1.株式会社とは何か
(2)株式会社はどこから生まれてきたのか
〜事業の継続化と大規模化
 

 

企業の目的は、前章でも述べたように、端的に儲けることです。そこで、どれだけ儲かっているのかが分かっていないと、経営者は会社がうまく行っているか正確に掴めず、ちゃんとした経営ができません。しかも、株式会社は所有と経営が分離され、株主は資金を企業に投資して経営者に委託するわけですから、その経営がどうなっているかは、儲かっているかを知ることによって分かる、ということになります。

しかし、その儲けはどうやって計算するか、普通の会社はずっと企業活動を続けているわけです。そこで企業の経営活動を便宜的に一定時間で区切ることになるわけです。それが事業年度ということになるわけです。実は、このような事業年度により期間を区切って儲けを計算する決算を行わざるを得ないような企業形態、それを継続企業といいますが、それが近代的な企業経営の要だったのです。その理解のためにも、少し歴史の話に脱線したいと思います。これについては、参考文献に挙げてありますが、友岡賛という人の著作での分析にしたがって説明していきたいと思います。

@ヴェネツィア型企業形態

継続企業という呼び名の企業形態は、当座企業という形態と対照して持ち出されることがあります。この当座企業の当座とは“その場限り”という意味で、当座企業とは、そのような一時的なその場限りの事業のことです。その典型的なものが中世から近代初期に活躍したイタリア商人による地中海貿易です。

中世のヴェネツィアは地中海貿易の中心地で、商人たちはエジプト、トルコ、シリア等の東方地域に織物やガラス器などのヨーロッパ手工業製品を輸出し、胡椒をはじめとする各種の香辛料などの東方の物産を輸入していました。この貿易路である当時の地中海は、海賊が跳梁跋扈していたり、自然災害もあって、かなり大きなリスクを伴うものでありました。しかし、反面で大きなリスクは大きなもうけを意味するものでもあるわけで、言わば一攫千金の冒険的な(ヴェンチャー)事業とも呼ばれていたそうです。こうした冒険的な事業の企ては、そのひとつひとつの航海が単独で独立したプロジェクトとして、言い換えれば、その場限りのものとして行なわれていました。現代の日本であれば継続した事業をしている海運会社に船を手配して商社が契約を取り仕切るということになります。これに対して、当時は、一航海イコール一企業ともいうべきもので、それが当座企業というものでした。商人たちは航海のたびに任意にパートナーとなって、出資、経営を行いリスクを分担し、もうけを分配していたというわけです。つまり、商人たちは仲間となって元手になる資金を出し合い、船を購入し、乗組員を雇い、輸出品を仕入れ、そして出帆。船は東方地域で取引をして輸入品を持ち帰る。この場合のもうけの計算は、航海ごとに清算されるという形をとる。清算とは、船が帰国して、輸入品を販売し、その船を売り払い、他方で乗組員に賃金を払い、当初出資した元手を出資者に返すと、その差し引き残りが、もうけ、というわけです。この場合のもうけは、企業の全生涯にわたる成果だったと言えます。そして、最後に行なわれるのが、このもうけの分配というわけです。

これは、継続的に企業活動をする場合でも、口別でもうけを計算する方法にもあてはまることになります。口別とは、企業の中のプロジェクトを独立したものとしてもうけを計算するという方法です。例えば、ある製品を予定量の生産及び販売をして、その生産が終わり売りつくした時点で上記の例と同じように清算するというわけです。この場合、当然期間を区切るという、現在の企業活動とは違う計算になります。


Aフィレンツェ型企業形態
 おなじ14〜15世紀のイタリアでも、フィレンツェはヴェネツィアとは情況を異にしていました。そこでは個人、家族、同族といった身内の範囲にとどまらず、より多くの人々が共同して行なう組合のような経営が支配的になっていました。それは、織物業などが大規模に行なわれるようになっていったことにより、より多くの元手(資本)を必要としたからでした。

そこでは、他人同士からなる企業のメンバーの間で、もうけを厳密に分配する必要が生じ、期間を区切って企業全体のもうけを把握する計算方法が取られるようになり、期間計算ということが始まったと言われています。

これはまた、商業形態の変遷と同時並行で変化したともいえます。つまり、ヴェネツィア型の地中海貿易は、ある地域の産物を他の地域に運んで販売し、その代金で購入した産物を持ち帰って販売するという、言うならば遍歴的な商業形態でした。当時の造船や航海技術では船舶の大型化には限界があり輸送量は制約されます。さらにその場限りの当座の航海は継続的に行き来するのとは異なりトータルでの輸送量は制約されます。そのために、商いは高価で軽量な(嵩張らない)商品を多品種、少量にものに限られていました。それに当座企業は、そのように商業形態と企業規模に適していたと言えます。

しかし、14世紀以降には船舶の大型化やそれに伴う航海技術の向上の影響により貿易量が拡大し、それにより取り使う商品も変化しました。また、同時に通信手段の発達が(遍歴的な商業に対して)定着的な商業の出現を可能にしました。それは、一ヶ所に定着した商人が各地の支店との通信によって取引をすることを可能にしたものでした。そのため、断続的な正確の遍歴的な多品種少量の商業形態から、同種の商品を大量に、という定着的な商業へと変化していったといえます。そして、大量の取引が継続的に行われると口別の計算ではもうけが分かりません。そこで期間計算によるもうけの把握が必要とされることになったわけです。

この後、16世紀商業の繁栄の中心はイタリアからネーデルランド地方に移ります。初期の中心であったアントヴェルペンでは組合的な企業が主流を占め、期間計算が一般化しました。その繁栄は17世紀にはオランダ商人にひきつがれ、より規模の大きな企業形態がとられるようになり、貿易をアジア地域に拡大していきます。そして、その事業において莫大な資金の必要性から生まれたのが東インド会社であったわけです。個存知の通り、世界最初の株式会社と教科書に説明されている団体です。

B東インド会社〜株式会社という経営形態の発生

今から40年前、私の学生時代の歴史の教科書では、1600年にイギリスが設立した東インド会社をもって株式会社の起源と説明されていたのを覚えています。諸説あると思いますが、ここではその記憶を尊重して述べて行きたいと思います。これまで、主にイタリア商人が繁栄していくプロセスで経営形態が継続化と大規模化の要請に応えて変遷してきたことを見てきました。しかし、彼らは株式会社をつくることはありませんでした。14世紀イタリアと17世紀イギリスとの間にはひとつのギャップがあり、それを跳び越えたところに株式会社という経営形態の成立があったと思います。

イギリスでは、11世紀以降に商人ギルドが生まれました。もともと、ギルドというのは中世のヨーロッパでよく見られた宗教的あるいは社会的な目的で血縁に基づかない職能的な集団です。イギリスでは大規模な荘園において牧羊が発達し、そこで生産された羊毛を大陸に輸出することによって商業が急速な発展をみました。その関係者である富裕な商人や手工業者により商人ギルドが作られるように成りました。中世のキリスト教社会であったがゆえに商人ギルドの当初は宗教的な理念が残されていましたが、次第に商業活動の拡大とともに実利的な面が大きくなっていきました。これに伴い、新たな形態の組合的な企業が、ギルドに取って替わることとなりました。

この組合的な企業は海外市場の拡大に伴う商業資本主義の成長と新しい形の海外貿易企業へのニーズに適合したもので二種類の形態がありました。その一つはレギュレイティッド・カンパニー(制規組合)と呼ばれる形態です。ここにおいてメンバーの従うべき規則があって、その上で各組合員は、各自の資本でもっとそれぞれの取引を行っていました。各組合員が独立のものとして存在する複数の資本ではあったものの、一種の寄り合い所帯のようなもので、そこに資本を結合するという考えはありませんでした。

これに対してジョイント-ストック・カンパニー(合本会社)では資本の結合が図られていました。これは、16世紀以降ヨーロッパ諸国による植民地獲得が始まり、その先兵となって商人が貿易を開拓しながら事業を拡大していく重商主義の経済に適合した形態であったと言えます。その中で設立されたのが東インド会社です。企業の主体は民間の事業家である商人でしたが、リスクの軽減及び多額の資金は株式会社に近い企業形態の採用をもたらしました。また、そうした地域との貿易は、ときに国家に等しい立場で外交や軍事などの活動を併せ行なう必要がありました。具体的に言えば、16世紀以降の毛織物業の急速な発展の中、東インド貿易に進出しようとしたイギリス商人は先行するオランダに対抗するために東インド会社を設立しました。しかし、初期の東インド会社は、資本の払い込みを受けることが困難だったため、資本を払い込んだメンバーだけからなる制規組合的な形態にとどまり、1613年の合本の成立によって全メンバーの出資から構成される合本を持つようになり合本会社の形態に進化しました。その後1657年のピューリタン革命による民主化の影響を受け、出資を広く国民一般に開放し、閉鎖的でない株主総会、完全な継続性の成立をもたらしたクロムウェルの改組がありました。ここで注目すべきは、この継続性の確立が配当システムの完成へとつながったことです。つまり、企業が継続していくということは清算による払い戻しをしないということです。そこで、出資部分の払い戻しと配当をはっきりと区別し、もうけの部分だけを分配するものとして確立したのでした。これは、別の面から言えば、出資者は企業が続いている限り払い戻しを受けられないことになり、企業が破産した時に責任を負うこと〜逃げられなくなります。その後、王政復古の後1662年の破産者法の成立によって、東インド会社をはじめとする株式会社に対して、全出資者の有限責任が認められました。


C許可制の制限された株式会社〜エイジェンシィ・コストの認識

この当時は株式会社の設立には勅許が必要という許可制がとられ、この形態は一般に普及しませんでした。

当時の企業形態観としては浩瀚なアダム・スミスの『国富論』で展開されている議論が引き合いにされます。アダム・スミスは富の源泉を労働に求め、個人の利己心の自由な展開が「神の見えざる手」に導かれて社会的な利益や調和をもたらす、として「レッセ・フェール(自由放任主義)」による経済を主張し産業革命の理論的土台というべきものを提供したと言われています。そこで、アダム・スミスは、株式会社のように資本と経営とが分離している企業形態は効率が悪いと指摘します。

アダム・スミスは資本と経営が分離していない場合と、分離している場合を比較します。まず、資本経営が分離していないということは、自分の財産を使って事業をしているということです。これに対して資本と経営が分離しているということは、他人の財産を使って事業をしているということです。ここでいう財産を使って事業をしているということは、その財産を管理しているということに他なりません。この場合、資本と経営が分離していない場合の経営者は自分の財産を管理しているのに対して、資本と経営が分離している場合の経営者は他人の財産を管理している、ということになります。そこで、アダム・スミスは他人の財産を管理する経営者には、自分の財産を管理する場合と同様の慎重さを期待することはできない。そこには怠慢や浪費などといったものが付きまとうことになる、と言うのです。このことをもって、アダム・スミスは資本と経営が一体となった形態を効率的な企業形態であると結論付けているのです。このことは、後々説明しますが、現代の会社法において、取締役の注意義務が善管注意義務といって、他人から資金を出資してもらった企業の経営に際しての注意義務は自己の財産と同様の注意義務という最高の注意義務ではない、善良な管理者であればこの程度はやらなくてはならんいという程度の注意義務であること(とはいっても、善管注意義務は決して軽いものではありません)に考え方として繋がっていると考えられます。

さて、このような意味での資本と経営の分離による非効率は、現代においても「代理理論」と言う見方、簡単に言えば「経営者は株主の代理人ではあっても、結局は自分のために行動する」という捉え方です。つまり、資本と経営の分離と言う状態を、本人と代理人という関係に置き換えてみると、エイジェンシィ・コストが発生するのです。財産の所有者本人が自分自身で財産の管理を行なっている場合には、自分のもうけを最大にする行動をとりますが、代理人がそれを行う場合、代理人にとって、その財産は自分のものではなく、代理人は代理人で自分のもうけを最大化しようという欲求を持っています。それは、財産の所有者のもうけの最大化よりも優先されることになります。そこでしょうじる差がエイジェンシィ・コストです。アダム・スミスの言う怠慢や浪費も、このエイジェンシィ・コストに含まれます。そして、このような企業観は産業革命を経て19世紀にいたるまでの実情と適合するものでした。

ただし、アダム・スミスは、銀行、保険、運河、水道のような社会性が高く、巨額の資本を必要とする事業については、一般の商工業とは違って株式会社の形態が適当であると言っています。

 

D産業革命〜重商主義から産業資本主義へ

18世紀後半から19世紀前半にかけての時期が、イギリスでは産業革命と呼ばれています。数々の発明によって、生産ラインの自動化が始まり、製造業の生産性が飛躍的に向上し、それまでは考えられなかった大量生産を可能にしました。また石炭を燃料とした蒸気機関の発明によりエネルギーの革命的な変化がおこり、交通インフラが飛躍的に整備され、大量輸送を実現させました。これにより、工場で大量に生産した商品を整備された交通機関による大量輸送で人々に届けることが可能になりました。

アダム・スミスが株式会社が適しているという社会性の高い、巨額の資本を必要とする事業として鉄道という交通インフラが生まれてきました。また、大量生産時代にはいり、生産施設の大規模化、機械化がはじまり、設備投資という多額の投資が求められることになりました。これは、単に商品を仕入れて転売するという商業形態から、材料や部品を集めて自分で製品をつくり、そして売るという事業にシフトしていきます。その新しい事業を興したのが産業資本家という新しいタイプの資本家たちです。かれらは株式会社の形態を選択しました。たしかに、株式会社にはアダム・スミスの指摘するような非効率性があり、当時もその認識はありました。しかし、時代の環境が、そのデメリット以上に大量の資金調達が可能となるというメリットが大きくクローズアップされたのでした。

当時のイギリスでは、株式会社の設立はバブル会社禁止法により特許主義の考え方に基づくものでした。つまり、会社の設立は国家による個別の特別な許可を必要とするもので、その具体的な方法としては、特別の立法による許可と国王による勅許によるものでした。それには多額の費用と時間がかかる難事でした。しかし、それでは産業革命より機械化された大規模な工場を建設するためには多額の資本を集める必要性が高まる中で、産業資本家たちは株式会社が自由に設立できることへの要求が切実なものとなっていきました。その結果1844年に株式会社法が制定され。株式会社の設立に際して、あらたに準則主義の考え方が採られるようになりました。準則主義というのは、それ以前の特許主義に対して、あらかじめ法律によって株式会社設立のための一定の要件が規定され、その用件を具備している場合には設立された会社は、当然に法人格を認められるというものです。ただし、通常は、不正な設立を防止する目的と、設立の内容を公示させる目的で登記が要件とされ、つまるところは、たんに登記だけによって法人を設立することができるというものです。そして、1862年に会社に関わる総合的な法規として会社法が制定されます。そこでは準則主義が徹底され、登記制度が近代化され、なおかつ出資者の有限責任が明記されたことにより、近代的な株式会社の要件を備えたものとなり、この法律を機に株式会社が一般化していったと言われています。いわば、現代の株式会社制度のプロトタイプと言えるものでした。

 

参考文献 友岡賛「株式会社とは何か」「会計の時代だ」

大塚久雄「株式会社の発生史論」


 


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