PAUL BLEY(ポール・ブレイ)
 


ポール・ブレイ(ピアノ)

思う。

 

バイオグラフィー

ピアニストとしてのポール・ブレイは、初期のレコーディングではアル・ヘイグ、バド・パウエル、のようなサウンドだったが、オスカー・ピーターソン、ウィントン・ケリー、ビル・エヴァンスのスタイルとテクニックを創造的な実験的なものに引き上げ、フリー・インプロヴィゼィションを拡大することと20世紀の室内楽でしばしば聴かれるダイナミックさを人工的に構築するという方向で、ビ・バップと初期のモダンジャズの最高の要素を融合させることによって、現代音楽において不可欠の勢力になった。この方向性は、彼をレッド・ガーランド、エルモ・ホープ、マル・ウォルドロン、ジャッキー・バイヤード、スタンリー・カウエル、キース・ジャレット、アンドリュー・ヒル、レニ・トリスターノ、セシル・テイラー、ラン・ブレーク、サン・ラそしてマリリン・クリスペルらと同じように多様性を備えたアーチストの部類に位置づけることとなった。ブレイの生涯と業績を大雑把に概観するだけでも、その楽しさに圧倒されてしまう。それは、彼が、あらゆるジャズ・ピアニストのなかで最もレコードを残し、20世紀後半のモダン・ジャズの進化と密接に関わり続けたからだ。

ブレイは1957年にカリフォルニアに移り、ロサンゼルスのヒルクレスト・クラブで固定メンバーとして専属でプレイを始めた。そこで1958年に、サックス奏者のオーネット・コールマン、トランペットのドン・チェリー、ベーシストのチャーリー・ヘイデンそしてドラマーのビリー・ヒギンズとレコーディングを行った。彼はまた、カナダ人のトランペット、ハーブ・スパニアと演奏し、ビブラフォンのデイブ・バイクとアルバムを録音した。そこで、ライナー・ノーツと1曲の作曲をしたのがカレン・ボルグで、彼女は1957年に彼と結婚して、カーラ・ブレイと名を変えることになる才能溢れるミュージシャンだった。1959年、ブレイ一家はニューヨークに移り、マルチ奏者のローランド・カークやサックス奏者でもあり作曲家でもあったオリバー・ネルソン、作曲家でバンド・リーダーのジョージ・ラッセル、作曲家、ベーシスト、バンド・リーダーのチャーリー・ミンガス、トランペット、バンド・リーダーのドン・エリス、ベーシストのゲイリー・ピーコックとスティーブ・スワロー、ドラマーのピート・ラ・ロッカそしてマルチ・リードのジミー・ジョーフレをはじめとしたモダン・ジャズの最先端を突っ走っていたミュージシャンたちとの交流を続けた。1961年、ポール・ブレイは、初めてヨーロッパを訪問する。

アルバム「Barrage」については、1963年に、ソニー・ロリンズと日本をツアーし、テナー・サックス奏者コールマン・ホーキンスとの歴史的なセッションに参加した。翌年、ポールとカーラ・ブレイはトランペットのビル・ディクソンの誘いを受けて、ジャズ・コンポーザー・ギルドに参加する。これによって彼らは、オーストラリア人でアメリカの作曲家兼トランペット奏者のマイケル・マントラー、トロンボーン奏者ベニー・グリーン、ロズウェル・ラッド、サックス奏者のアーチー・シップ、ジョン・チカイそしてピアニストのセシル・テイラーと出会うことができた。ブレイはサックス奏者のアルバート・アイラーと演奏する一方で、テナー・サックスのジョン・ギルモア、ベースのゲイリー・ピーコック、ドラマーのポール・モチアンとのセッションをテープに録音し、インディペンデント系のESPディスク・レーベルでレコーディングした。そのアルバム「Barrage」は、ベーシストのエディ・ゴメス、ドラマーのミルフォード・グレイヴスそしてギルモアのようにサン・ラと密接に関係していた2人(トランペットのデウェイ・ジョンソンとアルトサックスのマーシャル・アレン)とのクインテットをフューチャーし、すべての曲をカーラ・ブレイの作曲によるものだった。アルバム「Closer」は1965年にレコーディングされる、発売になった。ドラマーのバリー・アルトシェルが参加した彼の多くのアルバムの最初の録音となった、このアルバムは、カーラ・ブレイ、オーネット・コールマン、ゲイリー・ピーコックと妻のアネットらによって作られた。いくつかのトリオ・プロジェクトは、1965〜66年にスカンジナビアで実現した。この後、ブレイはヨーロッパで演奏やレコーディングすることが多くなっていった。

ホール・ブレイは、1967年にカーラ・ブレイと離婚すると、すぐ、その後にボーカリストで作曲家のアネット・ピーコックと結婚した。カーラの場合と同じように、ポール・ブレイに及ぼしたこの女性の影響は深遠で永続的だった。それは、彼の進化を続けているインプロヴィゼイションの方法論に、彼女の興味深いサウンドのハーモニーを融合させたことだった。彼が、ARPとムーグ・シンセサイザーを搭載した電子楽器による実験を始めたときに、彼女は、時々そのグループでボーカルを務めた。1970年12月及び翌年1月に録音され「the Paul Bley Synthesizer Show」とタイトルされたアルバムはドラマーのボビー・モーゼとハン・ベニングをはじめとするマルチ・プレイヤーたちによる未来的な楽器のバッキングが注目された。1972年、ブレイたちとアネット・ピーコックのパートナーシップは解消してしまった。

その2年後、ブレイは新たな仲間のビデオ・アーチストのキャロル・ゴスはthe Improvising Artists record labelを設立した。間もなく、彼らはミュージック・ビデオのフォーマット新たな先例を作り出した。1974年の2回のバック・セッションで、ポール・ブレイは一組の有望な若いミュージシャンを音楽シーンに登場させた。それが、ギタリストのパット・メセニーとベーシストのジャコ・パストリアスだった。ブレイとゴスは1980年に結婚し、音楽活動をニューヨークからニューヨーク州中部のチェリー・バレーに移した。80年代、ブレイはサックス奏者ジョン・サーマン、ギタリストのジョン・アーバクロンビー、ジョン・スコフィールド、ビル・フリゼール、ベーシストのジェスパー・ルンドガルド、レッド・ミッチェル、ロン・マックルーア、ボブ・クランショーそしてドラマーのジョージ・クロス・マクドナルド、キース・コープランド、ビリー・ハートたちとのレコーディング・プロジェクトに参加する一方で、カナダの音楽シーンとの関係を再確認していたように見える。

90年代を通して、ポール・ブレイの創造的な活動はますます多様化し、国際的になった。この好ましい傾向は1990年5月、フリューゲルホンのフランツ・コグルマンとサックスのハンスッコッチとスイスのボズウィルでレコーディングされた「12 ( +6 ) In a Row」というタイトルをつけられたa hat Artレコードでのアルバムに集約されている。この期間の他のコラボレーションには、ビブラフォンのゲイリー・バートン、ベースのニルス・ヘニング、オレステッド・ペーターゼンとボーカルのティチィアーナ・ジジーニたちのものだ。1993年に1993年にニュー・イングランド音楽院の教授を務めていたブレイは、シンセテッセシスと呼ばれるオーバーダビングされたシンセサイザーでピアノソロのアルバムをリリースした。現代のインプロバイザー(即興演奏家)との創造的な相互作用への尽きることのない欲求から、彼は、トランペットのケニー・ホイーラー、サックスのリー・コニッツ、イヴァン・パーカー、ラルフ・サイモン、ギタリストのソニー・グリーンウィッチ、ベースのジェイ・アンダーソン、デイブ・ヤング、バリー・フィッリップス、ドラムスのシュティッヒ・ウィンストン、アダム・ナムバーム、ブルース・ディトマス、ピアノの藤井郷子、ステファン・オリヴァ、ハンス・ルードマン、そしてバイオリンのジャン・リュック・ポンティ、同様に詩人でボーカリストのポール・ヘインズたちとのレコーディングを行った。1997年、ブレイはベーシストで作曲家のマーティン・アルティナによるアンサンブルで演奏していた。

21世紀の最初の10年間、ブレイはサックスのケシャバン・マクラス、フランシス・キャリアー、ユリ・ホーニング、ギターのアンドレアス・ウィルナース、ベースのマリオ・パヴォーネそしてボーカルのジャネット・ランバートとレコーディングしている。かれはまた、いくつかのソロアルバムを発表した。2004年の「Nothing to Declare」、2008年の「About Time」、2014年の「Play Blue」、彼の2008年のオスロ・ジャズ・フェスティバルでの記録である「Oslo Concert」などだ。また、2008年、ブレイ はジャズに対する彼の貢献を顕彰してカナダの勲位 のメンバーに指名された。ブレイは2016年1月3日にフロリダの家で亡くなった。享年83歳。

Open to Love   

Closer

Ida Lupino 

Started

Open, To Love

Harlem

Seven

Nothing Ever Was, Anyway

 

Paul Bley(p)

 

1973年にポール・ブレイがECMレーベルで初めて録音した。ピアノ・ソロのアルバム。クラシック音楽の十二音技法やジョン・ケージのプリペアド・ピアノ(ピアノを鍵盤以外の部分で演奏する技法。弦を直接弾いたり、弦の上に食器を置いて音を歪曲させたり、打楽器としてピアノの側面を手で叩いたりする。このアルバムで用いられているこの技法は、きわめて自然で違和感がない)にブルースやジャズを混ぜ合わせたような、しかもECMレーベル独特のエコーをかけた録音でまぶしたサウンド。全体にゆったりとした曲が多く、数少ない音で、その音の隙間を生かした、奇妙な揺らぎが緊張感ある静寂さと独特のグルーヴを生み出して、それなりのカタルシスを味わうこともできる、ゆったりとした喜びに満ちた作品になっていると思う。

かなりユニークな音楽なのだけれど、規制の枠内の何々風という言い方から外れているので、言葉にして説明しようとすると、あれでもない、これでもないという否定的な言葉を連ねることになってしまう。いわゆる「リリシズム」的で感情的なサウンドにも、全く冷静な冷たいサウンドにも聴こえる。場合によっては狂気のようにすら感じないこともない。曲はゆっくりとしたテンポだが、あまりメロディアスではない。叙情的になるかと思えば突然その叙情を切断するようなパッセージが登場したり。こうなると、70年前後に流行したフリージャズのように思えるのだが、フリージャズのような無調にすらならない。どのカテゴリーにも属さないピアノ演奏なのだ。そして透明度が非常に高い。にもかかわらず結構不協和音を多用する……

ただ言えることは、ピアノ音のひとつひとつが独立して生きているように存在を主張していて、その音が結果として音楽を成しているということではないかと思う。これは、ポール・ブレイの音楽の特徴であり、かれの録音した作品において、演奏スタイルは変遷しても、その特徴は一貫しているのだけれど、その特徴が突出するように一番よく感じられるのがこのアルバムではないかと思う。

最初の「Closer」のはじまりから、単音で隙間だらけのような、そして不協和音のような音の連なり方で、メロディにならない破片のような、断片がポツリ、ポツリと弾かれる。その中には、叙情的な断片だったり、クラスターのような音のシャワーだったりする。1分ほど経ったところで叙情的なフレーズがでてきて、それがテーマのようなのか、そこからは、それから派生するような即興なのか、それによってかろうじて曲としてのまとまりを感じることができる。次の「Ida Lupino」では、冒頭のブルーズノテイストが感じられるテーマを右手で弾いて、叙情的で装飾的な即興を加えていくのは、ちょうど同じ頃に盛んに録音されたキース・ジャレットのソロ・ピアノのようでもあります。ただし、キースの場合のようにジワジワと盛り上がってカタルシスに導いていくことはなく、ジワジワと来そうなところで間をおいたり、無機的なフレーズを挿入したりする。その代わりにキースにはない、転調にタッチや音色の変化を同時におこなって場面をガラッと変えてしまう、と叙情的なフレーズ戻ると、とても印象的に際立ってくる。それがキースのような感傷的に陥ることを防いでいるように思える。次の「Started」では、突然、十二音の音列のようなフレーズで始まり、プリペアド・ピアノの乾いた音がちょっとだけ挿入されて、奇妙な感覚になったところで、テーマらしいフレーズが出てきて、速いテンポのパッセージの挿入があって、静かな演奏に戻るのだけれど、右手と左手で二つの線をつくってちょっとした対位法的な掛け合い(フーガのように聴こえる)を行なう。そのニ声のタッチを微妙に変えていくことによって響きが移ろうところに聴く神経を集中させられてしまう。最後の「Nothing Ever Was, Anyway」では、このアルバムで用いられている要素を突き詰めて単純化させたような演奏をしている。切り詰めた音は、極限まで減らされて、音の隙間が印象的にひろがり、音と同じように隙間に耳をそばだたせられるという緊張感ある音空間ができていて、そこで訥々としたフレーズの断片が空虚だったり叙情的だったりと聴こえてくる。と突然断ち切られたように終わってしまい、空中に投げ出され、放り出されたような感じが残ってしまう。

それで、また最初に戻って一曲目の「Closer」から聴き始めてしまうのだ。 

Ballads   1967年7月28日、3月31日録音

Ending

Circles

So Hard It Hurts

 

Gary Peacock (tracks: 1), Mark Levinson (tracks: 2, 3) (b)

Barry Altschul(ds)

Paul Bley(p)

 

Open to Love」でブレイがソロ・ピアノで演った静謐で緊張感溢れる世界を、ピアノ・トリオで先駆的に試みたような作品。

最初の曲でもあるにもかかわらず「Ending」というジョークのようなタイトル 

 
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