PHAROAH SANDERS(ファラオ・サンダース)
 


ファラオ・サンダース(テナー・サックス)

テナー・サックス奏者。バイオグラフィーや一般的な紹介から言えば、ジョン・コルトレーンの晩年のバンドに加入し、コルトレーンのフリー・ジャズっぽい音楽の影響を受けたフリーキーなトーンと、精神性的な傾向からスピリチュアルなティストを受け継いだ、ということになっている。それは、ひとつの切り口ではあると思う。

そんなことよりも、ここで取り上げている上の2作のアルバムを聴いてもらうと、ファラオのプレイの特徴は際立つほど一目瞭然で、ジャズを聴きなれていない人にでもハッキリと分かってしまうものだ。ただひたすらに吹きまくっている、できる限り大きな音で、音程がずれようが、音が濁ろうがお構いなしに、歌手であれば歌うことを二の次にして大きな声を絞り出す、絶叫するようなところだ。歌手の喩えでいうと、ちょうどサンダースが活躍し始めたころにポピュラー・ミュージックの世界ではやりだしたロックのボーカルはきれいな声でうたうことより、シャウトという絶叫するようなスタイルをとるものが多くなっていた。サンダースのサックスは、そういう特徴の捉え方ができる。ただ、ロックのボーカルはきれいごとの歌に収まりきれない感情や肉体の欲求が迸り出たというのと、大音量のサウンドでボーカルの声が埋もれてしまわないように負けない音量を求めたという事情があったと思う。サンダースの場合は、そういう要素もたしかにあるのだろうか、一概にそれだけとは言い切れないところがあると思う。それは、サンダースが即興的にサックスで吹くフレーズ自体には、意外性とか美しさとかいわゆるキレのようなものは、それだけではあまり感じられない、はっきり言えば魅力的でないと思う。それは、サンダースのプレイを音楽の形として捉えるとそうなってしまう。私見では、サンダースのプレイはそのような視点でつくられていない。では、どのようなものかというと、音楽の形というよりは音の響き、つまりサウンドとしてつくられているのではないかと思うのだ。そこで、コルトレーンの影響との相性が考えられると思う。コルトレーンのいわゆるシーツ・オブ・サウンドという敷き詰めたように音で埋めてしまおうとする奏法は、アドリブがコードなどの制約に縛られることからモード奏法とか、さまざまな変遷を経て、規制から自由ということは、どのような音に価値があるとかそういうとではなくて、すべての音が平等だというということになって、その結果、すべての音を出そうと考えて至った奏法だ(一般的には、音は平等ではない。いいメロディというのは、あっちの音よりこっちの音の方がよいという選択の結果であって、この場合、あっちの音よりこっちの音の方が価値があるということになり、ふたつの音は平等でない)。この場合、コルトレーンは自由なフレーズを求めて至った結果ということになって、基本的にはコルトレーンは音楽の形を追求する人なので、サンダースの響きとしてのサウンドを志向する人とは本質的に異なるのだけれど、結果としてでてきた音が似ているということで、サンダースは影響を受けたのではないかと思う。

理屈のこのくらいにして、サンダースの志向するのがサウンドであるということは、彼のサックスのプレイに注目していることより、彼のサックスが入っているバンド全体のサウンドを聴くことが遥かに魅力的で、そのなかでサンダースのサックスが生きてくると思われるからだ。それは、音楽を線として時間的に展開を追いかけるのではなくて、面のようなサウンドの広がり、つまり空間として、その空間に包まれるように過ごすことがサンダースのつくりだす音楽の最大の特徴であると思う。そのために、大音量のボリュームとか、リズム・セクションに人数を割いて、ポリリズムのような複雑なリズムは、単純なリズムにくらべて音数が増えてサウンド空間を音で埋める。複雑なリズムは単純に身体的に乗っていくよりも、リズムの洪水の中に身を浸す効果を生む。空間を量で埋めるということは、表層的になるので、時間的な展開で、この後はどうなるのかというスリルは減退する、そのため音楽的には質より量の志向と捉えられて内容とか深さに欠けると言われることもあるだろう。また、そういう空間には、人によっては飽きてしまう場合もある。それは、いい意味でも悪い意味でも、金太郎飴のように、どこを切っても、それほど変わらないのだ。だからこそサウンド空間に浸ることができるといえるし、それがサンダースの特徴と言える。最初の「カルマ」のような作品では衝撃的であったのが、アルバムを出していくにつれて飽きられてしまうので、サンダースも様々な試みをして、目先を変えようとした。

 

バイオグラフィー

ファラオ・サンダースの経歴はユニークだ。彼はジョン・コルトレーン・カルテットがクインテットとなったとき、彼は、コルトレーンが踏み込まなかった狂暴で、感情的で無調のソロ演奏により、有名になった。コルトレーンの死後、しばらくの間、サンダースは前衛を大衆に接近させた、彼の激しさと平穏さが後退するソロは歌手のレオン・トーマス(「ザ・クリエイター・ハズ・ア・マスター・プラン」)と完璧なチームを組むことができることを証明した。残念ながら、70年代後半以降のサンダースの作品の殆どは、彼が加入する前である1959年ころのコルトレーンのハード・バップ志向の演奏の派生物となってしまった。高校卒業後、サンダースはサンフランシスコでフリーランスとなった。彼は1962年にニューヨークにでてきて、2年間は無名の状況で苦労したのち、ESPでレコードデビューを果たした。彼は、ジョン・コルトレーンに注目され、1965年中頃から1967年にコルトレーンが亡くなるまで、コルトレーンの論争の的となるグループの一員だった。そこで彼は、主として激しいサウンド創作を追究する役割を担っていた。サンダースノ最も価値のあるレコーディングは、60年代後半から70年代初めの期間、レオン・トーマスがいたりいなかったりするインパルス・レーベルで行なったものだ。しかしながら、70年代中頃から彼のセッションは月並みになり、サンダースのキャリアは初期の勢いを回復できないようだ。80年代初めのスタンダードをメロデックに追求するという彼の決断はビ・バップ純粋主義者を喜ばせたが、彼自身の音楽的個性の不在に彼の多くのファンが失望することとなった。時折(ドラマーのフランクリン・キーアーマイヤーのエビデンス・レーベルでのCDのように)、本当のファラオ・サンダースが出現しジャズの世界での彼の重要性を思い出させることもあるが、それ以来、サンダースは、今に至るまで、その方向性に止まり続けている。 



KARMA

The Creator Has A Master Plan

Colors

 

Pharoah Sanders (ts)

Julius Watkins (frh)

James Sqaulding (fl)

Leon Thomas (vo,per)

Lonnie L.Smith Jr. (p)

Richard Davis (b)

Reggie Workman (b)

William Hart (ds)

Nathaniel Bettis (per)

   1969年2月14日録音

 

Pharoah Sanders (ts)

Julius Watkins (frh)

Leon Thomas (vo,per)

Lonnie L.Smith Jr. (p)

Ron Carter (b)

Frederick Waits (ds)

   1969年2月16日録音

 

ファラオ・サンダースはジョン・コルトレーンの晩年のグループに参加していたこともあって、その音楽的影響で語られることが多かったようだ(CDのライナー・ノーツやダウンロード・サイトでの説明は未だにそういう内容だ)。しかし、このアルバムが録音されてから半世紀近くの年月が流れた現在で、ジョン・コルトレーンとの関連でこの作品を聴く必然性があるとは考え難い。むしろ、後年のクラブ・ジャズやスピリチュアル・ジャズのブームでサンダースの音楽に触れた人は、コルトレーンを素通りして、この作品にたどり着くケースの方が一般的ではないだろうか。むしろ、そのほうがこのアルバムにとっては好ましいのではないかと思う。

この作品が録音された1969年ころは、音楽の世界ではロック音楽が大衆的な支持を急速に広げて、その特徴であるアンプという増幅器を介して、楽器の音を電子的に変調してスピーカーから大音量にして流すことがかのうになり、一度に数万人という大勢の聴衆の前で音楽を演奏することが可能になった。それが、ロックから大衆音楽全般に広がって、ジャズも例外ではなかった。そのときに、少人数のコンポでプレイヤーが互いに呼吸をあわせて音楽的な対話をするような微妙なニュアンスを察知しなければならないような演奏を数万人の聴衆を前にして、その聴衆が味わうことができるのか。そのときに、バップのアドリブのやり取りを継承したジョン・コルトレーンの音楽は、外形的なスタイルは流用できるだろうが、音楽の本質的な部分で通用しなくなって、時代遅れとなっていた(マイルズ・デイビスのように、それ以前の自身の音楽を切り捨てて、まったく別の自分自身の変身してしまうようなことは、コルトレーンにはできなかった)。したがって、私にはファラオ・サンダースの音楽は本質的には、ジョン・コルトレーンの音楽が時代に取り残された後から、スタートしていると思うので外形的なスタイルでの材料として使ってはいても、本質的にはコルトレーンとは、まったくの別物と考えている。

そう考えると、「The Creator Has A Master Plan」の冒頭からサンダースのサックスが全開で咆哮するところは、アンプで増幅されてスピーカーから大音量で放出されるものなのだ。当時の機器では高品質の音質なんぞは望むべくもないから、拡声器のように大雑把にひたすら音量を増やすことしか能がなかった。だから、ここあるのはひたすら大きな音を出すということ、そのための絶叫であり、雄叫び、咆哮、何でもよかった。とにかくサックスから大きな音がでてくることが、まず、そこにカタルシスが生まれていた。そこにプレイヤーの必死さが迫力となっているのは、増幅された大雑把な音でも分かった。しかし、コルトレーンの追究していた、複雑さとか音楽性とか精神性といったものは、この大雑把な音では伝わることのないもので、数万の聴き手の中でも、それを理解して聴き取ることの出来る人はほんの一握り程度だろうから、こういうところでは、むしろ邪魔になるたぐいではなかったかと思う。ここでのサンダースをはじめとしたメンバーたちの演奏は、コルトレーンのもっていた深い精神性とか音楽性などを切り捨てて、表層の効果を最大限にするような、端的にいえばハッタリをかますようにことを演っているのだ。そのほうが、聴き手には伝わったといえるし、ずっと気持ちよかったのだ。大きな会場でコンサートをする場合、会場の奥の方にいる聴衆からはステージのミュージシャンが演奏している姿など豆粒ほどの大きさにしか見えない。そこで、ジャズの即興的な演奏を演奏家たちがアイコンタクトや肉体で感じ合ってノリを作り出していったとしても、小さなライブハウスで演奏者の呼吸づかいまで伝わるように親密な空間ならともかく、何十メートルも離れて、演奏者が豆粒にしか見えない聴衆に分かるはずもない。仮に、ステージ上で演奏家たちが濃密なコミュニケーションでレベルの高い即興演奏を実現したとしても、そのほとんどはステージの上だけで終わってしまって客席には、その結果である音がかすかに伝わるだけだろう。そこから演奏の素晴らしさを感じとることのできるのは、よほど鋭敏な感覚を持ち合わせた人だけだ。そうでない人は、単に音が聞こえてくるだけで終わってしまうだろう。そういうところで、聴衆に何がしかのことが伝わるはどうすればよいのか、というところからサンダースの、この演奏は始まっているのではないかと思う。ちなみに、コルトレーンには、そのような発想はなかったと思う。

The Creator Has A Master Plan」を続けて聴いていこう。冒頭のサンダースの咆哮は、まず聴く者に対するブチカマシのようなもので、分野は違うけれどハードロックで最初にドデカイ音で聴く者を圧倒してしまうのと同じだ。2〜3分の間、執拗に咆哮が繰り返されたあと、複数のパーカッションにベース、ドラムスのリズム・セクションがシンプルなリフレインを始める。これが機械的な繰り返しで、短いフレーズで分かり易いが、それを単に繰り返し続けるのは、ミニマル・ミュージックのような感じだ。シャンシャン・シャカシャカシャカと終始心地よくなり続ける鈴の音色が印象的で、ピロピロと軽やかに舞い続けるフルートが加わったり、色々なパーカッションが出入りして、音色の色彩感が繰り返しのたびに変化するので、聴いていて飽きてしまうことはない。その単純な繰り返しが10分くらい、しかも大音量でガンガンやられると、例えばクラブのフロアで大音量のリズムを浴びるように聞かされていると、身体がそれに馴れていって、音の洪水のなかをプカプカ浮かんで漂うような非現実的な感覚になっていくことはないだろうか。ここでの「The Creator Has A Master Plan」の繰り返しを聴いていると、そういう効果が現われてくるような気がする。それは、当時のサイケデリック音楽の、例えばグレイフル・デッドの長大な演奏を聴いてトリップしてしまう(ドラッグのたすけもあったのだろうが)ことに似ているものだ。だから、ここでの演奏の全体としてのトーンは牧歌的で、聴く者を包み込むように優しい。そのなかで、ときおりサンダースのサックスの方向が挿入される。この咆哮もけっして、アグレッシブに聴く者につっかかって来ない。こんなときに、アドリブのちゃんとしたフレーズで聴くものが注意して聴くようなものが果たしていいのか、それよりも、むしろフレーズの形になっていなくても、音の洪水に気持ちよく溺れている人に、もっと溺れてもらうように、一事に大量の音を集中的に注ぎ込んであげれば。その人の快感は亢進するのではないか。サンダースのサックスは、そういうものではないかと思う。だから、そこに即興性とかフリージャズとかいうことを持ち込むことには、違和感を抱いてしまう。そして、中間過ぎから入ってくるボーカルは歌っているのではなくて、呪文を唱えているような、仏教の声明のように、楽器として声ではなく、音として聴くことができる。トータルでの演奏時間が約30分という長大な演奏になっているけれど、繰り返しが効果てきになるには、その程度の時間が必要ではないかと思う。音の洪水に長い時間、ドップリと浸かっていて、はじめてあらわれてくる効果、そんなものをこの演奏は狙っているのだと思う。これを予め計算してこのように演ったのか、結果としてこうなったのか、私には分からないけれど、聞こえてくる音はハリボテでB級という言葉を使いたくなるものだけれど、サンダースというひとは知的な人なのではないかと思わせるところがある。この作品を聴いている限りは。

LIVE!    1981年4月19日、20日録音

You've Got To Have Freedom

Easy To Remember

Blues For Santa Cruz

Pharomba

Doktor Pitt

 

Pharoah Sanders (ts)

John Hicks (p)

Walter Booker (b)

Idris Muhammad (ds)

 

ファラオのカルテットが1981年4月に行った西海岸ツアーのライブ録音。クラブ・ジャズの名盤とか、熱いライブとか、サンダースをはじめて聴く人におすすめとか紹介されることが多いようだ。その一方で、上で紹介したバイオグラフィーのように70年代中頃以降のサンダースは勢いを失い、80年代の演奏には音楽的個性が感じられず、ファンを失望されたとされている。このライブ盤は、ちょうどその真っ最中の録音ということになる。ということは、このアルバムは賛否が極端に分かれているようなのだ。その理由は何なのか、録音の中身を聴いていくと分かってくる。

1曲目「You've Got To Have Freedom」。たしかに熱狂的な演奏。ライブの最初から、これほどノリノリで演奏か始まることは考えられないので、セットリストの最後か、アンコールで演奏されたものだろう。ただし、この熱狂的というのは、ロック・コンサートのような“熱さ”なのである。だから“熱い”演奏といても、過去のハード・バップのライブ盤として定評のある演奏の“熱さ”とは違うのである。何がどう違うのかというと、サンダースのライブ盤の“熱さ”は単純で必ずしも音楽に限ったものではない。例えば、聴衆のノリは一本調子で単調になっている。これに対して、例えば代表的な“熱い”ライブとしてアート・ブレイキーのヴィレッジ・ヴァンガートでのライブ録音を聴いていると、たしかにメンバーは凄い演奏をしているが、最初から客席が熱狂しているわけではなく、凄い演奏に徐々に客がノッてくる。それは拍手の量が増えたりとか、客席で調子を取ったりする音が途中から混じってきたりと分かる。それが刺激となって演奏者もプレイが、さらに燃えてくる。それはアドリブの冴えのレベルが最初とは段違いになったりする。そういう変化が演奏者にも、全体の雰囲気にも、それが音となって表われている。しかし、このサンダースのライブ盤の音は、どこを採っても、そういう変化が分からないのだ。演奏者の熱さも、聴衆のノリもアルバムを通して、最初から最後まで同じ、金太郎飴だ。聴衆などは、日頃のストレス解消にライブ会場で運動するように大声を出して叫ぶために会場にきて、サンダースをそれを引き出すための触媒として働いているかのように見えたりする。上で紹介したバイオグラフィーを書いたコメンテイターはきっと、ハード・バップの頃のジャズを主に聴いている人ではないかと思う。その尺度でこの曲の演奏を聴くと、ピアノやサックスのアドリブ・ソロでは、それほどたいしたフレーズを作っているわけでなく、月並みといってもおかしくはない程度と思う。したがって演奏している音楽の質を評価できないのではないかと思う。しかし、そのようなフレーズの内容ではなくて、演奏の熱気の点では、アート・ブレイキーのライブ盤は足元も及ばない。物凄い量のエネルギーが放出されていると思う。私には、それがサンダースの演奏の特徴として、他のサックス演奏者と一線を画す個性で、彼自身も十分自覚しているものだと思う。彼の演奏に、わざとらしさまではいかないけれど、例えば演奏の冒頭でサックスをフラジオレット全開にするところで、ほとんど音がでないほどに、吹きまくっているのだけれど、そういう擦れてしまった音を無理にひねり出すところが、聴衆の熱狂を煽っているところもあるが、そもそも音が出ない演奏などというのは、音楽の中身、つまり音、だけで勝負していない証拠と言える。その後、中間点あたりまではピアノ・トリオの演奏が展開されるが、そこにはフレーズの展開があって、様々なフレーズが聴けるというのではなくて、極端に言うと同じフレーズの繰り返し。しかし、その演奏のスピードは高速で、音量は大きい。それを執拗に繰り返すことで、リズムが生まれ、それに聴衆がノッて、会場全体に大きなウネリが生まれる。そういう演奏で、そのような点では“熱い”。サンダースがマイクを手にして絶叫しているが、それはロック・コンサートでボーカルがよくやることだ。その後の絶叫によるメンバー紹介はご愛嬌と、私はきくけれど、このアルバムを名盤に推す人は、そういうところの普通でない点を称揚するのだろうと思う。その後に、絶叫のようなサンダースのサックスが続く。演奏としての“熱さ”はビートを強調したリズム(単純で短いフレーズの反復)をハイスピードで大音量でやっているころにある。それがズシーン、ズシーンと振動のように響いてくる。

これは、5曲目の「Doktor Pitt」も同じで、アルバム最長の20分を超える演奏時間で、その時間いっぱいエネルギーを放出し続けることには頭が下がる。

そういう意味では、60年代後半の『KARMA』よりも方向性が明確になっていると言える。 

Live At The East   1971年録音

Healing Song

Memories Of J W Coltrane

Lumkili

 

Cecil McBee, Stanley Clarke(b)

Lawrence Killian(congas,balafon)

William Hart*, Norman Connors(ds)

Carlos Garnett(fl,v)

Joseph Bonner*(p,harmonium)

Pharoah Sanders(as)

Harold Vic*(ts,v)

Marvin Peterson*(tr)

 

サンダースのサックスが雄叫びのような調子で、朗々としたテーマをじっくりと吹いているのが実に3〜4分、その間、リズムセクションによる刻みはなく、ピアノはサックスのテーマに装飾音をつけるような伴奏と、それにベースがオカズをつけるように絡むまま、ピアノのソロに移っていく。ベースがソロを引き継ぐが、この辺りのピアノとベースは装飾的な伴奏から繋がるようなフレーズを弾いている。つまり、最初のテーマから離れるようにアドリブが展開するのではなくて、テーマがすっぽり抜け落ちたような形で即興が進んでいって、ベースに少しずつパーカッションの音が加わってきて、6分過ぎにリズムの刻みらしきものが現われる。ここまで、リズムのフリー状態で、バックにボーカルが漂うように入っているところも含めて、ジョン・コルトレーンの「至上の愛」の冒頭からの影響を指摘する人もいるかもしれない。サンダースの扮装なんかもそうなのだけれど、この演奏はカルト宗教の集会のオープニングのような感じもする。この後、ベースの2人により、一人が一定の繰り返しをすれば、もう一人が即興的にビートから自由に形にならない奔放に弦を弾いているような弾き方をしていくというのを交互に、絡み合うようにしてこれにピアノがときにリズムを刻んだり、ときに奔放に無関係な遊びをしながら音を重ねてくる、それらが独特のグルーヴを作り出して、ここでようやく、曲に推進力が生まれる。その間はサンダースのサックスの音は全く聞こえてこないで、10分過ぎに、漸く復帰してくるが、テーマとも、今まで弾かれていたフレーズとも違うフレーズで入ってきて、そのサックスのフレーズを今度は、繰り返すように繰り返して、ピアノもそのフレーズを引き継いで、繰り返しているところに、パーカッションやベースが無軌道に絡んできて、カオス状態のようになりながら音量が増えてクライマックスを迎える。

このような記述では分かり難いかもしれないが、演奏全体の中でリーダーのサックスが3分の1以上でサンダースはサックスを吹いていない。ここでは、リーダーアルバム出からと言って当然のように、プレイで引っ張る、つまりはサックスの演奏が一番目立つということが、なくなってきている。それに変わって、参加したメンバーによって形成されるサウンドが志向されていると思われる。それが、ジョン・コルトレーンとも、従来のジャズ奏者と違う、サンダースの音楽作りではないかと思う。例えば、ここでのサンダースはたしかにフリー・ジャズと思わせるような攻撃的なフレーズを吹いているが、それがリーダーとして目立って、そのプレイを聴衆に追わせるというものではない。むしろ、少しキャッチーな短いフレーズを繰り返して、全体の中でリズムを作り出している。そのフレーズをピアノや他の楽器が受け継いで、音色の変化やタッチの変化により多彩に変化して、それが折り重なるようにして全体のグルーヴや音色をつくる、そういう結果を作り出すことを、ここでのサンダースは志向している。したがって、サンダースのサックスのアドリブのキレとか即興性、あるいは楽器の音色とかブローとかいったソロのプレイではなくて、サンダースが先導して他のメンバーのプレイも合わさった結果、化学変化を起こしたように一塊のグループとしてのサウンドを聴く、時にはそのサウンドに浸ってしまう、そういう音楽をやろうとしているように思う。

次の「Memories of J.W.Coltrane」では、ハーモニウムとパーカッションをバックに2人が「あうあうー」と怪しげに唸りまくっている。そこに独特のサウンドが生まれているのを聴くことができる。たとえ、そこにサンダースのサックスがなくても、そういう個性のサウンドがサンダースの作り出すものであるということなのだ。サンダースの音楽をスピリチュアル・ジャズと分類することもあるらしいが、それは、彼の作り出すサウンドが、聴く者には場のような捉え方ができて、そこに聴く者もいるのだという感じ方から来ているように思う。 

 
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