小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」
 

序章 殲滅戦争と消耗戦争

  第1章 開戦への歩み

  第2章 破綻した戦略

  第3章 傀儡の国

  第4章 見果てぬ夢

  第5章 二つのパワー

感想

 

本書は、日中戦争とは何だったのかを一般読者が的確に理解できることを目的として、二つの手がかりを活用していく。

一つ目は8年間に及ぶ戦争の経過を網羅的に見ていくのではなく、大局的に両国の戦略を比較する「視点」である。戦争とは相手のあるパワーゲームであり、自国の戦略と相手国の戦略とがぶつかり、せめぎあうなかで様相が変化して行くものである。個々の戦局はその結果として決定づけられるに過ぎない。に中戦争を理解するに当たっても、日中両国がどのような戦争観、国家観のもとに、どのような戦略を立て、それがどのような結果をもたらしたかを大づかみに把握することが肝要なのである。本書では、日中両国の戦略の質的な違いをより明確にし、この戦争の構造を正確に理解するため、殲滅戦と消耗戦という二つの概念を対比させてみていくことにしたい。一般に戦争とは、短期的な決戦を目指す殲滅戦略による戦争と、長期的な持久戦をめざす消耗戦略による戦争の二類型に分類される。そして日中戦争とは、日本殲滅戦略と、中国の消耗戦略の激突であったとみるのが本書の視点である。長期的な戦いという意味ででは総力戦と消耗戦は重なる部分が多いが、「殲滅戦」対「消耗戦」という対立軸を作ってみていくことで、この戦争の様相と、両国の勝因と敗因がよりくっきり浮かび上がってくるのではないかと考えている。

そのうえで本書では、二つの戦争の根底にある二つのパワーについてもふみこんでいきたい。殲滅戦を支える原動力は、その国の軍事力や産業力などの、いわばハードパワーである。一方、消耗戦の場合は、政治力や外交力、更には国家の文化的な魅力を含むソフトパワーによる戦いとなる。日中戦争とはも究極的にはこの二つのパワーの相克であったと、みる視点を持つことで、この戦争の本質のみならず、日中両国の現在なお変わらない国家的な性格までをも見通すことができるのではないかと考えている。

もう一つは『関東憲兵隊通信検閲月報』という資料である。

 

序章 殲滅戦争と消耗戦争

殲滅戦力戦争と消耗戦略戦争という概念を日本の近代戦争史当てはめてみると、日本は絶えず殲滅戦略戦争を繰り返し、消耗戦略戦争の経験が極めて乏しかったことに気づく。近代最初の対外戦争である日清戦争は、日本軍と清国軍閥軍との主力どうしの衝突による短期殲滅戦争だった。10年後の日露戦争も、陸にあっては遠く満州の平原でロシア軍を迎撃してこれを撃滅し、海にあってはバルチック艦隊を補足殲滅する殲滅戦略戦争であった。世界の趨勢を見れば第一次世界大戦が殲滅戦略戦争から消耗戦略戦争への転換点だったと言われるが、そのとき日本は極東の片隅にあって、本格的な戦争には関わることなく終わっている。つまりは本場の消耗戦略戦争を経験せずに過ごしてしまったのである。満州事変にしても殲滅戦略戦争の典型とも言えるものであった。こうして近代の日本軍は殲滅戦略戦争のみを繰り返し。消耗戦略戦争に関しては未体験のまま、日中戦争を迎えることになる。当時、日本軍首脳の過半は、日中戦争を満州事変同様、数カ月で終了する殲滅戦略戦争と位置付けていたふしがある。しかし、殲滅戦略が唯一の戦争の手段ではないということに気づくのに、日中戦争勃発からさほどの時間を要しなかった。

だが、日本軍とて、もっと早く気付くチャンスがなかったわけではない。一つの機会は日露戦争であった。この戦争は、「消耗戦略戦争の典型」と称された第一次世界大戦の予兆を様々な意味で現していたからである。例えば陸戦では戦線が膠着・長期化し、海戦では大艦どうしの砲撃戦が展開されるなど第一次世界大戦の戦闘の先駆けのようなものが既に現われていた。さらに大きな意味を持つのは、国家総動員体制が不完全ながら準備され、産業や思想の統制と動員が重視されたこと、戦争展開から終結まで外交交渉が大きな比重を占めるようになったことである。「国家総動員体制」をどう定義するかはいろいろ議論があろうが、単純に国家の総力を政争に動員する制度や仕組みと考えるなら、日露戦争は、日本の国家総力を挙げた戦争の最初の体験だったといってよい。そして。工業力が未熟ながらもそれなりに全力を傾けた日本と、革命の危機に脅かされたロシアと差が、この政争の勝敗を分けたのである。この戦争を日本軍首脳部は殲滅戦略戦争の一類型として絶対化していった。

消耗戦略戦争では、軍備や産業に裏付けられた武力よりも、政治や外交、さらには国際世論の支持を集めるための国家の文化的魅力がものを言う、殲滅戦略戦争でも、布施力のみならず政治力や外交力が必要になるが、そのウェイトは消耗戦略戦争の比ではない。作戦を決定し推進する場合でも。殲滅戦略戦争であれば軍事・産業動員を集中して武力で敵の主力を包囲戦殲滅すれば事はすむが、消耗戦略戦争となれば、戦争が長期化し泥沼化するなかで外交交渉やメディアをも活用した宣伝戦で如何に有利に和平を勝ち取るかを第一に考慮した作戦を考えなければならない。しかも、ただ目先の有利さを求めるのではなく、世界のなかで自国の位置づけと役割、そして具体的な国家の将来像をふまえた戦争終結のあり方を追求しなければならない。その課題実現のためには何を取、何を捨てるのかを見極め、どのような手段と方法を選択すべきかを厳しく計算しなくてはならないのである。

しかし、日本の政治世界にも軍の世界にも、そうした長期的展望を持った消耗戦略型指導者はついぞ現われなかった。

その理由は、日本が置かれていた地理的・歴史的特性に由来する。明治以降の日本の近代とは、絶えずその時の超大国と連合し、日の庇護の下で世界情勢の変化も利用しながらアジアで国益の伸長を図るという歴史であった。したがって満州事変以前の、日清・日露戦争に始まる日本の戦争はたえず東アジアの一部で局地的に行われ、期間も足かけ2年、ロシア革命直後のシベリア出兵でも4年と短期間で終了していた。講和も超大国の調停を得て、その塩飽の範囲内で行われた。つまり、日本は、独力で長期間にわたって戦うという準備も経験もついぞ持たないまま、日中戦争を迎えたのであった。

たしかに日中戦争は、1937年から45年までの8年間も戦いが継続されたという意味では、まぎれもなく長期戦である。しかしその内実は、日本が鮮明戦略戦争を意図したにもかかわらず、国民政府主席の蒋介石の巧みな戦略によってそれが頓挫し、不本意ながら長期の消耗戦略戦争に引きずり込まれていったのであった。

考えてみれば、外交などを駆使した長期的・大局的な国家政略は英米など超大国に委ね、みずからはその僕として短期的・局所的な勝利の追求を国策とする明治以来のこのような日本の体質は、かたちを変えて戦後も立派に引き継がれている。ハードパワーの両翼のうち軍事という翼はもぎ取られたものの、もう片方の産業という一翼を異様に突出させて、超大国アメリカの僕としてこれに依存しつつ、自国の経済発展を追求したのである。これは手段こそ変わってはいるものの、殲滅戦略戦争の再現にほかなになかった。

21世紀に入ると、状況は大きく変化してきている。悠久の歴史に培われた独自の外交力、文化力を磨き続けて世界に冠たるソフトパワー大国となっただけでなく、現在は軍事、産業等のハードパワーも急速に強化している中国の台頭である。近代アジア史上ではじめて、ソフト、ハードの両パワーを備えた超大国が出現する可能性が高くなってきたのである。これまで、アメリカという超大国とつながってアジアでの覇権を追求してきた日本は今、アジア自体の中に超大国が生まれた時に、これとどう付き合うかという課題を突き付けられている。大きな路線選択を迫られているという意味では、現在の日本は百年以上前の日清戦争前夜と同様の状況にあると言っても過言ではない。今後、我々はどう生きるべきかを考える前提としても、70年前の日本が日中戦争を通じて経験した殲滅戦略戦争の破綻と、消耗戦略戦争と化したこの戦争の本質を見ていくことの意義は大きい。

 

第1章 開戦への歩み

1931年の満州事変に関して留意すべきことが三つある。一つは、満州事変は日本にとって、英米などの峡谷の事前諒解なくして大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということである。近代以降の日本は日清・日露戦争から第一次世界大戦に至るまで、戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していた。ところが、満州事変ではそうした手続きを無視したのである。そのため諸外国との間に軋轢が生ずるのだが、関東軍はそれを強引に押し切り、日本政府もまた関東軍の行動を事実上黙認した。この成功は、軍の中外交軽視の風潮を作り出すことになり、ひいては日本の外交力衰退を招く結果となった。したがって外交力を持った敵にはその弱点を徹底的に衝かれることとなっていく。二つ目は、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期間に満州を制圧できたことである。蒋介石率いる中国中央軍と比較しても遜色のない奉天軍をわずかな兵力で打ち破ったこの成功は、「寡よく衆を制する」という譬えに似せて、作戦を巧みに展開すれば数倍あるいは数十倍の中国軍でも撃破できるという根拠のない確信を生むこととなる。のちの日中戦争では日本軍は自軍の数十倍の、しかも会戦のたびごとに近代化され洗練されていく中国中央軍と対峙することになるが、その際もこの満州事変における成功を絶対視したため、手痛い敗北を喫することとなるのである。三つ目は、満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾で行ってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとして溥儀を湿性に据えた独立国という形態をとったことである。満州事変が起こると奉天軍閥傘下の領将が張学良のもとを去り関東軍側加担するものが現れた。彼らの協力があって満州国はスタートできたわけである。しかし、彼らが協力的だった理由は、日露戦争から満州で培ってきた日本軍と中国人指導者との深い交流にあったのだ。にもかかわらず日本軍は、この満州での経験を絶対化して中国人をいつでも利用できると信じ、華北・華中でも同様の政権ができると思いこんだ。この確信は、日中戦争で厳しいしっぺ返しにあうことになる。満州事変から満州国の建設までのプロセスを見ればたしかに、中国はすべて関東軍の意のままにできるかにも思えた。しかし、これらの成功体験が過信を生み、その後、大きな誤算となって関東軍の前途に立ちはたがって来る。

満州事変は満州国の成立でひとまず終結する。それからしばらくの間は日中関係に小康状態が現れる。蒋介石は中国共産党との戦いに忙殺され、対日摩擦を回避するため関東軍の要求を甘受していたためである。しかし、1935年国民政府は幣制改革を実行し、軍閥や外国銀行の通貨の流通を禁止し、国民政府が定めた法幣を正式の通貨として流通させるという改革である。これには英米の支援があったが、中国の政治経済の統一を急速に推し進めることができた。これにより外貨は閉め出されることとなり、日本軍の華北への進出は一頓挫を余儀なくされる。それでも、日本は華北進出に執着し露骨な分離工作を続けるが、当地の実力者は曖昧な態度を取り続け、決して日本に積極的に協力することはなかった。このことは表面的に両国を覆っていた友好ムードに水を差し、中国では次第に民衆レベルでの抗日感情の高まりを見せ始める。

1937年盧溝橋事件により両国は戦闘状態に入る。

蒋介石は、開戦直後の8月21日に「中ソ相互不可侵条約」を締結し、また英米各国大使に外交戦を展開することを指示した。日本軍の主流をなす殲滅戦略構想に対して、彼が当初から消耗戦略思想で挑もうとしていた決意がうかがわれる。それは、外交力から文化的な厚みまでを駆使して国際的な支持を集めて、建軍途上の軍事力の整備に時間を稼ぎ、武力一辺倒の日本を時間をかけて孤立に追い込もうというスケールの大きな発想だったと思われる。日中の戦略の相違は、初発の段階からすでに現われていたのである。

 

第2章 破綻した戦略

戦線の拡大は急で華北の拠点を次々と制圧していった。この地方は大半が地方軍閥軍の寄せ集めだったため、強大な日本軍の軍事力の前に後退を続けた。軍事力を主体とする日本の殲滅戦略は成功を収めたかに見えた。しかし、8月中旬からの上海を中心とした戦闘が、日本に大きな誤算をもたらした。上海には中国中央軍の精鋭が駐留し、日本軍は苦戦を強いられる。しかし追加増援部隊をもって攻撃を継続し、防衛線は崩れる。しかし、その後日本軍が首都南京の攻略に向かうと蒋介石指導部は南京を脱出し、遠く四川省の重慶まで遷都して抗戦続行の意志を宣言する。長期消耗戦に引きずり込もうという戦略に沿った行動であった。こうして戦線は華北にとどまらず華中に拡大していき、正確に言えば華中が主戦場となっていくのである。

短期で決着する殲滅戦の遂行という意味では、日本にとってこれが致命傷となったといえる。つまり、上海地域には外国勢力と結びついた、その意味では中国の中で最も日和見主義的な、最も動揺的な勢力が集中していた。彼らはそれ故、最も日本側に取り込まれやすい勢力といえた。にもかかわらず日本は、ここを主戦場にしただけでなく、彼らの基盤を徹底的に破壊したことで彼らを蒋介石側に追いやり、蒋介石の消耗戦略による徹底抗戦に厚みを与えることとなったのである。

このような日中戦争の初期に発生したのが、南京事件である。日中戦争をハードパワーとソフトパワーの相克としてみるならば、この事件は彼我のソフトパワーに決定的な差をもたらすものであった。中国人兵士のみならず一般市民までが大量に虐殺されたこの事件は、日本の軍隊がいかに残虐であるかを国際社会で証明するに十分な材料を提供し、日本のソフトパワーを著しく減退させるとともに、中国のそれを大きく増大させたのである。

戦略の次元でみれば、この事件の背景には、日中両軍の根本的な戦略思想の相違が横たわっている。上海攻略から息つく間もなく南京攻略を企図した日本軍中央と出先の指揮官たちは、殲滅戦略戦争的な視点で兵を動かした。南京が陥落すれば国民政府は降伏すると確信していた。その性急な用兵が、将兵たちが暴徒と化す原因になった。対するに中国側は、消耗戦略戦争的な視点でこれに応じた。徹底抗戦による殲滅を避け、南京から分散遷都して後退しながら、空間を時間に替えて軍事力を鍛錬・再編していく戦法を採用したのである。これらの結果、無防備な市民に膨大な数の犠牲者が出た。南京事件は、二つの戦略がもっとも不幸な形で遭遇した帰結といえるかもしれない。

蒋介石はかなり早い段階から消耗戦的な戦略を、強力な軍事力と産業力を有する日本と戦うためには、中国は道徳的優位性で勝負する以外に方法がないと考えていたようだ。盧溝橋事件から1か月後、日本への対応策を述べているが、それはつぎの五つに集約できるものであった。

第一     持久消耗戦

第二     防衛を中心とする。敵が来たら殲滅する

第三     後退せず陣地を固守する

第四     十分に民力と物力を利用する

第五     工事や人員を隠蔽し、戦車壕や防毒方法等を活用する

ここで蒋介石は、「持久戦」という発想をはっきり打ち出し、そこに中国の勝利への光明を見出している。これほど早い時期から対日戦略を明確持っていたことに、驚かざるを得ない。そして、抗戦の決意と勝利の確信の理由として次の三点をあげる。

第一、抵抗を通じて敵の兵力を内地に吸収し消耗する戦略を行う。日本が四川省まで侵略するには三年間以上の時間が必要だが、日本内部の状況はこうした長期間の用兵を許さない

第二、日本は国際的に多くの敵を作っており、持久できる条件が少ない。これまでの中国の抗戦は国際形勢をも転換させる役割を果たした。今後も抗戦を続ければ、各国は連合戦線を形成して中国を支援し、日本を孤立に導くに違いない。

第三、中国は国土が広く奥行が深く、民衆の抵抗意識は強い。とくに内陸の抗戦意識は強い。これらを基盤に政府、党と三民主義が続くかぎり、抗戦を続けていくことが可能である。

蒋介石の戦略の根底には、日本人と中国人についての彼ならではの分析があった。両国の国民性をも考慮したうえで導かれた戦略であったといえる。彼は、日本軍が規律を守ることに優れ、研究心が旺盛で、命令完遂能力が高いという長所を持つ反面、視野が狭く、国際情勢に疎く、長期持久戦には弱いという弱点を持っていることを指摘している。一方の中国軍は、広い視野と長期的展望をもって持久戦を戦うことには優れているが、戦闘心は旺盛でなく、研究心が足りないとしている。そして、日本軍の長所は兵士や下士官クラスにおいて発揮されやすいものであり、彼らはよく訓練されて優秀だが、士官以上の将校レベルになると、逆に視野の狭さや国際情勢の疎さといった短所が目立って稚拙な作戦を立案しがちであることを喝破していた。こうした日本軍の特質は、局所が単純な短期決戦向きといえるだろう。一方で、中国軍は対照的に指揮官レベルの人間は国際経験も豊富で視野も広いが、兵や下士官は資質が低く、訓練が行き届いていないことも承知していた。これは、中国軍にとっては戦局が長期化、複雑化するほど有利であるということにほかならない。戦争に勝利するためには、敵の長所を殺し、味方の長所を生かさなくてはならない。そうしたことまでも見越したうえで、彼は日本軍を消耗戦に引きずり込む戦略を打ち立てたのであった。

蒋介石の日本人に対する卓越した観察眼は、青年時代の日本への留学経験によって養われたものだった。そこでの留学体験と実習入隊を通じて、兵卒や下士官を規律正しく教育していることこそが、日本軍の強さの秘密であると総括した。いわば下士官教育の徹底が、日本軍の戦闘力の源泉となっていると考えたのである。しかし、彼は同時に上官の部下に対するいじめが、兵営内でしばしば行われるのを見ている。強制的な支配によってもたらされる規律は、短期的には忍耐力の範囲内で持ちこたえられるだろうが、それが長期に及べば必ずや破綻し、長所が災いに転ずるに違いないからである。蒋介石の日本理解は中国と日本の地政学的特色を比較することでいっそう明確になっていく。中国のように広い国土と、長年にわたる異民族との戦争の経験は、必然的に、広い情勢と綿密な情報の収集、それらにもとづいた外交を得意とする軍をつくりだす。中国における戦いでは、さまざまな勢力との合従連衡の成否が戦局を決定し、個々の兵隊や下士官よりも指揮官の情勢判断が、戦況に大きな影響を与えることとなるのである。これに対し、中国とは比較にならない狭い国土とか持たず、兵站の必要もないほどの狭小な地域での戦闘しか経験してこなかったのが日本軍だった。その戦いにおいては、指揮官の総合的な判断力よりも、個々の兵や下士官、とりわけ下士官の優秀さが戦局を決定してきた。このことも、蒋介石は留学経験を通じて熟知していたのだった。

思えば蒋介石が喝破した両国の長所と短所は、なによりも日中戦争当時だけに限られたことでなく、現在までも続く両国民の特徴となっている。一例を企業活動にとってみよう。日本企業の特徴はなんといっても、従業員の優秀さにある。彼らはよく訓練され、研究熱心で、共同作業に長じ、目標達成能力が高い。与えられた課題は確実にこなし、さらにその先まで読んで改善や改良を提案する。そして、そのような従業員たちを、係長・課長クラスの中間管理職がうまくまとめあげている。軍にあてはめれば下士官から準将校に該当する彼らの能力は、たしかに世界に冠たるものがある。彼らが戦後、軍事力から産業力にシフトして展開された日本の戦いを根底から支えたのである。しかし、その上の社長や取締役の経営者レベルになると、必ずしも優秀な人材が揃っているとは限らない。少なくとも平均値を他国と比較すれば、確実にその点数は劣っているだろう。総体的に個性ある経営者が少なく、独創性に優れ、柔軟な思考で状況に応じたユニークな戦略を展開できるような経営者は数えるほどである。まさに日中戦争期の軍人社会と変わらぬビジネス社会が継続しているのである。こうした弱点は右肩上がりの好調期には表面化しないが、ひとたび右肩下がりの不況期になるとたちどころに欠陥を露呈し、企業を危機へと追い込むのである。この日中両国の特徴は、外交にも一脈通ずものがある。狭い地域の殲滅戦略型の戦いであれば、外交が作用する余地はすこぶる小さい。しかし、広大な地域における、しかも異民族がいの混じる国際戦ともなれば、各国間との駆け引きの出来いかんが勝敗を決定づけることになる。成功のためには自国の基準だけで事を運んではならず、他国との文化の相違を認め、それを尊重しつつ柔軟な発想で相手と交渉する必要がある。そして決定的なポイントとなるのが、どの線で妥協するかを見極める総合的な判断力である。長い歴の中で、こうした外交戦を繰り返し、国民的文化といえるレベルにまで仕上げた中国と、そうした経験をついぞ持たずに来た日本では、国家の営みのなかに占めるその重みにも、力量にも、大きく差があるあるのは当然とも言える。これからの日本の将来像を考える上でも、このことは十分に意識しておくべきだろう。

一方、日本の軍事・産業力の特徴は、日中戦争を契機に急速に強化されたところにあった。国民総動員体制の進行である。38年5月中国派遣軍が総力を挙げて徐州占領作戦を展開したが、中国側に決定打を与えられないまま、戦線はさらに拡大していき、強大な一撃を与えれば中国は容易に屈服する、との希望的観測は完全に潰えていく。蒋介石を重慶に逃したことにより日本がめざした短期決戦は絶望的となり、以後は蒋介石の思惑通り、未経験の消耗戦略戦争へとはまり込んでいくのである。日中戦争の第一期の終わりとは、日本の殲滅戦略の終焉に他ならなかった。

 

第3章 傀儡の国

日中戦争第二期は、1938年10月の武漢作戦終了後に戦線が膠着し、殲滅戦略戦争の遂行が不可能となった日本が、謀略によって、重慶へ移った国民政府の分裂を策動した時期以降のことをいう。戦局が消耗戦陸戦争へ傾斜していくのに従い、日本側では蒋介石政権内部の親日派と連合して政権分裂を誘い、局面を打開しようという動きが軍を中心に始まっていた。直接粋な軍事力によらない戦いという意味では外交に近いのかもしれないが、あらかじめその実態を明かせば、交渉相手への信義も敬意もなく自国の利のみ追求する、一過性の謀略というしかないものであった。

日本がターゲットに選んだのは、蒋介石に次ぐ国民政府ナンバー2の汪兆銘だった。日本は和平交渉に応じた汪と偽りの条件で合意を結び、抗戦を続ける蒋介石と汪兆銘の分裂を狙ったのである。汪は日本の策動にはめられ、妻や側近たちと茨の道を踏み出すことになる。外交交渉の相手をだますなどということは、当然、許されることではない。日本の謀略は、のちにそれが露見したあと国際的信用を大きく失墜させる要因となった。だが、こうした詐欺行為も軍事行動の一環だったと解釈すれば、多少の疑問の解消にはなる。彼らが策したことは消耗戦略への転換ではなく、あくまでも殲滅戦略の変形に過ぎなかったのだ。

汪兆銘は重慶を脱出した後、上海に入る。そこで彼を待っていたのは脆弱な寄せ集めの勢力でしかなかった。上海周辺で彼の見方になり得る勢力の多くは、日本の軍事行動により一掃されてしまっていたのだ。

汪兆銘政権は発足したものの、事実上、日本軍の傀儡として発足した。しかし、彼は当初から傀儡になるつもりだったわけではなかった。和平の志を抱き、「日華協議記録」「日華協議記録了解事項」を信じたからこそ、重慶を脱出したのである。だが、その彼を待っていたのは「日華協議記録」締結の十日後に決定された傀儡性の強い「日支新関係調整方針」だった。この「方針」が正式な日本側の意向として伝えられたとき、すでに政治・経済・軍事・外交などの根幹を日本に掌握されていた彼が政権を樹立するには、日本軍の言いなりになる以外になかったのである。しかし、こうした日本軍の外交に名を借りた殲滅戦略的な謀略も、膠着した日中戦線の打開には実効をあげられなかった。それどころか、中国側の謀略の暴露なとによって、国際社会の中でさらに反感を買う結果を招くことになる。それは国民政府の蒋介石が展開する外交戦に有利に作用し、アメリカ、イギリス、オランダなどによる縦日経済制裁を誘発して、日本をますます苦境に陥らせていった。そこへ遠くヨーロッパから舞い込んだのが、ナチス・ドイツ快進撃の報であった。汪兆銘南京政府樹立から半年後、日独伊三国軍事同盟を結んだ日本は英米との対立を深め、太平洋戦争へと突入する。それは、開戦からすでに4年以上に及んだ日中戦争の行き詰まりを、はるかに強大な敵・英米との戦争によって打開しようという狂気の選択に他ならなかった。殲滅戦略的な発想しか持ちえなかった日本は、まさに息の根が止まるまで果し合いを演じるよりほかに、戦争を終結させることができなかったのである。

 

第4章 見果てぬ夢

1941年日本が太平洋戦争に突入するとで、中国戦線の状況は一変する。日本軍の基本的な思想はこの太平洋戦争においても、殲滅戦略型だった。とにかく南太平洋の英米蘭の陸海軍主力を粉砕すれば、短期和平に持ち込めるという発想だった。緒戦は圧勝だった。しかし、短期間に広範囲な地域を占領できたのは、日本軍が対峙した軍隊が植民地軍主体で、士気が低く、装備も劣っていたからにすぎなかった。しかも緒戦では。日本のビルマ攻略にビルマ独立義勇軍が加わったように、侵攻する日本軍を欧米の植民地支配からの「解放者」として迎え、支援する動きさえ見られた。さらには、緒戦の段階ではまだヨーロッパ戦線を重視していた英米の指導者たちが、アジア戦線に本格的な支援を送っていなかったことも幸いした。つまり、日本軍の快進撃は僥倖に過ぎなかったのである。しかし、日中戦争と同様に、日本の殲滅戦略型戦争は半年で破綻し、物量で勝る英米によって、じりじりと消耗戦略型戦争へと引きずり込まれていった。

この日中戦争の第三期は、それ以前とはいくつかの点で大きな相違がある。一つは、太平洋戦争の開戦によって主戦場が中国戦線と太平洋戦線に分断され、中国戦線での戦闘は一部の時期と地域を除くと対峙状況のみで推移することである。二つには、英米の蒋介石政権への支援が明確となり、中国軍の軍事力が急速に強化されることである。つまり、日本側がそれまで展開してきた殲滅戦略型戦争は、蒋介石の消耗戦略型戦争の前に完全に封殺され、蒋介石側は。持ち前の外交力による日本包囲網の完成と、英米の支援によって近代的兵器で武装し訓練を受けた兵士に象徴される軍事力とで、大きく田戦いを有利に展開することが可能となったのである。三つには、日本が同盟関係を持っていたドイツとイタリアはいずれも連合国の攻勢の前に敗退を続け、次々と降伏し、日本は戦線の後退を続け。戦線が寸断される状態に陥ったことである。そのため、中国戦線から日本軍が次々と南方戦線に抽出された結果、蒋介石政権とは逆に、日本は軍事・産業力も外交力もすべて失って、敗退への道を歩むことになる。

 

第5章 二つのパワー

この章では、日中戦争を二つのパワーという視点から掘り下げる。すなわち、ハードパワーとソフトパワーの相克という視点である。戦争におけるハードパワーとは、軍事力や産業力のことをさす。一方、ソフトパワーとは、直接の武力によらない政治、経済、外交の他、メディアによる宣伝力、国際世論の支持を集めうるような文化的な魅力など、広範な力が含まれる。

この戦争に置き換えれば、日本の殲滅戦略的な戦争はハードパワーの戦い、中国の消耗戦略的な戦争はソフトパワーの戦いということができる。そして、これまでみてきた日中戦争とは、ハードパワーにものをいわせて戦線を拡大してきた日本が、その力を過信して様々なルール違反を犯し、その結果、様々な反動が生じて破綻するまでの過程もあった。ここで重要なのは、そうした野蛮あるいは卑劣な行為を行うことは、短期の殲滅戦においてはさほど勝利に影響を及ぼすことはないかもしれないかもしれないが、地容器の消耗戦になった場合は、確実に自殺行為になるということである。すぐには目に見えなくても、そうした行為が世界に喧伝されて国際社会から反感を買うことのダメージは計り知れないほど大きい。そのとき自国のソフトパワーは大きく後退し、その分相手国のそれが増大してきているのだ。この出入りはとてつもなく大きい。既に多くの欧米諸国では民主主義が少なからず成熟していて、指導者たちは世論を無視して針路を選択することができなくなっていた。そうした状況で国際社会を味方に付けるためには、外交にとどまらない多様な手段で自国をイメージアップするソフトパワーが最早必須となっていたのである。国際社会の中での自国の位置づけを意識することなく、局地的な殲滅戦争に明け暮れていた日本には、そのことが遂に理解できなかった。

1937年の開戦と同時に日本がハードパワー強化のために着々と手を打った。国家総動員体制である。これを日本のみならず植民地にも適用することで、植民地と本国、すべての人的・物的資源を総動員する体制づくりを推し進めた。これによる施策は、植民地・占領地経済を日本の戦争経済に取り込んだという意味では、たしかに日本のハードパワー増大に寄与したが、反面、朝鮮や中国の企業家、民衆の反発を増加させることにもなった。ソフトパワーという観点から見れば。マイナスの結果であったといえる。

日中戦争の特徴の一つに通貨戦がある。蒋介石の国民政府が重慶に退いて以降は、日本占領地と共産党支配地域との間で激しい物資争奪戦層が展開された。いかに自軍に必要な物資を獲得するか、いかに敵が必要な物資を相手に渡さないか、が戦場の雌雄を決する、物資争奪戦の様相を呈してきたのである。しかし物資は通貨を以って購入するわけだから、物資争奪戦はつまるところ、通貨戦という形を撮って現われる。1938年以降は明らかに、そうした消耗戦略的な戦いに中国戦線は変わっていった。日本にとっての通貨戦はまず、国民政府の法定紙幣である「法幣」の駆逐と、日経通貨の強制流通という形で展開された。日本は少なくとも1940年までは国内でのハードパワーの強靭さに支えられて、通貨価値を維持していた。その手段の是非はともかく、こと「モノ」と「カネ」の戦いにおいては日本のハードパワーは、集中力、迅速さなどどれをとっても中国を上回っていた。

では、ハードパワーにおいてこれほど見事な強みを発揮した日本が、結局敗れた原因は何だったのかを改めて考えてみたい。既に繰り返して述べているように、直接には戦場における殲滅戦略戦争の失敗が敗因と考えられるが、その根底には、さらに広い意味でのソフトパワーの欠如があったとみるのが本書の視点である。国内体制のハードパワー強化が円滑に進む中で、最後まで日本がうまくきのうさせられなかったのが、ソフトパワーの象徴とも言うべき外交だった。日本の外交体制がうまく構築できなかったのは、この戦争を殲滅戦略的発想で進めたことが大きな要因となっている。そして、それは、日中戦争に限らず、近代以来の日本がずっと抱えてきた宿痾のようなものだった。本格的な外交交渉力を必要としない短期局地戦争ばかりを戦ってきた結果、外交軽視の体質が生まれ、蒋介石にその欠点を的確に見透かされることになるのである。

日本とは対照的に、国民政府が展開した外交戦は水際立っていた。二歩の殻の生糸・雑貨輸入と、日本への石油・屑鉄輸出で日本の貿易・産業の命脈を握るアメリカに焦点を合わせ、外交ロビー活動を積極的に展開したのである。アメリカが対日貿易制裁に踏み切れば、外貨獲得と戦略物資供給の両方を遮断できて、日本を兵糧攻めで締め上げることが可能となる。それを見越してアメリカに照準を合わせたのだ。そのため、「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じ」という主張をいれて、アメリカを中心に国際宣伝活動を展開した。ジャーナリズムまでも巻き込んだ蒋介石の外交戦は、中国のソフトパワー戦略のまさに白眉であった。言論が戦争の勝敗に与える影響など、当時の日本の戦争指導者たちは一顧だにしなかったであろう。これに対して、当時の日本のジャーナリズムが「大本営発表」をただ垂れ流し、中国を悪とする勧善懲悪の講談のような代物に成り下がって国民の戦意発揚に利用されていた。ただ、戦争におけるソフトパワーという視点でみるならば、外交・宣伝・言論を巧みにリンクさせて国際世論を味方につけた中国に比べ、日本はあまりにも国内ばかりを向いた、日本人にしか共有できない閉じた言論に偏していたように思う。戦時下にメディアを利用しようとしたのは、何も日本だけでなく、と背の国の指導者でも考えることである。ただ、その利用の仕方が、自国弱さを逆手にとった中国のしたたかさとは比べようもないほど、日本は稚拙で独善的であった。もしも日本の戦争指導者が本気でジャーナリズムを戦争に利用するのであれば、全世界の人々が共感しうる普遍的な表現で、中国人がいかに暴虐で、日本の正当な権益がいかに侵されているか、この戦争がいかに日本とって大義名分があるものかについて国際的理解を得られるよう、各メディアに発信させるべきだったのではないか。自らも国際社会の一員であり、そこに向かって自らの行動を説明すべきだという意識の欠如にこそ、日本のソフトパワーの弱さが表われているように思える。

一方、中国には多くの欧米ジャーナリストが訪れ、戦時中の国民党・共産党の活動を日本に紹介した。日本のジャーナリズムと中国のそれとの決定的に異なる点はここにある。例えばエドガー・スノーは、日中戦争を取材し、近代兵器で武装した日本軍の野蛮さと残虐さと、これに対して素手に近い形で民族の存亡をかけた戦いを繰り広げる中国軍の姿を描いた。日本は結局、彼らのような国際ジャーナリストや作家な取材されることはなく、彼らの共感を得ることもなかった。彼我のこの差の理由は、ひとつには日本側が外国人従軍記者やカメラマンの同行には拒否、あるいは消極的な姿勢しか見せなかったのに対し、中国側は敢えて歓迎の意を示したこともあるだろう。しかし、誤解してはならないのは、国際世論の支持を得ようとする中国側が、外国人取材者に対していくら自国を美化し、あるいは買収めいた工作をしたところで、良心あるジャーナリストは決してそれを理由に中国に肩入れはしないということだ。中国側は、まやかしでない真実の自分たちの姿を見せて、辛抱強く外国人記者たちに理解されるのを待ち、彼らが彼ら自身の言葉で書いてくれるための努力を続けたのである。結局、外国人ジャーナリストや作家の多くが中国側に共感したのは、中国の指導者や民衆の戦いがヒューマニズムに強く訴えるものであったからである。人間の尊厳をかけた戦いであるがゆえに彼らは感動し、共感を持ち、それを英語という世界言語で宣伝したのである。それは中国のソフトパワーの強烈さの表われにほかならなかった。

1945年8月、日中戦争は日本の敗北をもって終わりを告げた。当初、得意の殲滅戦略によって一挙に勝敗を決しようとした日本は、消耗戦略で応戦することを戦前から決意していた蒋介石政権の前に所期目的をくじかれ、かつて経験のない消耗戦を戦わざるをえなくなった。しかし、殲滅戦略思想から脱却できない日本は、膠着状態の打開を図って南京に汪兆銘傀儡政権を樹立するなど、外交の名に値しない謀略を展開して国際的な非難を浴びた。また、未経験の長期戦は次第に軍の規律を失わせ、中国人に対して数々の非人道的な行為を働いて、より一層世界から孤立する結果を招いた。

一方、国民政府の蒋介石は、開戦が近づくと彼我の長所と短所を分析したうえで長期消耗戦略を選択した。緒戦は敗退を繰り返したが、その間も、やがて外交・文化という自国の長所を生かして反撃するための布石を怠らなかった。

本書の視点に立てば、日中戦争とは、ハードパワーに絶対の自信を持ちながらソフトパワーを減退させ続けた日本を、ハードパワーでは大きく後れを取りながらも豊かなソフトパワーを生かす戦略をもちいた中国が打ち破った戦いだった。日中戦争の行き詰まりを打開すべく開戦した太平洋戦争でも、日本は同じ過ちを繰り返した。殲滅戦略のもと、アメリカに真珠湾攻撃を仕掛けたものの、先制の利を生かせず苦手な消耗戦に持ち込まれ、にもかかわらず殲滅戦略的な戦争指導に終始し、さらには東南アジア占領地域で暴虐を重ねてソフトパワーを完全に枯渇させ、ついに一国が滅亡しかねないほどの打撃を受けて敗れたのである。

戦後の日本は、そのことを十分に反省しただろうか。すべてを失った日本は驚異的な努力によって復興を遂げ、再びハードパワーを取り戻した。たしかに軍事力による戦いは放棄したものの、今度は産業力によって世界に戦いを挑んだのである。その威力は、近代日本軍に勝るとも劣らないすさまじさだった。典型は自動車産業である。なぜ日本車に人気があるのかといえば、主体が小型車で燃費性能がよく、したがって安い割には性能がよく原油高に強く、そして環境に優しいからである。また日本の国内の産業システムが、精巧で効率よくできていて、よい車を早く安く作る基盤が整備されているからである。つまりは、強いハードパワーを持っているからである。しかし、日本の産業基盤は強靭なのかといえば、決してそうではない。いま戦後の企業経営の問題点をあげれば、まず中期はともなく長期的見通しを持ちにくい。よいものを作れば必ず売れるという信念にも似た思い込みから海外市場のニーズの検討が弱く、その嗜好を反映していないため、機能はともなくデザインや好感度で実力相応の評価が得られにくい。また、日本の伝統的文化と産業力との結合がうまくいっておらず、ブランドがすでに確立した欧米市場はともかく、これから日本製品のシェアを拡大せねばならないBRICS市場でのブランド確立に必ずしも成功していない。韓流の波に乗りBRIICS市場に食い込みをかける韓国と比較すると、日本企業の立ち遅れは明らかである。これらの問題はすべて、戦後の日本がハードパワーまかせの殲滅戦略思考のみで突っ走り、ソフトパワーを重視した消耗戦略的な思考を欠いていた結果であろう。なんのことはない、日本は日中戦争における失敗をまたも繰り返しているのである。日本人は戦前の過ちを繰り返すまいと様々な点を反省し、改善にとりくんできた。その努力は決して否定されるべきでものではない。しかし、ソフトパワーを軽視しがちであるという近代化以来の体質については、いまだに十分な反省が為されていないのではないだろうか。速戦即決、すぐに効果が目に見えることばかりを重視する殲滅戦略的な考え方から、いまだに脱却できてはいないのではないだろうか。

70年前、国の存亡に瀕した中国がとった消耗戦略には、現代の私たちにも大いに見るべきものがある。彼らは決して目先の利を追わず、じっくりと自国の力を蓄えた。そしてソフトパワーの要となる外交では、海外メディアに積極的に情報を公開して、自国への真の理解が生まれるまで辛抱強く情報の発信を続けた。それが結局は、日本を丸呑みするようなとてつもないパワーを生んだのであった。いま日本が抱えている様々な問題は、一点集中は得意だが国際的に孤立しやすいハードパワー体質からくるところが多い。これを改めてソフトパワーを強化するためには、やはり情報の公開と発信が不可欠である。情報の規制は短期的な効率を高めはするが、その状態が続くほど国の外には不信を、内には退廃を生み出して、結局はその国の力を減退させるのである。われわれにはもう、あのときと同じ轍を踏んでいる余裕はない。

 

15年戦争と一括りにして昭和初めの満州事変から太平洋戦争までを一緒くたに見てしまうことが多いため、意外と日中戦争の経過ですら知られていない。新書版ですが、それを丹念に追いかけ、それを知ること以上の読み応えがありました。著者は、近代戦争を殲滅戦(決戦)型と持久戦型の2つのタイプに分けます。それぞれの内容は本書を当たってもらうことにして、日本は殲滅戦型の戦争しか行ってきておらず、日中戦争は持久戦型の戦争となったため、無理に殲滅戦型の戦争を仕掛けようとした日本が自滅したというのです。

日本は、歴史的に四方を海で囲まれ、対外侵略をすることがなく、戦争といっても国内に限られていたことから、兵站の必要性に迫られることなく、周囲の国々との外交調整をしながら戦争を続けるという経験に乏しかったといます。日清・日露戦争は期間も短く、終始列強の力関係などが日本にとって有利に働き、短期決戦で決着がついた。だから、日本の軍隊は個々の戦闘に勝つことが最優先された。だから、個々の兵士の戦闘力が高く、下士官以下の強さは世界有数といえたが、指揮官は広い視野での戦略を考えるということがなく、将官レベルで中国に精通した者が皆無であると、軍隊全体としては猪突猛進しかできない。

それに対して、中国は面積が広く、春秋戦国時代から三国志の時代も、戦闘は広範囲で行われ、遠征距離は長く、兵站や遠征先の住民との関係(占領統治)は戦闘以上に重要で、外交交渉を含めた状況判断が重要になってくる。だから、中国の軍隊は個々の戦闘には弱く、下士官以下の兵隊の能力、モラルが低いが、指揮官は広い視野で全体を見渡しながら戦略的判断ができるという、日本の軍隊と正反対といえる。そこでの戦争は、短期決戦で決着をつけることより、被害を最小限に止めながら、最大限の効果をいかに得るかということが優先される。極端にいえば、勝ち負けよりメリットを優先する。

それゆえ、個々の戦闘では、日本軍が圧倒的な勝利を収めながら、焦土作戦により補給を断たれ、外交面では国際的な孤立に追い込まれて、戦争の長期化とともに日本軍は疲弊していった。結果的に、蒋介石の掌で踊らされたというわけです。

著者の視点が客観的かとうかは分りませんが、この有り様は、何か現代の日本企業の有り様に通じていて、現在の日本企業の苦闘も、同じような要素が強いように思えます。だから、安易な海外進出への警鐘とも読めると思います。

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