ORNETTE
COLEMAN(オーネット・コールマン) |
があると思う。
バイオグラフィー ジャズの前衛的な改革者のうちで最も重要と思われるものの1人、オーネット・コールマンは1959年に従来のフォーマットを破壊してしまってから、忠実なファンと敵対するアンチを両方ともか抱え込むことになってしまった。彼と彼のオリジナル・カルテットのメンバーだったドン・チェリーは、共に曲の始まりと終わりのメロディーを演奏するけれど、かれらのソロは、テーマの雰囲気に全く縛られることのない演奏する代わりに、コード進行に基づいた即興とハーモニーを不要とするものだった。コールマンのトーンは故意にピッチが揺れらされるもので、リスナーを戸惑わせ、彼のソロは感情的で彼の独特の論理に従うものだった。やがい、彼のアプローチは大きな影響力を持つものとなり、彼のカルテットの初期のレコードは、この先何十年もの間先進的であり続けるだろう。 残念なことに、コールマンの初期の試みは記録に残っていない。もともとは、チャーリー・パーカーに触発されて14歳でアルト・サックスを始め、その2年後にテナー・サックスを始めた。彼の初期の経験は、レッド・コナーズとピー・ウィー・クレイトンのバンドを含むテキサスのR&Bバンドでのものだ。しかし、彼の初期のオリジナルなスタイルで演奏しようという試みは聴衆や仲間のミュージシャンからは敵意で迎えられた。コールマンは50年代初頭にロサンゼルスに移り、そこで音楽の本を勉強しながらエレベーターのオペレーターとして働いた。彼は、途中で、ドン・チェリー、チャーリー・ヘイデン、エド・ブラックウェル、ボビー・ブラッドフォード、チャールス・モフェットそしてビリー・ヒギンズといった気の合う仲間と出会った。しかし、彼の音楽を演奏することのできる中軸となる音楽家たちで出会ったのは1958年以降の、LAのトップミュージシャンたちとの数多くの試みの不成功を経てのことだった。彼は、ヒルクレスト・クラブでのポール・ブレイのクインテットの一員として現われ、同時代の人たちにむけて2枚の興味深いアルバムを録音した。ジョン・ルイスの助けを借りて、コールマンとドン・チェリーは1959年に「レノックス・スクール・オブ・ジャズ」のセッションに参加し、ニューヨークのファイブ・スポットに長期に止まることができた。この契約は根本的な新しい音楽に向けてジャズの世界に警告を発することになった。そして、毎晩、客席はコールマンを天才か詐欺師のレッテルを交互に貼り付けようとする好奇心の強い音楽家たちでいっぱいになった。 1959年から1961年の間、「ジャズ来るべきもの」をはじめとして、コールマンはアトランティック・レーベルのために一連のいまや古典となった驚くべきカルテット・アルバムを録音した。ドン・チェリーそしてベースのチャーリー・ヘイデン、スコット・ラファロ、ジミー・ギャルソンそしてドラムスのビリー・ヒギンズ、エド・ブラックウェルたちと、コールマンは、ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィーを含む1960年代の彼以外の先進的な即興演奏をするミュージシャンや60年代中盤のフリー・ジャズの演奏家の殆どに大きな影響を及ぼす音楽を創造した。「フリー・ジャズ」というアルバムでは約40分近いジャムセッションではワンセットが、コールマン、チェリー、ヘイデン、ラファロ、ヒギンズ、ブラックウェル、ドルフィーそしてフレディ・ハバードの8人をダブル・カルテットに編成したもので、そこで2、3短いテーマ以外はグループの即興を基本とした演奏を行なった。 1962年、コールマンはクラブやレコードレーベルが彼に支払っている金銭よりもはるかに価値を創出していると感じて、一時的な引退をしたことでジャズの世界を驚かした。彼はトランペットとバイオリンを演奏し始めた、とくにバイオリンはドラムスみたいに演奏した。1965年、彼はベースのデヴィッド・アイゼンソン、ドラムスのチャールス・モフェットによるとくに強力なトリオで、彼の演奏できるすべての楽器をつかって数枚のすばらしいレコードを録音した。その後10年間、彼を補完するようなテナー・サックスのデューイ・レッドマン、ベースのヘイデン、そしてドラムスはブラックウェルか彼自身の若い息子ドナルド・コールマンのいずれかによるカルテットを組んでいた。それに加えて、コールマンは小編成グループのためのいくつかの無調作品と穏やかで古典的なさ作品を作曲し、そのいくつかで、ドン・チェリーと再会した。 70年代のはじめ、彼のキャリアは後半にさしかかる。彼は「ダブル・カルテット」を編成し、そこにいたのは2人のギター、2人のエレキ・ベース、2人のドラムスと彼自身によるアルト・サックスだった。このグループはプライム・タイムと呼ばれ、晦渋で、雑音みたいで、しばしば機知に富むアンサンブルを特徴としていた。そこではメンバー全員が平等に役割を担っていたようだが、結局のところリーダーのアルト・サックスが常に目立つことになってしまった。いまや、彼は自身の音楽をハーモディクスというハーモニー、メロディーとリズムを同等の重要度として扱う象徴的な呼び方で呼んだ。しかし、ルーズなファンクのリズムにフリー・フォームな即興を組み合わせたフリー・ファンクの方が適している。プライム・タイムのサイド・ミュージシャンとして彼の息子のドナルドに加えて、ドラマーのロナルド・シャノン・ジャクソンとベーシストのジャマラディーン・タクマがいた。プライム・タイムは、スティーヴ・コールマンとグレッグ・オスビーのMベース-ミュージックに大きな影響を与えた。パット・メセニーは生涯を通じてのオーネットのファンだが、「ソングX」でコールマンと協演している。またジェリー・ガルシアは一度のレコーディングで第3のギターを演奏した。コールマンは198年代になって最初に編成したカルテットを不定期に再開した。 コールマンは90年代入るとヴァーヴと契約し、21世紀の始めは、録音を控えめに行なった。2000年のジョー・ヘンリーの「SCAR」、2002年のルー・リードの「Raven」とエディー・グラントの「Hearts &
Diamonds」に参加している。彼はまた、2006年に彼自身のレーベルで「サウンド・グラマー」というライブ・アルバムを録音し、このアルバムは翌年のピューリツァー賞を受賞した。2007年にはグラミー賞特別功労賞を受賞。コールマンは2015年6月11日にマンハッタンで心停止により死去、享年85歳。彼はそのキャリアを通じて非常に独創的なビジョンを抱き、それに忠実で、しばしば論争の的となったが、明らかにジャズの巨匠の一人だった。
DANCING IN YOUR
HEAD 1976年12月、1973年1月録音 Theme From A Symphony (Variation
Two) Midnight Sunrise track 1,2 Ornette Coleman (as) Bern Nix (1st Lead Guitar) Charlie Ellerbee (2nd Lead
Guitar) Rudy MacDaniel (el-b) Shanon Jackson (ds) track 3 Ornette Coleman (as) Robert Palmer (cl) Featuring The Master Musicians Of
Joujouka,Morocco コメントなど必要ないから、とにかく演奏を、最初の素っ頓狂で能天気な調子外れのテーマを聴く。もうそれだけで何も言えない。そういう強烈なインパクト。アルバム・ジャケットのイラストが、これまた妙ちくりんで能天気な上手いか下手か分からないようなイラストで、民俗風といえば格好いいが、そんな代物ではなく、まさにこの演奏そのもののよう。ただし、試しにこのイラストを上下反転させて見るといい能天気な笑いが不気味な顔に変わってしまう。そんな深読みは、この際、野暮というもので、「Theme From A
Symphony」の思わず笑ってしまうような単純なメロディを、聴いているほうが唖然としてしまうほどあっけらかんと熱演している、オーネットとプライムタイムのメンバーたち。オーネットというと、反射的に「フリージャズの人」という言葉が返ってくることが多いが、「フリージャズ=難解で騒々しい音楽」という前提で、オーネットがフリージャズの人というのであれば、それは違う。オーネットの「フリージャズ=文字通り、なんでもありの自由なジャズ」という方が近い。自由奔放さに、テーマで執拗に繰り返されるフレーズ。「ああ、クドい。いい加減にしてくれ、しつこい」とか、「ピッチ、ズレまくってる」と最初に思う人もいるかもしれないが、いつしか、「ウソウソ、しつこくてもいいから、もっと繰り返してね、頼むから」になってしまう。オーネットのバカパワーの勝利ということになってしまう。捩れた2台のリズムギターと変態ファンク・ベースに奔放な太鼓がグチャグチャになって絡む様は言葉で表せないほど不気味で気持ちいい。そのグルーヴに否応なしにノッてしまうのだ。しかし、そのノリでいるとオーネットのアルト・サックスから繰り出されるフレーズが尋常でなく、過激に疾って、キレまくっている。ほんとに破壊的なのだ。まるで、音楽とか、メロディとか、ハーモニーとか、音楽を聴く者が感情をこめたり、口ずさんだりするようなことを全部含めてまるごとブッ壊してしまうような、突飛で断片的な音のつながりを、これでもかというほど繰り出してくる。馬鹿馬鹿しいほどのノリノリのリズムに踊らされているうちに、とんでもないようなところに連れて行かれてしまう。そんな演奏でもある。 しかし、1曲目が終わって、「Theme
From A Symphony (Variation
Two)」に最初の数秒のイントロだけティストを変えて、あとは前曲と同じパターンに入っていくところで、何でVariation
Twoなのか、などと疑問を持つのも馬鹿馬鹿しく、性懲りもなくノッてしまう。 3曲目の「Midnight
Sunrise」はトルコの軍楽隊のマーチを思わせるオリエンタル風に始まるけれど、オーネットのサックスはどんどん破壊的になって、晩年のコルトレーンには音量とかパワーでは負けるが、ブッ壊し加減では、ここでのオーネットが勝っている。けれど、そういう破壊的とか過激さを聴く者に感じさせないで、楽しい音楽になってしまっているところが、本当に凄い。 THE SHAPE OF JAZZ TO
COME 1959年5月22日録音 Eventually Peace Focus On Sanity Congeniality Chronology Ornette Coleman (as) Don Cherry (cor) Charlie Haden (b) Billy Higgins (ds) ジャズの名盤ガイドのようなところでは、“ジャズ来るべきもの”というかっこいい邦題でもあることから、ここからフリー・ジャズは始まったといったような仰々しい紹介がされて、けっこう構えてしまうか、難しそうと敬遠してしまいがちち、そういうところで取り上げられているわりには、実際には、それほど聴かれていないのではないか。実際聴いてみると、慥かに、万人向けとは言えず、聴き手を選ぶ音楽であることは否定できない。敢えて言えば、このアルバムを聴く前に“フリー・ジャズ”という言葉に対して、実体を聴いていないでイメージしていた、ノイズと見紛うばかりようなドッシンバッタンの拷問のように聞かされる過激な演奏といったものではなくて、ちゃんとした音楽になっているので、一度は聴いてみて、好きになれるかどうか、といった類のもので、さっき、聴き手を選ぶと書いたのは、音楽として聴いた上で、好きだといいきれる人は、それほど多くないだろうということだ。 最初の「Lonely
Woman」という曲は、オーネットの曲の中でも最も有名なバラードのひとつで、スタンダード・ナンバーとしてカバーされる曲だ。実際に聴いてみると、ドラムスとベースの短いイントロから始まる。そこにトランペットとアルト・サックスがユニゾンでテーマを吹いてくる。なんだ、普通のジャズじゃないか。初めて聞く人は、そこで、そう思うのではないか。そうなのだ、・・・。けれど、何か変な感じがしない?イントロのドラムスとベースのそもそも合っていない。リズムが異なっているのだ。しかも、次いで入ってくるトランペットとアルト・サックスが、これまた違うリズムで、都合3層のリズムが混じり合うようなのだ。だから、なんとなく地に足が着かない、不安定なフワフワしたような気分になっている。リズムに関して言えば、ドラムスは同じリズムをひたすら反復する。ベースも、ドラムスほどではないけれど、ほとんど規則的。だから、リズムのずれは徐々に広がって交錯する。だから、ドラムスとソロ楽器であるトランペットとアルト・サックスとがずっと合っていない。それが奇妙さをつくり、増幅させる。すなわち、ドラムは猛烈なスピードで規則的にひたすら叩いているが、トランペットとアルト・サックスは、そんなドラムスのリズムとは無関係に悠然とルバートで吹いている。ベースは、サックスに合わせて、かなりリズムを揺らしてルバートをかけ、サックスと同じスロー・ミディアムのテンポでやっている。つまり、アンサンブルとしてはバラバラなのだ。それを変だと否定的に捉えるか、面白がるかで好き嫌いが分かれると思う。 実際、このようにリズムが合っていないからこそ、ソロのトランペットとアルト・サックスはリズムに規制されることなく、思いのままの自分のアイディアを試している。そんな束縛から解き放たれたようなオープンな演奏だからこそ、より聴き手の感情に訴え、豊かな表情を湛えている。だから、慥かに“フリー”なのだ。卑近なことになってしまうが、身近にところで自由になりたいとか、解放されたいと感じるケースで多いのは、人間関係のなかでガンジガラメニなって身動きが取れなくなってニッチもサッチもいかなくなった時ではないだろうか。この場合のオーネットたちは、そのような関係の束縛として、リズムの規制とかアンサンブルは合わせなければならないといった制約から“自由”になっていた。 それは、ソロ楽器同士にも当てはまる。トランペットとアルト・サックスも合っていない。録音もそのようにされていて、別々のチャンネルから聞こえてくる。試しにヘッドフォンがイヤフォンできいてみるといい、トランペットとアルト・サックスは左右から別々に聞こえてくる。2本の管楽器の音色はまったく溶け合っていないし、ユニゾンで合わせても別々に聞こえるように、たぶん意識して吹いている。さっき、自由は関係の束縛から自由と言ったけれど、それぞれの楽器が、「あなたはあなた、わたしはわたし」と互いが互いを束縛しないというように演奏している。だから、オーネットたちの自由とは好き勝手にやっていいというのではない。その証拠がドラムスの演奏で、一番自由でない、ひたすら規則的なリズムを高速で始終叩いている。ハード・バップのドラムスの演奏のように、ソロがやったり、他の楽器を煽ったりもしない。音楽の中身でいえば、リズムにメロディが規制されない。説明していないけれど、ハーモニーにメロディが規制されていない(コード進行に縛られていない)。したがって、ここの演奏には自由にやっていることの優先度はある。それがメロディを演奏するということだ。 そのメロディが、実は、演奏を聴く者にとっては、もっとも奇妙に聞こえるのではないだろうか。その原因のひとつは、今まで述べてきたサウンド面の特徴によって、他のジャズの演奏よりもメロディが際立ってきこえてくるということだ。もともと奇妙なメロディが、リズムやハーモニー、あるいは実際の演奏のなかでアレンジで隠されたり、奇妙さの印象を緩和させることが全くなくて、際立たせられて聴く者に届けられる。そのメロディは、どこか調子っ外れの感じというがする。我々の感覚からすれば、「ズレ」ている、「外れ」ているのだろうけれど、外そうとして外したのではなく、オーネットの感覚をそのまま表出したものだろうと思われる。これがオーネットの感覚なのだ。上で、けっこうグタグタ説明してきたが、それらはオーネット・コールマンというユニークなセンスをもった音楽家が、自分のセンスを最大限に生かして音楽として人々に聴かせるために工夫を凝らした(オーネット自身はあまり考えずに、ただやりたいことを、やりたいようにやっただけなのかもしれないが)結果なのだろう。 だから(この後は蛇足かもしれないが)、このようなオーネットの音楽を“フリー・ジャズ”というスタイルとして受け取った人が、その音楽をすることとかセンスから離れて、考え方として“フリー”だけを取り出して、従来の規則から自由とか、今まで誰もやらなかったことをやるということで、音楽の規則を否定したり、先人が演奏したパターン以外を探しておよそ音楽と感じられないような騒音のような演奏になったりして、難解などといってとりつくろう“フリー・ジャズ”(具体的にどんなミュージシャンがそうだとは言わないが、そういう人は、ここで紹介しない)とは、まったく別のものだ。 だから、オーネットの演奏する「Lonely
Woman」は、他の誰でもやらなかった、また、後の誰もやっていない、ダイレクトに聴き手の身体感覚に訴えかけ、身体的な反応が自分の中から湧き起こってくるのだ。それは、感情とか美とかいうような言葉にして整理できないもので、せいぜいのところが快・不快としか説明できない、根源的なものだ。だから、オーネットの音楽を、言葉で説明するのは難しい。 VIRGIN BEAUTY 1960年7月13、14日 Singing In The Shower Honeymooners Spelling the Alphabet Unknown Artist Ornette Coleman
(as,vln,tp) Jerry Garcia
(g) Charlee Ellerbe
(g) Bern Nix
(g) Al McDowell
(el-b) Chris Walker
(el-b) Calvin Weston
(ds) Denardo Coleman
(ds,key,per) フリー・ジャズという言葉に拘泥するつもりはないけれど、オーネット・コールマンはジャズの中のジャンル分けをすると、フリー・ジャズに分類されているようなので最初に少し触れるが、例えばコルトレーンの晩年などのような難解とか深刻とかいったイメージで、このアルバムを聞くと思い切り肩透かしを喰う。そういうのを期待していた人には、軽薄とも不真面目(ジャズは元来、真面目な音楽とされていなかったものなので、こういう形容自体可笑しいのだけれど、話のマクラとしてお許し願いたい)とうけられるような能天気に楽しんでいる音楽といえる。フリー・ジャズという言葉にこだわるのであれば、概念でなく、自由に音楽を楽しむという点では、フリーな音楽と言えるし、オーネットが一貫してやっていることの、ひとつの表われがこのアルバムであると思う。 上で紹介した「THE SHAPE OF JAZZ TO COME」という彼の初期のアルバムでは目立って感じられるものだったオーネット独特の“ちょっとズレたフィーリング”はこのアルバムにもあるが、それが非常にポップにうまい按配で、「THE SHAPE OF JAZZ TO
COME」では違和感として抵抗を覚える向きもあったものが、ここでは“ちょっとズレたフィーリング”が気持ちよいものになっているのだ。「THE SHAPE OF JAZZ TO
COME」と比べてみると、楽器がアコースティックから電気楽器になって、編成が大掛かりになっただけで、“ちょっとズレたフィーリング”自体は何も変わっていないと思うのだけれど。それぞれのリズムの“ずれ”が重なって、重層的になっているのだけれど、決して軽やかさを失わず、思わず身体を動かしなくなるような躍動感に満ちている。それぞれの曲を個別に聴いていくのは野暮かもしれないと思わせるような、楽しさといえる。 とはいえ、1曲目「3 Wishes」では、インチキ臭いアラビックなテーマとダンス・ビートに、時折何度かはさまれる不意打ちみたいなブレイクがフワリと息が抜けて宙に浮くような錯覚を起こさせ、奇妙な多幸感とも言えるたのしさが溢れかえっている。続く「Bourgeois Boogie」では、あちこちで各人が好き勝手に動いているようにも聞こえるアンサンブルです。自由闊達な楽しさに溢れている。次の「Happy Hour」はフレーズにもならない断片的なギターがサンプリング感覚でずっと鳴って、リズムがいつのまにかブルーグラス風味を醸し出す、とぼけたユーモアのある曲。4曲目のタイトル・ナンバー「Virgin Beauty」は、うっすらと重ねたシンセのハンド・クラッピングで緩く進むバラード。美しいメロディーのバックでヴァイオリンなどが何やら不穏な音の衝突を繰り返し、曲にエキセントリックな透明感を縁づけしているのが面白い。といった具合。このようにして全曲を取り上げるのは、それこそ野暮の極み。ここまで書いてきて、ほとんどまったくオーネットのプレイに触れていないことに気づいた。同じように大胆にファンクを導入したエレクトリック・サウンドの『ビッチェズ・ブリュー』ではマイルズのトランペットの音を、まず聴こうと注目するのに、このアルバムではオーネットのプレイもそうだ゛けれど、それより聴いているうちにリズムにノッてしまって、他のことはどうでもよくなってしまうことを何度も経験した。 最初に、少し触れたフリー・ジャズがフリーという枠に囚われて実際の音楽では、フリーとは見えないような中で、オーネット・コールマンがフリーという枠に不自由に縛られることなく、子供のように無邪気な足取りでジャズやロックやファンクの突端を綱渡りし、捻じれていて美しく、楽しい音楽を鮮やかに聴かせたものと思う。 Tomorrow Is The
Question! 1959年1月16日、2月23日、3月9日10日録音 Tears
Inside Mind
And Time Compassion Giggin' Rejoicing Lorraine Turnaround Endless Don Cherry (cornet) Ornette Coleman (as) Red Mitchell (b [7]-[9]) Percy Heath (b [1]-[6]) Shelly Manne (ds) オーネット初期の録音で、代表作である「THE SHAPE OF JAZZ TO
COME」の前に録音されたもので、一聴では、ハード・バップの演奏として、とくに意識することもなく聞き流してしまうこともできる。「THE SHAPE OF JAZZ TO
COME」のように、最初から変な感じとか、ズレが聴いていて生まれてくるところはなく、意識して聴いていれば、ああやっぱりと思い至るところが見つかるというもので、オーネット好きな人が、色々きいてから聴き直すというのが、一番楽しめるのかもしれない。正直に言えば、ハード・バップでピアノレスのカルテットなら、無理してこのアルバムを聴かなくても、他にもあるでしょうということになると思う。ちゃんとコード進行しているし、リズムセクションのリズムにちゃんとノっている。 3曲目の「Mind And
Time」では、およそ関連性が感じられないような3つのテーマが突然入れ替わっるという複雑な構成で、曲の脈絡が混乱したようになるところが面白い、全体としてメジャーコードの陽気な印象のフレーズが多く、ときおりヘンテコリンなものも混入させてはいる。6曲目の「Rejoicing」などは典型的なハード・バップのアドリブ演奏で、オーネットとドン・チェリーが競うようにアドリブ・ソロを演奏していて、ハード・バップのアドリブとして質の高いものと言ってもいい。それが、7曲目の「Lorraine」あたりから、変になってくる?「THE SHAPE
OF JAZZ TO COME」が聞こえてくるような感じになる。 AT THE GOLDEN CIRCLE
vol.1 1965年12月3、4日録音 European Echoes Dee
Dee Dawn Ornette
Coleman (as) David
Izenzon (b) Charles
Moffett (ds) 司会者がトリオの面々を紹介し、オーネットの簡単な挨拶が終わると、さっそく「Faces And
Places」が始まる。この曲ではいきなり彼が吹くテーマらしきフレーズで始まり、そのまま定速のビートで演奏が進行していく。オーネットといえば真っ先に挙がるアルバムがこのVol.1。これからジャズを聴こうと思いガイドブックを開いた人は、フリー・ジャズの象徴として、そしてその代表作としてこのアルバムを聴く可能性が高い。そして聴いてみると「あれ?思ったほど特異ではないじゃないか」と思うだろう。リズムは明確な4ビートで変拍子とか複合リズムのような複雑で難しそうなことはしてない。むしろ、ヨーロッパ人のミュージシャンは、あそびの部分の殆どない規則的なビートを刻んでいて、これが自由なの?と思わせるほど。思い起こせば、初期のアルバム「THE SHAPE OF JAZZ TO COME」の「Lonely
Woman」において、バラード・ナンバーであるにもかかわらずドラムスは規則的に高速ビートを刻んでいた。もっとも、オーネットはまるで、そのビートとは無関係のようにゆったりとしたメロディーを吹いていた。ここでは、同じような行き方をもっと明確にシンプルに打ち出していると言える。フリー・ジャズの自由というのは、少し突っ込めば何らかの制約とか規制から解放されるということで、一種の特権のようなものだ。特権を得るためには、その特権が生まれてくるには規制があることが前提になっている。なんか、ややこしいと思われるかもしれないが、実際のところ、何の決め事もなく演奏をして、聴き手に音楽として聴いてもらえるような演奏になるだろうか。2人の人間が共通の地盤に立つことなく互いが好き勝手なことを言っていては、そこに会話は成立しない。オーネットの演奏では、規則的なビートが、ひとつの共通のものさしのような役割を果たして、それを1本の蜘蛛の糸のように、そこに依拠して、ここでは3人のミュージシャンも聴衆もコミュニケーションができるようになっているといえる。 では何が特権なのかというと、フリー・ジャズとは自由な精神で演奏することだとオーネットは、その手の質問にそう答えたという。あえて、誤解を恐れずに言えば、オーネットという演奏家が自身のセンスのみに従ってプレイすると、コード進行とかスケールの制約といった既存のジャズの約束事が障害となってしまうので、それを取り除いたということ、かなり一面的なのだけれど。その証拠として、このアルバムでは、冒頭にオーネットがサックスで吹くフレーズが、なんとも馴染み難いというのか、何度聴いても覚えることのできない、奇妙な・・・メロディともいえないメロディになっていることだ。これは、他のフリー系という演奏者たちのフレーズが、もともとのメロディを壊しているということが分かるのに対して、オーネットの場合は、もともと既存の壊すべきメロディがなくて、当初から壊れたようなメロディが出てきてしまうのが分かる。多分、オーネットとしては自然にこのようなメロディが出てきてしまうのだろうと思う。逆に言えば、壊すべきものがなというところで、制約が取り払われて、「内容が面白ければ、何を吹いても良い」という状態の中でのアドリブは、とても難しいことだと思う。どんなメロディを吹いても良い反面、何を吹けば良いのか分からなくなる危険性もあるからだ。今までの練習内容の無意識な繰り返しや、手癖(クリシェ)に陥ってしまい、「聴かせる内容」を演奏をするには、かなりのセンスと想像力を必要とされるからだ。そこがオーネットの凄いところだ。あらゆる制約が取り払われた中、オーネットの生み出すメロディの奔放さといったら!時にアグレッシブな側面も見せ、時に単純で素朴のきわみとも言えるほどのメロディも放つ。調子っぱずれで奇妙に抽象的なメロディの断片も、不思議に聴き手の心をつかんで離さない。コード進行の呪縛から離れ、これほど創造的に歌い(しかも誰にも似ていないオーネットだけの個性で)、なおかつ説得力のあるアドリブを繰り広げるコールマンの歌心は並大抵ではない。しかも、同じフレーズを繰り返すということを、彼は絶対にやらない。後半にチャールズ・モフェットのドラムス・ソロが登場し、その躍動感の素晴らしさ、テンポがどんどん走っていって、再びトリオでテーマ・パートで演奏されるが、これも素晴らしい。三者が複雑なブレークを重ねながら圧倒的に奔放な演奏を繰り広げていく姿が痛快この上ない。 次の「European
Echoes」では、音が抜けているのか、と思わせるほどのシンプルで剥き出しのメロディからはじまる演奏は、上で述べたオーネットのメロディの奇妙であって、しかも叙情的に聴けてしまう。しかも、このシンプルなメロディを、いつの間にか展開させて、その展開のさせ方が独特で、気が付いたらとんでもないところに連れて行かれてしまっている。 |