CHARLES LLOYD(チャールズ・ロイド)
 

チャールズ・ロイド(アルト・サックス)

Charles Lloydをネットで検索すると、1967年に、当時は未だ無名のキース・ジャレットやジャック・ディジョネットをメンバーにしたカルテットで発表した「フォレスト・フラワー」というヒット・アルバムのことばかりひっかかってくる。そして、検索で引っ掛かったページを訪問すると、判を押したようにキースやディジョネットのプレイを称揚し、チャールズ・ロイドに対しては、バンドのリーダーで挨拶程度に触れる程度でお茶を濁している。ごくたまに言葉が及んだとしてもコルトレーンの影響を受けたとか亜流扱い、酷い場合にはフワフワした気の抜けたとか、創造性が少ないとか散々。あるいは、その後急速に忘れられてしまったということもあるかもしれない。

当時の人気絶頂だった彼らについて、マイルズ・デイビスが次のようなコメントを残している。“1968年から69年にかけて、最も注目に値するのがチャールス・ロイド達の音楽だった。ロイド自身は大した事はやっていないが、ピアノのキース・ジャレットと、ドラムのジャック・ディジョネットが素晴らしい仕事をしている。この二人はジャズとロックの中間のボトムのところにある非情に面白い音楽をやっていて、ロイドもそれにフワフワと浮遊するような演奏を上手くブレンドさせていた・・・・”。これは、マイルズが自身のバンドでのリーダーとしての、自分がトランペットをバリバリ吹いてメンバーを引っ張っていくことから、メンバーたちの創造性を引き出して仕事をさせる立場に自身を変えていったことを、同じようにロイドを見ていたように思う。“ロイド自身は大した事はやっていない”というのは貶しているのではなくて、『ビッチェズ・ブリュー』などでのマイルズ自身のあり方を、ここに見出しているのではないかと、思える。つまり、バンドのリーダーとしてのソロ・プレイヤーのスタンスが、ロイドは以前のプレイヤーとは決定的に違うところにいた、ということだ。それをマイルズは炯眼にも自身もそうなっていくことを自覚していたから、ロイドにたいして上記のようなコメントをしているのではないか。そして、そのようなロイド個人のプレイは、だから、フロントに立って即興で圧倒するとか、派手なブローで受けるとか、エグい音色で吹きまくるとかいった方向を目指すべくもない。メンバー全体のサウンドをつくり、その上でマイルズが指摘しているように“ロイドもそれにフワフワと浮遊するような演奏を上手くブレンドさせていた・・・・”のだ。丸みを帯びて、音色にゴツゴツしたところがなく聴き手の神経を尖らせたり逆撫ですることないまろやかな音で、まるで大きな円を描くように微妙に強弱をつけながら流麗に流れるような演奏は、聴き手を心地好く包み込んで、その意識に気づかないうちに入り込んでしまう。

1960年代後半から70年代初頭にかけてのカウンターカルチャーのなかで物質文明に対する懐疑として、精神主義的な潮流が一時期盛んになったのに応えるようなものとしてロイドの「フォレスト・フラワー」も受け容れられ、彼自身もそのような方向性を追求していった。その後キースやディジョネットは、彼ら自身の新たなジャズの可能性を追求する方向に袂を分かっていった。ロイド自身は、その方向性についてはブレることなく一貫していて、彼をとりまく時代の好みとか風潮が変化しているだけだ。だから、ロイドの場合は新たな挑戦を何度も試みるという方向ではなくて、愚直というほどひとつの方向を進むというもので、キャリアを重ねるにしたがって彼の吹くサックスは深みを増していったというタイプの音楽をやっていたのだと思う。 

 

バイオグラフィー

1967年のフィルモア・ウエストはチャールス・ロイドにとっての大きな出来事だった。その時のビートを伴ったコルトレーンばりの感傷に、たらたら歩くようなゴスペルのヴァンプ、ロックのビートを混ぜ合わせた彼のプレイはウッドストック世代に強くアピールした。この頃の彼は、饒舌なプレイをしばしば行っていたが、最近ではより経済的な演奏をするようになってきている。そして、テナー・サックスと同じくらい、アートやスピリチュアルに関心を寄せている。ここでは、おそらくECMレーベルのクールな方法論のもとで、静かなバラードに集中した。彼の"Ballade and Allegro"は仮死状態と言っていいほど、それが反映している。ベテランのビリー・ヒギンズを含む彼のバンドは喜ばしい色を加えた。ブラッド・メルドーは全音スケールで"The Monk and the Mermaid"を作り、タイトル・トラックでギタリストのジョン・アーバンクロンビーは

このセットは開放的な広がりのない瞬間はない。"Figure in Blue"が静かなボサノバに発展するとき、ロイドは聞く人を動揺させる。

Mirror               2010年9月14日録音

I Fall In Love Too Easily

Go Down Moses

Desolation Sound

La Llorona

Caroline, No

Monk’s Mood

Mirror

Ruby, My Dear

The Water Is Wide 

Lift Every Voice And Sing

Being And Becoming, Road To Dakshineswar With Sangeeta

Tagi

 

Charles Lloyd (ts,as,voice)

Jason Moran (p)

Reuben Rogers (b)

Eric Harland (ds,voice)

 

ECMというレーベルからリリースされたアルバム。それだけで傾向が想像できる人も少なくないのではないか。静謐な、内省的、瞑想的な空気に包まれ、ある種の浮遊感のあるバラード集である。アグレッシブにアドリブを追求するとかいった傾向ではなく、果たしてジャズと言えるのか、BGMではないのか、と仰る向きのいらっしゃるかもしれないが、ここには独特の緊張と弛緩(リラックス)があって捨て難い魅力がある。

最初の「I Fall In Love Too Easily」はスタンダードナンバーで、ドラムが入らず、サックス、ピアノ、ベースの3人で、テーマを滑らかに吹くロイドのサックスは淡々としていて、節回しのようにくるくる回るようなオカズを時折つける以外はストレートに、むしろロイドのサックスの深みのある音の味わいが直接届けられる。サックスを邪魔しないように少ない音でベースとピアノが絡む。ベースとデュオになったり、ピアノとベースのデュオになったり、3人で集まったり離れたりと、淡々としながらも流れる雲のように場面が展開していく。ロイドのサックスはアドリブでフレーズを紡ぐというよりは、フワフワと浮遊するように、自由に音と戯れて、その深みのある音を出し続けるために吹いているという感じで、見方によってはヌルいのだが、どのようなフレーズをどのように吹いているかは、ここではあまり気にせず、ロイドの浮遊する音に包まれ浸るようになる。すると、いつの間にかその音が意じわじわと識に入り込んでくる感じなのだ。そして、他のピアノとベースの2人が、ややもするとヌルくぼんやりしてしまうロイドの演奏に、カッチリした音楽の輪郭を形づけている。ジャズ特有の燃え上がるような部分、例えばグルーヴとかスイング感とは異質な演奏になっている。こうした感覚は2曲目以降にドラムスが入ってきてからも大きくは変わらない。演奏は途切れることなく2曲目のトラディショナル「Go Down Moses」につながってゆく。ラテン・パーカッションのようなドラムスに乗って、バラードのようにテーマをサックスがはいってくる、アドリブでじわじわと盛り上がるようなのだが、クリスタルのような音色のピアノが冷たく落ち着かせるように、ここでも外面的な効果を抑えているのが分かる。次の「Desolation Sound」では親しみやすいメロディのあと、ピアノが冷たく燃えるのに引っ張られるようにサックスもテンポ・アップしていくが、穏やかで抑制された表現は保たれ、演奏全体にストイックな強い精神性が秘められているのが分かる。4曲目の「La Llorona」はどこかノスタルジックでもの哀しさが漂うメロディをロイドが無伴奏で吹く。淡々とした抑制されたサックスにピアノが線で絡むと、推進力と流れが大切にされているのが分かり、それだけにメロディの哀感が聴く者に痛切に染みわたるのだ。このような滑らかに流れるように、最後のTagiまで続いていく。

ここで全体として、リズムは当然のこととして、アドリブの即興フレーズも含めて、音楽の形とか輪郭はピアノ、ベース、ドラムス、とくにピアノが作っている。それは、ロイドがそうさせるように仕向けている。とくに、ピアノのクリスタルのような明晰でブライトなタッチがとても美しく聴こえてくる。

The Water Is Wide     1999年12月録音

Georgia

The Water Is Wide

Black Butterfly

Ballade And Allegro

Figure In Blue

Lotus Blossom

The Monk And The Mermaid

Song Of Her

Lady Day

Heaven

There Is A Balm In Gilead

Prayer

 

Carles Loyd(ts)

Bad Mhldau(p),

Jhn Aercrombie(g),

Lrry Genadier(b),

Blly Hggins(ds)

 

2000年ECMから発売されたアルバム。バラード集といってもいい、ミディアムあるいはスローテンポの演奏を集めたもの。60歳を過ぎた年齢のせいもあるのか、あまり激しいプレイは体力的に難しくなったのか。この後も、コンスタントにアルバムを発表していくが、このアルバムの方向性を続けている。代表作として知られている1967年の『フォレスト・フラワー』でのロイドの演奏がジョン・コルトレーンの影響を受けた激しいものと受け取られているせいか、それに対して本作は老境の変化とか枯淡の境地ということになるかもしれない。しかし、『フォレスト・フラワー』にも本作にある要素はあったのであり、ロイドは年齢を経るにつれて深化させて、一貫しているのではないか。もともと、器用なタイプには思えないし、頭がよくて色々考えるようにも見えない。余計なことを考えず自分にはこれしかないと、批判されようが、人気が落ちようが、愚直に続けてきたという演奏ではないかと思う。その結果、音色とかプレイに、蔵の奥で長く寝かせた古酒のような味わいや深みが出てきて、聴く者に精神性を感じさせるものとなっていた、とでも言えるかもしれない。スタイルとしては、奇を衒うことのないスタンダードな演奏で、参加しているピアノのブラッド・メルドーをはじめとした人々で、ピリッとしたアクセントを利かせている。

1曲目はレイ・チャールズの「Georgia」で、よく知られたテーマをロイドのくすんだ甘い音色のサックスがゆっくりと吹く、演奏自体はサラッとしていて、ノスタルジックなムード・ジャズが陥りがちなベタなセンチメンタリズムとは一線を画している。ロイドのサックスの特徴は、なによりも彼のサックスの音色にあり、極端なことを言えばアドリブのフレーズや作る曲はそれを生かすためのものになっていると言えるかも知れない。だからテーマのメロディを吹くときには余計な細工をしない。一方、ソロのアドリブになっても、その姿勢は変わらない。ここでは、ピアノのメルドーがアドリブのソロに入ると演奏のテンポがぐっと上がりピリッとさせていくと、ロイドはメルドーの弾いたフレーズを繰り返すように引き継ぐ。次の「The Water Is Wide」がアルバム・タイトルとなった曲で、この最初の2曲で、聴く者にとってアルバム全体が決まってしまったと言える。

FOREST FLOWER   1966年9月18日録音

Forest Flower-Sunrise

Forest Flower-Sunset

Sorcery

Song Of Her

East Of The Sun

 

Charles Lloyd (ts,fl)

Keith Jarrett (p)

Cecil McBee (b)

Jack DeJohnette (ds)

 

1966年の第9回モンタレー・ジャズ・フェスティヴァルでの実況録音。1曲目の「Forest Flower-Sunrise」と2曲目の「Forest Flower-Sunset」は組曲形式になっていて、日の出と日没でひとまとめということになろうか。ここでのキース・ジャレットのピアノは目の覚めるほど溌剌としている。曲が始まってしばらくしてフィルインで入ってくるピアノの冴えわたった音質は、聴衆から拍手が起こるのが録音されている。また、当時の音楽状況がジャズがロックに近づいた時代であり、ロックの大音量に倣うようにドラムスのジャック・ディジョネットがそれらしいワイルドなスタイルで、パワフルなドラミングをしているのが印象的で、マスルズの『ビッチャズ・ブリュー』のビート感覚に似通った音楽空間を作り出している。その中で、ロイドのテナーは、周囲の景色がどれ程激変しても、終始マイペース。まるで無重力の宇宙遊泳のごとく、フワフワと浮遊しているかのようだ。2曲目に入って日没の内容に応じた叙情的でドラマチックな展開でも、キースのピアノからは華麗で幻想的なフレーズがとめどなく溢れ出るよう。この組曲における彼の演奏スタイルが、後の完全即興に繋がっていくのではないかと思わせるほど、キースの独り舞台の様相だった。というように、目立つところはキースのピアノやドラムス、ベースに持っていかれて、本来ならリーダーであるロイドの影が薄くなってしまっているように読まれてしまうかもしれない。実際に、聴き落としてしまう人もいると思う。演奏は、マイペースでフワフワ浮かぶように吹いているのだが、そのフワフワがいつの間にか聴き手を包み込むようにして、雰囲気を作ってしまっている。これは言葉にしにくいので、当時の解説などでは触れられることが殆どない。後になって、ああそういえば、と気づく体のことだからだ。ロイドのそういうところは、この作品から40年経っても変わっていないで一貫していると思う。

しかし、最後の「East Of The Sun」では、力の入った4人の演奏者の濃密な絡み合いを聴くことができる。ロイドのサックスが高速のアドリブで疾走を続け、大きくブローまですると、キースが負けじとハイスピードでフレーズを振りまくようなアドリブにベースも刺激されて…と、スリリングなプレイを、最後にきっちりまとめて終わられるのは、キースのピアノということになろうか。

当時のカウンター・カルチャーが近代以降の西洋の物質文明に対する異議申し立てを行い、その反動として例えばヨガのような異文化の神秘的で精神主義的なイメージに惹かれる風潮が生まれた。サイケデリック(精神拡張)などと言われのもそのひとつだが、このアルバムのタイトルである『フォレスト・フラワー』にもその影響があるし、大音量で聴く者を包み込んで、一種のトリップ状態にしてしまう音楽と、ロイドの聴き手を包み込んでしまうようなプレイスタイルに親和性があったのだろう。だから、それで大衆的な人気を得たのだろうと思う。しかし、それはロイドの演奏をトリップするための道具のように捉えて、ジャズのリスナーとは違う人々だったのではないか。それゆえか、70年代に入ってサイケデリックのブームが下火になるとロイドの人気は落ち込んでシーンから消えてしまう。そこでサイケデリック音楽を演っていたバンドは解散したり音楽性を変えてしまったりしたが(グレイとフル・デッドは例外で、一貫した姿勢を続けた)、ロイドは節を曲げることなく、一貫した姿勢を貫いていったと思う。その結実したものは、先に紹介したアルバムで聴くことができると思う。

 
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