本田雅一
「これからスマートフォンが起こすこと」 |
第1章 スマートフォンの正体 第2章 スマートタブレットの台頭 第3章 次世代通信インフラとクラウドからの招待状 第4章 ソーシャルメディアの進撃 第5章 コンテンツビジネスの流通革命 第6章 昨日の覇者が今日の敗者!いったい誰が勝ち残るのが? 感想 序章 スマートネイティブたちの世紀 スマートフォンはユーザーが自由を求めた結果として、台頭して来たものだと筆者は言う。これに対して、携帯電話は限られた条件の中で、どんな機能を盛り込めるかを携帯電話事業者が考え、混乱が起きないよう、端末や対応するサービスを設計、構築していく。いわば携帯電話事業者が絶対君主のような強権の下で複雑な進化の過程をとげ、これ以上成長することが難しくなっている。これに対してスマートフォンは、誰もが自由に振る舞うことができ、自由競争の下で淘汰され、優れたアプリケーションが生き残っていく。携帯電話のネットワークが有する限られた通信帯域をどのように使い、共有していくかは、ユーザー自身がアプリケーションを選択することで、決められていく。このようなアプリケーションの 自然淘汰の中で、存在感を強めているのがソーシャルメディアである。スマートネイティブたちは、常にスマートフォンを携帯し、ソーシャルメディアの中にあらゆる情報を放り込み、そのままソーシャルメディアを通じて自分たちの情報をやり取りする。このようなスマートフォンとソーシャルメディアの組み合わせを中心にデジタル世界に接続しているユーザーたちは、すでにインターネットの存在を無視し始めるという、大きな世代的変化が起こり始めている。 第1章 スマートフォンの正体 iPhoneは発売当初から3.5インチという携帯電話として破格の大画面でパソコン上で管理している情報を同期することができた。しかし、それ以上に話題になったのは、端末の全面に画面展開するために導入された、複数の指の位置を感知できるマルチタッチ対応のユーザーインターフェイスだった。そして、第二世代となるiPhone
3G以降は、初代がパソコン世代を刺戟し、多くのフィードバックを得て商品を充実させ、さらに追加のアプリケーションを自由にインストールできる環境や、アプリケーションを開発するための環境を整えた。ここから販売が急激に拡大して。 最初に、著者はスマートフォンはパソコンであると言った。しかし、これには、もうひとひねりある。iPhoneはパソコンから、日常的に利用する機能やデータだけを取り出して凝縮した小さな電子の板だ。ほとんどのユーザーは、パソコンと同じ電子メールが使え、スケジュールが管理でき、アドレス帳を参照し、メモを見て、さらに写真や音楽をパソコンから切り出すことができる。このような製品をコンパニオンデバイスという。iPhoneはパソコンに比べればコンピューターとしての能力は格段に低い。だが、宿主であるパソコンの能力を利用することで、パソコン並みの情報収集能力を発揮することができる。例えば、電子メールもすべて同期するのではなく、iPhone内部で管理しているのは一部に過ぎない。検索用のインデックス情報はパソコンが抽出しておき、それをiPhoneに転送している。こうすることで、パソコンが使う多様なデータがiPhoneという小さな装置でも軽々と扱える。 一方、iPhoneは携帯電話に比べてアプリケーション開発者に対して開放的で、パソコンに近い自由な開発が行えるうえ、ネットワークの使い方に関する規制もゆるかった。このため、iPhone向けにはウェブサービスを利用する多様なアプリケーションがつくられた。また、パソコンで利用しているクラウド型のサービスを、iPhoneでダウンロードし同期して利用するというスタイルも広まった。このことにより、ユーザーの端末の選び方を変えてしまった。携帯電話に限らず、デジタル製品は機能、魅力が時間の経過とともにドンドン陳腐化する。だから各メーカーは多様なバリエーションを用意し、新しい付加価値を搭載した戦略製品の投入を繰り返す。しかし、iPhoneは付加価値の高い高機能製品でもなく、製品としてのモデルラインアップもない。しかし、OSを常にアップグレードすることや、最新の機能やサービスを更新していくことで、製品の長寿命化を実現した。 スマートフォンでiPhoneに対抗してグーグルのアンドロイドによるスマートフォンが伸びてきている。iPhoneとアンドロイドは似ているようで、コンセプトは異なっている。iPhoneはパソコンのコンパニオンデバイスであり、パソコンと同期し、パソコンで使っているアプリケーション機能の一部やそのデータを切り出して活用する。これに対してアンドロイドは独立性が高く、パソコンと同期して利用することを前提としていない。コンパニオンデバイスではなく、単独で動作することを志向している。さらに両者の決定的な違いは、iPhoneがアップル一社によって構築されたものでアップルが審査することでアプリケーションの質が保証され、ユーザーインターフェイスやアプリケーションの動作スタイルを含めて、その世界観が壊れないように秩序を保っている。すべてをアップルが理想的な形で設計管理している。これに対してアンドロイドには、ざっくりした大きな枠組みしかない。携帯電話事業者や端末メーカーがそれぞれ工夫を凝らして開発することができる。特にこのことは、国内でiPhoneにとって大きなハンディキャップとなる。アンドロイドは携帯電話事業者や端末メーカーが独自の機能を組み込めるが、iPhoneはアップルが世界的に統一したハードウェアしか許さないので、ハードウェアに関わるような独自機能を創造することができない。ということは、日本独自の社会インフラと整合性をとることができない、つまりガラパゴス携帯と相性が悪い。 全体としてスマートフォンの普及が進めば、従来型の携帯電話は消えてしまうだろうと予想される。それは、携帯電話の市場規模が小さくなると端末メーカーはこれまでのように高機能な新端末を開発したり販売することができなくなる。販売量が落ちるともともと高い開発コストがさらに嵩んでしまうからだ。携帯電話は高度な技術力で作られた工業製品だが、スマートフォンは簡単な構造でコストは低く抑えられる。さらに販売量が上がればコスト差は加速度的に広がっていく。
第2章 スマートタブレットの台頭
第3章 次世代通信インフラとクラウドからの招待状 スマートフォンは基本的にデータ通信量を節約する努力を全く行わない。携帯電話ネットワークが通信帯域の広い3Gへ移行したことによって、はじめてスマートフォンのサービスは実用的になった。しかし、3Gでもスマートフォンの動作には不十分なのだ。パケット通信の定額プランがなければユーザーは間違いなく高額の利用料を払えなくなる。しかし、その一方で通信会社の立場に立てばスマートフォン向け定額データ通信プランを提供することは大きなリスクをはらんでいる。きちんと計画通りに準備を進めてきた基地局整備が、野放図な通信の輻輳で破綻する可能性があるのだ。スマートフォンの増加により3G回線の限界が顕在化するのは時間の問題だ。このため携帯電話事業各社は、次世代に移行を行おうとしている。これがLTE(ロングタイムエボリューション)無線通信の世界において世代が違うことの意味は、通信時に必要な符号化処理を行う際に、利用できる計算能力の違いとして表現すると分かりやすい。より高性能な信号処理チップを使うことで、より高度な信号処理を行い、通信の効率を高めることができる。効率が高まれば、同じ電波帯域でも通信速度が増えるという理屈だ。しかし、ここまで通信帯域を拡張しても限界がやってくるのは、そう遠くない。スマートフォンのシェアと本体理処理能力が高まるため、通信量は二次曲線を描いて膨らんでいくことが確実だ。このようにスマートフォンの普及が次世代モバイルネットワークへの投資を後押ししていることは間違いない。 通信ネットワークと同じように、スマートフォンの成立を支え、価値を高めているのがクラウド・コンピューティングである。スマートフォンは、いわばクラウド時代のパソコンと言っていい。従来のパソコンは、高い処理速度がその価値のすべてだった。高速な処理が行えるパソコンほど、高度なアプリケーションプログラムを動かすことができたからだ。この常識からすると、サイズが小さくバッテリ容量も少ないスマートフォンからは、携帯性が高いという以上の価値を引き出すことはできない。しかし、クラウド・コンピューティングがこの常識を変えた。クラウド・コンピューティングとは、インターネット上に分散配置されているサーバを、大きなひとつの仮想コンピュータとして活用しようという考え方だ。クラウド・コンピューティングというスタイルでは、無数のコンピュータを無数のユーザーが無駄なく共有し、処理の負荷や記憶装置の利用率を高めることができるため、コストが大幅に下がる。コストが下がったことで、大容量のデータをインターネット上で安価かつ安全に預かってくれるサービスが生まれ、大容量のメールを無料で使えたり、グーグル・アースやマップを無料で提供しているというのは、すべてこのクラウド・コンピューティングを前提にしている。このようなクラウドの向こうで、コンピュータを提供しているのは、例えばアマゾンのような大量のサーバを必要としている企業だ。アマゾンにとって情報処理のピークはクリスマスシーズンであり、それに合わせたサーバ投資が必要であるものの、クリスマス以外の時期はサーバの処理能力は明らかな余剰であり、これをクラウド・コンピューティングの提供者として他社に販売しているのである。余剰パフォーマンスだから提供価格は抜群に安い。現在、アマゾンは世界最大のクラウド・コンピューティング業者になっている。このようにクラウド・コンピューティングによって記憶装置のコストが安くなるなら、それを効率よく利用するサービスを考えればビジネスになる。そして、スマートフォンをはじめとするスマートデバイスも、クラウド型サービスがあるからこそ成立する製品だ。クラウドの中で価値を生み出し、その価値をインターネットを通じて利用することにより、軽量コンパクトでバッテリ駆動時間の制約を乗り越えて、まるでパソコンのように柔軟で多彩な使い方ができる端末が生み出された。 このような環境のなかで、スマートフォンが生み出したコンピューティングのスタイルを前提にした新しい製品、新しいサービス、新しい文化が生まれ、広がり、環境を変えていくだろう。例えば、エバーノートのようなアプリケーションである。エバーノートは、インターネット上のサーバーにあらゆる情報を集約して置いて、オフィスや自宅や滞在先のパソコン、あるいはスマートフォンやタブレット等の不特定多数の端末から、ノートの閲覧や書き込みを自在に行うことができるサービスだ。似たようなサービスは無数にある中で、エバーノートの特徴は「同期を行う」という概念を排除している点だ。例えば、パソコン上やスマートフォン上でメモを書き込んだとして、その際にパソコンやスマートフォンがネットワークに接続していないとしても、それはそのまま保存される。そして次にエバーノートを開いたとき、ユーザーがその時使っている端末に保存されたメモが読み込まれ表示される。オンラインとオフラインを意識せずに使用できるというわけだ。
第4章 ソーシャルメディアの進撃 ツィッターとフェイスブックにはタイムラインという共通点がある。タイムラインとは時間軸のことで、そこで綴られることは、ユーザーの「今」を表現していることで、その積み重ねの履歴が意味を持ってくる。それらが当人の性格や信条を表すことにもなる。これは、仲間との時間の共有による親密度が増すことになる。タイムラインの共有がスマートフォンのユーザーたちの交流にとって重要なことになってきている。 ソーシャルメディアの世界で最大のユーザーの規模があるのが、フェイスブックだ。フェイスブックは実名による登録を原則として、実社会の人間関係を拡張するような基本設計になっている。コメント、動画、写真などを起点にコメントを付けるなどしてコミュニケーションを深めることで、同一の空間や時間を共有している感覚を齎してくれる。さらに、何かをしたいというときに、それが機能として存在する多彩な機能を持っている。これらのことから、現実社会の人間関係とソーシャルメディアがシンクロし、情報共有や伝達の流れが加速、一体化するように作られている。これにより、スマートフォンの世紀となった時に、すべてのインターネットサービスのハブとなっていく可能性が高い。
第5章 コンテンツビジネスの流通革命 さらにDVD等の光ディスクの流通にも変化が生じている。つまり、ディスク自体の売上が漸減傾向にあるがインターネットを通じた通信販売の割合が高くなってきている。そして、デジタル配信の時代となった場合には、ユーザーが作品を購入したという意識いわゆるオーナーシップが低下していくようだ。そうなったら、作品をレンタルするというスタイルは後退する一方で、ユーザーの手元には何らかのコンテンツが残るわけではない、ID取得による期間内見放題というような購読型のサービスに取って代わられる可能性が高い。このような事態が進むと、例えば音楽では、「誰のどのアルバムを買うか」という意識が弱くなり、「聴いていて心地よい新しい流行曲を聴ければいい」といったようにアーティストや作品が透明化し始めている。こうした傾向は作品そのものを楽しむということではなく、暇つぶしのためにコンテンツを消費することに変化してきている。 第6章 昨日の覇者が今日の敗者!いったい誰が勝ち残るのが?
最初の方のスマートフォン自体の分析は興味深く読みましたが、著者はスマートフォンについては詳しいようですが、それ以外のもの、さらに鳥瞰的に全体を眺めるにたいしては切り口が甘いため浅く表面を嘗めただけという感じでした。だから第2章以降は、単に事物を列記したというだけで、どうして、このようなことを書かねばならないかということが、読んでいても分らない。その意味で、著者も事態を自分なりに理解できていないのではないかと思います。だから、一冊を読み通しても、一体何が起こっているのかは分らない。ここの事象の位置づけとか意味づけ、おそらく、それぞれの動きは相互に連携しあっているはずですが、あたかも単発に別個に起こっているようにしか読めない。そういう意味では、この本を読んで役に立ったと思うような人とは例えば、タブレットというのが何だかわからないような人だと思います。そういう人には、それぞれの製品がカタログのように親切に説明されています。私には、この著者は単なる紹介屋にしか見えません。それよりも、日本には未だに、こういう昔ながらの紹介屋が生息しているのを発見した驚きがありました。 |