安藤正子─おへその庭─ |
2012年(水)8月15日
受付で入場券を買って、エントランスに飾られている『貝の火』(右図)。鉛筆画です。タイトルから宮澤賢治の童話のメルヘンチックな絵を想像すると、題材はそうと言えるかもしれませんが、その描線にとにかく引き込まれて、描かれている題材よりもその線の動きに魅入られてしまいます。この作品では動物の毛の描き方、そのふんわりとした質感がすごい。 さらにギャラリーに入ってギャラリー1は鉛筆画が7点飾られています。 例えば、展覧会タイトルともなった『おへその庭』の鉛筆画(べつに同タイトルの油彩画がギャラリー2に飾られています)(左図)。とにかく、その線、極細の薄く引かれた線の1本1本が繊細で、それらが細密にひかれ絡んだり、揃えて引かれたりと、その線の様相とか、時に躍動的だったり、時にほのかに輪郭が仄かにボカされる。それが集約的に見て取れるのが、子供の髪の毛のところ。くせ毛というのか、乱れた髪の毛の1本1本が、幼児に特有の柔らかく細い髪の毛が丁寧に描かれていて、微細で、これだけのものを描くのに、どれほどの労力と時間がかかったのかと思うと、凄絶としか言いようがない。ホームページに掲載されたインタビューでは線のひとつひとつを描いては、サンドペーパーで削ったり様々な処理をして、それこそ1本の線に精魂を傾けて描いているようなのです。それが距離をおいてみると、自然でそういう痕跡が全く見えません。彼女の作品で多く描かれている題材は子供や植物、あとは鳥や猫のような小動物で、それらに共通しているのは、柔らかな生地の物体で、このような線を最大限に生かせる題材ではないかと思われるほどです。それほど、この線の繊細さ、精緻さは、特徴的です、私には。このギャラリー1に展示されている鉛筆画を見ていると、描かれている題材とか、内容とか、そういうものは、どうでもよくなって、画面に引かれた無数の線が作品をかたちづくっている様を見ることだけに浸っていたい、それこそが快感と感じさせられます。
そういう視点で作品を見直してみると、作品の特徴として真っ先にあげた線というものの存在感の過剰さが気になってきました。素材が全体を侵食しているというのでしようか、どこかバランスを欠いた不安定さが不気味さとなって、見る者に迫ってくるような感じがしました。
その点に、この作家の一筋縄ではいかないところです。例えば、『おへその庭』で幼児の足元に様々な花が細密に描かれていますが、あるものは虫に食われていたり、アブラムシがたかっていたり、枯れていたりと決して理想化されて描かれているわけではなく、作者なりのリアルなのでしょうか。そこには作為的な意図は感じられません。この作家の作品を見ていて真っ先に関連して連想したのは松井冬子の作品でした。専門家ではない私には、理論とか技法のことは分からないので、突飛な連想に思われるでしょう。たまたま、今年の冬に松井の展覧会を見た記憶が残っているからかもしれませんが、厚塗りとは正反対に薄い色を重ね、繊細な線を細心の注意で引いていく点に共通点を感じます。少女を題材として取り上げ、不気味さを漂わせている点にも共通性を感じますが、安藤には松井のような作為性は感じられません。それは、松井のようなシンボル的な題材の使い方はしていないし、構成に凝ったところもなく、どちらかというと、本人が意図的にそうしているというよりは、結果的に不気味な感じがしているように思えます。それは、人物でも目を瞑っているポーズの作品や人物以外を描いた作品では、不気味さを感じないからです。 次のギャラリー2では、油絵が9点、展示されていました。
どうしたらそんなことができるのか、作者がウェブでインタビューに答えて、その作業の一端を話していました。パネルにキャンバス地を張って、次にファンデーションホワイトをベースにしたグレーで下地を塗る。一層ごとに乾燥させ、キャンパスの布目が見えなくなるくらいまで目が埋まったら、充分に乾燥させた後サンドペーパーで磨く、これで下地となるが、これだけでも、かなりの労力ではないか。その後、鉛筆画の絵をトレースする。それが普通の鉛筆画でない。その上に絵の具で徐々に色を置いて、透明感を出していくためにグレーズという透明色をリンシードオイルに溶いたのを画面に薄く筆や手の平で叩き込む、つまり、絵に薄いセロファンを被せるようなものという。透明色が表面に出過ぎないように、乾ききらないうちに不透明のグレーを叩いて乗せて押さえたり、サンドペーパーで磨いたりして、層を重ねていくという作業をくりかえす。
『ピックバン』という作品では、大画面の一面に色とりどりの朝顔の花が描かれています。その花びらの薄くて柔らかな触感、透明感が本当に素晴らしい。葉っぱの葉脈や細かくて柔らかな表面の微細な毛の感じまでリアルに実感できます。同じようなことは『雲間にひそむ鬼のように』では孔雀の羽毛の感じがまさにそうです。見ているというよりも、眼で触覚的な感覚を味わえる、というのが彼女の作品の最大の魅力ではないかと思います。 そういう柔らかな触感を感じさせるもの、花びらや鳥の羽毛、子供の肌という題材にぴったりでしょう。こういう手触りの作品だからこそ、こういう題材を取り上げている、とも考えてもいいかもしれません。 だからというわけではありませんが、硬いものの表現はイマイチです。例えば『ピックバン』で朝顔の蔓が巻きつけている竹の描き方は類型的で、描き方も手を抜いているように見えてしまいます。多分、そのあたりが彼女の作品を限定しているのかもしれません。 また、細部の肥大化というのか、デッサンが何となく歪んでいるように見えます。たとえば、『スフィンクス』(右下図)という少女のおかっぱの髪の毛の凄絶な表現の作品ですが、手の指が異常に大きく、さらに指の産毛が濃く描かれていて、まるで中年の男性の指のようです。肩が張っているかんじとか、よく見ると感じられるのです。
それが、ギャラリー3に飾られている最新作3点(下図)で感じられます。ギャラリー1で飾られていると同じような鉛筆画に水彩画がまるで画面を汚すように流されている(彩色されている)。それはただ絵の具が流れているとしか見えない無造作な感じです。もしかしたら、そこに安藤正子の新たな展開の可能性が芽生えているのかもしれません。 日本語/ENGLISH |