ジョルジョ・デ・キリコ展─変遷と回帰 |
2014年11月11日(火) パナソニック汐留ミュージアム 都心の用事が予定より早く終わり、始めて訪れる美術館であるけれど、興味がないわけではない画家なので、少し足を伸ばすことにした。ホームページに新橋駅からのアクセスが写真を交えて親切に説明されてガイドに従って向かったが、途中、何度か迷ってしまった。それは、美術館とはいいながらパナソニックという企業のロビーの片隅に間借りしているような、まるで、パナソニックを訪問するような体裁になっているからだと思う。しかも、この会社はなんとなく雰囲気が暗い。業績が反映しているのかわからないけれど、その中にある美術館までの足取りは重くなったのは正直なところ。
初めて訪れた美術館だったので、少し印象を書きましたが、ここからは本題のデ・キリコの印象について書いていきたいと思います。 デ・キリコという画家や作品については、恥ずかしながら、有名な少女が古代風の建物の広場で走っているイラスト風の作品を目にした程度でした。それもあって、例によって主催者のあいさつでの説明を引用することにします。“20世紀を代表する画家、ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)。イタリア人の両親のもとでギリシャで生まれた画家はね父親の死後、17歳でミュンヘンへ移り、同地で、アーノルド・ベックリンなどの北方の幻想的な象徴主義と、ニーチェの思想に大きな影響を受けました。1911年にパリを出たデ・キリコは、写実的でありながら現実離れした神秘的な雰囲気の作品を発表、詩人アポリネールによって「新しい世代のなかで最も驚くべき画家」と称され、画壇にその名を知らしめます。彼の生み出した「形而上絵画」とは、ありふれた日常の裏側に潜む、まったく新しい未知の精神世界を画面に出現させようとしたものであり、その斬新な手法は、後のシュルレアリストたちに大きな影響を与えました。第一次世界大戦後、絵画のマティエールを重視した古典主義絵画への回帰の時代を経て、豊かな色彩と堅固な構成を得る一方、デ・キリコの画面には、馬や剣闘士など新たなモティーフが登場します。そして、ローマに定住した晩年には、初期の形而上絵画のテーマを再び取り上げた新形而上絵画を創造し、その芸術世界に新たな価値を与えました。─中略─、デ・キリコの作品は、現実と非現実の境を行き来し、観る者の不安や困惑を誘う一方で、その芸術に隠された大きな謎のゆえに、私たちを惹きつけてやみません。”少し長い引用になりましたが、おそらく一般的なデ・キリコ像に近いものであろうと思います。 さきにも書きましたように、私は予備知識もないところで作品を観てきた感想を、この引用を参照しつつ、まずは、デ・キリコの作品群の印象を大雑把に書いて、後で、展示された作品の個々の感想を綴って行きたいと思います。私が観たデ・キリコの印象は“軽さ”です。例えば、主催者あいさつの最初のほうで触れられている、デ・キリコか影響を受けたというアーノルド・ベックリンと較べてみるとよく分かります。ベックリンは象徴主義と言われる画家ですが、ここにあげた「死の島」(右図)は暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいくさまを描いた神秘的な作品と言われています。写実的でありながら神秘的な雰囲気の濃厚な作品で、このような言葉の形容だけであれば、デ・キリコと同じものになってしまうでしょう。しかし、印象はまったく異なります。それは、ベックリンには島の岸壁の重量感とか質感が表現されていて、画面に描かれた物体に存在感があるのに対して、デ・キリコにはそういうものが感じられないという点です。ベックリンの作品では、写実的で現実にありそうなもののように描かれた死の島と、島に向かう小舟に白いひとがたが独り立っている姿が、小さくしか描かれていないのに視線が集まってしまい異様さが目に付いて、不気味な印象を強くします。デ・キリコの作品には、このようなベックリンの作品にあるような迫力は感じられません。デ・キリコの作品は、ベックリンに比べると、平面的でノッペリとした画面になっていて、個々のものの輪郭はキチンと描かれているようなのですが、いかにも上手に描かれている画像という域を超えることはありません。私はデ・キリコの伝記的事実に詳しくないので、彼がアカデミックな技法を修行したのかは分かりませんが、作品を見る限りではベックリンほど習熟していないのは明白ですし、むしろそのような画面の迫力とかいうよりも、自分のアイディアを手軽に画面に活かせるような手段として絵画の表現技法を考えていたのかもしれない、というタイプに見えてきます。描く内容があって、それをいかに描くかというのは単純な議論で、逆に描いているうちに描くものが見えてくるという場合もあるでしょう。そのどこに重きを置くかは画家によって千差万別です。その中で、キリコは絵筆を握る手の比重が相対的に重くなくて、頭でアイディアを考えるタイプの人だったのかもしれません。その場合には、画面そのものに重い存在感があると操作しにくくなります。つまり、ベックリンの作品のような世界は、デ・キリコにとっても鈍重で融通の利かないものだったのではないか、と考えたとしても不思議ではありません。デ・キリコの場合は、結果として画面の出来栄えとか完成度よりも、アイディアを考え付いた時点である程度作品そのものが決まってしまう、というようなあり方であったような気がします。しかも、頭の中で考えるということは視覚的な実在というよりも、言葉で組み立てていくようなことになるので、彼の作品の中には、視覚的に生かされていないものも見受けられる(アイディア倒れ)、また言葉で考えると、視覚的なデリケートなニュアンスに言及することは難しくなるため、パターンの繰り返しが増えてしまうおそれがある。
それでは、個々の作品を観て行きたいと思います。なお、展示は次のように章立てされていましたので、その順で観て行きたいと思います。 Ⅰ.序章:形而上絵画の発見 Ⅱ.古典主義への回帰 Ⅲ.ネオバロックの時代─「最良の画家」としてのデ・キリコ Ⅳ.再生─新形而上絵画 Ⅴ.永劫回帰─アポリネールとジャン・コクトーの思い出
Ⅰ.序章:形而上絵画の発見
デ・キリコは20代の若さでパリで形而上絵画が評価されたということで、展示についても最初から、そのような作品が展示されています。これらを観ていると、奇を衒っているような感じがします。あくまでも後世から見ればの話ですが、当時は、それが批評家たちに天才的なとど言われたのでしょう。先のことになりますが、この次の展示である古典主義への回帰が始まるまでのあいだ、ここで展示されているような、いわゆる形而上絵画は10年にも満たない期間で制作されたということになります。具体的にここが、あそこがというような指摘はできませんが、よい意味でも、悪い意味でも、ここで展示されている作品を見ているとアマチュアリズムという形容が思い浮かびます。ものがたりの捏造をしますが、若いデ・キリコが思いつくアイディアを忘れてしまわないうちに形に残していった。その際に多少の仕上げの粗さは気にせず、時には描きなぐるかのように急いで作品を制作して行ったという印象です。それが、アイディアが汲めども尽きず湧いてきたと思われる若い頃をすぎると、頭の柔軟さがなくなってきて、また、作品を受け容れる批評家や顧客たちもデ・キリコの奇想にだんだん慣れてきて当初の衝撃が薄れてくる。つまりは、作品が飽きられてくる、というようなことで形而上絵画の生命は、それほど長く続かず、もともと土台がなかったデ・キリコは古典に助けを求めた、というようなフィクションです。 ただ、ここで展示されている作品には、若さゆえでしょうか、あまり些事にこだわらず、一気に描きたいものだけを描きたいように描くというような、一種のキレのようなものが感じられます。そこにある種の清新さがあるのは否定できないと思います。
この作品は題名からすると静物画ということになるのでしょうが、静物の置かれてある空間がはっきりしません。多分室内なのでしょうが、その室内のどこにそれぞれのものがあるのかという器の室内空間がはっきりしません。解説の意図に則して考えれば、そこに奇妙さがあるということになるのでしょう。しかし、それならば、もともとの空間を想定し、それを否定するような手続きを踏むはずです。しかし、この作品を見ると最初から、空間の感覚がないと言った方が適切なように思えるのです。つまり、事物を配置すべき空間という感覚が当初からなくて、たんに画面上に事物をぶち込むという印象なのです。その雑多な感じといいますか。そこに、室内にそぐわないようなものが、それぞれの関係を無視したように、なんの脈絡もなく詰め込まれている。喩えて言えば幼児のおもちゃ箱です。多分、デ・キリコは、これを描いているときは楽しかったのではなかったのか、そう思わせるものがあります。しかも例えば、右側中央の輪のようなものとその左の縦の長方形を見てください。解説から想像するに、ビスケットか何かではないかと思いますが、そう言われないと何だか分かりません。お菓子の質感とか、実在感とかがこの輪にはないのです。その上(後方ではないでしょう。画面上というしかないでしょう。)の定規についても、それらしい形状をしていますが、木製であれば厚みとか木の堅い感じとか重さとかスケール感とかがまったく感じられません。それは一種の抽象化された記号のような、“らしい”ものでいいのです。デ・キリコにはこれ以上リアルに描く技量は持ち合わせていなかったとであろうし、画面に“らしい”ものを入れ込むことで十分で、だからこそ観るものもリアルを感じ取ることなく画面の雑多な組み合わせを笑うことができることになるわけです。言葉遊びに駄洒落というのがありますが、この作品は言うなれば、視覚的な駄洒落というような事物の記号の組み合わせ遊びのようなものではないかと思います。それがキッチュさです。しかも、ごていねいに「福音書的な静物」などというものものしい題名がつけられているではありませんか。このような可笑しさが、この作品の魅力になっていると、私は、正直思います。
Ⅱ.古典主義への回帰
しかし、それまでの形而上絵画の平面的でスパッと切り捨てたようなキレはこのような作風になると後退してしまったように見えるというデメリットもあると思います。ここで展示されている「谷間の家具」(右図)という作品は、それまでの形而上絵画に則った作品ではあるものの、思い切りの良さが感じられない、穏やかさが入り込んでしまって微温的な作品になってしまっていると思います。例えば、色彩の緊張関係が希薄になってしまっていたり、空間構造の矛盾がなくなり、単に組み合わせの突飛さくらいしか残っていないことなど。この作品を見ていると、形而上絵画のアイディアが枯渇してきていたと言えるかも知れません。それを、誰よりもデ・キリコ自身が分かっていたからこそ、新たな展開を模索したのかもしれません。そういうデ・キリコにとっては、古典主義は絵画を描くことのベースとして土台になるということよりも、取捨選択のできるスタイルのひとつ程度の認識しかなかったのかもしれません。だから、作品を見ても、徹底して修行するというのではなくて、古典主義のスタイルを試してみようという程度のものだったような気がします。だから、古典主義がイマイチということであれば、他のスタイルにチェンジすることに躊躇はなかったと思います。
Ⅲ.ネオバロックの時代─「最良の画家」としてのデ・キリコ バロックは古典的で安定した画面に比べて空間を歪めて劇的な要素を強調したのが特徴で、古典主義と区別できるというのが私の見方です。この展覧会で“古典主義への回帰”と“ネオ・バロック”とを、特徴をどのように分けているか、よく分かりませんが、展示の説明ではルーベンスの作風の勉強した結果のようなことが述べられていたと思います。デ・キリコの作品では、平面的でごちゃごちゃにパーツを詰め込んだ画面では古典的な空間構成がもともとできていないので、この期に及んで空間を歪めるなどというまでもないことです。デ・キリコの場合には、古典主義とかバロックと形容することに意味はあるのか、むしろデ・キリコのトレード・マークといえる形而上絵画のパターンを取っていない作品と言った方が適当ではないかと、私は思います。
Ⅳ.再生─新形而上絵画
デ・キリコは形而上絵画に回帰します。 いろいろ試みて、紆余曲折ありましたが、結局、これが原点で戻ってきました、というのが回帰という考え方で、これが評価の基底になっているような気がします。
そのような意味で、私には、デ・キリコは形而上絵画を推し進めた結果として、回帰とか再生というのではなくて、もともとそういうものを純化させていったのではないか、と思えるのです。観る側としては、モンドリアンの「コンポジション」を観るのと同じように、構成の微妙な変化をそれぞ そのような視点で、作品を見ていくことにしましょう。「ビスケットのある形而上学的室内」(左上図)という作品です。最初に見た「福音書的な静物」(右図)と同じようなパーツが使われています。それらの組み合わせや大きさのバランス等といった構成を変えて、シリーズ物として様々な作品を提供するということを可能にしていると思います。私には、「福音書的な静物」が描かれた1916年には物珍しさもあって衝撃的に受け取る人々がいて形而上学的とかいうレッテルでわけがわからないことをもっともらしく評していたのが、50年の時間を経て当時の衝撃はなくなり、このような作品以上にわけのわからない作品が数多現れた後では、物珍しさも失せてしまった。その時に、わけのわからなさを糊塗するような形而上学的などという形容は、昔日の栄光のような思い出の中にあると言う状態になって、作品をただ観るということが可能になったのではないかと思います。形而上学的などとレッテルを貼ってしまうと、往々にして画面そのものを見ているようで、描かれていないものを意識的に見ようとしてしまうことが多くなります。しかし、それは実は作品を観ていない。デ・キリコの作品といのは、本人も含めて、そのような目に遭っていたのではないか、と思わせるものがあると思います。これは、私の偏見かもしれませんが。さて、二つの作品を比べるように観てみると、単に同じシリーズの作品として同列に並べていいように見えるのが、大きな驚きです。「ビスケットのある形而上学的室内」は「福音書的な静物」よりも50年も後に制作され、その間、画家は様々な試みに挑戦し、画家として成長したのではないかと普通なら考えるのではないかと思いますが、その考えるときに期待する成熟とか表現の進歩とか、そのような痕跡が全く見られないのです。例えば、双方にあるビスケットの描き方を観ていても、相変わらずそれと知らされていなければビスケットであるとにわかに判別できないような下手さなのです。この50年間というのはデ・キリコにとって何であったのかというものが全く見えてこないのです。あれは、ある意味すごいことなのではないかと思うこともあります。
Ⅴ.永劫回帰─アポリネールとジャン・コクトーの思い出 いよいよ展示も最後の章です。これまで、デ・キリコの作品を初期の形而上絵画から新古典主義、ネオ・バロックを経て、形而上絵画に回帰し、ここにきて形而上絵画を展開させたような作品を制作しました。
デ・キリコという人も、典型的な画家というタイプの人ではなかったのではないか、と私は想像します。私が考える典型的な画家とは、例えば有り余る才能に翻弄されてしまうような天才的な人でカラバッジォのように才能に振り回されるように作品を生んでしまう人、あるいは何よりも描くことが好きで、努力の末に作品を成熟させていったシャルダンのような人です。そして多くの画家は彼ら二人のような極端ではないものの程度の差こそあれ二人を結ぶ直線の上にどちらの傾向によっているかの程度の差によって並んでいるのではないかと思います。しかし、デ・キリコはその直線には乗ってこない人だったのではないか、と私には思えるのです。それは、先の二人に共通している描くという行為を重視する姿勢がデ・キリコには感じられないからです。そういう精魂を込めて描くというような重さがないということから、デ・キリコの作品に対しては、芸術を鑑賞させていただく、という格式ばった姿勢ではなく、リラックスした消費の対象のような向かい方ができる、と思います。
「燃え尽きた太陽のあるイタリア広場、神秘的な広場」(左上図)という作品です。デ・キリコは広場を題材にしたシリーズ物のような作品を描いていますが、そのひとつと言っていいのではないかと思います。それが、展示の章立てで前の章と別立てにして、あえてここに展示している意味が私には分かりませんでした。“永劫回帰”という物々しいタイトルの展示の中にありますが、はっきり言って、前の章で展示されていた作品のパターンに見えました。ここで展示されている作品は、そういう点で、それぞれの作品の個性というのは、とりたてて感じられない、パターン化されたシリーズのひとつ、一種のパーツのようなもののように思えます。 「オデュッセウスの帰還」(右図)という作品です。このような室内に船を浮かべているパターンもデ・キリコはいくつか描いているようですが、舞台を室内にするとか、古代ギリシャ風の物とか並べられている小物類をみていると、デ・キリコ風のパーツを盛り込んで、いかにもデ・キリコ風という作品になっていると思います。そういう意味では、デ・キリコ風として出回っているイメージを焼きなおして再生産するということは繰り返しを続けることに他ならず、格好いい言葉にすると“永劫回帰”というのが当てはまるのかもしれません。 色々と辛らつなことを書いてきましたが、デ・キリコの作品については形而上絵画とかシュルレアリスムの先駆とか、あまり祀り上げるようなことをしないで、軽いイラストのポスターのような、鑑賞するではなく、インテリアの一部くらいにリラックスしてなんとはなしに眺めるくらいが丁度よいのではないかと思います。これは、貶しているつもりはありません。 |