シエナ美術展 |
要するに、ルネサンスというものに対して一般的なイメージはフィレンツェが中心となったものだったのに対して、当時のシエナはビザンティン文化との結びつきが強く、ゴシック末期の洗練された装飾趣味を保ち続け、後のマニエリスムにも通じるような流麗な線描表現と晴朗な色彩の魅力に特徴があって独自性が強かったということになるでしょう。私の趣味は、健康的で合理的なルネサンスはいいのですが、屈折した翳りを秘めたマニエリスムにより惹かれるところがあります。何の屈託のないのは馬鹿みたいなもんで、多少の物事がわかってくると、人はとどこかしら悩みがあったり、不健康なものを分っていても抱えているもので、そういうものにより親近感をかんじるのだ、と勝手に思ったりしています。その意味で、すべてに太陽の光が当たっているような明朗なルネサンス美術よりも、その陰でひねくれているようなマニエリスムの不健康さに現代の人間としては近いものを感じています。で、シエナの美術には中世を引きずっていることからかもしれませんが、それに近いものが見られました。ただし、展示されていたのは、それだけではなく、私の感想はかなり一面的で針小棒大の感は免れ得ないものです。また、展示は陶器や彫刻など様々なものがありましたが、絵画だけを見ていました。
ジョバンニ・アントニオ・バッツィの「天上の愛の寓意」(右上図)という作品。人物が写実的というよりは、中世ゴシックのイコンからマニエリスムにワープしてしまったような感じで、象徴的なシンボルが溢れんばかりに充溢しているのは、北方ルネサンスのデューラーを想わせるような、それでいて、重苦しさは微塵もありません。 アンドレア・ピッチネリの「聖女マクダラのマリア」(左下図)は、マクダラのマリアというわりには少年にも見える。そのためになのかは分かりませんが、顔の部分スフマート使いまくりで目鼻立ちが判然としないほどで、表情にソフトフォーカスをかけたかんじですが、身体に対して頭部の座りがなんとなく落ち着いていない感じがします。しかも、画像は白黒なのですが、色遣いが隣り合わせの色を対立的に配するようにしてあって、何か落ち着かない。白黒でみると、美しい女性像なのですが、何となく神経を逆撫でさせるようなところが、マニエリスムのテイストではないかと思ってしまいます。
このあたりの作品に共通しているのは、フィレンツェやローマでは次第に薄れてしまった、キリスト教に対する峻烈な信仰が綿々と続いていたのではないか、と思わせるものがあります。合理的で開放的なルネサンスよりも、人間の心の深部を図らずも垣間見せてしまうマニエリスムや理性よりも感情を煽るカラヴァッジョニズムに親和的だったのかもしれません。 というよりも、私の一面的な見方といった方が強いかもしれません。
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