PHIL WOODS(フィル・ウッズ)
 

フィル・ウッズ(アルト・サックス)

アルト・サックス奏者。
 フィル・ウッズというアルト・サックス奏者を、彼を全く知らない人に、すぐに分ってもらえるように紹介するとしたら、ビリー・ジョエルの「素顔のままで(Just The Way You Are)」。その曲で聴き手の感情に深いところから揺さぶるようなバッショネイトなサックスを吹いていた人だ、というのがジャズを聴かない人でも思い出してもらえるのではないだろうか。実際、ウッズの魅力は、ある意味であの一曲に凝縮されているといっても過言ではない。フィル・ウッズの魅力といえば切なくも情熱的かつエモーショナルなサックスの鳴り、「素顔のままで(Just The Way You Are)」におけるソロには、そうしたウッズの魅力が余すことところなく表現されている。あのこみ上げるような情感はウッズにしか描けないと言える。

白人ながら、チャーリー・パーカーに憧れ、未亡人の世話までしたというほどパーカーの影響を受けたウッズのプレイは、太くて輝きのある音色、ぐいぐいとドライブするリズムの乗り、まったくミスのないフィンガリングとタンギングの上手さで、名手と言える。しかし、これだけなら単なる上手なパーカーのフォロワーで終わってしまうところ。ウッズがウッズたる所以は、パーカーとは異なった個性を持っていることだ。ウッズは、パーカーのような天才的な即興演奏というよりは、クセ、味わい、ニュアンスといった要素で聴き手を引きつけるタイプに属する。クリアでメロディアスなサックスのサウンドや独特のフレーズの装飾、そして何よりも演奏のところどころに隠し味のようにまぶされた哀感のこもったフレーズなどが、彼の個性を形づくっている。

彼は、活動期間が長く、チャーリー・パーカーが活動していたビ・バップの盛んだった時代から、ハード・バップを経て、ファンキーやフリー・ジャズ、他のジャンルとのコラボレーションや以前のジャズのリバイバルと、様々なジャズの変遷によって様々なスタイルに挑戦している(ビリー・ジョエルのアルバムへの参加もそうだと言えるが、多分、ジャズそのものの人気が振るわず、ウッズのような人も生活のために迫られて演奏したという事情もあるのではないか)。その中には、ロックが好きな人やクラシックが好きな人でも聴きやすい(ジャズ独特の臭みの少ない)ものある。しかし、そこでも堅持されているのが、パーカー流の即興とウッズ独特の哀感漂うフレーズだ。

 

 

バイオグラフィー

ビ・バップの最も率直な支持者、多くのミュージシャンの間で賞賛を集めるアルト・サックス奏者、フィル・ウッズは、他のあらたなスタイルがビ・バップに疑問を呈し挑戦してきたときに、それをプレイしたこともあったけれども、50年以上にわたり戦ってきました。おそらく現役では最速のアルト・サックス奏者、ウッズのテクニックは、きらめくトーンからダイナミックな解釈能力やユーモラスな音楽的な引用をソロに挿入するセンスまで、ビ・バップの教科書と言える。彼はサウンドとアプローチに関してチャーリー・パーカーの行き方に最も近いものとしてフランク・モーガンに匹敵する。そして、おそらく他のモダン・ジャズのアルト・サックス奏者よりも正統的なプレイをする。彼をハード・バップと考えることもできるが、チャーリー・パーカーへの尊敬の念が強い余りに、パーカーの遺伝子をそのまま継承することを潔しとしなかった。彼は12歳でサックスを始め、その後ジュリアード音楽院に進んだ。そこで、短期間チャーリー・バーネットと演奏を共にした。それから、ジョージ・ウォリントン、ケニー・ドーハム、フリードリッヒ・グルだと演奏し、ジョージ・ラッセルとレコーディングを行い、50年代中盤にディジー・ガレスピーと中東と南米をツアーした。50年代後半、パティ・リッチのバンドに加入し、そこでリードをとるようになり、1959年と60年は彼自身がバンドの創立メンバーでもあったクインシー・ジョーンズのバンドでヨーロッパー・ツアーを行い、1962年にはベニー・グッドマンのバンドでソ連をツアーした。仲間のジーン・クイルとは50年代後半にはプレステッジで60年代前半にはカンデッドでセッションを行い、「Phil and Quill with Prestige」と「Phil Talks with Quill」はJJジョンソンとカイ・ウィンディングのコラボレーションをサックスで行ったのに並び立つアルバムとなった。1960年にカンデッドで録音した「Rights of Swing」は彼の作曲の力を広く知られるものとなった。60年代を通じてスタジオに籠ることが多くなり、公開の場での演奏は、コマーシャル、テレビ、フィルムで何度かだった。「The Hustler」と「Blow Up」のサウンド・トラックを担当し、1961年にベニー・カーターと「Further Definitions」をレコーディングした。1968年にはフランスに渡り、ストレートなジャズに再び取り組んだ。そこで、ピアノのジョルジュ・グルンツ、ベースのアンリ・テクスラー、ドラムスのダニエル・ユメールとヨーロッパ・リズム・マシーンというコンポを結成した。彼らは1972年までは批判に晒されることはなかった。ウッズはロサンゼルスに移り、電気楽器によるカルテットを結成したが、批評家と聴衆の批難に遭い、すぐに解散することになった。その後、東海岸に移り、1973年にピアノのマイク・メリロ、ベースのスティーブ・ギルモア、ドラムスのビル・グッドウィンとアコースティクのグループを始めた。このグループは称賛をうけ、「Images」と「Live from the Showboat」の二つのアルバムによって70年代中盤にグラミー賞を受賞した。彼は、ポップスとソウル・ミュージックのミュージシャンとの演奏も認められていた。彼は、ビリー・ジョエルやアレサ・フランクリン等の歌手のアルバムでソロを吹いている。その後、彼のグループはメンバーチェンジを行い、多くのレーベルにレコーディングし、ウッズはクラリネットやシンセサイザーにも挑戦した。ウッズの初期の録音は復刻され、彼はチャーリー・パーカーの影響を持ち続けていることには妥協していないことが分かる。彼は、また、その小さなグループで定期的にツァーを行っている。


フィル・ウッズの私的名盤

フィル・ウッズというプレイヤーを、彼を知らない人に紹介するとしたら、ビリー・ジョエルのヒット曲のバックで哀愁のフレーズを吹いている人、ということを上で述べた。例えば、彼がヨーロッパ・リズム・マシーンとプレイした『ALIVE AND WELL IN PARIS』というアルバムの最初の曲「And When Are Young」を聴いてみると、情緒的な要素が露骨なメロディをあからさまに吹いている。ウッズの演奏の全部がそうだというわけではなく、むしろ、この演奏は特別な事情のもとで実現したものであるのだけれど、このような演奏をするような資質を元々彼が持っていた、ということを示している。ジャズ、とりわけモダン・ジャズの場合は、抽象度の高い音の存在感を重視する、記号のように音楽が感情とか風景とか音楽以外の何かを直接的に示すということから一番遠いところにあると言える。だから、ジャズの場合、言葉を音に乗せるボーカルよりは楽器によるインストルメンタルの曲が中心になっている。そんな楽器演奏で重視されるのは即興演奏とかフレーズの創出というように音楽の論理に従ったもので、感情が表現されているということではない。たとえ、メロディを歌われるということがあっても、あくまでも音楽としてであって、感情を表現するというのが第一ではない。そういう点で、ジャズという音楽は、抽象度の高い音楽、音楽としての純粋度は高い音楽と言える。そのような中で、ウッズの情緒をあからさまに出す演奏というのは特徴的に目立つ。ウッズという人はクレバーな音楽家であるのはあきらかだが、その彼が、ジャズの中で異質とも言える演奏をあえて録音したのは、そうせざるを得ない理由があったからだ。その理由こそ彼の本質的な音楽性ではないかと思う。

人生において、感情が最も瑞々しく、それゆえに感情によって動かされやすいのが、思春期の大人と子供の端境期にあたるいわゆる青春といわれる時期だ。過渡期にあって、大人でもなく、かといって、もはや子供ではないという宙ぶらりんの時期は精神的に不安定な状態になりやすく、感情に流されやすい危うさを秘めている。他方で、そうであるがゆえに、細かな感情の襞に分け入った繊細、あるいは鋭敏な感性が突出し、それが瑞々しい表現となって結実した芸術作品が突発的に生み出されることもある。

ウッズのプレイには、このような「青春」というイメージを彷彿とさせるところがある、と指摘する人もいる。「And When We Are Young」であからさまに情緒的なフレーズを吹いてしまったのも、青春の感情に流されてしまうのに通じるというのだろう。これは、ウッズと言う人が青春の不安定な精神状態を持ち続けていた人と言うのではないだろう。ただ、ウッズというプレイヤーの立ち位置がどっちつかずの中途半端なところにあって、常に落ち着かない不安定さを内包していたことが、演奏に表われていたのではないかと思う。それが青春の不安定さを想起させるようなプレイになっていったのではないか。 

サックスという楽器を鳴らすことに関しては、ウッズという人は抜群の上手さを持っているのではないか。たしかに楽器の音色はプレイヤーの個性であり、単純に巧拙は問えないだろうけれど、録音で聴いていても、ウッズのサックスはいかにも鳴っているのがよく分かる。そして、どんなに速いフレーズでも、正確無比に鳴らしている。つまりはメカニカルに楽器を鳴らすことに関してはピカイチの技術をもっていて、何でもできてしまう、とても器用なプレイヤーに見える。そのようなウッズが若く影響を受け易い時期にチャーリー・パーカーというプレイヤーに出会ってしまったことが、ウッズにとって良いことだったのか、悪いことだったのか。いずれにせよ、ウッズの中途半端なところは、ここに起因しているのではないか。おそらく、ウッズの技量をもってすれば、パーカーのスタイルの完璧なコピーは可能だったのではないかと思う。むしろ、パーカーのプレイをより洗練させて再現することもできないことではなかった。しかし、それは単なるコピーでしかなく、そのことをウッズ自身が一番分っていたのではないか。それなりの質の高いプレイはできるのだけれど、何かが足りないというアイロニー。それをチャーリー・パーカーという憧れの存在が亡くなった時に痛切に感じさせられたのではないか。だからこそ、ハード・バップの人気が凋落していったという環境変化もあったのだろうけれど、ウッズ自身はフリー・ジャズに思いきり接近するようなスタイルを大きく変えていく。1955年の『Woodlore』のころは、未だそのことが強く自覚されていないで、ある面伸び伸びとしたプレイができた。ちょうど、自己に目覚め始めたころの過渡期特有の、未だ恐れを知らない瑞々しいさ、それが、このアルバムの大きな魅力となっていると思う。その後、ヨーロッパに活路を求めて、当地のミュージシャンとフリー・ジャズに接近するが、録音されたアルバムは難解よりも、ある種の大衆性や聴き易さがある。そこにも、ウッズの中途半端さというのか、徹しきれないどっちつかずの面が現れているように思う。これは、良い面として捉えればバランス感覚のよさということになるのだろう。多分、プレイしているウッズにも、やはり分っていてジレンマを感じていたのではないか。それは、アメリカに帰国したあとで、フリーのスタイルから転換していることにも現れている。1970年の『At The Frankfurt Jazz Festival』はウッズが、フリー・ジャズのスタイルを最も強く打ち出したアルバムであるけれど、不思議な聴き易さがある一方で、ウッズ自身が中途半端な自身に対するジレンマをぶつけるように突然過剰に激しい演奏になったりしている。

私は、ウッズのそういう中途半端さと、それゆえに彼のプレイが常に過渡期にあるようなスタイルがフラフラしているところが、大人と子供の間で揺れ動く思春期の不安定さを想わせられる演奏が好きだ。


At The Frankfurt Jazz Festival    1970年3月21日録音

Freedom Jazz Dance

Ode A Jean-Louis

Josua

The Meeting

 

Phil Woods(as)

Henri Texier (b)

Gordon Beck(p)

Daniel Humair(ds)

 

このアルバムは、ビ・バップ等のジャズばかりを聴いてきた人よりは、ロックやクラシック音楽など広く聴いてきた人には、むしろ聴きやすいかもしれない。ウッズがフリー・ジャズにもっとも近づいた演奏という声もあるようで、冒頭からウッズの猛烈とも言える音を歪ませて全開吹きまくりのアドリブからスタートすると、疾走するスピード感あふれるプレイが展開される。その熱気とハードなドライブ感が好きな人には拳を握って突き上げるような体力使いまくりの楽しみ方に最有力の録音といえる。しかし、そういうものであれば、普通であればアルバムを聴き通す前に疲れてしまって、もう沢山ということになりかねない。かりに、ジョン・コルトレーンがこのようにことをすれば、全編聴き通す気にもならないのではないか。そこに、実はフィル・ウッズという人の特徴が隠されていて、この録音こそ、いつもは隠されている、ウッズのその威力がいかんなく発揮されたものだと思うのだ。

最初の「Freedom Jazz Dance」はウッズのインパクトの強いアドリブで始まるが、そのメロディとはちょっと言い切れない短いフレーズが、実は隠れたテーマとして、この後の即興はこの変奏のように展開されている(あといくつか、とういうテーマがあって、その数個をとっかえひっかえ使っている)というように聴くと(この曲の最後に最初のフレーズが繰り返されることからも、それはウッズが意識的にやっているのが分かる)、実はこの曲はかなり構成を考えあったように思われる。ウッズとリズムの絡みやピアノやドラムとのソロの受け渡しなどもそうだ。だから、音量の高い、熱気あふれるようなプレイは、クラシック音楽のスペクタクルなオーケストラ作品(ショスタコーヴィチの交響曲とか)やヘヴィ・メタルのような大音量だけれど様式性の高い演奏に近い聴き方ができるのだ。もちろん、ジャズの本来持っているはずの即興性が損なわれてしまうことの無いように、ウッズは配慮を怠っていないだろうけれど。

ここでは、ウッズは自身の特徴である哀感漂うフレーズを抑えて、つとめてメロディアスにならないようにプレイしている。それは、ウッズという人が感覚的に末端のところでプレイして、哀感のフレーズを歌い回すことで勝負している人ではなく、演奏全体を鳥瞰的に見渡して、自分のプレイだけでなくアンサンブルとして曲全体を通して設計している人だということが分かる。だからこそ、このアルバムでの長尺の演奏においても、もたれず、かといって弛緩してしまわない仕上がりになっている。彼の哀感のあるフレーズとか、語り口というのは、実は構成力という強い土台に支えられていることが、かえって、このようなハードなプレイを聴くことで分かるといえる。

連続するように休むことなく突入する2曲目の「Ode A Jean-Louis」は静かに始まり、途中で出くる短いフレーズをくれ返していきながら、音を重ねて徐々にドラマティックに盛り上げていくあたりは、そして、曲想を変えた後で、また還ってくるときに盛り上げる(バックで雄叫びがあがる)のは、クラシック音楽の交響曲の手法に近いのではないかと思わせる。そして、ドラムやペースのリズム・セクションのリズムはストレートに近く、装飾的なプレイがロックやポップスの煽動的な手法をうまく使っていて、ポップスに親しんだひとには乗りやすくなっているのに、ウッズはストレートに乗って、リズムの揺らぎを極力抑えて、疾走感を高めている。

このような点で、このアルバムはジャズにあまり親しんでいない人にとってのウッズの裏入門盤ではないかと思っている。

  Woodlore    1955年11月25日録音

Woodlore

Falling In Love All Over Again

Be My Love

On A Slow Boat To China

Get Happy

Strollin' With Pam

 

Phil Woods(as)

John Williams(p)

Teddy Kotick(b)

Nick Stabulas(ds)

 

まず、印象的なのは録音レベルの高さ。何言ってのと思われるかもしれないが、携帯プレーヤーにヘッドフォンで聴いていて、他の人のアルバムからチェンジすると急に音量が上がるのだ。それだけでなく、ウッズのアルト・サックスの音が伸びがあって、しかも何となく「気合」が入っている感じしで、ちょっとうるさいくらいに、よく聞こえてくる、ということもあるだろう。それだけ、この録音はウッズのアルト・サックスのサウンドが前面に出て、それが一つの魅力になっている。また、うるさく感じられるのは、ウッズのサックスのサウンドだけでなく、そのプレイにもそういうところがある。とにかく巧いのだ。音の流れは滑らかでよどみがなく、リズムは切れ味が鋭いほど、その一方で遊びがないというのか、タテノリに近いところがある。しかも、それを前面に出してくるものだから、「どうだ」と言わんばかりで、鼻につくと言う人もいるかもしれない。そつがないというところで、アート・ペッパーほど情感を絡ませず、かといってリー・コニッツのように高踏的で超俗的でもないアルトです。程よい情感と、程よい哀愁、程よいブルース・フィーリングと優れた楽器のコントロール、なんか優等生の模範解答、という出来栄え。

それは、一方で、ウッズの好きな人にとっては“青春の気負い”のように受け取られているようだ。いるんですよね。「青春」っていうのが好きな奴。気負いと感傷が表裏一体になって…、そういう視線がウッズに対して、ファンが持っているところがある。そう人たちが、よく取り上げるのが2曲目の「Falling In Love All Over Again」というバラード。冒頭の甘美なサウンドと歌い回しは、だからといって腹にもたれない爽やかさもあって、聴きようによっては「青春のセンチメンタル」を連想させる。その歌も、グリッサンドで音数が多いのを巧みな指捌きで滑らかに聞かせているところに気合も感じられる(人によっては鼻につく)。冒頭の下降するテーマの後で、アドリブに移ったとたんに逆の上昇音型をマイナーコードでさりげなく聞かせるところなど、甘酸っぱいような哀感を醸し出している。4分45秒という曲の長さも、もう少し聴きたいという余韻を残すようで、感傷をいやがおうにも高める。こ曲に続く「Be My Love」が溌剌した感じの曲で、しかも、冒頭のテーマが前の曲の「Falling In Love All Over Again」の最後のメロディにちょっと似ているので、何となく続いているような錯覚に陥る中で、こちらは軽快に歯切れがいい。しかも、プレイのところどころに哀感のスパイスをまぶしているのが印象的

そして、ソニー・ロリンズの名演が村上春樹の文章にもなった「Falling In Love All Over Again」。ロリンズは悠然とリズムに後ろから乗っていくのに対して、ウッズは前のめりに突っかかるように進める。アドリブにはいると疾り出すよう。最初と最後はウッズのオリジナル曲を配している。

ウッズは、後年ヨーロッパに渡り、当地の若いミュージャンとフリー・ジャズに接近したスタイルに移っていくが、そこでも表面的な激しさはあるけれど、本質的に難解で晦渋な音楽にはなっていない。多分、ウッズの音楽の底流にはサービス精神が強く流れていて、聴く人のことを忘れない姿勢が一貫していると思う。それが、独断にはしることへの歯止めとなり、決して難解にならない原因となっているのだろう。このアルバムでは、聴く者に情感を感じさせる味付けを適度にまぶして、あざとくなる愚は避けて、ジャズ的な抽象性をキープしている。そういうクレバーなところが、実はウッズの個性のベースにあるのではないか。だからこそ、彼がジャズに限定されないでビリー・ジョエルのレコーディングに参加するほどの柔軟性を持てたのだと思う。クラシック音楽史上の天才であるモーツァルトは、自身の大量の手紙の中で音楽については具体的な演奏効果を事細かく書き残していて、そこには精神とか感情が入り込む余地がないほどだ。しかし、実際にモーツァルトの作った音楽は聴く人の感情を揺さぶる。しかし、中心にいるモーツァルト自身は至って冷静に効果を計測している。ウッズの場合にも、モーツァルトほどではないが、中心に醒めた視線が存在していて、このアルバムでは情感という効果を効率的に与えることを冷静に観察している視線が存在しているように映る。それが、本質的なウッズというプレイヤーの魅力ではないかと思う。 

Phil Talk With Quill       1957年9月11日、10月8日録音

Doxie 1

A Night In Tunisia

Hymn For Kim

Dear Old Stockholm

Scrapple From The Apple

Doxie 2

 

Phil Woodsas)

Gene Quillas)

Bob Corwin (p)

Sonny Dallas (b)

Nick Stabulas (ds)

 

フィル・ウッズというプレイヤーはメカニック(あまりジャズでは使われない言葉のようだけれど、クラシック音楽では指の達者なピアニストの形容等でよく使われる)の巧みな人であることがよく分かる。ジャズの世界ではクラシックと違って超絶技巧のヴィルトーゾ等と言うのは誉め言葉にはならないけれど、全体として、楽器の鳴りのよさ、超高速のプレイでの正確無比のフィンガリングや、タンギングの見事さ、そしてそれらが、いかにも苦労してやってますという感じはなく、スマートに当たり前のようにやっている。このような名義性を堪能するだけでも価値があると言うことができる作品。

編成は、フィル・ウッズとジーン・クイルの二人のアルト・サックスによる双頭コンボ。このような編成では、二人のアルト・サックスが火花を散らすようなバトルを期待するのが常套的のようだが、たしかに白熱しているようには聞こえることはあるが、バトルというよりはアンサンブルの掛け合いのフィーリングだ。それはテーマのアンサンブルが整然としていることやブロウの部分との配分のバランスが考えられていることなどから、たまたまジャム・セッションで二人のプレイが白熱したという偶然的要素に頼っていないことが明らかであることからだ。さらに、ここでの二人のプレイはよく似ていて、私は二人を聴き分けることがだきなかった。だから、表面的には激しい演奏が続くのだけれども、聴き終わった後で疲労を感じさせられることはなく、爽快感を味わうことができる。その一方で、繰り返し聴いても飽きることはない。一種のスポーツ的な快感、しかも裏で緻密に計算されたものという印象。

一曲目の「Doxie」はソニー・ロリンズの名曲。ロリンズはゆったりとした演奏で、彼独特のうたに溢れた演奏をするのに対して、こちらは速いテンポで、しかも二人のアルトのアンサンブルによるテーマの響きが精妙で、まったく印象が違う。スピード感溢れるプレイで、二人とも正確にリズムを刻み、フレーズを吹いていく。二曲目「A Night In Tunisia」は、さらに速くなって、高速かつハイ・テンションを二人が競争するようにどんどん高めていく。テーマをアンサンブルで吹いた後の絶妙なブレイクの後、肩透かしをするようにピアノがソロを始め、その後は二人の競争状態。そして、極めつけは五曲目の「Scrapple From The Apple」。チャーリー・パーカーの名曲をさらに高速で突っ走る。しかも、そんな高速でも、二人のプレイはフレーズが後から後から湧いてくるように繰り出される。そういうスポーツ的な爽快感に満ち溢れたプレイとなっている。ただし、他方では4曲目の「Dear Old Stockholm」では、しみじみとしたメロディを速めのテンポでエキサイティングにプレイしているが、メロディの吹き方自体は素っ気ない感じで、味わいとか、劇的な感動とか、そういうものを求める人物足りないし、即興の先が見えないスリリングな緊張を求めるひとにも、イマイチかもしれない。



 
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