ミヒャエル・ボレマンス;アドバンテージ
 

  

 

2014年1月29日(水)  原美術館

毎月の通院の日。思っていたより早く終わったので、少し無理して、普段ではなかなか行くことのできない原美術館にまで足を伸ばすことにした。最近、いろいろあって、美術館に行くことも、できなくなってしまう気持つもあって、「今のうちに」という急き立てられる思いがある。この美術展も、普段なら見落としてしまう程度のものだったけれど、そんな折ゆえ、多少の無理をしてでもという気持ちになって寄ってみた。原美術館は品川駅から御殿山に向かって行った閑静な住宅地のなかにあるこじんまりとした瀟洒な美術館で、現代アートを中心に展示しているのと、その環境から上野あたりでよく見かける美術鑑賞好きのお年寄りは少なく、オシャレに格好の若い男女の姿が多いところだった。

ミヒャエル・ボレマンスという人については、私には初めて聞く名前で、たまたま、どこかで作品が紹介されていたのを見て興味を持った、というのが、この展覧会を見に行った理由です。ボレマンスについては、主催者あいさつのなかで、次のように紹介しています。“現在、ベルギーのゲントを拠点に活動するミヒャエル・ボレマンスは、30代に入った1990年代半ば、それまでの写真による表現から絵画へと転向し、急速に評価の高まった作家です。ディエゴ・ベラスケスやエドワール・マネなど近世・近代絵画の描写に倣い、自国のシュルレアリスムの遺伝子も受け継ぐと評されるボレマンス。彼の絵画には、静けさの中に微かに謎めいた雰囲気が漂い、観る者を深い思索へと誘います。主たるモチーフである人物は、いずれも時間的・空間的に現実から隔離され、自身の儀式や作業にただただ勤しんでいます。多くの場合、描かれたイメージは理論化されることを巧妙に避けており、解釈は困難です。ただひとつ言えることは、ボレマンスが、絵画史を踏まえた描写法を用い、時に古い写真を引用することで時代性を感じさせつつ、時に顔の特徴を捉えることで人物の個性を残しながら、それでもなお普遍的な存在としての人間を、人間であることの宿命のようなものを描き出しているということ。それは、現代の日本において多くの人が抱えている生き難さを映す鏡となり、国境を越えて愛される得るものでしょう。”

現役のアーチストで、おそらく日本での評価が決まっていないのでしょうから、そんな事情のあるのでしょう、美術館の主催者のあいさつとしては、珍しいほど主張があって、そういうものとして展覧会をしている、コンセプトが明確な展覧会でした。私のボレマンスの印象は、必ずしも、そのコンセプトに一致するものではありませんでしたが、とても好感の持てる展覧会だったと思います。

おそらく、ボレマンスの作品も主催する人に、そういうことをさせるに至った契機を内包しているようにも見えます。展示されているボレマンスの作品は一部でビデオ作品などがあるものの、ほとんど全部がキャンバスや板に描かれた伝統的な絵画作品で、しかも、サイズは小さく、一般家庭の居間の壁にちょうどよい程度の小さな作品ばかりでした。それらを見て、具体的にこのようだとは言えませんが、コンセプトや方法論が明解に見える、ただし、理論が先行するというのではなくて、作品が語っているという体裁をなしていて、作品について語りたくなる要素を持っている、ということが言えます。それが、主催者のあいさつにも表われているのではないかと思います。

展覧会チラシにある作品をみると、「Mombakkes(仮面)」という作品ですが、人物の肖像のような体裁で、顔の部分にちょっとどぎつく色が塗られていて、普通の人物画ではないようではあります。でも、どぎつい色が塗り重ねられる前の顔は、ちゃんと描かれていたように見えます。しかも、塗り重ねられた色が異化効果のようなものを期待するほどには、浮いていません。むしろ、全体としては、落ち着いた雰囲気があるのです。多分、雰囲気を壊すかどうかのギリギリの線のところを意識して、顔の黒や赤が加えられているのではないかと思います。というのも、顔の下の衣服の描き方のぞんざいさと顔の塗り重ねがうまくバランスをとられているようでもあるからです。そこで、観る人は、なんとなくビミョー(あえてカタカナにした意味合いを察知願います)なイメージを持つ。これが、私のボレマンスの作品に対する、大雑把な印象です。

以下で、いくつかの作品を観ながら、具体的な印象をお話ししていきたいと思います。

The Trees(木々)」(右図)という作品を観てみましょう。タイトルからは意外な人物画です。女性が俯いて何か手に持っています。このポーズは、ボレマンスの作品の中では多くとられているようで、「The Racer(レーサー)」(左図)などもそうです。展示されていた作品には人物を対象として描いた作品が多かったのですが、その殆ど全部が、これらの作品のように、こちらに視線を向けることなく、たいていは俯いていることが多かったのでした。これらは何か作業をしているという画面上での役割を附されていますが、「Girl with Feathers(羽根のついた少女)」のように最初から視線を投げかけるのを拒否するように下を向いているものもありました。これらの作品の一つを取り出して眺めれば、むしろ伝統的な絵画作品として、上手く描かれているもの。主催者のあいさつにあったような絵画史の大家たちの名が浮かんでくるようなアカデミックな作風とも見ることのできるものです。一見、何の変哲もない、さりげない作品です。たぶん、そのことが作品に接する人にとっては“現代アート”などと構えてしまうことがなくて、リラックスして自然に見ることができるということではないでしょうか。色彩は鮮やかな原色は使われず、地味な茶系統が心もち多く、落ち着いた感じとか、静かな感じとか、視覚に対して刺々しくないものとなっています。絵の具の塗り方も薄塗りです。そして、描き方については描き込みが薄味のテイストというのか、全体のプロポーションは捉えられますが、細部は省略されていて、というよりもタッチが粗く為されているので、細部はぼんやりとしたようになっています。それらは、意図的に、作品に対して対峙するようにじっと見つめるような見方をされないように周到に計算されているように見えます。

これらの作品は、観る人に対して、できるだけ違和感とか距離感を与えないようにしているといったらいいでしょうか。言い換えると、観る人の主観の視線に対する客観としての対象という対立的な在り方にならないようにしている。そう見えます。もっというと、あえて作品としての存在を主張させないようにしている、そのように見えます。それは、作品の展示姿勢にも言えることです。住居を改造したこじんまりしたギャラリーで、作品と作品の距離をタップリとって展示されているのは、作者自らギャラリーや展示方法をしていたようなので、意図的なものでしょう。そこには、作品の存在をさりげないものにしようとする意図が見えます。

私の個人的な印象ですが、ボレマンスの作品の特徴というのは、取り上げている対象とか技法とかスタイルとかいうものよりも、このような存在の主張を抑制させて、観る人に構えて観るという姿勢にさせないように細心の配慮をしているところにあるように思えるのです。絵画史の画家を連想させるような技法で、一見伝統的に描いてみせているのも、そうしたことのひとつの表われと見ることはできないでしょうか。見慣れた伝統絵画に似た雰囲気であれば、大抵の人には抵抗感のようなものを感じることなく、それゆえに作品への違和感を意識するストレスが少なく接することができます。また、原色系の鮮やかな色彩を用いずに茶系統の鈍い色を使うことで、目に優しく色彩を意識させることが少なくなります。そして、描かれた人物が視線をこちらに向けていないので、人物の存在感が観る者に迫ってこないことになり、描かれた人物を強く意識することがなくなります。つまり、一般的に絵画とか美術作品は、その存在を観る者に強く意識させて、他の作品とは違うのだという自己主張をしているものです。しかし、ボレマンスの作品は、その正反対を意図しているように見えました。最終的には、そのことによって他の作品との差別化を別のレベルで狙っているのでしょうけれど、少し結論を急ぎ過ぎました。

ボレマンスの作品が強い自己主張をしないで、見る人との間に主観−客観という対立関係を築くことを避けるということにより、見る人は作品との間に“鑑賞する”というような緊張関係を保つことがなくなります。そのことにより、作品との間に距離をもつこともなくなります。距離をおいて緊張関係を持つということは、他の場合で言えば他人の家を訪問したような場合です。これに対して距離を感じることなく、緊張することもないというのは自宅で親しい家族とともに過ごすような場合ではないでしょうか。他人の家にいれば常に他人の存在や視線を意識することになり、どうしても構えてしまいます。これに対して、親しい家族と自室にいる場合、時にはその家族の存在も忘れてしまうことがあり、その際にはリラックスして多少羽目を外した姿もさらすことがあります。ボレマンスの作品の存在感は、そういうところを狙っているのではないか、と思われるところがあります。

それは、展示された作品の所有を見てみると個人蔵の作品が圧倒的に多いのです。これは、私が個人的に感じたことですが、美術館で鑑賞するというよりも、身近なところに置いておきたい、それで、見るともなしに眺めるとか、壁にかけてあって、それがあるのを忘れてしまう、そういうものとしたい、そう思わせるものでした。

ただし、それだけなら単なる癒し系の一種として片付けられてしまうものでしかないのですが、ボレマンスの作品は、それを意図的にやっていて、なおかつ意図的であることを隠そうとしていないところが、引っ掛かるのです。私のような鈍感なものですら、そう思ってしまうということは、作品の意図は露骨であると言っていいでしょう。もし癒し系であることを意図しているのなら、その意図を巧妙に隠すべきです。ところが、それをやっていない。そう考えると、いくつか引っ掛かることが出てきます。まずは、作品タイトルがいわくありげなような意味深ぶっているところです。何か深い意味があるのかと勘繰るようなタイトルです。また、作品の塗りの透明感です。いくつかの作品で、描かれている物体や人物に光が透き通るような描かれ方が為されています。まるで幽霊のように。それがちょっとしたミステリアスになっている。どの作品でもそうなのですが、一筋ならではいかないような、何やら思わせぶりがあります。だから、一見、存在感を強く発しないように控え目な存在を装っている、その作品を観ると何か変なところが目につきだす。それが、美術展の主催者による紹介にあったボレマンスの作品の具体的な特徴の諸点ではないかと思います。それは、親しいと思っていた人に、隠れた一面を見せられたような効果で、ある種の驚きが作品の深みがあるような印象を与えていると思います。

このように意図が鮮明であるために、そして計算されたような表面的な親しみ易さゆえに、深刻な印象を与えることがなく、ライトな感覚で見ることができる、それでいてアートの雰囲気を味わえる。また日本人からみればヨーロッパの伝統の香りもある、ということでオシャレでもあるし、癒し系としても利用できる、ということでもあると思います。
 

 
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