポリタン的であります。彼は芸術制作を通じ、人間の内面世界や宇宙の神秘をめぐる探究を続けました。その絵画作品は音楽的なリズムやハーモニーを伴いながら、一民族の枠組みを遥かに越えて、見る者の心に深く響くことでしょう。”
それでは、作品を見ていくことにしましょう。
プロローグ
展示室に入ると、ポロロンとピアノの響きが聞こえた。メロディラインがはっきりせず、あまり自己主張のない音楽。エリック・サティの「家具の音楽」のような、いわゆる環境音楽のような、静かで控えめな音楽。チュルリョーニスの作曲したピアノ曲とのこと。
「森の囁き」は1904年のチュルリョーニスがワルシャワ美術学校の学生時代の作品ということです。展示されている作品の中で唯一の油絵作品です。最初に、この作品を見たときには何とも思わなかったのですが、この後の作品を見ていって、その後で、振り返るようにこの作品を見ると、彼の他の作品とは異質さを感じます。この後に描かれた彼の作品のほとんどはテンペラ画で、この作品だけが油絵ということで、油絵の具の重さというか、色の強さが、とても目立っています。画面も暗さが際立っているというか、全体に重い。これは、部屋で響いているピアノ音楽とも異質で、おそらく、チュルリョーニスの性格と合わなかったかもしない。黒に緑が混じった木立が林立している暗い森に透明な手の形をしたものが、霧のように漂っている。それは、森の木立が竪琴の弦に見立てられ、その弦をつま弾く手が、あたかも木々の間を吹き抜ける風のように表わされている。この透明な手の描き方がすごい。チュルリョーニスには透けて見えるという半透明、敢えて言えば実体があるのとないとの中間的な半存在とでもいえるものの嗜好があるように思います。こういう半透明は、後の作品でも見らます。それは別にして、この作品は、ただ森の木立を竪琴に擬えた単なる暗示的な作品かというと、木立による垂直の線と半透明の手の水平線が直交し、そこに斜めに倒木が斜交する(この倒木は垂直の木立とぶつかる筈なのに、透明になって透けてしまっている)という図面のような構成になっている。しかも、見ていても図面の感じはまったくない。それが、この人の画面の構成の大きな特徴であると思います。
1章 自然のリズム
このコーナーの入り口のところ、コーナーの説明の掲示の前に折鶴のような鳥が1羽、糸で吊るされていました。それに照明があたって、掲示に影が映っている。チュルリョーニスは絵画にサインを残さなかったそうです。その代わりに鳥の象徴が彼自身のサインと見なされていたということです。吊り下げられた鳥は、チュルリョーニスのサインのシンボルということでしょうか。これは、この後、2章では2羽の鳥が吊り下げられていました。
1906年の「山」という作品です。巨大な山塊が波や人物の横顔にも見える不定形として現れます。1905年にロシアのコーカサス地方を旅した時に見たエルプルス山の思い出がモチーフになっているということです。しかし、“チュルリョーニスの作品においては、写実的ないし地誌的な風景描写はごくわずかな例外を除き存在しない。そこではむしろ、自然の生命感が抽象的に捉えられ、抒情的な気分や象徴的な意味を吹き込まれている。自然のモティーフはしばしば擬人的な形態で表わされ、時には画材が生み出す偶発的なイメージを利用することもあった。(図録P.54)”と説明されています。私には、おそらくテンペラ画をはじめて未だ慣れていないのか、山に積もった雪の白が絵の具が伸びずに、粒のように固まってしまっているのが、油絵の具のマチエールのような盛り上がりに似たものに見えて、それがチュルリョーニスの作品としては珍しい。
同年の「夜の海」という作品です。この作品でもテンペラ画に慣れていないのか、筆の塗り跡が残ったり、かすれた跡が見られます。それらが却って画面に風情を生んでいる。水平に塗った筆の跡が画面上に帯のように残っていて、それが夜の海の波だったり、星空の暗さの段階の表現の様になっていて、時に絵の具が掠れたのがそのまま残っているのと相俟って、夜の暗い海で、よく見えないまま、波が寄せては返す動きを、巧まずに見る者に感じさせる。画面のいくつもの水平の帯が、画面にリズムを生んでいて、それが波の動きを感じさせる。チュルリョーニスは繰り返しが好きなようで、ここでは水平な線を繰り返していますが、繰り返しがリズムを生むというのは、この作品でも見られます。
この後、銅版画作品が並んでいました。フッ素エッチングという珍しい技法なのだそうですが、そういう説明は流して、並んでいる作品を見ていると、雑という印象を受けます。これらを見ていると、この人は画面を完璧に仕上げるという志向はないということが分かります。おそらく、自分は、これを描きたいというのがあって、それが描けたら、それでオッケー、という人なのではないかと思えてきます。それに加えて、この人は絵画の要素の一つとしての“線”へのこだわりが見られないということです。線だけで画面
がつくられる銅版画をみていると、それが顕著に分かります。その中で「枯木」という作品です。葉の落ちた1本の木を描いたものですが、写実的なものとはいえず、象徴的というか、「枯木」なるものを抽象化しているような感じです。これを見ていて、モンドリアンの林檎の木の連作を思い出しました。モンドリアンは林檎の木の連作は写実的な絵画から徐々に色や形が取り払われて抽象的になっていくのが段階的に分かるようになっていますが、このチュルリョーニスの「枯木」は、この木という個別性が取り払われて、枯れ木に見える「形」が描かれている、というように見えます。


続いて、四季の連作が並んでいました。その中から「春のモチーフ」(一番左)です。四季の内、春は4作品が続き、これは、その最初です。左右から、数輪の花をつけた枝が鐘楼に向かって伸びている。鐘楼の鐘は春の訪れを告げる。その背後には雲が地平線全体を覆い、雲が近づくにつれて隙間が増え、青空がより多く見えるようになる。この画面は全体としてシンメトリーのような構成になっていますが、正確には対称ではない。そのあたりの緩さにより、画面は図式化を免れている。悪く言えば、雑で大雑把。その大雑把さは、空に浮かんでいる雲にも言えます。同じようで、同じでない。似たものが、いくつも、反復するように並び、それらは同じようでいて少しずつ違っている。それは、まるで、ピアニストが演奏の中で、同じようなフレーズを決して同じようには弾かず、必ず何かしらの変化をつけて弾くかのようです。この作品では、空を覆い尽くすように、雲がびっしりと並び、それらが反復することで、画面にリズムを作り出しています。そしてまた、その雲の間に見えている青空の描き方も大雑把で、筆の跡が残されています。その筆跡が、まるで風の流のようで、それがまた、雲とは違うリズムを生み出しています。画面では、雲の作り出す大きなリズムの陰で、空のリズムが違う流を別に作り出している。



「春」というタイトルの作品が3枚続いて展示されていました。この三つの「春」と「春のモチーフ」には樹木をモチーフとしている点で共通、というより反復があります。一つ目の「春」(左から2番目)では雪解けの始まった大地で、葉を落とした木は陽光を浴びます。二つ目の「春」(左から3番目)では、大地に雪解け水が流れ込み、木には若葉が芽吹きます。そして、三つ目の「春」(右端)では豊かに葉を茂られた木は花を咲かせるのです。一つ目の「春」では、画面下部の解け残った雪の白と雪解けで現れた大地の黒の模様が、画面上部の薄暗い空で薄ぼんやりした雲と写し鏡のように見えてきます。さらに、その大地の周りを柵で囲ってありますが、その柵の支柱が垂直の黒い線として稠密に並んでいる。しかも、大地が半島のように川に突き出ているのに応じて、柵も半円状に続いているため、支柱は遠近的に長くなったり短くなったり変化している。しかも、チュルリョーニスはフリーハンドの曖昧さで描いているので不揃い。その支柱の縦の線の反復がリズムを生み、そこに二本の立木が斜めに入ってくる。これは最初に見た「森の囁き」で建てに並んだ木々の倒木の斜線が入ってくるというのの繰り返しでしょう。そして、二番目の「春」では、雪解け水が流れだし、その流れで分断された崖の緑が四つ並んで、反復しているかのようです。そして、三つ目の「春」では三本の木の反復です。この三本の木は二つ目の「春」で画面中央にひょろひょろと立っていた若木とその足元で芽を出していた若草から連なっているのでしょうか。それは別として、木々の上部で緑の葉から白い花でしょうか、それが不規則に並んでいるのが、三本の木にそれぞれあるのと、木々の間を白い蝶が飛んでいるのと、画面に白い点が反復している。さらに、木々の足元の大地で小さな草が花を咲かせている。それが並んでいるかのように反復している。チュルリョーニスの画面は、このように構成的なのですが、決して図式的にならない。それは、彼が几帳面に描くことをせず(もしかして雑にしか描けない?)、例えばシンメトリックな構図でも、シンメトリーにならず、どこか崩れているためでしょうか。これは、音楽でいえば、コンピュータが規則的に刻んだリズムより、人がどこか規則からズレながら作り出すリズムの方にグルーヴとかノリが生まれるのと同じようなことではないかと思います。
春は4枚の作品が展示されているのに、「夏」は1枚だけです。この作品では“水彩のように薄めたテンペラ絵の具を用いて、絵の具が支持体の上を流れ落ちるのに任せて木の幹を表現している。画面上部の灰色の雲と木の葉は渾然一体となり、そこから大地に伸びる木によって、天と地の調和が暗示されている。(図録P.75)”ということです。要は、画面で縦にひょろひょろと何本も伸びている線は、筆で引かれたのではなくて、絵の具が流れ落ちた軌跡ということです。それだから、途中で切れて宙に浮いているのもあるわけだ。この作品は、この縦の線のリズムと、その線の間に描かれた、というより、描かれた上に絵の具が流れて縦の線になったのが正しいのでしょうが、雲、角の丸くなった白い四角形が少しずつ変化しながら反復している。この二つの反復がそれぞれ違うリズムを作っている。

秋はなく、冬は8点の作品が展示されていました。冬は総じて、白が作り出すリズムが中心で、その白は雪です。8点全部は紹介しませんが、「冬T」(左側)で、降っている雪は、そのひとつひとつが結晶のように描かれています。*印ですが。それが、強い風が吹いているためでしょうか、木の右側にだけ貼りついたように積もっています。霧氷でしょうか。その積もっているギザギザの線、そして木の足元の草に雪が積もって短い垂直線が無数に並んでいる。これらの白が画面上で反復されているのです。「冬Y」(右側)は、「夏」で絵の具を画面で流して木の幹を表現したのと同じ手法で、雪の貼りついた木の幹を白い絵の具を流して表現しています。ここでは、白い絵の具のグラデーションと滲み、そして、絵の具が透き通るのは、油絵ではできない。チュルリョーニスがテンペラ画をもっぱら描いたのは、こういうところにあるのかもしれません。それにしても、まるで白の単色であるかのようにも見えてしまう。どこか水墨画の風情も感じられます。
2章 交響する絵画
ここで展示されている作品は、タイトルが「プレリュード」とか「ソナタ」という音楽用語から採られているものばかりです。チュルリョーニスは作曲家でもあったわけで、音楽と絵画の融合などと説明されていたようです。そのどこが?私には分かりません。この展示スペースではチュルリョーニスの管弦楽作品の一部がリピートで流れていました。ファンファーレが繰り返されるように聞こえて、そのわりに力が抜けている、なんだか不思議な音楽でした。

「プレリュード(二連画「プレリュード、フーガ」より)」(右側)は、並んで展示されている「フーガ(二連画「プレリュード、フーガ」より)」(左側)とセットだろうと思います。画面中央にバナナみたいな物体が、水に浮かんでいるように在ります。そのバナナみたいなものが短い線が無数に集まって作られているようなのが、その線がムズムズと蠢いているようで、どことなく不気味です。このような感覚は、最初に見た「森の囁き」にも感じられたものです。おそらく、このような不気味さをチュルリョーニスは底流に持っていたのではないかと思います。普段は隠れているのに、時折、ふとしたはずみで顔をのぞかせる。それがこの作品だったり、「森の囁き」だったりする。ところで、この作品の画面の右下に波形が黒くシルエットのように描かれています。その波形が、次の「フーガ(二連画「プレリュード、フーガ」より)」の右下の樹林のシルエットに続いているのでしょうか。つまり、「プレリュード」の波形が「フーガ」に引き継がれると樹林のシルエットになり、その樹の形が画面の上の方では変化しつつ繰り返される。画面上部の水平な線の上下で樹木が並ぶように反復される模様は、バッハの「音楽の捧げもの」の反転フーガの楽譜を見ているような感じがしました。樹木は大きくなったり小さくなったり、色が濃くなったり薄くなったり、上向きになったり下向きになったりします。また、画面下部で、樹林のシルエットが前景と後景の二つのラインで描かれているのは、さながらフーガの通奏低音といったところでしょうか。チュルリョーニスは音楽と関係して描くといっても、楽譜の音の関係の構図を絵画の構成に置き換えたと見ることもできるのではないでしょうか。それは音楽の情緒などとは関係なく、音楽の音と音との関係を視覚イメージにしたものだと思います。“《フーガ》は《プレリュード》から引き継いだ抽象的な形態─首を垂れて座る人間や上方を指差す手、あるいは塔を思わせるシルエット─に加え、モミの木を主題とする。各モティーフは形や色の微妙な変奏を伴いつつ反復され、しだいに大きく、やがて小さく、まばらになることで、静謐でありながらも劇的な音楽性を喚起する。両面を水平に分節する複数の層は多声音楽を構成する複数の声部に相当し、おのおのが独立しつつ、相互に補完している。一見したところ水面の反映像のようにも見える反転したモミの木のイメージは、「転向」(主題の反転)という、フーガ形式においてしばしば用いられる対位法的技法に相当するものである。(図説P.89)”と要領よく説明されていました。



「第3ソナタ(蛇のソナタ)」という4作品のシリーズです。クラシック音楽のソナタという楽曲が、通常4楽章という4つの部分から構成されていることにならったのでしょうか。4つの作品の画面の中心には蛇がいて、淡い緑の色調で統一されています。前の「プレリュード・フーガ」もそうですが、ここで展示されている作品は、淡い色彩で、それゆえに描かれたもののかたちが霞んだりしていて、それが幻想的・神秘的な雰囲気を与えてくれます。一つ目が「アレグロ」(左端)という作品。蛇はどこにいるかというと、前景、中景、後景にある建物を結んでいるS字に曲がった道路のようなものが、実は蛇です。ソナタという楽曲の第1楽章は通常、ソナタ形式で作られています。ソナタ形式とは、簡単に言うと、最初に主題という中心となるメロディが提示され(提示部)、それがいろいろと細工を加えられて繰り返し(展開部)、最後にもとの主題に戻ってくる(再現部)という三つの部分から構成されているものです。それが、この画面では、前景、中景、後景の三つの部分に分かれており、それがソナタ形式の三つの部分に当てはまるということでしょう。そして、三つの部分を繋ぐように、屈曲しているのが蛇で、さながら、それは音楽の大きな流れに擬えているのかもしれません。そんな難しいことを考えなくても、手前から上方、奥の方に向かって、曲がりくねった道を、段々と奥に向かっていくと上昇し、山の頂上の神殿みたいなところに至るように視線が導かれるようになっているのが分かります。この作品で感じられるリズムは、屈曲する蛇を支えるように立ち並ぶ柱や点々と並ぶ木々。そして、アクセントとなっているのが建物の石垣です。全体に淡くぼんやりと描かれているなかで、この石垣だけが明確な線で輪郭がはっきり引かれていて、強調されているかのようです。次の「アンダンテ」(左から2番目)は、普通、ソナタの楽曲では、がっちりとした構成的なアレグロについて、ゆったりとして感情のこもったメロディをシンプルに聞かせるところです。この作品でも、「アレグロ」に比べて画面はシンプルです。蛇は、画面を水平に横断するように直線になって浮いています。「アレグロ」のように細かくリズムを刻むものはなく、全体がゆったりしています。「アレグロ」では明確に強調されていた石垣が、ここでは画面中央で輪郭線は薄くなり、ぼんやりと霞んでいます。構築的なものは薄まっている。その後の「スケルツォ」(左から3番目)はソナタの楽曲のなかでは、いわゆる舞曲で、それまで聞かれてきた休憩のように軽く身体を動かしてリラックスするような箇所です。その感じは、画面左上、垂直な柱が稠密に立ち並んでいるところから生まれてくるリズムや、夜空に浮かぶ星がゆったりとしたリズムを生んでいます。そして、それ以外の画面左側は静かな夜の海がひろがり、地上の建物を水面に映し出しています。そして、蛇は、画面の中央で直立して鎌首をこちらに向けています。一見では、塔のように見えます。よく見ると手前の緑の陸地には、小さな花が咲き、虫が飛んでいます。しかし、それはよく見ないと分からないほど、さりげない生命感です。最後の「フィナーレ」(右端)は全曲の締めです。再び攻勢が緊密になりますが「アレグロ」の場合のように、あからさまではない。山々が多層的にかさなりますが、その山々を覆う半透明の霧は、とても油絵では描けないようなものではないでしょうか。そして、淡いグリーンのグラデーション。この作品をみると、チュルリョーニスがテンペラ画を描くわけが分かるような気がします。最後に蛇はいなくなってしまったのでしょうか。


「第5ソナタ(海のソナタ)」のシリーズは3つの作品から成っています。チュルリョーニスという人は何かを描く人ではない。具象画のように対象を描くというのでもない、抽象画のように見えないもの感情や理念を描くというのでもない。だから、彼の絵画を抽象画というのは適切ではない。絵画を描くのは、彼にとっては画面を構成する、構築的にデザインするということなのかもしれません。それも、頭で考える、構想するといより、描く=構築するという作業を手で行うことを楽しむ。それゆえにフリーハンドの歪みのようなものがあってもよしとする。そんなように思えます。最初の「アレグロ」(左端)は、何層にもなる波と、その波が生み出す泡沫が作り出すリズムと、上部の陸地が波と鏡像のように山の連なりが波のように見えて、下部の海とは違うリズムを作っています。一番下の層では泡沫が黒い丸としてクッキリ描かれていて、それが水平な層で並んでいるのが、波とは別のリズムを作り出し、一方画面の最上部では山の木々が黒い点にように描かれていて、これもまた、山とは別のリズムを作り出しています。その一方で、海の中層は半透明の波が何層も重なって、その透き通った底には魚が透けて見えます。それが、どこか牧歌的な平和があります。次に「アンダンテ」(中央)は「蛇のソナタ」の「アンダンテ」と似て、水平で穏やかな印象の作品です。重層的な奥行きを備えた空間に、最上層の水平線上の二艘の船がかたちづくる眼から零れ落ちる涙のような泡が日本の垂直線にように映る。その垂直は中央の帆船を縦断している。この構成は、シンメトリーのようでいて、正確な左右対称ではない。その崩れが、却って落ち着きと平穏をもたらしている。ここでの水平の層は細かく微妙に明暗のグラデーションが施されていて、その細かさはさりげない。それは、音楽の演奏の強弱、だんだんと弱くなったり、強くなったりというクレッシェンドとディヌミエンドを彷彿とさせます。「フィナーレ」(右端)では、その平穏と均衡が破られます。

「第6ソナタ(星のソナタ)」は2作品から成っています。だんだんとファンタジー的から図式的あるいは抽象画的になってきました。極端なことをいえば、チュルリョーニスの作品はテンペラ画ですが、この画面を、仮に、油絵で鮮やかな原色が対立するように描くとカンディンスキーの作品に見えるのではないか。そういうメリハリがあります。画面を横切るような水平の帯が半透明の白で、チュルリョーニスならではというもので、これはカンディンスキーには見られない。
ある意味、ここで展示されている作品は、チュルリョーニスの作品のなかでもっとも突出していると思います。
3章 リトアニアに捧げるファンタジー
故郷のリトアニアに戻ったチュルリョーニスは、民族主義運動に与するようになり、民族主義的なファンタジーなどといった、一見、人々に分かりやすい画面に変わっていきます。
「ライガルダス」という三連の風景画。これまで、抽象画っぽい、図式的な作品から、具象っぽい風景画に変わってきたので、少し驚きました。チュルリョーニスの故郷の風景ということなのでしょうが、ただ写実というのではないような気がします。というのも、この画面には2章で見た音楽のような構成がされているように見えるからです。例えば、三つの作品を串刺しのように横断するように流れる白い川は、「第3ソナタ」のシリーズの諸作品を横断する蛇のようです。この作品は水平が基本構造で、その川がその軸となっている。しかし、その軸となっている川は屈曲もしている。その川に沿って並木のように木立が反復しています。水平の軸である川に直交する縦の楔のように立木の垂直線が反復し、それがリズムを生んでいる。その垂直の楔の反復ははるか遠景にも見られ、楔の反復が、今度は遠景、中景、前景と反復している。
「リトアニアの墓地」という作品。藤城清治の影絵みたいです。夜の墓場の光景なのでしょうが、恐さとか不気味さは全くありません。墓標が林立している黒い影は、影絵の装飾的な塔のように見えます。これは、リトアニアの十字架というものだそうです。夜の空は水平な層をなして、暗い緑のグラデーションが施され、そこにアクセントのように白で星が点々とある。装飾的な図案のようでもあり、幻想的でもある。
「稲妻」という作品。リトアニアの神話。伝説をもとにしたオペラの舞台装置を考えるなかから描かれた作品ということらしいのですが、画面中央の稲妻でしょうか、まるで氷化したように白く固まって実体化し、それが水面に映っている(チュルリョーニスは水面に物が映るという光景を好むようです)。7本立ち並んでいるかぎ裂き型の氷柱が、まるでダンスを踊っているようにも見えます。背景の暗くうねる雷雲は、壮大な宮殿のように広がっています。舞台装置としての効果を意図したものでしょうか。それが、神話的な荘厳な雰囲気をつくりだしていると思います。
自作の音楽作品の楽譜を出版するさいに、その装丁として描かれたペンにインクで描かれた作品だろうと思います。図案というせいもあって、シンメトリーになっています。しかし、それを感じさせないフリーハンドのテイストが強く感じられます。チュルリョーニスの作品には、どこらフリーハンドの手作り感というか、完璧さの一歩手前で立ち止まるような雰囲気があって、それが素朴な感じ、あたたかみのようなものを感じさせるところがあります。しかし、これらの作品は細密に描き込まれています。その細かさには感心します。
「祭壇」という作品です。展覧会チラシでも使われていたので、代表作ということなのでしょう。ピラミッドのような巨大な祭壇の背後に、金色の海原が広がる。「モニュメンタルな量塊感と海の平面性が対比され、静けさの中に存在感がある」と説明されています。はるか上空からの鳥瞰的な視点は、ブリューゲルの
名画「バベルの塔」を思わせもする。祭壇の各面には太陽や騎士、塔、天使といった、チュルリョーニスが好んだ神秘的なモチーフがちりばめられている。橋の下には二つの太陽が潜み、騎士は竜に向かって弓を引き、天使たちは一列に並んで階段を上る。祭壇の右側の面は影に沈み、画面の外から降り注ぐ太陽光線の明るさを、かえって強調している。祭壇の左側の海面に目を凝らせば、煙突から白い煙がたなびく船が点々と浮かんでいる。世俗の煙と聖なる共鳴は、人間の卑近な営みと精神的な世界が、実は地続きなのだと示唆するようでもある。少し、ヒルマ・アフ・クリントの「祭壇画」を思わせもする。
「レックス」はチュルリョーニスには珍しい大作です。これまでの作品の集大成のような作品です。図式的といっていい構成で、画面全体は、茶、紫、金を基調とした抑制されたモノクロームで統一されています。この構成は、どこか、ドイツ・ロマン派のフィリップ・オットー・ルンゲの作品を思わせるような、内面的ななにかを象徴するような感じがします。この作品で描かれている個々のモチーフには、それぞれシンボリックな意味があるのでしょうが、私は、画面の構成と配置が、これまでの彼の作品の集大成であると思います。
展示会場は、展示作品が80点と少ないようで、会場のスペースが余っていて、そこに葛飾北斎の富嶽三十六景の版画が展示されていました。そっちの方が混んでいました。とくに外国人が多かった。チュルリョーニス展の方はそれほどでもなかった。でも、今回は、昨年のヒルマ・アフ・クリントに続いて、こんな画家が隠れていたんだという驚きを含めて、いい展覧会でした。