TINA
BROOKS(ティナ・ブルックス) |
テナー・サックス奏者。録音期間があまり長くなく、リーダー作が少ないということもあり、“幻”という形容が長らくされてきたプレイヤー。ということは、早熟の天才とか偉大なとかいうビック・アーチストというタイプにはなれない、どちらかというと地味な存在だったといえる。彼を紹介するような文章を見ると、“聴き手を瞠目させる派手なテクニックもなければ、ロリンズやコルトレーンのような強烈なパーソナリティもない”といった否定から入るケースが多い。そしてB級とか二流といった形容をするケースも、ただし決して悪い意味ではなく、親しみ易いとか、渋いとか、実はこういう人がジャズのコアな部分を体現しているといったニュアンスを含んで紹介される。日本で言えば、ヒット曲には恵まれないが、地方公演ではそこそこの集客能力がある実力派の演歌歌手、ファンに言わせれば安易に時流に乗ることなく日本のこころを歌い続けている、というような存在と言ったらよいだろうか。そういうプレイヤーに限って特徴を言葉にすることが難しいのである。事実、ブルックスの録音を聴いて出てくる感想は、「うう、最高!」で終わってしまうのだ。しかし、何が「最高」なのかは、ジャズを聴いたことのない人には何のことやらさっぱりわからない、といった具合だ。つまり、ジャズを聴かない人には聴かれない、また、このようなプレイヤーを好きな人は、たいていの場合、あまり公言せず、そっとしまっておくという扱いをすることが多い。従って、あまり話題になる事もなく、地味な存在であり続ける。 というわけで、肝心なブルックスの音楽について、あえて私なりに述べてみる。特徴と言えるほど突出しているとは必ずしもいえないが、音色の点で、ややかすれ気味で、派手にブローするようなことはなく、くすんだ感じという、どちらかというと、こうでもないああでもないという否定の方向で語られるタイプの音。しかし、長年ジャズを聴き込んだ年季の入ったファンであれば、これぞハード・バップとでも言いたくなる音色なのだ。そういう音で、ブルックスは“泣きのフレーズ”とでも形容されるブルージーなフレーズを適度に散りばめながら、ただし、同じようなフレーズを発展させていくのではなく、数小節単位で全く違う音列を持ったフレーズを次から次へと重ねていく。それを自然にギャップを感じさせず流麗に聴こえる。そのため“泣き”がくどくなっておセンチに堕すことなく、ときに平凡なメロディでも次のフレーズとの関係が加わり独特の味わいが生まれてくる。誤解を恐れずに言えば、マクリーンとモブレーの間とでもいったらよいだろうか。一発の必殺フレーズで聴き手をノック・アウトするのではなくて、小さなパンチを繰り出し、それがボディー・ブローのように、その瞬間は気がつかないのだけれど、後になって徐々に効いてくる。そういうタイプのプレイをしている。 だから、ブルックスはファンの好き嫌いが分かれるというタイプではなく、知る人ぞ知るとなってしまうのは、このようなプレイ・スタイルにも大きな要因があると思う。
バイオグラフィー 長年の麻薬に苦しんだ末の1962年、ジャズの世界から突然いなくなってしまったハード・バップのテナー奏者。ティナ・ブルックスは自身のポテンシャルを達成することがなかったが、いくつかの価値ある音楽を録音で残した。彼は1951年にサニー・トンプソンのR&Bバンドと4曲入りの録音でレコード・デビューした。ニュー・ヨークでエイモス・ミルバーン、ライオネル・ハンプトン、そしてフリーランスで数回のツアーの後、1958年にブルックスはブルー・ノートでレコーディングを始めた。1958年から61年までの間、リーダーとしての4つのセッションに加えて、ジミー・スミス、ケニー・バレル、フレディ・ハバード、フレディ・レッド、ジャッキー・マクリーンそしてハワード・マギーといった人々のサイドマンとしてブルー・ノートでの日々を送りました。
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