シャルダン展─静寂の巨匠 |
2012年10月24日(水) 三菱一号館美術館
美術展としては、展示点数も多い方ではなく、小品が主だったので、一つ一つの作品に魅せられてじっくり時間をかけて、ということもなければ1時間弱で通して見られる。そういう意味では1500円という入場料は高い気もした。 シャルダンという画家は、時代的には18世紀に生きフランス革命の起こる前に亡くなった、ロココの終わりという感じだろうか、時期的には、ドミニク・アングルとかジェリコたちとも重なる時期があると思う。
「18世紀、世俗化されていく社会を背景に、現世的なものへの関心が強くなっていく中で、絵画は美的鑑賞の対象として画家の名人技とともに、拡大を続ける鑑賞者たちによって、時とともにますます愉しまれるようになる。こうした時代に、ジャン・シメオン・シャルダンは、平凡でありふれた事物を、充実した、荘厳とも言える存在として表現した、当時の批評家たちの言葉を使えば「魔術師」だった。画布の上に表わされた事物は、生命を与えられた一個の独自の存在として、私を限りなく魅了する。原物とは切り離された、自立した世界がそこにはあるのであり、ディドロのようなシャルダンの礼賛者たちは、対象の生命や本質をとらえて表現した画家として、彼を讃え、絵画固有の価値を認めたのである。例えば『カーネーションの花瓶』(左図)はシャルダンが描いた現存する唯一の花の絵である。一度見たら忘れられないほど魅力をたたえた作品で、彼の画家としての資質が余すところなく発揮されている。一見何の変哲もない作品でありながら、彼がどれほど周到に構成を練り、色彩を選んでいるか、次第に明らかになるだろう。たとえば、机の上に置かれた赤い二輪のカーネーションが、強いアクセントとなって画面をどれだけ引き締めているか。あるいは色数はごく限られていながら、音楽的ともいえる心地良い諧調を生んでいるかを」 説明というよりもオマージュに近い、かなり熱い解説になっています。地味な作品にそぐわないかと思いつつも、それだからこそ思い入れのあるファンがいるというタイプの画家ではないかと思います。たしかに、ここで解説に書かれている要素はあるのかもしれませんが、それにしても主観性が強いというのか、逆説的な言い方かもしれませんが、また画家自身は意図的にやっているのではないのでしょうが、このような解説を書きそうなスノッブに結果的に媚びている感じはします。この解説文になんとなく漂う、なかなか普通の人には、この一見平凡な絵画に隠された真実とか存在そのものを、私は見えるのだというようなエリート意識が行間に見え隠れしているのです。繰り返すようですが、これは何もシャルダン本人がそうしようとしたものではなく、周囲の人間や後世の愛好者がそういうものとして祭り上げていったものです。しかし、シャルダンの作品には、そうしたくなるような要素があるのでしょう。例えば、私が支えてあげなければ、という強い思いを抱かせるような要素が。現代において、似たような現象として、突飛かもしれませんが、私はAKB48という少女のアイドル集団とファンの関係に似ているように見えました。彼女らは、取り立てて美しい容姿に恵まれているわけでもなく、歌もダンスも下手であるにもかかわらず、ファンと交流し不器用ながら一生懸命頑張っている姿を見せている。ファンはそれに共感し支えてあげようと熱い共同幻想の空間を作り上げるというものです。シャルダンの場合には、もっとスノッブで上品な感じはありますが、そのファンの雰囲気に共通性を感じました。 で、正直にシャルダンの絵の私の感想を書けば、「下手!」の一言に尽きます。例えば、解説で取り上げられていた『カーネーションの花瓶』。筆遣いに滑らかさはなくて、まるで絵の具をぶつけているようです。だから、陰影のニュアンスは粗っぽく、だいたい輪郭すら描けていないです。花びらのひとつひとつをよく見ると、花びらに見えない。それは、モネの晩年の睡蓮の花びらを見ているようです。そういう要素しかそろえられず、たどたどしくも花瓶に活けられた花として、取敢えずみれるようになっている、いってみれば奇跡のような作品なのです。多分、私にとってシャルダンという画家は、アイロニーとしてしか語ることのできない画家なのかもしれないと思いつつ、これから具体的な作品を見て行きたいと思います。
Ⅰ.多難な門出と初期静物画
シャルダンの初期の作品群で、彼が最初に描いた静物画ということになっている野兎を取り上げた作品が展示されています。友人であるコシャンの手記がシャルダンの言葉を伝えていると言われているそうですが
実際に作品を観てみると、兎の毛を一本一本細密に描写する必要を感じていなかったというより、絵の具をボコっと画布に塗りつけるような粗っぽい筆遣いで描かれているので、このような描き方では、そもそも細密に毛を一本一本描き込むような繊細な筆遣いは望めない。つまり、そんなことができる技量がない、ということの方が真実ではないか、と私にはおもえてなりません。その証拠といっては何ですが、同じ展示室に飾られている『ピリヤードの勝負』(右図)の天井からぶら下がっている梁やそこに乗せられている物体の不器用な描き方、まるで塗り絵のようなもの。このような描き方をしている人が、いくら精進をしたとしても数年もたたないうちに繊細で細密に兎の毛を一本一本描き込んで毛並みに見せるなどという芸当が、果たしてできるのか。ということから、シャルダン本人の言というのは、それだけの技量がないことは自分で分っていて、そのような技量で最大限の効果を上げるための方法論として選択されたもの、という方が私には説得力があります。
一本一本の毛ではなく全体としての対象の存在そのものを表現するというと、何かセザンヌみたいですが、画布という平面に描くという手段でそれをして、なおかつ、それを観るものがそうだと分からなくてはならないわけです。とくにシャルダンの場合は、生活のために画家となっているわけで、絵が売れて食べて行かなければならない。芸術のために真実を追求し、後は歴史が審判してくれるなどというような独善的なことでは生きていけなかったはずです。どちらかといえば、そういう方向性というのは、周囲の画家と自分は違うという差異化の戦略をたてて、絵の買い手にアッピールすることが狙いだったのではないかと思います。もし、そういう方向性だったら、対象の存在を描くことよりも、観る者が対象の存在が描かれているように感じ、それが他の画家にないシャルダンという画家のすごいところだということを理解させることの方が重要なことのはずです。多分、残された言辞からシャルダンという人は、そのことに自覚的だったように思えてなりません。『細部がもはや見えなくなるほど遠くに対象を置く必要がある。それの全体の量感、色調、ふくらみ、光と影の効果をうまく、最大限の真実とともに模倣すること』と自身が語っていることは、どう見せるかという効果について自覚的であることを物語っています。それこそが、私にとってシャルダンという画家の作品の大きな魅力なのです。何か、現代の資本主義の毒に侵された偏った見方と思われるかもしれませんが、私には、18世紀の画家が現代のビジネスの視点からも関連付けられるということの方が驚異的ではないかと感心させられるのです。 この最初期の野兎を題材とした作品は、画家が精進を重ねていく前の拙さが多く残る中で、そういうシャルダンの戦略的な方法論が剥き出しに出ているという点で、大変面白い作品であると思います。 ※この展覧会の後、しばらくして小林康雄さんの著作で、このようなシャルダンについて、私が下手と述べたことを、異なる視点から意味づけられ手いるのを知りました。全く目から鱗の落ちる思いでした。蛇足かもしれませんが、簡単に紹介いておきたいと思います。 「その器や果物は、シャルダンが自分のつかんだそれらの秘密をあなたにゆだねるのを見て、すすんでその秘密をあなた自身にゆだねるだろう。静物はとりわけ生きた自然になるだろう。生命と同様、静物はあなたに生きた自然になるだろう。生命と同様、静物はあなたに告げるべき何か新しいものを、輝かすべき不思議な魅力を、解き明かすべき神秘をつねにもつことだろう。数日の間、教えに耳を傾けるように、彼の絵に耳を傾ければ、日々の生活はあなたを魅了するようになるだろう。そうして彼の絵の生命を理解したのだから、あなたは生命の美をかち取ってしまうに違いない」(マルセル・プルースト『サント・ブーブに反駁する』) プルーストが「秘密」といったもので、シャルダンが絵画から出発して“見ること”そのものを変革すると捉えるならば、シャルダンは“見る”ということが、形とその形がもつ色彩の経験であるだけではなく、なによりもそれぞれの異なった事物がもつ、それぞれの異なった事物が観る者に与える“質”を“見る”ことです。 さきに少し触れたスルバラン等のスペイン・バロックの静物画のような光と影のドラマという要素がない、いや、そのようなドラマに至らないのがシャルダンの静物画ということになります。シャルダンの静物画の中の食器や食物にはドラマティックな“意味”ではなく、寡黙な“質”、例えば食器の陶器や金属、食物の肉やパンなどのそれぞれ異なった“質”をもつ事物が、現実の空間でもあると同時に、それをそのままに描いた表現上の空間をかたちづくり、そこにひとつの秩序を作り出しているのです。しかも、それは決して言葉によって語ることの出来ない秩序であり、絵画によってしか作りえない秩序です。この秩序は絵画に先立って存在していたわけではありません。異なった“質”をもつ事物を、空間に、光のなかに、配置して秩序を作り出すのは画家であるシャルダン自身です。 この“質”、それは単に、たとえばゴ食器の銀の質感というだけでなく、そこに光が当たり、その光とともに、“わたし(画家であるシャルダンでもあり、観る者であるわれわれのような“わたし”です)”がそれを感受している感覚的な“質”、これは私たちの意識の中で事物が生き生きとしてリアルなものとして感じとられる“質”のことです。それを作品の画面の上に再現しようとしたものと言えます。 このような静物画の意味づけは、いったん風俗画に移ったシャルダンが復帰してきた後期に変容するといえます。それはこちらで触れたいと思います。
Ⅱ.「台所・家事の用具」と最初の注文制作
しかし、と私は思うのです。このように見ていると、悪く言えばパターンの使いまわしではありませんか。比較にならないかもしれませんが、現代の人気アイドルグループAKB48がメインのボーカルを立てられず、センターボーカルをファンの人気投票で選挙するのが話題になっていますが、要するに誰がセンターでボーカルをしても大して変わりはないという突出した存在がないからに他ならないわけです。AKB48のメンバーの少女の一つ一つはいわば取り換えのきくパーツのようなもので、その組み合わせで少しだけ色合いの違うものが組み立てられる、その微細な違いをファンは安心して楽しめる。シャルダンの静物画にも似たような雰囲気が感じられます。しかも、やはり下手なのです。『肉のある料理』に描かれた壷が明らかに歪んでいます。デッサンがしっかりできているのか、と言わざるを得ません。しかし、下手なりに構成を考え最大件の効果を生み出し、頑張っているではないですか。何かいじらしくなるほどです。この点もAKB48に似てなくもありません。
展覧会の惹句では静寂とか寡黙とか、何か珠玉の小品のようなイメージを喚起させられますが、作品を観ていると、そういう高尚な感じはしないのです。芸術としての高貴なオーラは感じられなかったというのが正直なところです。そんな中で、画家として生活の糧を何とか稼がなくてはならない、ということで持っている技術を総動員して、他の画家を出し抜くことができないのなら、差別化して他人がやらないニッチなところで商売をしていった、それなり評判を勝ち得たからこそ、こうやって後世でも展覧会が開かれるわけで、あえていえば、シャルダンという画家の苦闘を想像せずにはおれない、というのが、この展覧会の率直な感想です。多分、批評家のような人がテレビや新聞でチラシの惹句のようなことを述べて進めていましたし、この展覧会の感想がネットに頻出していますが概ねそういう方向だと思います。しかし、私個人はこの方向で感じらませんでした。それが正直なところで私の感想なので、これを読んでも展覧会の参考にはならないことをお断りしておきます。
Ⅲ.風俗画─日常生活の場面
では、といって実際の作品をと『画家ジョセフ・アヴェドの肖像』(左上図)を見てみると、シャルダンにしては大判でそれなりの野心はあるのでしょうが、どう見ても下手です。人物に動きはないしボタっと絵の具垂らしたような厚塗りの塗り絵のような、人物に表情もなく、しかも背景かはっきりせず書き割りのようで奥行が感じられない平面的な作品です。何か、書いている私自身ですら見も蓋もないと思うほどです。しかし、かれはその短所を転じて長所にしていく。そのあたりのことを、カタログが上手く解説しているので引用します。
彼のもっとも初期の風俗画の中に描き込む人物像を、モデルを基にして写し取ろうとする。だが無駄であった。わずか後には、彼は素描を止めるが、そのことが彼を当時の大家と隔てることになる。画家は動きのない世界に没頭し、イーゼルから適度に離して、眼の前に置いたものを描く。こうした方法で制作したのは、個の世紀には彼だけである。動きのない世界という言葉で私が言いたいのは、彼の静物画はもちろんのこと、すばらしい風俗画の場面、いかなる動きも邪魔することのない、閉じられた世界のことである。彼は見たもの、見たものだけを描く。彼は動きを避ける。シャルダンは同僚の誰ひとりも比べることのできない技法を、自分ために改めて作り出した。ブーシェの滑らかな絵肌の技法を思い出させるような18世紀の画家のタッチの自在さや、フラゴナールの目も眩むような名人芸などとは、シャルダンの技法はまったく別のもので、たっぷりとした絵の具の厚塗り、次々と絵の具を塗り重ねること、粘りつくようなマチエールかに成り立っている。画家は物語を語り始めることのない主題を選ぶ。このやり方は当時の主要な画家とは異なる。早くも18世紀から、彼の芸術のこの特殊性は、人を途方に暮れさせ、当惑させた。それはシャルダンの礼賛者を困惑させた。というのも、彼等は一枚の絵がなんら物語を語らないことを、なかなか認めることができなかったからである。シャルダンは大胆にも当時でただひとり、物語ることを拒んだ画家である。たしかに、彼はすべての逸話を、物語を、画趣あるもの、叙述的なものを避けた。当時の現実的問題を暗示するものは何もないし、道徳、教訓、イデオロギーも何一つない。彼の芸術は、感動的なほど野心的である。」
そして、シャルダンの人物画として最後期の作品となっている『セリネット』(右図)は注文によって制作されたものらしいです。このころになると、描く対象はブルジョワに限られ、描き方も、幅広で、粗くかすれたような、ざらざらした、凸凹のある筆触や、よく目立ちはっきりと判別できる絵の具の塗り重ねが見られなくなり、鮮やかな色彩は大胆さをうしない洗練され、そして、人物は表面から奥に引っ込み、作品の中に占めるスペースが小さくなっていきました。これは、裏を返せば、人物をより広い空間の中に配置し、筆触はぼやけ、蒸気のように軽く繊細になり、淡い色調はパステル画のように、画面の中に清涼な空気が流れ込むように感じられるものになっていったと言えます。そして、晩年の静物画に回帰していくことになります。
Ⅳ.静物画への回帰
ところで、初期のシャルダンが、それしか描けない境遇の中で描いていた肖像画と、生活の安定を勝ち得た後の1750~1760年代の静物画の違いはあるのでしょうか。一見して分かるのは、作品の中の静物の数が減ったことです。初期の作品では卓上に溢れるように様々な事物が所狭しと置かれていましたが、この時期の作品では事物の数は減り、整然と並べれています。カタログの説明では「それぞれの果物の細部や、それぞれの器具が実物に忠実あるかどうかにさほどこだわっていない。重要なのは全体の見え方である。筆の運びはより柔らかく滑らかになり、初期の静物画の特徴である厚塗りは見られない。これ以降、重要になるのは、反映と透明感であり、光と影である。空気は思いのままに流れて、薄明りの中から堂々たる全貌を現わす用具や果物を包んでいる。」 『すももと籠』 (左上図)という作品では、すもも一個一個はきちんと書いていないように見え、籠などはデッサンが歪んでいるのか目立つほどで、おそらく籐を編んだ籠なのでしょうが、その部分がぞんざいに書かれているのではないかとも思われます。しかし、画面右手から仄かに差す光に、水の入ったコップ、すももやサクランボが映えたり陰になり多彩な色彩の変化が見られます。かといって、画面には統一感があります。その微妙な色彩の諧調は精妙で、独特の空気感とともに詩情を湛えていると言えるかもしれません。
おそらく、シャルダンは1730~1740年代に風俗画を中心に描いていて、それ以前描いていた静物画ではさほど重要なことではなかった空間という課題に向き合わざるを得なくなったのではないと思います。それは、静物画とは比較にならない広い空間を構成することや、奥行という立体的な表現の課題です。その中で、シャルダンは間(ま)ということに気が付いたのではないか。つまり何もない空気です。初期の静物画では隙間がないほど多くの事物で溢れていました。画面に多くの事物を載せてしまえば、空間を考えなくて済みます。しかし、風俗画では室内を描かなくてはならず、室内という空間があって、そこに人物や事物を配置し、何かの場面を観る者に想像させる。そういう作品を描いているうちに、シャルダンの風俗画に自然物の占める割合は次第に小さくなって、徐々に空間に人物か置かれるということで、かえって人物が印象に残るというような、空間の描き方に習熟していきます。その鍵となったのは隙間、あるいは空気の描き方、全体の配置だったのかと思います。そのような風俗画の経験を活かしたのが1750年以降の静物画だったのではないかと思います。
それは『桃の籠』(右上図)の暗がりから浮かび上がるような桃の描き方に見られるように、シャルダンという画家は、当初の目の前に置かれた物を忠実に描き写すことから、描かれたものが画面としてどのように見る人に映るかに気が付いたのではないか、と思わせるところがあります。当時の絵画のヒエラルキーで最上階の歴史画は、今は現実に無い過去の事柄をあたかも今あったように画面に定着させるものなので、極言すれば画家の作り出す偽の画面です。それをよく言えばイリュージョンという便利な言葉もあります。しかし、シャルダンの描く静物画は、目の前にある台所の器物や果物をそのまま写生すると考えられていたのではないか。それに対して1750年以降のシャルダンは歴史画と同じように画家が画面という偽の空間をつくるイリュージョンであることに気が付いたのではないか。ここに描かれた桃は、桃を写生して描くのではなく、観る人が桃に見えればいい。細部を省略して粗っぽく描いても、胡桃やナイフや水の入ったコップとの対照や位置関係、色合い、光の当て方などからそのように観る者に想像させればいいのです。そこでシャルダンは観る者にそのように想像させる画を描こうとした。だから、これらの静物画は写実ではなくて、歴史画とおなじイリュージョンなのです。そのように積極的に観ようとしなければ、その面白みを堪能できない。それこそ、シャルダンがどのようにひとつの世界をつくろうとしたか、ということがこれらの作品には込められているといえるのではないでしょうか。
※この展覧会の後、しばらくして小林康雄さんの著作で、このようなシャルダンについて、私が下手と述べたことを、異なる視点から意味づけられ手いるのを知りました。全く目から鱗の落ちる思いでした。それについては、こちらで簡単に説明しました。後期の静物画についても興味深い意味づけがなされていましたので、ここで簡単な説明を試みたいと思います。 後期の静物画は初期の静物画に比べて、全体として柔らかで、透明で、ゆったりとした“質”へと変わっていました。銀や銅といったメタルよりは、陶器の微妙な肌合いやガラスの透明性が好まれ、花や果物が静かな情緒を醸し出す。動物的な生命から植物的な生命へとゆるやかに変化していったと言えます。 左上図の「木いちごの籠」を見てみましょう。籠に盛られた木いちご。水が入ったガラスのコップ。白いカーネーション2輪。2個の桜桃と1個の桃。それだけです。そのシンプルな画面を見つめていると、ここではすべてが、木いちごも桃、コップもそのなかの水も厚い木のテーブルも、背後の壁も、この空間の全体が“生きている”ことに気がついて驚いてしまうのです。すべては“生きている”。それが「秘密」です。「秘密」とはいえ、秘せられたものなど何ひとつない「秘密」です。すべてがんなにも、隠されることなく、開かれて、存在している。だが、次の瞬間に、観る者はもうひとつのことに気がついて、さらに驚く。しかし、これらすべてが“生きている”のは、まさに観る者がそれを“見ている”からなのだということを観る者の眼差しが、この空間に生命を与えていることに驚きながら、気づくことになるのです。 |