DON FRIEDMAN(ドン・フリードマン)
 


ドン・フリードマン(ピアノ)

ピアノ奏者。

 

バイオグラフィー

素晴らしいピアニストであるのに過小評価されているドン・フリードマンは、1958年にウエスト・コースストで演奏活動をスタートさせた。その時、一緒にプレイしたのは、デクスター・ゴードン、ショーティ・ロジャース、バディ・コレット、バディ・デフランコ(1956〜1857年)、チェット・ベイカー、そして未だ無名時代のアルト・サックスのオーネット・コールマンもいた。1958年にニュー・ヨークに出てくると、その後10年間にわたり、フリードマンは様々なセッティングで演奏した。そのセッティングの中には、彼自身のトリオやペッパー・アダムス、ブッカー・リトル(1961年の彼のレコーディングに参加)、「ジミー・ジェフリー3」(1964年のアルバムのレコーディングに参加)、アッティラ・ゾラーを加えたカルテット、チャック・ウェイン・トリオ(1966〜67年)そして、クラーク・テリー楽団。彼はニュー・ヨークで広範な音楽的関心を持ったジャズの教育者そしてピアニストに従事し続けた。そして1993年コンコード・メイベレック・リサイタル・ホールでリサイタルを行なった。2016年6月30日に亡くなった。 

CIRCLE WALTZ    1962年5月14日録音

Circle Waltz

Sea's Breeze

I Hear A Rhapsody

In Your Own Sweet Way

Loves Parting

So in Love

Modes Pivoting

 

Don Friedman (p)

Chuck Israels (b)

Pete La Roca (ds) 

 

このアルバムを一聴すれば、当時のジャズのアルバムでよく弾かれていたピアノのスタイルと明らかに一線を画していることは分かる。ジャズという音楽でのピアノという楽器の位置づけはリズム・セクションを形成しているという性格があって、クラシック音楽に比べると打楽器という側面が強かった。そのせいもあってか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストに比べると、音が立ち上がりがストレートで、いわゆる立っている感じが強い。とくにフォルテでの音のスッキリしたクリアな音は、その決然としたアタックによるものか、クラシックのピアニストは通常出せないような音色を持っているピアニストが多かった。それもあるのか、ジャズのピアニストは、クラシックのピアニストと違って音の強弱をグラデーションのように使い分けることよりも、フォルテのクリアな音の一本勝負の人が多い。とくに管楽器のバックでリズム・セクションにいるときは、ほとんどがそうだろうと思う。ところが、ドン・フリードマンの、このアルバムを聴いていると、フリードマンは弱音主体でピアノを弾いている。そこに、彼のピアノ演奏の特徴があり、それがこのアルバムでは彼のユニークさを際立たせている。

ジャズという音楽の大きな特徴として、即興性の重視ということが挙げられると思う。クラシック音楽のような予め楽譜に書かれていることを忠実に再現するというのではなくて、プレイヤー(演奏者)が、その名のとおりプレイ(遊び)するように、その場で音と戯れ、音楽を即興的に生み出していく、聴衆の見ている前で創造してしまうところを重視する。バド・パウエルやセロニアス・モンクといったジャズのピアニストは、ライブ演奏でも、録音でも、その場で音楽が誕生するという感動的な瞬間をたしかに作り出していた。それがジャズの演奏の新鮮さとか生々しい迫力に繋がっている。しかし、そのように即興的に、その場で演奏を創造することに力を傾ければ、そこに先がどうなるか分からないスリルが高い緊張感を生んでいたが、その反面で先が見えないその場限りになるおそれがある。したがって、演奏者は、つねにその時のベストプレイをすることになる。だから、どうしても声高になるきらいがあり、音が大きくなっていく傾向がある。一旦、退くように音の出し惜しみをして小さくしてしまえば、そこで緊張が後退してしまうおそれがある。

そこで、ドン・フリードマンというピアニストが弱音で演奏するということが、このような傾向に対するアンチ・テーゼと言えるほどのユニークさを持ち得る可能性があるわけだ。弱音でピアノを弾いて聴かせるためには、パウエルやモンクのようにその場で音楽が生まれるという即興性で勝負するわけにはいかない。弱音という退きの要素を聴衆に聴いてもらうためには、一瞬一瞬に目が離せないという行き方ではなくて、ある程度安心して聴き所に注目するような態度をさせる、いわばメリハリをとらせる必要がある。そのためには、演奏が全体としてのプロポーションを見通した上で、聴きどころに注目してもらう、そのような演奏をする必要がある。そこでは、ジャズの大きな特徴である即興性をある程度犠牲にしなければならない。

他方、ピアノが弱音で演奏しているところ、他のベースやドラムスが自己主張して大きな音を出してしまえば、ピアノの音は埋もれてしまう。したがって、ベースやドラムスもピアノに合わせて、全体としてのアンサンブルの響きを考えていくことが求められる。フリードマンの演奏では、ピアノを含めてプレイヤー個人がソロとして突出することになるとアンサンブルのバランスが崩れてしまい弱音での演奏が聞こえてこなくなってしまうので、バランスを重視する。たとえば、ピアノの響きはピアノと他の楽器の音が融合したサウンド、つまり、ベースとドラムスによるリズムとサウンドのなかから、その響きを通してピアノの音が聴こえて来るという感じになる。それは、クラシック音楽の室内楽の響き方に近い性格のものだと思う。

その点で弱音も使うビル・エヴァンズと似ていると言われてしまっているひとつの原因となっていると思う。ただ、思うに、このアルバムではフリードマンが意図した以上に評価されてしまって、結局、爾後の彼の音楽を縛ることになって、この後の彼のスタイルがさらに展開されるはずであった可能性への障害となってしまった感もある。

最初の「Circle Waltz」はアルバム・タイトルでもある、フリードマンのオリジナル曲。ピアノによるテーマが演奏される。それほど美しいとか印象的なメロディではないけれど、このテーマはベートーヴェンの交響曲の動機のように素材として、その後の操作により劇的になったり優美になったりという変化をしていくものになっていると思う。曲全体をとおして、このテーマが途中でも度々聴こえて来る。ジャズの演奏では最初にテーマが呈示されてアドリブに入ると、テーマはどこかに行ってしまって、最後に忘れた頃に戻ってきて演奏が終わるということがよくある。これに対して、フリードマンの演奏は、アドリブの部分に移ってもテーマが反芻され、そこでテーマに色づけがされて、それは繊細さというイメージの比重が大きいのだけれど、アドリブが展開されていくにつれて、テーマが段々と印象を重ねられるような構造になっている。そのような素材としては、このテーマはよくできていると思う。あらかじめ計算され設計されているような性格のものと思う。私の個人的な想像だけれど、ジャズの先端的な傾向は、ビバップやハードバップのコードをベースにした即興から、モード奏法とかその後のフリーといった即興に対する規制を外して自由に即興することを目指していったところにあると思う。これに対して、フリードマンの場合は予め即興の方向を設計するという、敢えて規制していく方向で、演奏のスリルや瑞々しさの代わりに、全体としてまとまりにより、聴き手がリラックスして聴くことができることを選択したのではないかと思う。

これは演奏の時間的な構造の特徴とすると、空間的な特徴してピアノの演奏が独立していないように思える点があげられる。いわば、他のベースやドラムスに寄りかかっていて、アンサンブルの中で、はじめて生きてくる、つまり、ピアノ単独でフレーズを聴くのは、どこかもの足りなさが残り、ベースのコード伴奏やドラムスによるリズムの刻みによるメリハリが付加されたまとまりとなるとフレーズとして活きてくると思えるのだ。この点で、ピル・エヴァンズのような、ピアノやベースがそれぞれに自立したフレーズを作り出して、それぞれによる二つの別々のフレーズの掛け合いやバトルが高い緊張やドラマを生むということはない。その代わりに、フリードマンのトリオのフレーズにはアンサンブルから生み出される響きの重層性や単独の楽器のキャパでは生み出せないサウンドの厚みがある。

そして、このテーマがメロディアスでないことに端的に表われていると思うが、フリードマンの繰り出すフレーズはメロディアスな要素が少なく、ほとんど歌わない。それが似ていると言われているビル・エヴァンズとの違いのひとつと言える。つまり、フリードマンの演奏は繊細だけれどリリカルとかセンチメンタルといった要素がほとんどない。フリードマンの繊細さというのは、サウンドの響き、クリスタルのような硬質でクリアなピアノの音で、弱音を駆使して、それを最大限に生かす演奏をするところにある。後年のことになるが、フリードマンがフリー・ジャズを志向して、それっぽいアルバムを残していたり、新感覚派のセッションに参加して、サイドで結構アグレッシブな演奏をしている遠因は、この辺りにあるのではないかと想像させられる。そして、ピル・エヴァンズにはそのような活動への参加はなかったと思う。とくに、エヴァンズとの大きな違いは音の重ね方にあると思う。エヴァンズはコードこそユニークなコード進行による響きを印象付けるけれど、基本的にはメロディ志向のピアニストなので、ブロックコードとリズムを刻む場合は別として、あまり音を重ねようとしないが、逆にフリードマンはメロディを歌わせるところがすくなく、コード変化によって響きの繊細な移り行きを聴かせる志向があるようで、この「Circle Waltz」という曲は彼のオリジナルであるだけに、そういう響きを生かすようにつくられていると思う。最初に述べたようにテーマは、これらのフリードマンの特徴的な演奏によっていじり易い素材としてつくられている。たいへん人工的な演奏で、自然な暖かみとは正反対の曲にいるようなフリードマンの特徴をよく生かしている曲、演奏になっている。

フリードマンのサウンド特徴が集中的に表われているのが「So in Love」というコール・ポーター作曲のスタンダード・ナンバーの演奏。ソロ・ピアノで他の楽器が入ってこないためか、アルバム中の他の演奏に比べ弱音がさらに多用されて、音の重ね方についても微妙に重ね方をズラしたりといった工夫を駆使して響きのヴァリエーションを多彩にして、一見、繊細なのだけれど、じつは響きの点で攻めの演奏をしている。 

Metamorphosis      1966年2月22日録音

Wakin' Up

Spring Sign

Drive

Extension

Troubadours Groovedour

Dream Bells

 

Don Friedman (p)

Attila Zoller(g)

Richard Davis (b)

Joe Chambers(ds)

  

フリードマンのリーダー録音としては5作目に当たり、フリー・ジャズっぽい行き方に接近したものとなっている。「CIRCLE WALTZ」とは印象が異なるが、フリードマンが他のミュージシャンのリーダー・アルバムにサイドメンとして参加した、例えばジョー・ヘンダーソンの「テトラゴン」やブッカー・リトルの「アウトフロント」でのプレイは、このアルバムでの演奏の方が通じているように思える。このアルバムでは、ピアノ・トリオにギターが加わったカルテット編成で、ピアノとギターがユニゾンでメロディを演奏するという変わった響きから、ソロが分岐するように派生していくところにサウンド面での特徴があると思う。そこでは、「CIRCLE WALTZ」で目立っていたピアノの弱音による繊細な響きを打ち消してしまうところもあって、「CIRCLE WALTZ」からフリードマンを聴き始めた人は、違和感を持つかもしれない。しかし、このアルバムを聴くと、決してフリードマンがピル・エヴァンズの真似で「CIRCLE WALTZ」を演ったのではないことを、間接的にでも分かるだろうと思う。

最初の「Wakin' Up」は、ベースのイントロに続いてミドル・テンポのスインギーなワルツをピアノとギターがユニゾンで演奏する。この時のフリードマンのピアノは、音量でギターの背後になっていて、コードを押さえてのテーマなので伴奏のようでもある。続くソロがギターなので、ことさらそう聴こえるのか、ピアノはバックで伴奏のようであるけれど、ギターが退くと、その伴奏の形のままソロに移行していく。このような形でフリードマンが演奏全体をリードしている。曲の構造的な面では、「CIRCLE WALTZ」の場合は、この曲では大きな変化はないが、サウンドでの印象が違う。しかし、違いは2曲目の「Spring Sign」で明らかになってくる。冒頭でのギターとピアノユニゾンは、フュージョン・ギターでよく演られる手数の多いテクニカルなギターならではのような早弾きフレーズで、ピアノは無理に合わせているようなギコチなさがある。それが、これまでのハード・バップ的なジャズのメロディとは明らかに違うという印象を最初に与えられる。それに続いてピアノによるアドリブが、ブリッジのように静かにゆっくりとコードを連打していくのだが、それが段々に不協和音になってくところが変わっていて、テーマの早弾きフレーズを断片に分解した破片を散りばめるようなアドリブの展開はクラシックの20世紀音楽のクラスターのような響きを作り出していて、次第にピアノのアドリブがバップ的な展開に落ち着いていくのだが、バックのベースの弓弾きやギターの後のフュージョンのような早弾きが、バップ的なピアノとのミスマッチさが奇妙な響きをつくりだす。そして、ギターにソロがかわった後のピアノのバックが、変拍子と不協和音のオンパレード。弓弾きのベースが、この奏法を生かした重音を不協和音で、変拍子で、それにピアノが合わせると、完全に不協和音と変拍子の世界。次の「Drive」では前曲の傾向をさらに推し進めていくと、メロディの印象がクラシック音楽の十二音技法っぽくなってきて、次第にギターとピアノがビートを細分化して、細かい音を高速で間断なく弾いて、まさに高速のクラスターの響きの世界。背後のドラムスとベースは規則的なリズムを刻まず、まるで全体として浮遊しているような世界をつくりだす。

Troubadours Groovedour」のギターとピアノで交互に掛け合うように演奏されるテーマは、ジャズのリズムに乗った十二音技法のように聴こえて来る。それは、まさにこの録音が行なわれた当時のクラシックのコンテンポラリーな実験音楽のような響きでもあり、フリー・ジャズのようでもある。ただし、そのような音楽には理論的な方法論があって、音楽の本質はこうだと頭で考えていく、例えばフリー・ジャズでは演奏での自由を突き詰めて、コードなどの規制から解放されて自由に音楽作りをすることの追求という動機があったと思うが、ここでのフリードマンたちの演奏には、そのような理詰め感じはなくて、あくまでもサウンドの響きの新しさを求め結果ではないかと思う。かれらの演奏には、方法論を追求するような熱さはなくて、いかに聴き手に聴こえるかを測りながら演奏している醒めたところがある。それは、演奏が決して熱気でごり押しのような盛り上がりには至らないことからも分かる。これだけ、フリー・ジャズを演っていても、全体としての演奏には穏やかな静かさが漂っていて、リラックスした雰囲気を失っていない。そこにフリードマンの特徴的な繊細さがあると思う。

Flashback  1963年録音

Alone Together

Ballade in C-Sharp Minor

Wait 'Til You See Her

News Blues

Ochre

How Deep Is the Ocean?

Flashback

 

Don Friedman (p)

Dick Kniss (b)

Dick Berk (ds)

 

CIRCLE WALTZ」からフリードマンに接した人には、「Metamorphosis」は違和感アリアリなので、両者の橋渡し(などというと、このアルバムに失礼かもしれないが)として聴くこともできる。というのも、アルバムの曲構成がスタンダード・ナンバーとフリー・ジャズっぽいナンバーの両方があるからだ。スタンダード・ナンバーであれば、「Alone Together」や「How Deep Is the Ocean?」などの演奏は典型的なハード・バップのピアノ・トリオといったスタイルの演奏になっている。また、「CIRCLE WALTZ」のような雰囲気の曲であれば、「Wait 'Til You See Her」で、そのままに引き継がれている。

最初に述べたような橋渡しとして、最後に収められたアルバム・タイトルでもある「Flashback」が一番の聴き所ではないかと思う。『A.R.C』やサークル時代のチック・コリアばりのフリーなテイストの演奏と評する人もいるくらいだ。前半では、ベースとドラムのリズム・セクションを遊ばせて、その後、満を持してピアノが入ってくるという展開、そして、一通りピアノがソロを取った後にドラムソロに移行するという流れは、構成的には単純かもしれないが、なかなか楽しめる演奏だと思う。そこでのフリードマンのソロは、「Metamorphosis」で演っていることの先駆けのような演奏になっている。

そして、最後にちょっとつけたしとして、2曲目の「Ballade in C-Sharp Minor」の爛れたような、スロー・テンポのナンバーが緊張感溢れるフリー・ジャズのナンバーを聴いた後の中和剤として、ご馳走の後の箸置きにちょうどよい。 

 
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