前島賢
「セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史」
 

序章 セカイ系という亡霊

第一章 セカイ系の中心でアイを叫んだけもの 1995〜99年

第二章 セカイっていう言葉がある 2000〜03年

第三章 セカイはガラクタの中に横たわる 2004〜06年

第四章 セカイが終わり、物語の終わりが始まった? 2007〜09年

感想

 

 

乱暴な言い方をすれば、岡田斗司夫がオタク第三世代と言っていた人たちを中心としたオタクに関するものです。(本書の中で、岡田の「オタクはすでに死んでいる」は批判的に取り上げられていますから、あながち全く異なる視点ということはないかもしれません。)

序章 セカイ系という亡霊

2000年から2009年をゼロ年代という時代とし(この世界では、既にそのように呼ばれているようです)、この時代を通じ、オタク文化コンテンツ(例えば、マンガ、アニメ、ゲーム。ライトノベルあるいは秋葉原やネット)をめぐる言説空間の中でさかんに取りざたされたのが「セカイ系」というものです。

この「セカイ系」なるものはどのようなものか、一応の定義として次のような要素を持つ作品が当てはまるとされているといいます。

・少女と少年の恋愛が世界の運命に直結する

・少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている

・社会の描写が排除されている

しかし、実際にはセカイ系を代表するといわれる作品には、これにすべての要素が該当するとは限らないし、ある作品がセカイ系の典型ともアンチ・セカイ系とも呼ばれることがある。そのため、セカイ系なるものは単なるバズワード(明確な定義や含意がないまま、特定のグループ内で流通する言葉)であって実体は存在しないとも言われる。そこで、著者は、そもそもセカイ系という言葉のもとには「一人語りの激しい」作品を名指すものとします。しかし、それだけでは広すぎることになりかねない。

さらにセカイ系を巡る議論をややこしくしている原因として次の2点をあげています。

・定義が曖昧にもかかわらず少なからぬ作家たちが、セカイ系を意識した作品を後追いで次々と発表したこと。つまり、セカイ系という言葉が生まれた結果、セカイ系の作品がうまれるという逆説的事態が起こったこと

・セカイ系という言葉は元来、批判的、揶揄的な意味合いで、セカイ系と定義された作品が賛否を巡る激しい論争に晒されてきたこと

著者は、結局、「セカイ系は存在しない」という議論と「セカイ系は是か非か」という議論に挟まれ、「セカイ系とは何か」は問われなかったのが原因と言います。そこで、本書は、この問題を追求しようというのが目的です。

結論を先取りして言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』と、その影響とは何だったのか、というオタクたちの問いかけから生まれたものと著者は言います。

 

第一章 セカイ系の中心でアイを叫んだけもの 1995〜99年

セカイ系という言葉を最初に提唱したとされる“ぷるにえ”が最初に定義したのは

・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる

・これらの作品の特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった

というように、作品の構造ではなく、「エヴァっぽい」作品を示すものが起源だったようだ。

『新世紀エヴァンゲリオン(以下、エヴァと略す)』は1995年にテレビ東京系で放送されたテレビアニメで、大きな商業的成功をおさめ、大きな話題となった。しかし、『エヴァ』がオタク文化史、あるいは日本の文化史の中で特筆すべき作品としての影響力の大きさは、商業的な成功だけによるものでない。ちょうど、『エヴァ』がテレビ放映された1995年の社会は平成不況が長期化し、経済大国日本という神話に陰りが生じ、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり時代の閉塞感が表面化する。そのような不安な時代の中で、アダルトチルドレンに代表される心理学ブームが起こり、人々の関心も「内面」「本当の自分」といった内省的なテーマに向かう。『エヴァ』はそんな時代を鏡のように写しとった作品と著者は言います。心に傷を抱え人との距離感が分からない少年少女の心理面に重点を置いたストーリー、ロボットアニメでありながら、自閉的な主人公がロボットに乗って戦い成長する、というドラマツルギーを拒否する展開。そしてまた、聖書をはじめ様々な宗教、神話の引用からなるカルト的ともよばれる世界観。そのような自閉的で、終末的で、カルト的な90年代の空気を見事に捉えた同時代性により、『エヴァ』はアニメでありながら、オタク層以外からも大きな支持を得ました。

しかし、このような『エヴァ』の同時代性、普遍性は、必ずしも意図的なものではなかったと著者は言います。少なくとも放送開始時は、むしろ、正反対のきわめて狭い客層に照準した、もっと率直にいえば、究極のオタク向けアニメとして作られていた。そして、この試みの失敗により、かえって普遍性を獲得した=大ヒット作となった逆説的作品だと言える。

例えば、『エヴァ』のオープニングアニメは、カット割りがとにかく早い。わずか数コマしか登場せず、録画した映像をスローモーションでも見なければとても判別できないような絵が混ざっている。これを十全に鑑賞するためには、そのようなカットに気付く鑑賞力が必要だし、場合によって録画して繰り返し鑑賞する熱意を求められる。さらには様々に工夫された趣向、先行作品からの膨大な引用や参照。このような引用の群は、しばしばオタクたちに作品試聴態度の分裂を要求する。このような究極のオタク向けアニメとしての『エヴァ』は放送開始時から、オタクたちから歓迎されたと言います。

ところが『エヴァ』はそのような作品として完結することができなかった。製作体制上の問題からスケジュールが破たんしたと一般にはいわれているが、第19話あたりをピークに映像の質はどんどん下がり、ハイクオリティな映像は見る影もなくなり、物語の視点は、どんどん登場人物の内面へと移り、謎への回答は一切放棄され、最終話では、物語を完結するのを放棄したようにも見えるものとなった。

しかし、このような終盤における崩壊、失敗にもかかわらず、否、それ故に、『エヴァ』は単なるオタク向けアニメを越えた社会的大ヒット作になってしまう。著者は『エヴァ』終盤で描かれたのは、監督庵野秀明の内面、自意識の悩みそのものだったと言います。観客へのサービス精神を放棄し、自分の内面に目を向けたことで、かえって幅ひろい共感を呼び、外に開かれてしまうという皮肉な事態は、内省の時代、自分探しの時代だった90年代を象徴する出来事だったと著者は言います。このような『エヴァ』は激しい毀誉褒貶に晒されることになった。作品の受容態度を巡っての感情的な対立まで引き起こしていく。マニアとしてのオタクの態度には、作品を一歩引いて客観的にシニカルに眺める視点が不可欠で、『エヴァ』終盤の展開は破綻したものとして笑うべきもので、同時に一般大衆がトレンディドラマの主人公に没入するのと殆ど変らない理由で『エヴァ』の主人公に感情移入する視聴者は批判の対象となった。しかし、『エヴァ』終盤は、そのようなオタク的姿勢を観客に放棄させ、劇中で苦悩する主人公の姿に素朴に感情移入させるだけの内実を、切実さを、同時代性を獲得していたのも事実だ。そのような受け手からみれば、これを批判する態度は冷笑的に映る。それゆえにそれは作品の価値ではなく、作品を評価する個人の人格へと及ぶ。このような形で『エヴァ』をめぐる論争が激化したと言える。

最初に“ぷるにえ”が指摘したセカイ系の定義として「『エヴァ』っぽい」というのは、とくに後半の『エヴァ』のことであり、自意識というテーマで、これを受け継いだ作品こそが、セカイ系として名指されたと、著者は言います。

このような『エヴァ』後半につづくような作品は、低調であまり作られなかった。むしろ、ポスト・エヴァを狙ったアニメよりもライトノベルや美少女ゲームというメディアに自意識というテーマを正確に受け継いでいると著者は指摘します。

この二つのジャンルは、『エヴァ』ブームの渦中に変動期を迎え、決して大手とは言えない会社から送り出された作品が口コミで大ヒットにつながり、ジャンルのトレンドが大きく変わっていきました。実際にはゼロ年代はブームに沸くアニメよりもライトノベルと美少女ケームの時代になったと著者は言います。それには「萌え」というキーワード、美少女キャラクターを消費する「萌え」という作品受容態度に最も適していたのはアニメではなくライトノベルと美少女ゲームだった。さらに、『エヴァ』後半のオタクの文学としての側面、つまり内面を描くメディアとして発達した小説、活字こそが適していた。

 

第二章 セカイっていう言葉がある 2000〜03年

後半の『エヴァ』的な要素を受け継いだ作品は、空前の『エヴァ』ブームが終わり、忘れられ始めたゼロ年代に入ってからと著者は言います。そうした作品としては、マンガ『最終兵器彼女』、美少女ゲーム『AIR』、小説『イリヤの空』、舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新といった作家たち、あにめ『ほしのこえ』など、これらは、オタク文化が『エヴァ』という特異なヒット作を咀嚼していく軌跡と著者は言います。

ポストエヴァからゼロ年代前半のオタク文化をけん引したのは「萌え」と美少女ゲームだったと著者は言います。ポルノメディアから始まった美少女ゲームは、性的なシーンを見るための手段でしかなかった恋人になるための過程が次第にケームプレイの目的に変容します。プレイヤーが快楽として見出したのは、美少女キャラクターとの日常での他愛無いやり取りだった。この動きから物語の揺れ戻しがおこり「泣きゲー」と呼ばれる作品で、プレイヤーは美少女キャラクターとの他愛無い日常を送りながら、やがて彼女が悲劇的な背景を持つことに気づき、そして少女の苦悩やトラウマを主人公が癒すことで、最後に添い遂げるというパターンです。この中から、美少女キャラクターとの掛け合いが続く日常世界に対比的に幻想的世界が導入され、何らかのきっかけにふたつの世界が直結するというパターンが現れます。その頂点が『AIR』だと著者は言います。

『最終兵器彼女』。奇妙な恋マンガ。画北海道の高校に通うシュウジとちせは、ラブコメというよりも少女マンガ的、さらにいえばリアリスティックにに描かれていて、シュウジの、ちせを求めようとする一方で、彼女を傷つけることへの恐れ、あるいは最終兵器となって傷ついていく彼女に何もできない自身の無力さへの嘆きが、モノローグの形式でしばしばページを埋め尽くすように描かれている。しかし、『最終兵器彼女』をセカイ系と名指す人々は、その理由として戦争描写のリアリティの欠如と設定の欠落をあげている。著者は、このようなの戦争描写のリアリティの欠如に返って10代や20代の皮膚感覚としてのリアリティを獲得しているといい、ここには『エヴァ』の影響を指摘しています。例えば、『エヴァ』の主人公は使途という敵が現れたときだけパイロットとなり、戦いが終わると、また中学生に戻り、悪友たちと遊んだり、同級生の少女たちとラブコメを繰り広げる。戦争により日常が破壊されるということに至らず、学園生活という日常と使途迎撃戦という非日常が同居する。さらに、使途という敵の所得たいが不明で、なぜ敵が襲ってくるか、戦う理由が明らかにされない。結果的に思考は空転し、抽象化し、自分の問題に行き着いてしまう。このような点は『最終兵器彼女』に通じる。いわば、最終兵器という題材を用いて描かれた難病ものという言うことができる。

このような『最終兵器彼女』がセカイ系として受け入れられているのは、それ以前のアニメ等と比べてみると「世界設定」を排除していることを著者は指摘します。『最終兵器彼女』の世界では、ちせは何と戦い、その兵器はどのような原理で稼動しているのかはまったく分からない。そして、読者はそのような設定などまったく気にせず、青少年の自意識に、あるいは恋愛に、ベタに感情移入する。これは『エヴァ』が「人類保管計画」「汎用人型決戦兵器」「使途」といった謎めいた単語を頻出させ、散々、視聴者の興味をひいておきながら、路線変更によりそれらの解説を一切放棄し、主人公の自意識をクローズアップしたが、『最終兵器彼女』では、最初から存在していない。

もうひとつ『エヴァ』以前の作品受容の態度の典型として、大塚英志の言う「物語消費」。例えば、『機動戦士ガンダム』を例にとってみると、大塚のいう「物語消費」は、極論をいうと『ガンダム』の物語、少なくとも、アムロやシャアたちの物語を見るのではなく、ガンダムの舞台である宇宙世紀という世界観にアクセスするためにアニメを見るというものだ。その意味において、アニメ本編も、アニメ誌や関連書籍に書かれた公式情報も「宇宙世紀」という世界観を理解する道具としては等価であり、アニメ本編=物語には特権的価値が置かれていない。このような見方からすると、『エヴァ』の前半は、そのニーズに応えるものだったと言えます。「人類補完計画」「セカンドインパクト」といった謎めいた単語が序盤から、何の説明もなしに提示され、物語消費を煽ったとも言える。しかし、終盤で『エヴァ』の物語は、突如として登場人物の心理へと焦点を狭めていき、世界設定の謎は一切明かされないまま終わってしまう。このようにして、『エヴァ』は、視聴者の物語を受容する態度そのものの変更を迫ったと著者は言います。だからこそ、『最終兵器彼女』は最終兵器というガジェットを持ちつつも、以前であれば、当然存在するはずの設定群を欠いていたことで、何かが欠落している、と捉えられたと言える。

だからといって、少年の自意識に焦点を当てた作品はセカイ系に限らず、むしろ、普遍的とも言える。ではなぜ、このような普遍的なテーマが、なぜ新しいものとして捉えられたのか。それは、『エヴァ』以前の作品受容の態度を参照しないかぎり見えてこない。即ち、『エヴァ』以前のオタクたちは物語から世界観を読み解く「物語消費」をはじめ、岡田斗司夫の言う暗号を読み解く態度など、作品受容の態度がきわめて奇形化していた。そのため『最終兵器彼女』などのような素朴な物語への回帰、あるいは普通に物語を楽しむ、普通に登場人物に感情移入するという作品受容の態度が、かえって奇異なものに捉えられたと著者は言います。

このような近年のオタクたちの作品受容態度を論じたものに、東浩紀のいう「物語消費」から「データベース消費」への移行という分析がある。これは物語への回帰を促すと著者は言います。「物語消費」で対象となるのは、大きな物語、つまり世界観であり、「データベース消費」では各要素としてのひとつひとつのストーリーに解体され、少年の自意識を描いたドラマや、男女の恋愛を描いたドラマが求められるようになったと著者は言います。

ここまで見てきたとおり、ゼロ年代初頭には、90年代後半の『エヴァ』ブームと、そのもたらしたパラダイムシフト後の混乱が収束し、『エヴァ』という作品を十分に咀嚼した上で、新たな作品が送り出されていった時代と言えます。そのような作品を呼ぶ言葉としてセカイ系という言葉が生まれてきたと著者は言います。

 

第三章 セカイはガラクタの中に横たわる 2004〜06年

2003年以降、セカイ系という語は文芸批評を中心に、活字の分野に進出し、そのなかで「エヴァっぽい」あるいは「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」といった歴史的側面が抜け落ち、抽象化されて定義づけられていく。そして、この定義自体が、新たなセカイ系を作り出していくのが、この時期であると著者は言います。この変容に併行して、「エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品」から「主人公とヒロインの恋愛によって世界の運命が決定してしまう作品」という定義の移り変わりが起こっていた。

これは提唱者であった“ぷるにえ”の定義にあった『エヴァ』によるパラダイム・シフトという視点が欠け落ちていく。その理由としては、“ぷるにえ”の定義がネット特有の口語的なもので評論等に馴染まなかったことや、当初の揶揄的に使われていたのが、後の論者たちはこの言葉や作品を肯定的に捉えていたために、意味合いの「脱臭」と「更新」が必要となったと、著者は言います。その結果として、セカイ系は、それぞれが自身の肯定したい作品につける

マジックワードと化し、そしてまた各々の論者がその意味の定義づけをめぐって独自の論を立て合う言葉となってしまったと指摘します。そのなかで、セカイ系ということばは広く流通し、さらに概念の混乱を深めて行きました。

このような状況の中で、オタク文化においてセカイ系と名指されたのは大雑把に次の二つのグループに分けられると著者は言います。ひとつはループもの、もうひとつはセカイ系への応答作品です。

まずループものの作品とは、時間SFの一種で、登場人物が何らかの原因によって、同じ1週間やある時点から自分が死ぬまでの時などのような特定の時を繰り返す物語です。1984年の押井守監督による『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が嚆矢とされますが、学園祭1日前をずっと繰り返す主人公たちを描くことで、連載が何年続いても時間の経過しない原作のラブコメ世界の姿を自己言及的に描き出し、その実験的な映像とともに問題作とされたものです。ゼロ年代のループものは、主人公が巻き込まれた何らかの事情が解決されない限り、基本的に、世界は同一時間を繰り返し続ける。しかも、これらの作品において、しばしばループを脱出するカギは、恋愛など、個人的な人間関係に求められる。このような構造が「きみとぼくの関係性と世界の運命の直結」というセカイ系定義に合致する。さらに、これらの作品においてはループの記憶を保持するのは主人公ひとりだけという設定が頻繁に導入されることから、ループ者は、認識を共有する他者を失い内省的に(=一人語りが激しく)なる。

また、ふたつめとしてセカイ系が、そう名指され、定義されたことを受けて書かれた作品も多数現われました。例えば2005年の風見周の『殺×愛─きるらぶ─』は、相思相愛になった女性に殺してもらわなければ、世界が滅亡してしまう運命を背負わされた主人公を描いた物語で、明らかに「きみとぼくの二者関係と世界の運命の直結」というセカイ系の定義を意識して書かれた作品と言えます。この作品はセカイ系がセカイ系として批判される所以たる「世界の終りと男女の恋愛が直結する」という荒唐無稽な構造を、意図的に導入し、その上で真摯な恋愛物語を描いたものです。これは、セカイ系と名指され批判され定義されることで却って、セカイ系的構造を意図的に内側に取り込んだメタ・セカイ系とでも言えます。このような事態がなぜ起こったのか、ということに対しては自己言及的な構造こそがセカイ系の本質ではなかったかと著者は指摘します。

著者はセカイ系について、「一人語りの激しい」から「きみとぼくの世界の直結」へと定義が変わっても、自意識という共通点は保持され続けたと指摘して、自己言及性をセカイ系のコアに求めます。もともと90年代以降のオタク文化において自己言及的な表現がしばしば目につく。例えば。ループものは同じ時間を繰り返すという点で、必然的に自己言及性を孕むが、そのような意識的、主題的な自己言及まで行かなくても、90年代中盤には、ロボットアニメのなかの登場人物が「ロボットアニメみたいだ」と発言する、というような場面がしばしば見られた。この登場人物たちは巨大ロボットを既知のものとして出会う。そこで描かれているのは、日常的にロボットアニメを見て育った少年が、現実にロボット出会ったらどうなるかという表現です。そして、セカイ系応答ものでは、ほとんど過剰なまでに、自分たちの出合うロボットなどの事態が、フィクショナルでチープなものでしかないと作中で指摘し続ける。しかし、それらを茶化したり笑いものにするのではなく、極めて深刻な自意識の悩みという主題を展開させていくのです。

東浩紀は『ケーム的リアリズムの誕生』のなかで、このようなセカイ系の構造を支えるものとして半透明な文体という概念を提示しています。現実をありのままに描き出そうとする自然主義リアリズム(透明な言葉)に対して、アニメやコミックという世界のなかに存在するのが、まんが・アニメ的リアリズムである。この二つのリアリズムの対比に大塚のいう「アトムの命題」を結びつける。大塚は、日本のマンガ史のターニングポイントを手塚治虫の『勝利の日まで』という作品で、主人公のフクちゃんが米軍の戦闘機に撃たれて血を流す場面に求める。大塚によれば、このとき、本来、平面的な身体、死なない身体と傷付かない心しか持たないはずだったマンガのキャラクターが、しかし、傷付く身体を手にしてしまったのだという。それ以来、日本のマンガ表現の中で描かれるキャラクターたちには、記号的な傷付かない身体と、生身の傷付く身体という二重性が宿り、それが手塚治虫作品の主題となっていったのだという。『鉄腕アトム』の主人公アトムが内面を持ちつつも成長できないロボットとして描かれるのは、まさにこの二重性があるがゆえであり、大塚は、これをアトムの命題と呼んだ。そして、これを享けて、東の議論は、日本のマンガに宿るこのような傷付く身体と傷付かない身体の二重性は、そのまま、マンガ・アニメ的リアリズムの中に流れているという。そして、マンガ・アニメ的リアリズムは、自然主義的リアリズム(透明な言葉)とは異なるが、かといって自然主義以前、前近代の不透明な言葉とも異なった半透明の言葉である、と東は言う。と、セカイ系の根拠を、文体そのものに求める。

しかし、と著者は言う。文体だけでは、あくまでセカイ系の立つ土台を指し示したに止まるという。文体だけでは内に秘めた「アトムの命題」=半透明性という問題系を呼び覚ますことはできない。セカイ系の諸作品は、読者と同じ現代に生きる若者を登場させて、過剰なまでの自己言及を行い、巨大ロボットや最終兵器、名探偵や宇宙人、そしてセカイ系などがマンガチックな、虚構の存在にすぎないことを示そうとする。近代的な自意識と、傷付く身体を持つ生身の人間、いわば透明な文体で描かれるべき存在であることを明らかにする。そのうえで、彼らを、まさに彼ら自身が虚構であると名指した不透明な世界=宇宙戦争、密室殺人、セカイ系の中へと投げ込むのである。東が言うセカイ系の半透明性は、このような自己言及の運動によって成立している。

さらに、著者は続ける。実は、幼いころからマンガやアニメに親しんできた人間にとって、これらが荒唐無稽だと認識するのは、難しいことだ。『エヴァ』の後半において、主人公である碇シンジという薄いセル画の上の絵が、庵野秀明という一個の自意識の受け皿となり、作品を完全に破綻させるほどの勢いで「アイを叫ぶ」という事件が起こるまで、オタクたちはマンガやアニメのキャラクターたちが、生身の人間と同じような身体や切り口を持つということの、あるいはそこにみずからの自己を投影することの不自然さを認識していなかったと言います。そして、『エヴァ』という事件によって芽生えた不自然さへの驚きと問いが、セカイ系の自己言及の運動となるのではないか。

 

第四章 セカイが終わり、物語の終わりが始まった? 2007〜09年

2006年までには、セカイ系の終わりが認識されていた。そこに宇野常寛による『ゼロ年代の想像力』という強力なセカイ系批判が登場することで、延命していると著者は言います。この中では、宇野は、基本的には古い想像力(1995年後半の想像力)と新しい想像力(ゼロ年代の想像力)という二項対立を中心に議論を進める。古い想像力とは『エヴァ』を代表とする大きな物語(社会全体に共有される価値観)が崩壊し正しいことが何か分からなくなり、何かを成そうとすれば必然的に誰かを傷つけるという時代の空気から生まれた、「引きこもり/心理主義」的傾向とその結果出力された「〜しないという倫理」が、その特徴である。一方、2000年代に入ると、引きこもっていては殺されてしまう「サヴァイヴ感」が社会に広く共有され始める。そんななかで、何も選択しないことの不可能性が明らかになる。そのなかで、その時代性を反映した作品が生まれている。このような作品には「決断主義」的傾向があり、これに対して、ゼロ年代初頭に花開いたセカイ系は、登場した時点ですでに時代遅れだったと宇野は言う。宇野のセカイ系に対する批判は2種類ある。ひとつは古い想像力であるという点、もうひとつはレイプ・ファンタジーであるという点です。「本当は女の子になんて戦ってほしくはないけれど」とか「本当は女の子を傷つけたくないけれど」と言った反省を間に挟み、にもかかわらず、仕方なく「戦ってもらう」「セックスする」ことで、罪悪感や責任感を軽減し、欲望を強化する構造を言っている。このような批判は、オタクたちの自己反省という欲望を正確に捉えたものではあるものの、この正しさは言説の内容ではなく、話者の立ち位置によって担保される性格のものであるため、外をめぐる終わらないメタゲームへと繋がる可能性を孕んでいると著者は言います。

このような宇野の批判の根拠にあるのは、オタクたちの反省への欲望にあり、その原因は『エヴァ』にあると著者は指摘します。しかし、『エヴァ』の主人公碇シンジは登場人物のアスカ「キモチワルイ」と拒絶されてしまう。著者はこれは監督である庵野のアニメの外に出よというメッセージではなかったかと言う。しかし、オタクたちは未だにアニメの内にこもり美少女に耽溺している自分と言う罪悪感こそが、まるで原罪のように自己反省の身振りを呼び、セカイ系という内省と自己言及の物語を生んだと、著書は分析している。

これでは、『エヴァ』の最後のメッセージに応えていない、自己反省に淫しているという批判もないわけではない。けれど、“自己反省がいけないと言うのなら、己の欲望のおもむくままに美少女に萌えればいいし、あるいは美少女ゲームをやめればいい。戦争批判などやめて、思う存分戦争を楽しめばいい。あるいはロボットアニメを見るのをやるればいい。しかしながら、それでは物語から葛藤や内省という重要な要素を奪い、あるいは物語自身がなくなってしまうように思える。それは、やっぱり残念だ。アスカは萌えるし、リアルな戦争はカッコイイのである。いくら批判されようと、人間はそう簡単に自意識を捨てることも、自己正当化をやめることも、自己反省をやめることもできない。そのような自意識、自己批判によって自己肯定する自己批判をする自己肯定をする自己批判をする自己肯定をする自己─という懊悩があればこそ、作品や批評も生まれてくるのであるのはないか。そのような自意識の運動の果てに、これまで見てきたようなセカイ系という文化が生まれてきたのなら、アスカに拒絶され、オタクをやめろと言われ、それでもオタクのままだった我々も、半分だけ、肯定されてもいいと思うのだ。”と著者は言います。

さて、セカイ系という言葉は『ゼロ年代の想像力』を経てオタク文化から、文芸へ、社会批評へと越境を果たします。それに伴い、その定義内容も拡散していきました。例えば『エヴァ』に対して、ロボットに乗って戦うことを拒否しようとする主人公の内向的な姿勢が批判の対象となる一方で、無差別テロを起こしたオウム真理教との類似において批判されるというように、ひとつの作品が全く正反対の批判を受けるという事態も起こりました。

この時期、オタク文化としてのセカイ系は終息していきました。その理由は、セカイ系自体に内包するもので、次のようなことが考えられます。ひとつは、『エヴァ』では衝撃的だったアニメ等のエンターテイメントで自意識の問題を赤裸々に一人語りを始めるというのは、同じような作品を他に何本も見たいとは思われない、言ってみれば娯楽の本分からの逸脱であり、最終的には出来損ないのエンターテイメントとしてしか成立しない宿命にあると言える。ふたつめは、これに関連するが、そもそも商売に向いていない。セカイ系の作品は、明確な構造によって支えられることになるため引き延ばしによる長期化には向かないし、戦闘シーンのような映像的に映えるシーンを排除してしまいがちのためアニメ化のようなメディアミックスにも不向きだし、そもそも一人語りは映像化を難しくしている。また、関連商品の展開も難しい。このような点で商品としての欠点が大きいことが、その原因と考えられる。セカイ系はサブジャンルのひとつとして定着しつつあるといっていい。筆者は、最後にポスト・セカイ系について、いくつかの可能性を提示していますが、それは、もはやセカイ系とは別物でしょう。

 

で、全体的な感想は、著者はオタク史といっても、冷静に概観するというよりは、渦中にあって、悪戦苦闘する現場実況に近い。だから、時折、分析を逸脱して思いを語り始めるところが、セカイ系的とも言える。そして、直前に取り上げた岡田斗司夫と続けたことにもよるのだろうが、岡田の言うオタク第三世代というのが、ここで語られていることに、ほとんど丸ごと当てはまってしまっている。だから、オタク文化の流れに通じていない人は、岡田の著作を読んでから、本作を読むと大きな流れの中でのセカイ系に位置を捉えられると思う。ただし、岡田も指摘しているように、趣味から自分語りというアイデンテテイーの問題になり、差異に重点が置かれると定義が拡散し、「オタク」とか「セカイ系」といった定義づけ自体が困難なのではないか。セカイ系の定義自体がもともと拡散していたのは、受容のされ方とか、受容するオタクのあり方の性格に起因する点もあるのではないか。むしろ、私には、そこにセカイ系の独自性があるように思える。というのは、本書で著者が言及しているセカイ系の定義や特徴について、セカイ系でない作品が次々と思い浮かんでしまうのだ。セカイ系と、それらがどのように違うのか、著者の議論では、いまいち説得的ではない。例えば自己言及に淫しているものとして、太宰治の『人間失格』や夢野久作の作品、あるいは世界を限定してしまうものなら少女マンガ、例えば紡木たくの『みんなで卒業をうたおう』や『ホットロード』、ループものなら萩尾望都の『ポーの一族』などとの違いは、と突っ込みたくなる。多分、そういう突っ込みを許してしまうような構造がセカイ系にあるのではないか。

 
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