HANK
JONES(ハンク・ジョーンズ) |
ピアノ奏者。ニュー・ヨークやシカゴといった大都会に比べると地方都市ということになるデトロイトで、ローカルなジャズ・シーンを作っていた小規模な人の輪の中から、何人かのメジャーなミュージシャンが輩出された。その中心にいたのが、彼ハンク・ジョーンズを長兄とする兄弟で、他にも、サド・ジョーンズ、エルヴィン・ジョーンズは彼の弟に当たる。一方、ピアニストであるハンク・ジョーンズの周囲には、同じようにバド・パウエルのスタイルに影響を受けたピアニストが集まった。バリー・ハリス、トミー・フラナガンといった人々。彼らは、パウエル派ということで一緒くたにされて、これらのピアニストたちは、他のプレイヤーのサイドメンとして伴奏をつとめることが多かった等の事情があって似ている点が多い。これは、彼らの演奏そのものではないが、彼ら、3人のピアニストは、3人とも“玄人受けするミューしシャン”とみなされている点で共通している。つまり、彼らの魅力は、ある程度ジャズを聴き込まないと分からないものであり、ジャズのイロハを知っているくらいのリスナーには、演奏全体から放たれる雰囲気、ソロに特徴的なダイナミクスや、聴き手の想像力を掻き立てるスタイルの違いを味わうのは難しい、ということだ。彼ら3人とも、若いころは他人の伴奏で数多くのレコーディングに参加している点でも共通していて、そのせいか、バリバリ弾いて、自分の個性を強烈に主張するタイプでなく、共演者を引き立てながら全体の演奏を組み立てていくところも似ている。そういう演奏の性格から特徴的な個性、これといったものを、分かり易く呈示してくれていない。そういうところが“玄人受けするミューしシャン”と称されてしまう由縁だろうと思う。 とはいえ、ハンク・ジョーンズというピアニストに個性がないということはない。そうでなければ、ジャズ・シーンで生き残ることはできなかったし、メジャーなピアニストとして称賛される存在にはならなかったはずだ。と言うこともあり、なかなか分かり易いとはいえない、彼の演奏の特徴について、バリー・ハリスやトミー・フラナガンと比べながら述べていくと、多少は分かり易いかもしれない。 ハンク・ジョーンズは尊敬するピアニストとして、ファッツ・ウォーラー、アート・テイタム、バド・パウエル、アル・ヘイグの名前をあげているという。彼の演奏スタイルは、基本的には、1930年代末から40年代初頭にかけて流行したテディ・ウィルソンやナット・キング・コールのスタイルから派生したものと言われている。そこが単純にパウエル派と決めつけられない点だ。彼のハープのように軽快なタッチは、鍵盤を叩くのではなくピアノの弦を爪弾いているように聞こえる。また、優雅に抑制されたシングル・トーンのスタイルは、バド・パウエルの影響によりその美意識を再構築したものだ。これによって、彼は、どんなスタイルの演奏でも合わせることができだけでなく、アーティ・ショウからジャッキー・マクリーンまでどんなスタイルの器楽奏者をも、刺激し鼓舞することもできる柔軟性を備えることができた。例えば、キャノンボール・アダレイのアルバムでの「枯葉」の洗練された伴奏に、その典型的な演奏を聴くことができる。その控えめで繊細なところはトミー・フラナガンに似ているところもあるが、ソロの部分では上昇するフレーズと下降するフレーズをうまく結びつけて、アダレイのサックスに滋味を加えている一方で、器用にファンキーなタッチをまじえて、ビートを後押しするようにリズムを強調するといったアクセントを巧みに加えている。 パウエル派といえば、ワイルドなサウンドを前面に出すようなイメージがあるが、ハンク・ジョーンズは穏やかで、無理に出しゃばることなく、共演者をうまくサポートしながらも、ときおりキラリと個性を光らせるタイプといえる。
バイオグラフィー ハンク・ジョーンズは、3人の有名なジョーンズ兄弟(サド、エルヴィンと彼)の年長者で、第二次世界大戦後に登場したデトロイト出身の偉大なピアニストたち(トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ローランド・ハナ)の先駆者でもあった。実は、彼らは、そのずっと以前に街を出ていたのだけれど。ジョーンズはティーン・エイジャーの間はローカル・バンドで演奏していたが、1944年にトランペット奏者のホット・リップ・ページと演奏するためにニューヨークに出てきた。彼は、ジョン・カービー、ハワード・マギー、コールマン・ホーキンス、アンディ・カークそしてビリー・エクスタインとの演奏を行なった。ジョーンズの演奏スタイルは、テディ・ウィルソンやアート・テイタムの影響を受けたもので、ビバップの影響もまた受けていた。そして、彼の演奏の間口は広くて、多くのジャンルに適合できる柔軟さがあった。彼は、1947年に始まるジャズ・アット・フィルハーモニック・ツァーに参加し、1948年から53年にはエラ・フィッツジェラルドの伴奏を勤め、チャーリー・パーカーの録音にも参加している。1950年代には、ジョーンズはアーティー・ショー、ベニー・グッドマン、レスター・ヤング、キャノンボール・アダレイその他多くのミュージシャンと演奏している。彼は、1959年から1976年の間、CBSスタジオのスタッフ・ピアニストだったが、ジャズの世界でも活発に活動を続けていた。1970年代後半には、ブロードウェイ・ミュージカル「エイント・ミスビヘイブン」のピアニストをつとめ、グレート・ジャズ・トリオと称した一時的なトリオで録音を行なった。このトリオは、ベースのロン・カーター、バスター・ウィリアムス、エディ・ゴメスやドラムスのトニー・ウィリアムス、アル・フォスター、ジミー・コブが、その時々に参加するというものだった。ハンク・ジョーンズは様々なレコード会社でリーダーとしてアルバムを録音している。
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