ブダペスト─
ヨーロッパとハンガリーの美術400年
 

  

2020年1月31日() 国立新美術館

10年以上前に各企業の担当者が集まって勉強会をしていたが、今夜は、その時のメンバーによる同窓会。毎年、新年会の時期に池袋でやっている。それで都心に出る時間を少し早めて、寄ってみることにした。山手線の原宿駅は工事中で、平日の昼過ぎの頃にも関わらず混雑していて、工事で通路が狭くなったりして、混雑に拍車をかけるようだった。地下鉄に乗り換え、乃木坂の静かな方の改札で降りる。新美術館は、けっこう混雑することがあるが、この展覧会はどうなのだろうか、会期のちょうど中間の頃合いで、人気が出た展覧会であれば、混雑が激しくなってくるところだ。千代田線の駅を出たところに、この展覧会の特設売り場があった。美術館では人手を予想しているようで、案内(呼び込み)の人が、冷たい風の吹く中で立って大きな声を出していた。しかし、売り場は閑散としていて、個人的には安心した。混雑したところで絵を見たいとは思わない。美術館に入っても受付で、呼び込みのように係員が声をかけていたが、会場は、そこそこの人出で、まあ、落ち着いて見ることができる程度。平日の昼間だからかもしれない。若い人がいるのは学生だろうか。外国人の姿も目に付いた。私のようなスーツ姿のおじさんは、あまりいないようだ。

最初にイントロダクションとして、展覧会チラシのあいさつを引用します。“日本とハンガリーの外交関係開設150周年を記念し、ハンガリー最大の美術館であるブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーのコレクション展を開催します。両館の所蔵品がまとまった形で来日するのは、じつに25年ぶりとなります。本展では、ルネサンスから20世紀初頭まで、約400年にわたるヨーロッパとハンガリーの絵画、素描、彫刻の名品130点が一堂に会します。クラーナハ、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルノワール、モネなど巨匠たちの作品に加えて、日本では目にする機会の少ない19〜20世紀ハンガリーの作家たちの名作も、多数出品されます。「ドナウの真珠」と称えられるハンガリーの首都、ブダペストから一挙来日する珠玉の作品群を、ぜひご堪能ください。”こういうのって形式的な文章であることが多いのですが、これは最たるものですね。引用した文章には主語がひとつもないです。つまり、このあいさつ分から分かることは、主催者は、「こうやりたい」という意図をもたず、したがって単に美術館のコレクションを持ってくるというだけで、おそらく膨大なコレクションがあると思いますが、その中から持ってくる作品を選別する際に、「こういうのを見てもらいたい」とでもいうようなものが強く起こらなかった。例えば、この文章の中に内容についての言及が一言もありません。したがって、展示作品の選別は、よく言えば網羅的、裏面から意地悪く言えば可もなく不可もない。そういう姿勢が見て取れる文章だと思います。では、実際の展示がどうだったか、見ていきたいと思います。

で、最初に結論から言うと、可もなく不可もない方だったという感想です。だいたい。「何とか美術館展」とかいう展覧会は、とくに今回のような国立の美術館のコレクションを持って来て展示するのは美術館単独というよりは外交セレモニーの側面もあるのでしょうか。したがって、こんな風になってしまいがちです。だから、展覧会をみるというより、展示作品を個々にみて、気に入ったものがあればOKという見方に。どうしてもなってしまう。だから、「何とか美術館展」という仰々しいタイトルなんぞより、〇〇と××の作品を展示してますの方が見る者には親切だと思います。そういうものでした。ということで個々の作品を見ていきます。

で、個々の作品なんですが、前半はイタリア、スペイン、オランダの近代以前の絵画コレクションで、イタリアは大家の工房の制作で落ちるっていう作品だったり、スペインは大家の地味(というより凡庸といってもいいかもしれない)なんかで、突出した印象を残す作品はありませんでした。中には、しばし前で立ち止まるような作品もあった、という程度です。あいさつで、“クラーナハ、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルノワール、モネなど巨匠たちの作品”と書かれていますが、これらは、モネがあるから見に行こうというほどではなくて、行ったらモネがあった程度だと思います。まあ、好みの問題なんでしょうが。別に、こき下ろしているつもりはないんですが(こき下ろすのであれば、最初から、載せません)、なので、このあと印象に残った作品をとり上げていきます。

その中で、18世紀ヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエボロの「聖ヨセフスをカルメル修道会の守護聖人にするよう、アヒラの聖テレサに促す聖母」という作品。70×55cmという、それほどサイズは大きくないのですが内容は大作です。ピラミッド型に人々を配した安定したレイアウトで、その頂上に聖母マリアがいて、上から慈悲を施すというような垂直構造で神と人の対比をいれている。手慣れた堅実な仕事です。しかも、仕上げは丁寧で、全体として明るい色調で、聖母の肌が艶めかしいほどツヤツヤしています。このマリアさんは美女で、このために描いたと言っても許されると思えるほど。

17世紀イタリアのベルナルド・ストロッツィの「受胎告知」は天から天使が降りてきたのを、見上げるマリアの驚きの表情に迫力がある。縦長のキャンバスに天氏とマリアを上下において天使が降りるとマリアが見上げるという上下の動きを交錯させて、荒い筆遣いがダイナミックな動きを全体に与えていて、劇的な緊張感に漲っている作品です。同じような構図は、 エル・グレコの同じテーマの作品で見た記憶がありますが、グレコは光と闇の対照もあって神秘的だけど、こちらは人間ドラマと言えると思います(左側がティエボロ、右側がグレコの「受胎告知」)。

17世紀オランダの画家ヘンドリック・ブルーマールトの「本を読む老人」という作品です。暗い背景を背にして一心に本を読む老人に上から光が注ぐという構図は、バロック美術の聖人を描いた作品のようです。例えば、ジョルジュ・ラ=トゥールの聖ヒエロニムスを描いた作品とか。年齢を重ねて節くれだった指をねじるようにして本を持ち、視線を本のページに落としている赤らんだ顔には皺がふかく刻まれています。それを上から注がれる光にあたって、陰影が深く強調されています。背筋がシャキッとするような重厚な作品です。(左側がブルーマールト、右側がラ=トゥールの作品)

フランソワ・ド・ノメの「架空のゴシック教会の内部」という作品。どこまでも続くような教会の、細密で息苦しいまでの荘厳さ。差し込む日の光がつくる明暗のコントラスト、巨大な彫刻群。これらすべてを執拗なほど緻密に描き込まれたさまは、むしろ不気味さを覚えるほど。ファンタジー系のゲームの舞台を見ているような非現実感にとらわれるところがありまか。建築図面にみえないわけでもない。

いよいよハンガリーの画家が出てきます。ボグダーニ・ヤカブの「石の花瓶と果物のある静物」という作品。17世紀から18世紀にかけて活躍した静物画家だそうです。明るい色彩で、色とりどりの果物が器からあふれています。ふつう、このような果実の静物は、室内、例えばテーブルの上に置かれているという構成で描かれていると思いますが、この作品は野外に置かれていて、背景は屋外の風景画になっています。そして、その背景となっている風景と前景の静物とのギャップが激しい。それを見ていると強い違和感があります。その大きな要因は大きさのバランスで、風景に比べて静物が異様に大きい感じがします。これでは手に取って食べることのできる大きさではなくて、転がったら人を轢き殺してしまうほど大きいように見えてしまいます。そして、明暗の極端な対比と、前面の静物の描写の細かさが風景の描写に比べて細かすぎるのです。静物の描写が細かすぎて画面から浮いてしまって、毒々しさを覚えるほどです。単に静物の部分だけを取り出してみるとヤン・ブリューゲルの静物画を想わせるようですが、ブリューゲルは背景を省略することがほとんどなので、超細密な静物だけという画面だから、比較の対象がないのです。しかし、このヤカブの静物画は背景がふつうの風景画になっている。そこで風景と静物を比べてしまうと、極端さが目立ってしまうのです。それが見る者に異様な印象、落ち着きのなさを感じさせます。この作品には、他の2人の画家の作品が並んで展示されていましたが、それらはすべて、一部が異様に突出してバランスを欠いた作品で、見ていて落ち着かいない印象を与えるものでした。ハンガリーの画家というのは、そういう特徴があるのかもしれないと思いながら、後半の展示に移ることになりました。(右側がヤカブ、左側がブリューゲルの作品)

前半の展示を見終わり、トイレ休憩して、すっきりしたところで後半にはいります。ここからの展示はハンガリー画家が中心となっていくので、展示コーナーごとに分けて書いていきます。

U.19世紀・20世紀初頭

1.ビーダーマイヤー

ビーダーマイヤーって小市民という意味合いですよね。そう思いながら、遭遇した作品が、マルコ・カーロイの「漁師たち」という作品。逆光の眩しい光景が大画面で迫ってきました。この眩しさの描写だけでも、この作品は印象に残ります。それほどインパクトの強い作品でした。展示に付されていたキャプションではニコラ・プッサンの影響を受けているという。たしかに、風景の描写はプサンの描き方に似ていなくもない。理想化された風景と説明されれば、そうですと首肯せざるを得ない。プッサンは風景の輪郭をはっきりとさせないで、空気感といいますか、少し湿り気味の空気でぼんやりと柔らかい雰囲気になって、どこか幻想的な趣きがあります。それが理想化された風景の雰囲気を高めているので、そこには、カーロイのような強い光が射してくるということはありません。カーロイの作品は、プッサンに習いながらも、輪郭が明確で、書道の楷書体のように几帳面に描かれていて、そこに逆光が、正面、つまり作品を鑑賞する人に向けて射してきます。それを正直に几帳面に描いている。例えば、ムンクに日輪を正面から描いた作品がありますが、それは鑑賞者に向けているようで、光を鑑賞者が直接感じて眩しく思うことはありません。シンボリックな比喩表現で逃げています。それを、何の衒いもなくストレートに描いている。

フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの「ウィーンのマクダーネングリュントの物乞いの少年」という作品です。これも小市民なんだろうか。むしろ、このような光景から目を背けて快適な自宅の居間で満ち足りているのがビーダーマイヤーだと思っていましたが、展示の意図は違うようです。写真のような写実的な描き方で、スペインのムリーリョの「蚤を取る少年」を思い出しました。ただし、この作品の少年は身体のバランスが変な感じで、上半身が短すぎるのと、顔の大きさと傾げ方がずれているような印象で、落ち着きが悪い印象です。それだけに少年への視線が緊張することになる効果を生んでいると思います。こんなところで総括してしまうのは早合点かもしれませんが、これまで展示されているハンガリーの画家の作品は、オリジナリティーはそれほどなくて、既存の画家の作品に習ったような、「どこかで見た」ような印象を持たせるものが多いです。それゆえに親しみやすさがあると思います。その一方で、一部の突出して画面全体のバランスを欠いてしまっている。そこに作品を見る者が引っ掛かってしまう。そういう見方をする作品が多いように思えてきました。また、ほとんどの画家は作品を正直に几帳面に仕上げていて、手を抜いている様子は全く見られません。そこには、職人の誠実さのようなものが感じられるので、一部の突出については、意図的にやっているとは思えず、おそらく、その部分を描くのに自然に力が入ってしまった結果ではないかと思います。(左側がヴァルトミュラーの「ウィーンのマクダーネングリュントの物乞いの少年」、右側がムリーリョ)

フェリーチェ・スキアヴォーニの「お茶をいれる召使い」という作品です。スキアヴォーニという名前からしてイタリア人の画家でしょうか。ビーダーマイヤーというイメージにドンピシャの作品。幸せな市民生活なんだと思うのだけれど。描かれている少女が何とも可愛らしい。お人形のようなところは、シャルダンの描く少女に似ている気がする。エプロンの裾を鍋つかみ代わりにしてポットを掴み、茶を注いでいるポーズが愛らしい。白いエプロンの下に覗く袖のピンクが萌え要素ではないでしょうか。左から外光がさして、少女を照らして、陰影をつくっているところはフェルメールの画面構成を連想させるところもあり、また、少女のバックに黒板をおいて、白系統の身なりの少女の姿が対照されて浮かび上がる効果を作り出しています。けっこう芸が細かいところもある作品です。

2.レアリスム─風俗画と肖像画

ムンカーチ・ミハーイの「パリの室内(本を読む少女)」という作品です。ミハーイの作品は、他にも数点展示されていて、ハンガリーの画家の中でも有名な画家なのでしょう。本を読む少女のポーズは、フランスのロココの画家フラゴナールの「読書をする娘」とそっくりです。ただ、この作品は、タイトルが「パリの室内」という通り肖像画ではなく、室内の模様を描いた絵画なのではないかと思います。比較的大きな画面でパリの裕福な室内の光景と思われますが、その室内の様子は、けっこう荒々しい筆遣いで細部は描きなぐりのように見えます。それが距離を置くと、すこしゴテゴテしてますが装飾が多く施された部屋のように見えてきます。若いころに、ギュスターヴ・クールベの写実的な作品の影響を受けたらしいので、この作品の筆遣いは、クールベによるところがあるかもしれません。しかし、その室内の光景とは別物のように中央の本を読む少女は丁寧に描かれています。その姿は、さきほど触れたように、フラゴナールの「読書をする娘」を彷彿とさせるほど流麗に描かれています。クールベ流れの荒々しい筆遣いで裕福な室内を描くと、優雅さのようなものがかんじられず、やたらゴテゴテした、ごちゃごちゃした雑然とした感じになってしまうというところと、その中心に、いかにもロココという感じで描かれた優美な少女の姿があって、その大きなギャップがありながら、ひとつの画面に同居させている。あまり、画面のまとまりとか統一とかを考えていないように思えます。ただ、何を描きたいかが一目瞭然で、その欲求を追い求めて、あとはどうでもいいという性格は、これまで展示されているハンガリーの絵画に見られるもののように思います。ただし、これは私の偏見だろうと思います。ちなみに、同じ作者の「本を読む女性」は、同じような題材を扱っていますが、荒い筆致で統一されています。また、同じ画家のハンガリーの著名な音楽家フランツ・リストの肖像画が展示されていて、これはリストの肖像として教科書や音楽媒体でよく目にする絵ですが、よく描けているなとおもうし、きれいに仕上がっていると思いますが、これらの荒々しい筆遣いの作品を見てしまうと、妙に落着きがよくなってしまったという印象を持ってしまいます。つまり、牙を抜かれたというもので、いかにも大家らしいという作品になっていると思いますが。むしろ、「「村の英雄」のための習作(テーブルによりかかる二人の若者)」という作品が、たしかに習作でクールベだと見るからに分かってしまうのですが、こっちの方が荒っぽいところがありますが、行儀よく収まっていないで、枠を越えようとする何かがあるように見えます。まあ、好き嫌いなのでしょうが。

ロツ・カーロイの「春─リッビヒ・イロナの肖像」という作品。このような、普通に美少女をきれいに描いたという作品が、これまで見てきた作品からは、一服の清涼剤のように見えてきます。

シニェイ・メルシェ・パールの「ヒバリ」という作品です。画面のほとんどが抜けるように高く青い空で、そこに鱗雲が整列するように浮かんでいる。その青というのが中心なのかとおもったら、画面下部に草原が広がっていた、そこに裸女が横たわっている。この青空に裸女が何とも突発的というか不釣り合いでで、しかも、青空と雲がいかにも牧歌的でのびやかに広がっているのに対して、横たわっている裸女は身体を官能的にくねらせて、陰影は施されていますが、記号的というのか、20世紀初頭にフランスで活躍したヴァロットンの「赤い絨毯に横たわる裸女」を夜の都会から持って来て、画面に入れてしまったという感じです。自然の素朴な風景に都会の人工的で、退廃的なものを強引に合わせてしまったような感じで、それゆえに、裸女が画面の最下部に小さく配置されているのに、妙に目立って、画面の大部分を占める青空と同格、いやそれ以上に注意してしまうことになる。それは、例えば、屋外の光景に裸女をあてはめたマネの「草上の食事」が一応のまとまりを見せていたのと違って、違和感ありありで、尖がったところが減じないで、そのままある(間違っても、青空の下で開放的な気分になって、衣服を脱ぎ捨てたというものではない)。全然、描かれているものは違うですが、古賀春江「窓外の化粧」のちぐはぐさと似た印象を持ちました。このような作品まで見てくると、私のハンガリーの絵画に対する偏見が、より固まってくるのです。同じ画家の展覧会ポスターに使われている「紫のドレスの婦人」は珍しく人だかりがしていたのでパスです。それでもいいやと思いました。展示では、この「紫のドレスの婦人」と「音楽家リストの肖像」が展示フロアの真ん中に裏表となって展示されていて、後半のハンガリー絵画の展示の目玉なのだということが分かるように設置されていました。したがって、この裏表はパスでした。なお、この展示の流れで、突然ルノワールの作品が出てきましたが、素通りです。何であるんだろうと、首をかしげるだけで。

ヨーゼフ・イスラエルスの「カトウェイクの孤児の少女たち」という作品。イスラエルスは19世紀オランダの画家ということで、フランスのバルビゾン派の画家たちと交流があり、庶民の生活を主に描いた人とのことです。薄暗い室内で、中央の窓から外光が入り、手前のテーブルとその周りに座っている少女たちの手元や顔を照らし出す。この光と闇の対照は劇的でバロックの絵画を見ているような。薄暗い室内は彼女たちの決して明るくはない状況を暗示しているのでしょうか。窓の前のテーブルを囲む少女たちが針仕事をしているところに日が当たるのは、明るさを求めてなのだろうが、針仕事をする少女たちに日が当たるということは、勤勉な姿に希望の明るさを見ようとしていると言えるかもしれません。

3.戸外制作の絵画

クールベとかモネとか並んでいますが、ここのコレクションは目玉を一点豪華で集中というよりは、特売でもいいからブランドを集めるというような感じで、一番大事なものは門外不出にして日本に送らなかったのかもしれませんが、客寄せのブランドで展示に混ぜている、という感じです。まあ、私の好みで、ここに名が挙がっている画家の作品は、積極的に見たいと思わない人たちなのも、なおさらです。

ここで言うのも変ですが、同じ芸術でもハンガリーの音楽というのは傾向がはっきりしていて、クラシック音楽のハンガリーの演奏家というとある程度演奏がイメージできてしまう(例えば、指揮者のフリッツ・ライナー、ゲオルグ・ショルティ、ジョージ・セルとか)のですが、絵画のほうは多種多様というか雑多というか、例えば、ベルギーのベルギー幻想派とかハンマスホイに代表されるデンマーク絵画とか、イギリスのラファエル前派のようなムーブメントのようなことも、ここでは見られません。そういう捉えどころのなさがハンガリーの画家たちなのでしょうか。

メドニャーンスキ・ラースローの「アルプスの風景、ラックス山/タトラの風景」という作品です。離れて見ると風景画ですが、近寄って見ると、この作品は、細部なとはかなり省略されていて、絵の具を筆で塗るというのではなく、絵の具を塊にして画面の所々に置いたというもの。例えば、画面左側に横の線があり、その周囲に白い点が点々とあれのすが、それが白い絵の具の塊で、それが家に見えてきてしまうのです。そういう大雑把な描き方は、山や森や村の風景を忠実に表すというのをやめてしまった、画面上の絵の具の各色の塊が並んでいる、つまり、対象としての山を描くのではなく、画面上に絵の具の各色の塊を配置していって、結果として山の光景に見えてくるという作品になっていると思います。抽象絵画まであと一歩というところまできた。しかし、この一歩というのが大きな境界線になっていて、この作品は境界近くまできているのですが、それ以上は踏み出せない、そういう画家の作品であると思います。

4.自然主義

アデルスティーン・ノーマンの「ノルウェーのフィヨルド」という作品です。ノーマンはノルウェー出身の人だそうです。前のコーナーのラースローに比べて、ちゃんと風景の形を描いています。長く荒々しい筆のストロークで一気に岸壁を描いています。しかも、重量感があって、岩山にのしかかってくるような迫力があります。その荒々して筆づかいは、画面前景のフィヨルドの湾の波にも使われていて、岩山の垂直の筆の動きと、湾の波の水平の動きが画面で交錯していて、それが風景画に動感を与えている。それが、描かれた風景に厳しさの印象を与えていると思います。しかも、湾に上から光が射して風景を映している。一見、自然な風景で癒し系のようなのが、動きを孕んだ厳しさと光のドラマを作り出しているとみ芽ことができると思います。

イヴァーニ・グルンワルト・ベーラの「祈り(アヴェ・マリア)」という作品。少女の服の白が印象的で、これは無垢とん敬虔といったことを象徴しているのではないかと思います。画面全体はのっぺりとして平面的で、少女の足元のピンク色の花は緻密に描き込まれています。この少女の顔は、整っていますが、固くて人形のようです。宗教画ではないのでしょうが、敬虔とかいうようなものを意識的に描こうとしているように見えます。人物が固いのは、そのためではないか。全体的な雰囲気が、ラファエル前派の、とくに初期のロセッティの水彩による聖母マリア天使を描いた作品に似ていると思います。

チョーク・イシュトバーンの「孤児」という作品。自然主義というカテゴリーでの展示ですが、これは自然主義なのか、この後のコーナーの象徴主義の方に入れた方が適しているように思えます。これ以前でも、ビーターマイヤーのコーナーに「漁師たち」や「ウィーンのマクダーネングリュントの物乞いの少年」のような作品が展示されていて、こっちの作品が自然主義ではないかと思ったりするのですが、今回の展示では、私にはちぐはぐに思えるような展示が散見されました。まう、そんなことを気にする人はいないかもしれないが、私は、展示のコンセプトを読み取る見方をしてしまうので、このようなズレは何か理由があるのではないかと詮索したくなってしまうのです。さて、この作品が象徴主義的に見えてくるのは、画面全体が青で統一されているためで、この青に何らかの意味があるように思えてくるのです。描写自体は、しっかりと描かれていて、むしろオーソドックスだと思います。夜の室内に蝋燭が灯っている。普通なら薄暗い室内でしょうが、そこに青みかがっている程度なら違和感がないのですが、この作品の青みは強すぎる。青い世界にいるという雰囲気です。また、構図が象徴的な意味合いをもってそうに思えます。こちら正面を向いて座っている少女と、その右奥で突っ伏している大人の女性、この二人が対比的に並べられているのは象徴的な意味合いがありそうで、ムンクの作品にこのようなポーズをした作品があったと思います(例えば「赤と白」 )。こちらを向いている少女の顔は、少しうつむき加減ですが、思いつめたような強い表情をしています。そして、そのような少女に蝋燭の光に照らし出されてもいいはずなのに、この作品では陰になって、ろうそくの光は、右奥の突っ伏している女性に当たっています。深読みしたくなる作品です。

5.世紀末─神話、寓意、象徴主義

ジュール・ジョセフ・ルフェーブルの「オンディーヌ」という作品。ルフェーブルという人はフランスの画家であり教師で、女性ばかり描いていたという人らしいです。まあ、このような機会でもなければお目にかかれないでしょうし、今後、再会することもないだろうと思います。オンディーヌというのは水の妖精で人間ではないということで理想の女体として描いたのでしょうが、これはドミニク・アングルの「泉」そのままですよね。アングルの少女ヌードを成熟した大人の女性にして、赤毛にしたというだけで。象徴主義といえば、そうかもしれませんが、ヌードを描きたいとしいう下心が透けて見えるような作品じゃないですか。東京のど真ん中の公共の美術館で、臆面もなく、堂々と眺めることができるという恩恵に浴す。そういう作品だと思います。正直に申せば、そういうのは嫌いではないですから。

レオ・プッツの「牧歌」という作品。プッツはチロル地方の生まれといいますから、スイス人ということになるのでしょうか。作品は印象派のような雰囲気が強いと思います。描かれている題材や舞台も、いかにもフランスのイメージそのものですが。その印象派的な描き方が、とても面白くてボートの浮いている池の水の波紋が画面全体を支配しているように見えます。この波紋の描き方がたっぷりと絵の具をつけて、ものすごい厚塗りで盛り上がるように塗って、その筆の塗りで盛り上がっているのが波紋なんです。しかも、その絵の具の付け方が、基本的には黄色の色調なんですが、そこにたくさんの色が細かく入っているんです。それがたっぷりと使われて厚塗りで盛り上がると、絵の具の面がそれだけ大きくなるわけで、そこに細かな色が様々に顔を出してくる。それが筆の勢いに従ってうねるように変化している。したがって、波紋と言ってもダイナミックで多彩な変化を続けている。それが、波紋が光を反射してスペクトルのように光が分散していく様子になっています。さらに、この波紋の波動が、女性のドレスの描き方、服の模様や、その襞、そこから生まれる陰影が、水面の波紋に連動するようにうねっているんです。それが、画面全体に大きなリズムを作り出している。このリズムが、見ていて、とても気持ちのいいものになっています。

ヴァサリ・ヤーノシュの「黄金時代」という作品は、いかにも象徴主義という作品で、額も一体となって、これはラファエル前派のバーン=ジョーンズやベルギー幻想派のクノップフをすぐに思い浮かべるような作品です。ヤーノシュはハンガリー近代を代表する画家、イラストレーターということですが、アポロとダイアナの古代の彫像に囲まれた公園の前景で、抱きしめている裸のカップルは愛の女神であるヴィーナスに捧げ物を燃やしています。夢のような雰囲気は、写真の乳白色の着色と、濃い緑色の背景と蛍光像のコントラストによって生成されます。という内容だそうです。いかにも世紀末という雰囲気に満ちた作品です。

ほかにも、多くの作品が展示されていましたが、感想を述べるのは、このくらいにしたいと思います。とにかく、数が多くて、バリエーションに富んでいるので、全体像をつかもうという展覧会ではないようです。何回か足を運んで、その時々で気に入った作品を、都度鑑賞する方がいいかもしれません。幸い、それほど込み合っているようではなさそうなので。 

 
絵画メモトップへ戻る