クリストファー・モール
「ミュージッキング〜音楽<行為>である」
 

第1章 聴くための場所

第2章 コンサートとは現代的な出来事である

第3章 見知らぬ者同士が出来事を共有する

インターリュード1 身ぶりの言語

第4章 切り離された世界

第5章 うやうやしいお辞儀

第6章 死んだ作曲家たちを呼び起こす

インターリュード2 すべての芸術の母

第7章 総譜とパート譜

第8章 ハーモニー、天国のようなハーモニー

インターリュード3 社会的に構築された意味

第9章 劇場のわざ

第10章 関係を表現する音楽のドラマ

第11章 秩序のヴィジョン

第12章 コンサート・ホールではいったい何が起こっているのか?

ポストリュード

 

多種多様な状況と行為、それに音を有意義に組織させる様々なやり方の全てが、音楽と名付けられている。世界中の人々が満足感を覚え、人生、お金、時間をこれほどまでにつぎ込んでいる音楽とは、一体何なのだろうか?この問いは「音楽の意味とは何か?」と「人間の生における音楽の機能とは何か?」という問いに集約されるが、満足な答えが得られたためしがない。それは、この問いそのものが間違っているからだ。

音楽とはモノではなく人が行う何ものか、すなわち活動なのだ。一見疑いなくそこにあるように見える「音楽」という概念は実は作り物であって、これは音楽を生み出すあらゆる活動や行為の抽象概念でしかない。その証拠に、抽象概念としての「音楽」にじっと自ら目を凝らしてみると、そこにあったはずのリアリティはすぐさま消えてなくなってしまうだろう。もし音楽というモノがないなら、「音楽の意味とは何か?」という問いに答えなどあるわけがない。

西洋音楽を研究する学者たちは、このことを直感的に理解していたらしい、しかし彼らは音楽と呼ぶ行為とその意味に注意を払うのではなく、その部分を静かに削除して、「西洋的伝統の音楽作品群」に音楽の意味をあてがってしまった。これなら少なくとも、実際に抽象概念としての「音楽」があるように見える。そもそも西洋クラシック音楽だけを他の音楽から区別して特権化するのは、甚だ奇怪で矛盾した現象だ。「音楽」という使われ方でも、大学の音楽学部や新聞の音楽批評では、じっさいにそれはクラシック音楽のことを言っている。音楽学者にも様々な意見や立場の違いがあるに決まっているのだが、次のただ一点に関しては、おおよそ議論と疑問の余地のない満場一致が得られるだろう。それは、音楽の本質及びその考え得るあらゆる意味は、音楽作品(「西洋クラシック音楽」の作品を指す)と呼ばれるモノの中に見出されるということだ。音楽作品の「モノ性」の仮定は、当然のことながら、芸術一般における近代哲学の偏見のごく一部に過ぎない。価値があるのは創り上げられた対象それ自体であって、芸術の行為や創造の行為に価値が見出されることはなく、芸術を知覚し芸術に何らかの反応を示すという行為はなおさら無意味と思われている。つまり、「芸術に何らかの意味があるとして、それを知覚する者の意見など関係ない。その意味は全て対象の中に独立して存在する」というわけだ。意味は、さきに作品が生み出されてからこのかたすっと変わらずそこにあって、あたかも理想的な受け手の出現によって発見されるのを待っているかのようである。ここで前提とされているのが、絵画や文学そして彫刻が持っている意味が、不変かつ内在的だというものである。

音楽の意味は、対象化された音楽の中だけに存在する、というこの前提からもいくつかの命題を見出すことができる。

第一の命題は、音楽パフォーマンスとは、孤立して自己充足的な作品が聴き手というゴールに到達するための単なるは媒介でしかなく、創造的な過程に何の寄与もしない、というものだ。音楽に関する文献がパフォーマンスをほとんど扱わないこと、あったとしてもせいぜい作曲家が残したものを従順に音に実現すべき、という限定的意見しかないことからして、この命題が演奏家などの媒介者を、透明であればある程良いと結論付けていると、考えるほかない。さらには、パフォーマンスが作品の不完全な、もしくは近似的な表象に過ぎないという決めつけから、音楽の内なる意味はパフォーマンスでは正しく生じえないのだとまで信じる人たちまでいて、音楽の正しい意味は楽譜を研究することでしか発見されない、ところまで行き着く。したがって、演奏家が音楽的な意味の創造に関わっている、などとはお世辞にも思われていない。

第二の命題は、音楽パフォーマンスとは、作曲家から個人の聴き手に演奏家を介して届けられる、一方的なコミュニケーションである、というものだ。これはほぼ第一の命題の言い換えだが、強調点に違いがある。というのも、ここに至って聴き手の役割は、単に作品を鑑賞することに限られるからだ。かれらの作品を理解して反応しようとするが、音楽活動の意味それ自体には何の貢献もしない。なぜなら音楽の意味とは作曲家の手に完全に委ねられているからである。この命題はまた、音楽とはそもそも個人的な問題なのだということも暗示している。つまり、作曲、演奏、そして聴くことは、社会的な真空で行われるというのだ。その他大勢の聴き手の存在は、よくて無関係、悪くすると音楽作品の演奏に向き合って鑑賞する際の邪魔者でしかない。この時想定される音楽のパフォーマンスは、作曲家から演奏家に向けられた一本の矢印し、演奏家から個々の聴き手に無方多数の矢印というフローチャートに喩えることができる。ただし、このフローチャートではどの矢印も反対の方向を向いていない。それにここには、ある聴き手からまた別の聴き手への矢印もない。つまり、このフローチャート全体に、ただの一つの相互作用も仮定されていないのだ。

第三の命題は、作品に優るパフォーマンスはありえない、ということだ。作品そのものの質は考え得る限り最上級の演奏でしか実現されないから、粗悪な音楽作品が良い演奏を生じされるなどということはありえない。

第四の命題は、各々の音楽作品が自律しているということ、言い換えると、作品はそれらが演奏される状況や儀式、さらには、宗教的、政治的、社会的信念に関わらず存在し、意味を持ちうるということだ。この命題によると、作品はそれ自体に内在する質、カントが「公平無私な黙考」と呼んだところのもののために純粋に存在するということになる。たとえある作品が元は神話や儀礼の実行に不可欠なものとして始まったとしても、現代の聴き手にとっての「音楽としての質」が大切であり、元の信仰などとは縁もゆかりもないということだ。その音楽の質とは何のための質なのだろうかということは、問われることがない。音楽の意味が対象化された音楽に内在するという理念も、そこから導き出されるいくつかの命題も、世界中の人類の音楽実践とは何も関係もない。世界中の大半のミュージシャンは楽譜など必要ともしなければ、作品を後生大事に抱え込むような態度とも無縁で、ただ単純に演奏し、そのなかで創造力を発揮している。

以上のような命題のおかげで、我々は実際の演奏行為の意味を把握できないでいるのだ。しかも、これから明らかにしていくが、このような誤解が演奏家と聴き手の双方に与える影響のために、パフォーマンス経験は、(豊かにされるというよりは)むしろ貧しくされているのだ。というのも、本来パフォーマンスは音楽作品を知らしめるために存在するのではないのであって、むしろ、音楽作品の方がパフォーマーに表現のための素材を提供しているからである。だとすると、音楽パフォーマンスとは、音楽作品及び作品が聴き手個人に与える影響にばかり関心を寄せている人々が考えているよりも、ずっと豊かで複雑な出来事だということになる。もし我々がパフォーマンスを構成するすべての音や人間の関係にまで注意を広げるなら、音楽の根本的な意味が、個人的なものにはとどまらない、社会的なものでもあることが分かるだろう。

音楽の本質とその根本的な意味とは、対象、即ち音楽作品の中にあるのではまったくなく、人々の行為の方にある。人々が音楽的な行為に参入する時に何をしているのか、それを理解することによってのみ、人間の生における音楽の本質と機能を知り得るのだ。この機能が何であれ、私にはある確信がある。第一に、音楽の行為に参入することは私たちが人間であることの重要な部分をなすということだ。第二に、健常な人間なら誰でも温雅の才能に恵まれているということだ。もしこの確信が正しいのならば、ほんの一握りの音楽の才能に恵まれている人々がその他大勢の無能な人々に音楽を聴かせることを可能にしている今日の音楽環境は、虚偽に基づいているということになる。というわけで、この本は音楽についてと言うよりは、人間─つまり、演奏したり、歌ったり、聴いたり、作曲したり、そして踊ったりする人間─についての本である。

ここで、著者はミュージッキング(musicking)という言葉を提出する。これは、音楽する(to music)の動名詞になり、音楽する(to music)とは、どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり、これは演奏することも聴くことも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのための素材を提供すること(つまり作曲)も、ダンスも含まれる。この「音楽する」にはどんな種類の音楽パフォーマンスも含まれるということである。さらに、「音楽する」という同氏は価値判断とは無縁だ、ということだ。これ記述のための言葉であって規範的な言葉ではない。だから価値判断を含まず、すべての音楽パフォーマンスをカバーしている。また、パフォーマーとその他の人々のしていることに区別を設けないことで、ミュージッキングとは、その場にいるすべての人々が巻き込まれて、何らかの責任を分かち持っているのだということを、思い出させる。だとすると、「音楽作品の本質と意味とは何か?」という問いが不十分なことは明らかだ。この問いは近代西欧コンサートの文化的な前提に囚われたもので、ミュージッキングの広がりを考えれば、あまりに視野が狭い。これを「この人々が、いま、ここで、こういうパフォーマンスをすることには、いったいどんな意味があるのだろうか?」と置き換えることができる。

本書の目的は、すべてのミュージッキングを人間の活動として理解するための枠組みを提示すること、すなわち(いかにだけでなく)なぜ、私たちが個人として、社会的・政治的な存在として、これほど複雑な仕方で音楽パフォーマンスに参入するかについての理解を、最終的な目標にしている。音楽の意味が、音楽作品ではなく、音楽パフォーマンス全体の方にあるのなら、我々はその意味の理解に必要な洞察を得るために、どこから始めるべきだろうか?この疑問に対する私の答えはこうだ。ミュージッキングと言う行為は一連の「関係性」のなかで達成されるものであって、行為の意味はそれらいくつもの関係のなかにある。ミュージッキングの意味は、一般に思われているように組織化された音の中だけにではなく、あらゆる立場でパフォーマンスに参加している人々同士の関係の中にも見つけられるはずだ。こうして、パフォーマンスで実現される関係こそが、ミュージッキングへの参加者の思い描く理想の関係のモデルとなり、メタファーとなるだろう。それらは人と人との結びつき、個人と社会との結びつき、人間と自然界、さらには超自然的世界との結びつきについてのものである。これはおそらく人間の生にとって最も重要な問題だろう。そしてこの本はといえば、ミュージッキングを通じてそれらについて学ぶために書かれている。

しかし、パフォーマンスの場で生み出される関係を探り当てるためには、聴くと同時に見なければならない。そこで著者は、音楽パフォーマンスに対する探究がどんなものでありうるかを示すために、西洋音楽文化におけるシンフォニー・コンサートを例として、注意深く検討する。これには三つの理由がある。第一の理由は、読者が何らかの形でシンフォニー・コンサートを経験したことがあるから、読者自身の経験と本書のそれとを比べることが可能であること。第二の理由は、西洋音楽文化シンフォニー・コンサートは、聖なる出来事と言いうるからだ。ここで「聖なる」というのは、その性質が疑問の余地がないほど所与とされていることを指す。第三の理由は著者の個人的な事情とも密接にかかわっている。著者は西洋クラシック音楽の環境の中で育ち、それにもかかわらずコンサート・ホールに体現される社会的な関係に居心地の悪さを感じ続けてきた。この相反する感情を詳しく診察してみることだ。

 

第1章 聴くための場所

近代的なコンサート・ホールの設計には、その細部に至るまで、音楽の演奏、しかも特定のタイプの音楽の演奏に特化したデザインが採用されている。建築家も、建築家にデザインを委託する市民の代表者も、その大半が、そこで行われるシンフォニー・コンサートに参加するタイプの社会集団に属している。コンサート・ホールでの正しい振る舞いに精通したかれらが、その正しい行動を動機付けるようデザインに工夫を凝らすのは、当然のことだ。だが同時に、かれらは、自分たちの想定と異なる振る舞いの可能性の芽を、摘んでいるのだ。

この建築物に関する最も興味深い事柄はつぎの事実に尽きる。ミュージッキングには、これほどまでに壮麗な建物は必要ない、ということだ。たしかにかつてのヨーロッパで演奏が行われていた大聖堂や宮殿は、壮大かつ豪華絢爛だったかもしれない。しかし、これらの建物は音楽の演奏のためだけにあったわけではない。今日のコンサート・ホールが醸し出しているのは、それとは異なる種類の栄光だ。ホールで行われる演奏が、別の儀式や出来事に従属しているのではないということ、演奏と言う活動自体が社会的に重要なのだということを、誇示しているのである。コンサートというひとつの出来事を、演奏と社会的機能を全く持たずに、完全に音楽の演奏のみで成り立つべきだと考える理想を近代的呼ぶならば、その出来事を収容するべく建てられて、その理想を高らかに宣言している建築物もまた、近代の産物に違いない。巨大な特注品としてのコンサート・ホールは、それ自体が19世紀の発明である。

ホール正面の入り口は、圧倒的なまでに豪勢な造りで、この建物に足を踏み入れること自体が、貴重な体験なのだと感じさせられる。入り口からホールまでの間にロビーがあるが、ここは演奏のための空間ではなく、外側の日常世界から内側の演奏の世界に進むための、移行の空間なのだ。単なる移行空間に過ぎないはずのロビーがどうしてここまで巨大で荘重なのか、初めは分らないかもしれない。シンフォニー・コンサートの場合と言う儀式の場合、社交することと演奏を聴くことが完全に切り離されていて、それぞれに別々の場所が用意されている、ロビーはその社交の場として機能している。さらに、ロビーで一息つくことには、我々がこの場にいかに相応しいかということを自分に向けで納得させる、という意味もある。

ロビーへの入場が感動的だとするなら、見事としか言いようのない聴衆席への入場はドラマティックですらある。キラキラした照明がついた高い天井。通路で仕切られた座席の列は緩やかな階段状にせりあがって、その上にバルコニーにも座席が並んでいる。すべての座席が同じ方向を向いていて、その床の傾斜の先に舞台がある。舞台の上にも段があって、そこにある椅子も聴衆の方を、より正しくは舞台中央にある小さな演壇の方を、向いている。演壇の向こう側にある腰の高さほどの机の上には、今夜の最初の曲の総譜が置かれていて、そこに書いてある音楽を演奏する指揮者と演奏家を待っているこの演壇と机こそがこの広い空間の焦点なのだ。

席に客がいっぱいに座れば、演奏中はあちこち動き回ったりせずに、席に着いていなければならない。座席は全て同じ方向を向いているので、話ができるとしても、両隣とせいぜい前後の人といったところ。そう、ロビーが社交の場だとすれば、ここは厳密に観て、聴いて、注意を向ける場所というわけだ。聴衆席というくらいだから、ここは何をおいても、まさに聴くための場所なのだ。事実ここでは、「演奏」は聴くためだけに行われるものと想定されている。近代的なコンサート・ホールは、音楽のパフォーマンスと言うものが一方向のコミュニケーション・システム、つまり作曲家が演奏家を介して聴き手へと伝えられるコミュニケーション、だという想定のもとに建てられている。だから聴衆席は、演奏される音が可能な限り力強く、かつ明瞭に聴き取られるようにデザインされている。すべての配慮が、音の広がり方と聴こえ方のために傾注されている。音楽を聴いている最中、聴衆が別の聴衆に邪魔されないようにするためにも、特別の注意が払われている。聴衆席が傾斜しているは視界に邪魔されないためだし、聴衆の方でも自分たちが着席して静かにしているべきだということを重々承知している。聴衆席は、人々が互いにコミュニケートしにくいようにデザインされているだけではない。聴衆は、ここがもっぱら聴くための場所であって、口答えをするための場所ではないことを、いわば教えられている。演奏だけがただじっと凝視されるスペクタクルなのであって、聴衆はその成り行きに何の貢献もできない。ホールはまた、演奏家と聴き手を堂々と接触させないようにも、デザインされている。実際、ホールは両者を明らかに隔離している。コンサート・ホールが決して出会うことのない二つの集団を収容する場所だということだ。コンサート・ホールの建設技術は音の響きの上で透明性を獲得したが、その透明性は社交性の犠牲のうえに、成り立っているのだ。何を得るにも代償がある、それが技術と言うものである。そして現代のクラシック音楽文化は、この達成には犠牲を払うだけの価値があったと感じているらしい。この巨大な建築物は、次のような特定タイプの関係を劇的に示している。すなわち、まず人々を日常生活から切り離してホールの中に隔離し、次に一部の人々を一つの集団にまとめ上げ、その他の人々を各々孤立させたままにする。そして、全社に支配的な身分を、後者には従属的な身分を割り振る。そうして、一方向のコミュニケーションを促進するのである。この関係は天与のものではないが、かといってそれを生み出した当の人間にもはっきりとは意識されていない。しかし、私の考えでは、この場こそ、そこに参加する人々が抱く理想的な人間同士の関係のモデルが示されている。もちろん、コンサート・ホールという建築物によって具現化される関係は、そこで行われる出来事の意味のすべてではなく、パフォーマンスというとてつもなく複雑な関係の網目の一筋に過ぎない。しかしコンサート・ホールと言う建物自体が、音楽パフォーマンスの場で生み出しうる関係に、箍をはめているのだ。

著者は18世紀ロンドンのプレジャー・ガーデンと比較している。ここでは大広間のようなところで壁の一か所だけがオーケストラ用の天蓋付ステージが取り付けられている。そこでの人々は現代の聴衆のように大人しく座ってはいないで、歩き回ったり、何人かで集まって話したり、単に部屋を横切ったりしている。この建物は、現代のホールのように、社交の空間と音楽を楽しむ空間を分けて隔てていないで、聴衆の方も社交と音楽を聴くことの両方を、同時にこなしている。いかに人々がここで寛いでいたかが分る。そこで奏でられていた音のパターンは、我々が今日のコンサートやレコードで聴くものとほとんど同じはずだ。しかし、経験として何かが違う。良いか悪いかは別として、違うのだ。彼らは自分たちの好きなように演奏を受け取ったし、我々は我々の好きなように演奏を受け取っている。どんな建物とも同じように、コンサート・ホールも社交的な構築物である。社会的存在として望ましいとされる人間行動とその関係の想定のもと、デザインされ建設されている。そうした前提の数々は、ホールと言う特定の建築物で行われることだけに影響を与えるのではない。人間同士の関係され自体の本質にまで、影響を与えるのだ。

 

第2章 コンサートとは現代的な出来事である

シンフォニー・コンサートの現場では、何かが自発的に起こるということは、めったにない。ホールで行われるどんなイヴェントにも、その内外に、綿密な計画と組織が不可欠なのだ。その多くは私たち聴衆には見えないかもしれないが、イヴェントを開催するためには、しっかりとしたインフラ基盤が欠かせない。まず第一に、プログラムの計画とアーティストとの契約が、コンサートの開催に十分先立って行われる必要がある。というのも、近年の実力があるアーティストには世界各地を飛び回るジェット機族も珍しくないから、彼らに仕事を頼もうと思えば、何年も前から契約を結ぶ必要があるのだ。

真に人を惹きつける力を持ったアーティストは、ダイヤモンドのように稀少でランを育てるように難しい。本当の問題はスター不足とは正反対で、それほどまでに溢れんばかりの才能と技能を持つ音楽家、それに見合うだけの有利な仕事を見つけられないという、厳しい現実がある。超絶技巧演奏家と、その労働から利益を得ている人々が、ヴィルトゥオーゾの数を制限することで儲けを手にしてことは、明らかだ。これは、ダイヤモンドやランの価値がその稀少性によって保証されているのと、同じ原理である。「芸術家」や「ヴイルトゥオーゾ」という肩書を持つとは言っても、ある種の資格がその職業的地位を保っているという点、同業者の人数に制限を設けることでサービスの対価を安定させているという点に関しては、ほかのどんな職業とも変わらないのである。

一流のコンサート・ツアーの入り口に辿り着くまでには、いくつものハードルを乗り越えなければならない。コンペティションもその一つだ。コンペティションの数には限りがあるし、勝者の数に限りがある。コンペティションとは、敗者が不可欠なゼロサム・ゲームなのだ。敗者は、奇跡的な幸運にめぐり合わない限り、マイナーなツアーの世界に追いやられる。コンペティションを勝ち抜き若くしてメジャーな世界の仲間入りを果たしたとしても、そこには同じくらいの才能の持ち主が最低でも十人やそこらはいるはずだ。その中で生き残っていこうとするなら、その状態が一生続くことになる。また、コンペティションは、本来的に、極端に競争的な状況下で本領を発揮するアーティストに有利なようにできている。ヴィルトゥオーゾ市場ではメジャー・エージェントの市場操作が働いている。一握りのエージェントが、世界的な有名なオーケストラやオペラ・ハウスを支配するに至っているのだ。これはライブ・パフォーマンスだけでなく、録音や録画の世界でも起こっている。「市場価値」最優先の現代世界の基準からいくと、これも完全にビジネスの手段なのだ。この事実は、コンサート・ホールも市場主義的な世界秩序の一部であり、そこから独立することなど不可能だということを、強烈に印象付ける。現在、コンサート・ホールの世界で人間同士の関係を媒介するのは、金の流れなのだ。

シンフォニー・コンサートで演奏される曲目を、シーズンを通してみると、そこに多くの制限を見つけることができる。これは、第一に、今日の大半のコンサート・アーティストの指先や声帯、そして指揮棒が、比較的少数のレパートリーのためだけにしかスタンバイされていないという現状がある。それに、コンサートで演奏される曲目を決めるのは、音楽を雇っている経営者と言う場合が多い。経営者が求めるのは集客力なのだから、選曲はどうしても保守的にならざるを得ない。第二に、現在十分な集客力があるとされるレパートリー自体が、第一次世界大戦の頃から凍りついたままだという問題がある。その時期以降の作品には、一般聴衆にアピールするだけのものはほとんどない。だから、ヴィルトゥオーソとオーケストラ団員に共有されているレパートに限りかでてくる。第三に、総譜とパート譜が入手できるかどうかの問題がある。定番曲ならば問題はない。これらすべては、一つ一つのコンサートで誰が何を演奏するのかということが、いくつもの交渉の結果だということ、そして、そこで実際にお金を払ってコンサートを聴きに行く人々の意見が反映される余地がほとんどないということを意味している。

パブリシティにも疑問点がある。潜在的な聴衆は、コンサートの曲目や出演者のことさえ知らされていれば良いのではない。コンサートに行きたいと思わせなければならないのだ。この点では、コンサート・ホールにしてもオーケストラにしても、他のどんなビジネスと変わりはない。そして、どんな商売にも商品があるように、オーケストラには演奏と言う商品がある。重要なのは、とにかく座席を埋めることなのだ。コンサート・ホールとオーケストラが聴衆との間にとりもつ関係は、生産者と消費者のそれにすぎない。だから、あらゆる生産者と同じく、消費者が好むと思われるものを生産する。そして、他のどんな商品とも同じく、宣伝とマーケティングの技術を駆使して、できる限り消費者の好みを操作しようとする。音楽家もその演奏も、現代社会の商業的な営みから逃れられないという印象を、その意味ではポピュラー音楽とも、香水とも変わらないという印象を強く受ける。その一方でクラシック音楽の世界には、演奏家は音楽への純粋な愛のために演奏しているのであって、(ロック。ミュージシャンなどとは反対に)世俗的な名声や金もうけなど目指していない、という見せかけがある。この矛盾に、偽善的な匂いを嗅ぎ取る人もいるかもしれない。

現代コンサート界の重要なお目付け役が、批評家である。批評家と言う職業が出現したのは19世紀の゜ことで、これは、人々が入場料を払ってコンサートを聴きに行くコンサート・ホールの発展と、公共の場でのパフォーマンスがアマチュアからプロのミュージシャンに取って代わられるようになったのと、機を一にしている。パブリックな場で音楽制作に積極的に参加するアマチュア音楽家が減少するにつれて、多くの人々とは自らの音楽的鑑賞眼に自信を失っていたのである。今日では、あまりにも多くのヴィルトゥオーゾも作曲家、オーケストラ、指揮者が世間の注目をひきつけようと、競ってパフォーマンスと言う商品を提供している。だから人々が、何が良くて何が悪いのか、何が目下流行中で何が時代遅れなのか、つまりは何を買うべきなのか、を教えてくれる「お買い物ガイド」を必要とするのも当然だ。それなしには、選択の権利に自信をもてなくなってしまう。しかし、ここで我々が思い出さなければならないのは、人々が音楽パフォーマンスに十全に参加するところでは、もしくは、ミュージッキングがもっと大きな社会的、宗教的、政治的儀礼の一部である場合は、批評など全く必要ないということだ。

音楽が一音も鳴らないうちから、コンサート・ホールという建物と組織のあり方は、すでにある一連の関係、つまり建物の外側にある産業社会の関係の小宇宙、を創りだしている。すでに見たように、コンサート・ホールにおけるすべての関係は、金のやり取りによって媒介されている。簡単に言えば、入場料を払いさえすれば誰でも入場してその出来事に参加できるが、入場料を払わなければそれができない。また、そこで代金を受け取る人々だけがその重要な出来事を実現させられるのであって、代金を支払う側はその資格をもたない。もちろん、このこと自体は私たちの社会と変わるところがないから、何ら特筆すべきところはない。だが注目すべきは、そこに払われる膨大な労力、経営管理と会計処理の機能を覆い隠さんとする労力であり、この魔法の世界を実現する巨大な建物の中では誰も報酬を受け取っていないかのように見せかけ、すべてが自然に起こっているかのようなイリュージョンを創り出さんとする労力である。演奏家の出演料は聴衆には全く関わりないことだし、実際、指揮者やソリストともなれば、ギャラの金額を知ることは極端に難しい。

もし、シンフォニー・コンサートという崇高なセレモニーと、産業社会の実際的な価値観との結びつきがこじつけのように見えるだとすれば、次のように考えてみてほしい。他に先駆けて産業化を果たした欧米諸国以外の国でも西洋クラシック音楽スタイルのミュージッキングが採用される場合があるが、それはしばしば、産業社会の哲学とそれに基づく社会関係への転換が実現し内面化されたことを示す初期のシグナルでもある。産業社会的な人間同士の関係が伝統的なそれに取って代わり、産業から生み出された富によって裕福な中産階級が発達すると、主要都市ではプロのシンフォニー・オーケストラとその演奏拠点(パフォーミング・アーツ・センター)も発達する。伝統社会の音楽文化とは違って、西洋のクラシックの音楽学校は万人に開かれているから、神童ヴィルトゥオーゾ(彼らはたいてい新興の富裕中産層の子供だ)が、旧い音楽文化の聴衆に衝撃を与えるようになるだろう。そこでは、彼らと西洋クラシック音楽文化との新鮮な出会いが反映させられているかのような斬新なアプローチが、見せつけられるのかもしれない。だが、それと同時に進む別の動きもある。西洋スタイルのポピュラー音楽が、クラシック音楽とは別の関係の理念とアイデンティティを探求し、確認し、祝うというのがそれで、産業社会のプロレタリアートが神鋼中産階級的なミュージッキングから自分たちを切り離そうとするのが、その典型的な動きである。低く見られがちなこの種の音楽は、国家の正当性から顧みられない分、ミュージッキングの伝統の重要な要素を吸収できる。先進国の文化に肩を並べたいと切望している新興の中産階級は、この種の音楽を口先でほめることはあっても、基本的には軽蔑している。当然のことだが、このような状況は、シンフォニー・オーケストラとコンサート・ホールが富裕な社会でしか維持できないくらいに費用がかかる、という事実と関係がある。ここでいう富裕な社会とは、世界の産業化によって富がもたらされている社会のことだ。だが、西洋のコンサート文化を打ち立てるには、経済的な余裕以上の何か、つまり、富を他のタイプのミュージッキングや音楽に無関係な事柄に使うのではなく、他ならぬクラシックのコンサートのために使うのだ、という欲望と意志とが必要なはずだ。この欲望と意志は、産業的発展を背後から支えている、ある哲学とも関係しているに違いない。

下巻財のシンフォニー・コンサートは、そこで演奏される作品が初演された頃とは、かなり異なったものになっているということだ。だから、現在のコンサート・ホールをディズニーランドを原型とする現代的なテーマパークに喩えたところで、まったく見当違いなことではないだろう。どちらにも、人工的な環境を創り出すための最新の技術がさりげなく注ぎ込まれている。そして、そこを訪れる消費者は、彼らの体験が遥か昔から当然ものとして行われてきたことの再現なのだと思い込まされる。さらにそこでは、汚物や悪臭が排除されているが、それがかえって本物らしさを増している。どちらも徹底して、現代的な世界の関係を祝うという、現代的な出来事に他ならない。いま私たちがコンサート・ホールで耳にするのは、過去の理想的な関係の再現だ。だが、それは過去に存在した関係そのものではない。そんなことはいずれ不可能なことだ。我々が経験するのは、今夜のパフォーマンスに関わる人々が理想的だと感じられるように、現代的にアレンジされた関係である。そして、めったに語られないことだが、その再現には、現代的なテクノロジーによって創り出される別の関係も、重要な役割を果たしている。

 

第3章 見知らぬ者同士が出来事を共有する

我々が観に行くのが演劇であれ、映画であれ、ミュージカル、オペラ、シンフォニー・コンサート、スポーツ等々の何であれ、パフォーマーは当然のこと、聴衆や観衆のほとんどが見知らぬ人たちだということを、我々は意識しないままに受け入れている。我々は、一度も会ったことのない人々、声をかけたり挨拶することもないだろう人たち、このさき二度と会うことはないだろう人たちと一緒に居ながらにして、笑ったり、泣いたり、身震いしたり、興奮したり、自分という存在について深く考えさせられるほどに感動するだけの準備が出来ているのだ。しかし、我々にとってはいかにも当然だと思えることも、人類の歴史からすればかなり例外的なことではある。たとえば村落社会の場合では、演奏家と聴衆というのは同じ共同体のメンバーとして知り合った者同士である。同じことは、古代アテネから18世紀ウィーンに至るまでの小規模都市にも当てはまる。

村落社会の演奏家は、誕生、結婚、死その他の人生の重要な出来事の神話を祝う営み、つまり共同体の儀礼において、中心的な役割を果たしていた。彼らは、そのために社会的に必要とされていたのだ。そうした儀礼では誰もが歌ったり踊ったりするのだから、演奏家とか聴き手とかいう区別は、そもそもはっきりしたものではなかった。音楽のパフォーマンスとは、我々が儀礼と呼ぶ、より大規模でドラマティックな活動の一部だったのである。そうした儀礼では、共同体のメンバー自身が互いの関係と相互的な責任を直に演じてみせた。そうすることで、共同体全体のアイデンティティを確認し、祝った。

同じような例は、西洋の貴族社会にも見出せる。貴族社会でも、ミュージッキングは社会的儀礼の一部をなしていて、その儀礼はかれらの世界観を維持するのに不可欠だった。彼らの社会では、音楽は聴くものであると同時に演奏するものであったし、貴族が音楽家を雇ったのは、音楽家の演奏を聴くためだけではなく、演奏を教わるためでもあった。また、中世からルネッサンスにかけてのキリスト教会と同様、貴族社会の音楽も、共同体が行う神への捧げものだった。聖歌隊は会衆に向かってではなく、会衆に成り代わって歌ったのであり、会衆はそれに「アーメン」と賛成を表したのだ。もちろん今日でも、会衆全員が歌うときに聴衆など必要ない。そうした形式のミュージッキングでは、入場料など発生しようがない。

今夜のシンフォニー・コンサートに集まった人々は互いによそ者同士だが、彼らはコンサートが終わるまでずっとそのままだろう。友人同士で訪れたとしても、いったん演奏が始まれば、座席に座って身じろぎもせず、互いにアイコンタクトを交わすことさえ避けて、一人ひとり極めて個人的に体験するというわけだ。どんな種類のパフォーマンスであれ、そこに集う人々はたった一人の個人として、孤立した状態で演奏を経験するのだし、そうすることも期待している。彼らはよそ者同士かもしれないが、見方によっては、まったくそうとも言えない側面がある。どんな音楽イヴェントの参加者も、自分が何者でどうありたいのかという感覚に基づく、ある種の自己選択をしているわけだが、シンフォニー・コンサートも例外ではない。複数の産業国家で行われてきた調査結果の多くは、シンフォニー・コンサートの聴衆の圧倒的多数が中産階級と上流階級で占められていることを示している。少々大雑把にいうと、彼らは会社員、経営者、専門職、行政関連などの仕事に就いているか、その予備軍である。これは、どんな種類の音楽イヴェントとも同じく、コンサート・ホールの聴衆の間にも、どこか基本的な類似点があるのではないかと言いたいからだ。つま、彼らが一緒に寛いでいられるのは、お互いが期待通りに振る舞うだろうと予期できるからなのだ。コンサート・ホールにいる聴衆は、時間通りに入場しなければならないこと、もし遅れればホールから閉め出されること、演奏中は静かにしていなければならないことを、誰もが当然視していると分っている。彼らは、ホールのスタッフに丁寧に、かつ敬意を払って扱われることを期待している。期待される振る舞いはそれにとどまらない。

聴衆は。全員で音楽体験を共有しているにも関わらず、何にもまして、互いのプライバシーの遵守を期待している。演奏の最中に聴き手が一人きりになることは、音楽作品を十分に楽しみ理解するのに必要な条件だからだ。彼らがコンサートの場で社交をしないというのではない。それは、開演前や休憩時間にロビーで起こることであって、聴衆席に入り込む余地はない。コンサートという出来事は社交と聴取に切り離されていて、音楽作品の体験は、最優先されるべく他の活動から隔離されているのだ。

オーケストラと聴衆も互いに見知らぬ者同士で、知り合う機会などない。これは、彼らが、別々のドアを使ってホールに出入りし、コンサートの間中別々の空間にいることからも分る。このことはオーケストラと聴衆の双方に、むしろ安心感を与えているらしい。彼らは互いに親しい関係になりたいわけでもないし、棲み分けは明らかに重宝されている。その一方で、聴衆は静かに着席してオーケストラの演奏を受け取ることしか期待されておらず、唯一の許された反応は演奏直後の拍手だけだ。あまりに演奏が気に入らなければブーイングすることもできるが、それはかなり極端なケースに限られている。演奏の最中であれば、目に見えるか耳に入るような目立った反応は、それが賞賛であれ非難であれ、してはならないことらなっている。つまり、コンサート・ホールは、私たちに明確で矛盾のないある一連の関係をみせてくれているのだ。聴衆一人ひとりの自律性とプライバシーの尊重、非人間的な礼儀正しさとグッド・マナーの当然視、親しみやすさの拒絶、上演中は演奏家も演奏も聴衆の反応の対象とならないこと。シンフォニー・コンサートに足を運ぶ人の大半は自発的にそうしているのだから、聴衆は押しなべてこの関係をたのしんでいるということなのだろう。従って、この関係がコンサート・ホールに集まる人々の心の中で、ある種の理想として思い描かれていると言ったところで、こじつけにならないはずだ。

シンフォニー・コンサートにおける聴衆の沈黙と明らかに受け身的な姿勢は、歴史的には極めて新しい習慣なのだ。第一章で紹介した18世紀のラネラーの円形劇場は例外ではない。現代のシンフォニー・コンサートでの演奏を迎える沈黙は特徴的ですらあり、そこで聴衆は、自分以外の観客が立てるノイズで邪魔されることなく、演奏を通じて作曲家と完璧なコミュニケーションを達成することができる。その一方で、我々の注意は、いくら研ぎ澄まされているとしても、パフォーマンスからは切り離されている。我々はもはや、自分がパフォーマンスの一部だとは感じていない。あたかも、その外側にいるかのようにして聴いているのだ。我々が立てるノイズは、パフォーマンスの構成要素にはなり得ず、雑音はうるさくて邪魔な存在でしかなくなった。となると「コンサートにいる我々」は、参加者というよりもむしろ傍観者に近い。演奏中の静寂は、自分たちのためにアレンジされた見世物をじっと見つめるだけで、パフォーマンス自体には何の貢献もできないということを物語っている。さらには、その見世物は我々のものではないし、我々とその見世物製作者(作曲家、オーケストラ、指揮者、裏方の人たち)との間にある関係は、消費者と生産者の間にある関係と同じものであると言うことができる。我々にできることは、普通の消費者と同じで、買うか買わないかを決めることだけなのだ。

これは、現代でも、ロック・フェスティバルでの参加者の振る舞いとは大きく違う。しかし、ロック・フェスティバルにも、正しい振る舞い方と間違った振る舞い方、正しい服装と間違った服装、正しい話し方と間違った話し方、そして他人やパフォーマンスに対する正しい反応と間違った反応があった。もしロック・フェスに、シンフォニー・コンサートに出かけるような格好で現れ、シンフォニー・コンサートでそうするように振る舞ったとしたら、嘲笑の的になったか敵意を向けられたのどちらかだったろう。こうした振る舞いの規範の規範は根付き確立されている。このような規範が窮屈でなく自由に感じられたのは、そこで理想的な社会関係を表現した人々によって、その規範が軽やかだったということに他ならない。シンフォニー・コンサートを含むどんな音楽パフォーマンスでも、服装を含めたあらゆる行動において、同じことが言える。特定のイヴェントを楽しむということは、その場にいる人々の不めまいが、押し付けではなく、自然で普通なものに感じられているということなのだ。そして、その音楽パフォーマンスの最中は、かれらが日常生活で出会いたいと思うような社会関係が、メタリックな形で表現されているのだ。シンフォニー・コンサートや祖股のクラシック音楽の演奏で確立される関係は、あたかも、我々の社会の表向きの関係を反映しているかのようである。少なくとも、その場に参加することは、社会や政治的な規範を提供し、それを実行しようとする権威の側からすると、完全に模範的な活動といえる。すでに示唆したように、我々はそこで中産階級で善しとされるマナーに従って振る舞い、逸脱しないように上品ぶっているのだ。

音楽する時我々がどんなふうに互いに関わり合うかは、そのパフォーマンスが創り出す音の関係や、ミュージッキングへのむ参加者同士の関係だけに関連するのではない。それは、ミュージッキングに参加する我々が、パフォーマンス空間の外の世界とどう関わるのか、ということにも関連している。この諸関係の複雑な螺旋、即ち関係と関係の結びつき、こそが、パフォーマンスの本当の意味なのだ。

 

インターリュード1 身ぶりの言語

ここまで、ミュージッキングのことのことを、我々が理想とする世界の結びつきを生み出す活動なのではないかという仮説を、そしてミュージッキングを通じて我々がしていることは、それらの結びつきを学んで探求し、我々自身を含むそこに注意を払う全ての人に対してその結びつきを確認し、我々がその全体を祝うことなのではないか、と言う仮説を立てた。もしこの仮説が正しいのなら、ミュージッキングとはまさに我々が住むこの世界について知るための、ひとつの方法だということになる。(もちろん、ここでいう「世界」とは、人間の経験から切り離され、近代科学によって知り得るとされる、あらかじめ出来上がった物理的な世界のことではなく、関係性の複雑な網目からなる経験的な世界のことだ)そして、これを知ることによってこそ、我々はこの世界でよりよく生きることを学習するのだ。

このような考えのきっかけは、グレゴリー・ベイトソンの科学的で客観的な世界の知り方と、(一見その対極にある)人間の倫理や価値、神についての知識を統合するような「ものの知り方」を進化させることに努めた。この「ものの知り方」が目指すのは、科学的知識がそうするように世界を支配することではなく、よりよく生きるということに尽きる。ベイトソンの根本的な直観の一つはデカルト的な二元論として知られる世界観、世界が分割可能で、質量、次元、空間的位置づけのある物質と、分割不可能で、質量、次元、空間的位置づけのない精神/心という、互いに相容れない二つの異なる実体から成り立つとする世界観も否定だった。このデカルト的な分離した宇宙で、物質と精神とがどのように互いに振る舞い合うかは、デカルト依頼解決不能な問題として、人間を引き裂かれた存在にしてしまった。一方には、空間的な広がりがあって、物理学的、化学的法則に従属する有形の身体があり、他方には、身体の内側にはあるけれど、姿かたちがないからその一部とも言えない、どんな科学的法則にも従属していない無形の心がある、という生き物に。このようなデカルトが西洋的な思考に残した遺産は、心の動きに身体が何の影響も及ぼさないと言う仮定である。身体の働きは、せいぜい感覚器官を通じて情報を感知するくらいのものとされている。この前提に従うと、知識とはそれが誰の知識かに関わらず「そこにある」のであり、誰にも知られていなかった時から誰もが忘れ去ってしまった後まで、ずっと「そこにある」、ということになる。同じことが理性的判断についても言える。その判断を行うのが誰であれ、いくつもの前提が絶対的な結論を導くというわれだ。だが、心の働きが身体から独立しているというこの考え方がここまで広く普及しているのは、本当に意味することが理解されていないからに他ならない。いわば、全く吟味されないままの仮説でしかないのだ。

ベイトソンは、これに対して、我々が心の動きとして感知する如何なる現象も、あらゆるすべての生き物にそなわった昨日の一部分なのだと捉えた。彼は心のことを、極めてシンプルに情報をやりとりする能力と定義する。そして、我々が生きると呼ぶパターンが組織化されるところでは、どこにでもこれと同じ特徴が見出せるのだという。彼は、生き物の世界は心の過程に満たされていて、生命があるところには必ず心があるというのだ。例えば、植物というものが、光の強さや持続時間の変化、気温の変化、近くにある別の植物の存在といった周囲の環境の情報に単に反応するだけでなく、その植物自体も、色や育ち具合、開花の状態によって周囲に情報を与えることで、自らの成長と再生産に好ましいように環境を変化させる、ということに驚いたことがあるはずだ。さらには、植物、微生物、虫、その他の動物、そして人間との間の限りなく複雑に見える相互作用は、生物圏そのものが、我々が心と呼ぶものにベイトソンが与えた定義、情報をやりとりする巨大で入り組んだネットワーク、と一致することを示唆する。環境と関わり合う心とは、「そこにある」情報を単に受動的に受け取るだけでなく、環境と斬り結ぼうとする能動的な過程なのである。生物とは、環境によって形作られるのと同じくらいに環境を作り出す、と言うこともできるかもしれない。

我々一人ひとりの心、つまり一個の生命全体の中にある情報をやり取りする一連の過程は、それ自体としては単純でも複雑でもあり得るが、それが同時に、更に大きくて複雑なネットワークを構成している。ベイトソンは、この巨大なネットワークを「結び合わせるパターン」と呼んだ。このバターンを一つにまとめ上げているもの、つまり有機体がその外部たる世界と絶え間なく相互作用することで有機体の境界内に世界を存在させるものこそ、情報のやり取りなのである。心には、内側へと向かう通路だけでなく、外へと向かってのびる通路もあるということだ。

そこで次に、「生きた世界をつなぎ合わせる情報は、どんな形をとるのだろうか?」という疑問が現れる。それに対してベイトソンが提示する答えは次のようなものである。生き物によってやりとりされる情報とは、背景とそこから際立つ対象物のような静的な違いであれ、時間とともに変わる動的な変化であれ、生き物が感知できるような「差異を伝える知らせ」以外にはない。差異とは、背景から際立った形や色、ある配色の仕方、特定の動きやそのパターン、姿勢、化学的作用、音として知覚できる衝撃波のパターンを形作るのに十分大きな気圧や水圧の変化などのことをいう。期待されるところで差異が生じないこと、期待される出来事が起こらないことも情報源になりうる。感覚器官によって拾い上げられるそれらの差異は、それだけでは経験とは呼べない。それらは神経系で処理されるまでは、受け手によって意味を持たないからだ。差異の効果、すなわち我々が知覚としてまさに経験するものとは、その物理的な差異が生み出したものが変換されたものか、もしくはコード化されたもののひとつのヴァージョンなのだ。

それでは、こうした多様な感覚的刺激を一つの経験やイメージ形成に結合するメカニズムがいかなるものであれ、この過程は提示された刺激を受動的に受け取るようなものではなく、能動的な過程だということだ。そうした能動性が、生きた世界の隅々にいたるまで、様々な形で存在するのに違いない。生物であれば刺激、即ち差異の知らせに働きかけて、そこから意味を創り出す。例えば、アメーバのような単細胞生物でさえ、その生命源となる生き物が近づいてそれを呑み込むためには、獲物が棲み込む一滴の水と言う存在の現れに、我々の言う「意味」に似た何かを見出す必要がある。どんな生き物も、情報に対する準備が出来ていない限り、いかなる差異も情報として受け取ることはできないし、ましてやそれを変換することなど不可能だ。情報の受け手は、メッセージが意味を持つように文脈を能動的に創り出すのだ。そして、文脈なしにはどんなコミュニケーションもあり得ないし、意味もまたない。

情報がいかに処理されるかは、識別者の遺伝的な性質と過去の経験の両方に左右される。生物としての程度が上がれば上がるほど、過去の経験が情報処理の過程に、より多く入り込んでくる。個体同士の経験が異なってくるから、各々の個体は同じ刺激に対しても違ったふうに行為したり反応したりするのだ。また、イヌやヒトのような高等な生物は、同一の個体であっても、その時々で同じ刺激に対して別様に反応するだろう。情報処理のなされ方が周期的に変わることを我々は気分と呼ぶが、逆に、経験と知識の成長のために起こる、もっと長期的で一般的な不可逆な変化というものもある。もし、会部の世界についての知識が刺激の変換という能動的なけっかだとするなら、世界とは、個体の外部にあるモノや対象の性質からのみ成り立つのではない。なぜなら、世界は、刺激を受け取る側が刺激を変換する、そのやり方によっても成り立っているからだ。だから、知識というのは、対象についての知識に違いないのだけれど、それと同じくらいに、対象について知っている者の所産でもある。知識とは、知る者と対象との間に結ばれる関係だと捉えるのが、最も正しいのだ。だとすると、この世に個体の外部にしか存在しない、完全に客観的な知識などというものはありえないことになる。だとすると、この世に個体の外部しか存在しない、完全に客観的な知識などというものはありえないことになる。なぜなら、我々が知り得るすべての事柄は、我々(=知る者)が「情報」を受け取ってそれを利用可能な「知識」に変換するという方法自体に媒介されているからだ。我々人間が近づき得る最も「客観的」な知識とは、おそらく、全人類に共通する身体的な経験に根ざした知識だろう。ここで我々は、世界についての人間の知識の中でも、デカルト自身を含むヨーロッパの哲学者たちが共通しの土台にしていた主観という還元不可能な要素こそが、挫折の原因なのではないかということを発見する。しかし、ベイトソンは、人間は世界についての知識に対して完全に客観的にではあり得ない、だからといって我々が完全に主観的で、世界の何事にも確信を持てないと結論づけてはいない。「純粋に客観的であること」と「純粋に主観的であること」の間には大きな隔たりがある。そしてその空間にこそ、人間の自由と創造性が息づいているのだ。いずれにせよ、人間を含むどんな生き物も、世界の全てを知り尽くす必要などない。よりよく行きたいと願う者は、その支配を企てる者とは反対に、世の中には我々が知り得ないこと、また知る必要のないことがあるのだという考え方に甘んじていられる。知り得る事柄をすべて知り尽くした生き物は、知識の牢獄に完全に閉じ込められてしまい、ユーモアの感覚はもちろん、創造的に活動する余地を奪われてしまっているかもしれないのだ。

「結び合わせるパターン」を作り出す情報とは本来的に物理的なものだ。我々が相手にしているのは、知覚の受容体、物質的な感覚器官、そして生物の処理器官が受け取る情報の処理だけである。現代の神経学が明らかにしつつあるように、心の内側にあるとおぼしき経路は本来的に物質的なものであって、それらは、いかに素晴らしく柔軟でどんな状況にも適応できるとしても、物理的な構造として存在する。つまりコミュニケーションとは、心の外部へと続く物理的な経路なのだ。生き物同士の間にあるコミュニケーションのチャンネルとそこでやり取りされる情報の処理は、物質的な過程であり、その差異の知らせを受け取るためには、たとえ未発達であるにせよ物質的な感覚器官が必要となる。

次に浮上する問い、すべての生き物が与えることができ、反応することができなければならないという情報は、一体どんな情報で、そこにはどんな意味があるのか?だ。これに対して、ベイトソンは、コミュニケーションの手段は極めて多様だが、一個の有機体が知らなければならないのは、常に関係についての情報である。例えば「あれは捕食者だろうか?」「獲物だろうか?」「潜在的な求愛者だろうか?」といったものだ。その情報によって、逃げるべきか、攻撃すべきか、求愛すべきか等が決定される。これらに正しい判断を下せることが、どんな生き物にとっても最重要な事柄だということは、言うまでもない。だが、「関係についての知識」は、相対的でしかありえない。ある生き物にとっての求愛の対象は、別の生き物にとっては獲物かもしれないし、また別の生き物にとっては捕食者でもありうる。「求愛者」「子孫」「獲物」「捕食者」というのは生き物の本質ではなく、他者との関係の本質なのだ。知覚する世界が無生物のそれであっても、同じことだ。つまり、生物が外の世界から受け取る最重要の情報とは、常に関係についての情報なのだ。単純な生き物であれば、生存に関わる関係は身の回りの環境にしかないのだから、その外側についての情報を得る必要はない。例えばアメーバにしてみれば、一粒の水滴に必要な情報のすべてが含まれている。より高度で複座な動物になると、関係の範囲がぐっと広く総合的になるし、自分と他者(それに事物)とがどうつながるか、というパターンの理解の仕方が複雑になる。人間の心ともなると、宇宙の全ての関係を包み込むほどの能力、つまりそれらを「結び合わせるパターン」として理解するだけの能力があるかのように見える。

生物としての複雑性が増せば増すほど、関係を表現する身ぶりとそれに対する反応の可能性は、ますます多様で複雑になる。しかし、関係を表現する身ぶりには、その見かけの多用さに関わらず、ある共通した特徴がある。身ぶりには、誰、そして何について言及しているのかが示されない。なぜなら関係の向かう先、即ち関係されるもの、が所与とされているからだ。身ぶりの言語というのは、私とあなたの関係しか表明されず、工程のみが示される、「いま─ここ」のコミュニケーションなのだ。ベイトソンは、関係についてのメッセージが単にやり取りされるだけでは、コミュニケーションは十分に成立しないと指摘する。メッセージを十全に理解するためには、受け取る側の生物が、メッセージの文脈を知る必要があるのだ。ベイトソンはこのようなメッセージについてのメッセージを、メタメッセージと呼んだ。メタメッセージは、芸術や遊びのように、生存価を持たないにも関わらず全人類が最大級の真剣さで実践している活動を理解するのに不可欠である。我々の誰もがこうしたメタメッセージのやりとりと学習に慣れっこになっているが、それは、メタメッセージの認識が他者の行動を解釈する強力な方法だからである。

身ぶりによる言語やメタメッセージと対照的なのが、ヒトに独自に発達したコトバである。コトバは我々に、現にそこにはないものや人について言及したりコミュニケートすることを可能にし、過去や未来、さらにはある出来事や関係を仮定したり想像したりして、あることが「起こる/起こった/起こるかもしれない/起こらなかったら…」などと議論することまでをも可能にした。しかし、生物学的なコミュニケーションに属する身ぶりの言語とは異なり、コトバはものごとについて時系列に沿ってしか表現できないし、かつ一度に一つの事柄しか表現することができない。ここには強みと弱みとがある、コトバが可能にした分析的な能力、段階的な論理、ものごとを計算する能力は、我々人間が、この物理的な世界で支配力を発揮するには欠かせないものだ。しかしコトバには、我々人間同士や人間と世界との出会いにおける、いくつもの非常に複雑な関係を同時に表現したり処理したりする場合にも全く間に合わないという欠点がある。コトバの第二の限界は、我々に世界の諸相がどのように見えるかをコトバで記述しようとしても、そこに空白地帯が残ることである。世界は連続しているのにコトバは不連続なのである。関係もまた連続的であり、自らを一度に一つだけの記述に売り渡すことはできない。我々は世界の結びつきの複雑さのすべてを引き受けて、統一的に理解しなければならないのだが、ここにこそコトバの本当の限界が待ち受けている。一度に一つだけの記述は、関係の多層的で流動的な性質を取り扱うには、時間がかかりすぎるし嵩張りすぎる。関係をコトバで表現しようとする時、我々は記述と現実との間にある落とし穴にはまり込まずにはいられないのだ。

反対に、生物学的なコミュニケーションであり身ぶりの言語は、関係と同じく積極的で、関係の表現にもずっと適している。身ぶりの言語には、語彙もなければ意味の単位もないし、継ぎ目も隙間もない。単語や数字のような量的な何かについてのものではなく、かたち、様式、手触り、すなわちパターン、についての表現なのだ。そしてもちろんパターンは関係によって作り上げられている。ここから、コトバと身ぶりによる言語の、もう一つの違いに気づくことができる。前者ではコトバの音と意味の関係が恣意的なのに対して、後者はそうでないか、すくなくとも完全には恣意的でない。しかし身ぶりの場合、その形やパターンとそこに表現される意味との関連は、恣意的ではない。多くの身ぶりは類像的で、身ぶりそのものの像を意味として運ぶ。たとえば、我々が右手を差し出して握手を求めるしぐさは、その手に武器がないことを示している。この種のコミュニケーションで何かを意味するには、常に何かの関係や関係の情報が利用されている(これが隠喩と呼ばれる過程だ)。そして、身ぶりと意味とは、少なくともある程度までは、互いに類似している。しかし、この類似もある程度までで、身ぶりの言語にも恣意性、もしくは代案的な表示の余地はある。少なくとも高等な生物に関しては、ある身ぶりが多様な関係を一度に意味することもあるし、その反対に、ひとつの関係が多様な身ぶりで表現されることもある。人間は絶え間なく、既存の身ぶりに新たな意味を吹き込み、既存の意味のために新しい身ぶりを発明し続けているが、ここには非決定性、選択制、恣意性が働いていて、それが創造的な発展と綿密な創出の余地を保証しているのだ。事実、コトバにも身ぶりによる言語にも、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフイエ)の完璧な対応関係があるわけではない。意味は、隠喩の力を通して、絶え間なく新たな意味へと滑り込み続ける。そのため、一対一の安定した関係を築こうとする試みは、常に失敗する運命にある。

全体的に言って、人間は数よりもパターンに、量よりも関係に敏感に生き物だ。我々がメタファーでものを考えるのは、この辺りに理由がある。すべての生き物にとって最重要の関心事が環境との関係だという事実は、当然人間にも当てはまる。実際、我々は、自分たちのことを他者とのつながりの中で定義しているのだし、自分が何者かということは、自分がどう他者と関わっているのか、ということに他ならない。他者との関係がないところにアイデンティティなど存在しないし、完全に孤立して、誰とも関係を持たない人間は、アイデンティティをもちえない。我々が普通の生活を送っていて、コシバと記述の間にある隙間が問題になることはない。というのも、どんな間に合わせの表現方法でも、我々にはその溝を埋めるのに十分な共通の経験があるからだ。だからたとえば、小石というモノのイメージを呼び起こすには、「小石」という単語で十分だ。仮に、「小石」という発語が我々全員に同一のイメージを呼び起こさないとしても、我々には小石というカテゴリーについて、身体的経験に基づいた十分に重なり合った部分がある。もちろん、カテゴリーは所与なものではなく、人間の心の中で絶えず構築され直し続ける。だから、たとえば砂粒と小石、石と大玉石の間に引かれる線は、我々による交渉と合意の賜物なのだ。私とあなたの間では、感覚機器による知覚を通じて、互いに重なり合った身体経験が作り出されている。それが、我々の知覚するものが本当にそこにあって、本当にそこで起こっているのだという、安心感のげんせんなのだ。だからこそ、人間は仲間を好む。

コトバにはもう一つの問題がある。我々はものを名づけたりそれについて語ることを可能にする、名詞の利便性は、あらゆる考えや関係を、あたかも一個のモノであるかのように我々の思考を仕向ける。例えば、愛する、嫌う、善いこと/悪いことをする、本当のことを語る、礼拝する、そして音楽するという諸行為は、愛、嫌悪、善悪、真実、神、音楽という抽象概念で呼ばれることになる。そして、気を付けていないと、我々は抽象概念の方を行為よりもリアルなものと勘違いしてしまうのだ。これこそが、どこまでも我々人間につきまとう具象化の罠であり、いったん具象化されたモノについて殊更に騒ぎ立てるという、プラトン以来の西洋的思考の悪癖の根源である。

しかし我々は、生物学的により古いコミュニケーション形態である身ぶりの言語を失ったわけではない。今日では「パラ言語」と呼ばれて残っている。身体の姿勢や動き、身ぶりの言語、顔面の表情と声の抑揚は、人間生活のなかでコトバが果たし得ない機能を、とくに関係の表現と探求において不可欠な機能を果たしている。慣習に高度な柔軟性が見られる霊長類のような高等動物では、慣習とは、各個体が一生の間学び続けるものである。人類の場合となると、個体間で、さらに重要なことには互いに異なる物理的、社会的な環境に育った者同士で、かなりの多様性が予測できる。しかし、身ぶりの言語における文化間の違いが、コトバに比べるとずっと小さい。それに、我々は、身ぶりによる異なる文化間の対話が可能だということを、経験的に知っている。異文化の身ぶり的な習慣の違いは、共通語の中の方言のような違いだと言えるかもしれない。ペットを飼った経験があれば誰もが知っているように、身ぶり的な慣習は、異種間のコミュニケーションをも可能にする。パラ言語で嘘をつくのは極端に難しい。その一方で、パラ言語を駆使した遊びは、動物のコドモと全人類に古くから共通する、大切な気晴らし行為だ。遊びでは、日常の文脈からの一時的な離脱という、コミュニケーション上の文脈転換が起こっているのだが、ここで我々がある種の関係の可能性を、実際そこに身を投じることなく探求しているのだ。遊ぶという能力がもっとも高度に発達しているのは人間だが、少なくともすべての哺乳類が何らかの形で遊ぶ。遊ぶ能力は、人間以外の哺乳類では、成熟するにしたがって弱められるか消えてしまうが、人間の場合には大人の生活にも生き残っている。そして、人間の身ぶりによるコミュニケーションは、生死にかかわり得るような差し迫った状況から自由であるために、比較的急を要さない談話の役割を担っている。この談話の機能は太古の昔から不変だ。しかしなかでも、人間と世界との結びつきを表現する特定の身ぶりの言語が、人類の長い歴史の中で特に入念に作り上げられてきた。それこそが、我々が「儀礼」と呼ぶ、身ぶりのコミュニケーションの複雑なパターンなのである。

 

第4章 切り離された世界

ステージでは、列をなしてオーケストラの団員が全身黒づくめの服装で現われる。彼らの立ち居振る舞いは、抑制されているがくだけていて、入場してから各々の席に着くまでの間も、互いにお喋りなどをしている。音楽家たちは、兆州が自分たちを見ていることに、あたかも気づいていないかのように、あたかも聴衆からは切り離された世界に住んでいるかのように、振る舞っている。聴衆の方も、まるでステージの縁に目に見えない壁が立ちはだかっているかのように音楽家を眺めていて、そして数分後にはまさにそんな様子で演奏に耳を傾けるのだ。

どんな何気ない振る舞いも、それが人目につくものである限り、関係についての何らかのメッセージを読み取ることができる。私には、このステージ上の音楽家たちの振る舞いは、自分たちが聴衆とは別の世界に住んでいること、二つの世界が音楽的能力の有無によって隔てられていることを告げる、専門家に特有の排他的なメッセージに思える。この排他性は、音楽家が聴衆にはアクセスできない専用の出入り口からホールに入ってきて、演奏が始まるまでの間も専用の控室から出てこない、という事実に明白に表われている。我々は、その演奏を通じて彼らの儀礼的な声を聴くことはあっても普通の声を聞くことはないのだ。

オーケストラ団員が来ている画一的な服装も、聴衆との分離を表している。制服は、着る人の個性を狭めて、個人のアイデンティティを集団のそれに従属させる。制服を着る者は自分自身としてではなく、制服が表象する組織の一員として振る舞うのだ。そして、その行動に対する責任は、彼ら自身ではなく、彼らが属する組織にある。ミュージシャンに制服をあてがうという慣習が始まった当初、その服装は、有力な一族の召使いという低い身分を象徴していた。しかし、今夜の音楽家が着ている制服の性格と意味合いは、当時ほど単純ではない。彼らの服装は、彼らを社会階級的な中間地帯に位置づけている。一方で聴衆との平等を宣言しつつ、他方では上流階級向けのサービス提供者という身分を示唆しているのだ。こう考えてみると、今夜、我々が目の当たりにしている音楽家か、いかにその卓越した技術と個性を集団的なパフォーマンスの下に覆い隠すことが期待されているかが、よく分かる。しかも、彼らが従っているのは、彼らに権威を及ぼすたった一人の人間の意思なのだ。

オーケストラの団員は矛盾に満ちた世界の住人だ。彼らは、一方では一人残らず相当な訓練を積んだヴィルトゥオーソでありながら、他方では不運や性格のため、もしくは楽器の選択を誤ったために、ソロとしてのキャリアを断念した人々である。彼らは、猛烈な練習量、技術、オーケストラ団員として選ばれたことに、正当な誇りを持っている。そして、自分たちのことを偉大な伝統の後継者であり守衛である感じている。しかし、オーケストラ団員の大半は、そうした自分の気持ちを深く掘り下げはしない。私自身の経験から言うと、それほどの技術をもって取り組みながらも、彼らと芸術について話し合うことは難しい。オーケストラ団員の態度は、自律的な芸術家というよりは職人のそれに近い。彼らは、十分に良くできた曲であれば、作曲家と指揮者に演奏の全責任を預けるし、与えられたどんな曲も疑問なく受け入れる。彼らの責任は一人ひとりの担当する楽器の演奏にあるが、そんなことは彼らの能力からすれば造作もない。演奏家の仕事とは作曲家が用意したものを演奏することであり、作曲家の仕事とは演奏家が演奏するものを用意することなのである。即興性に溢れた17世紀のオーケストラ団員たちは、作曲家がすべての演奏パートを書き込むことを、自分たちの技術に対する侮辱と受け取っていたが、現在の状況は、それとは全く違ってしまっているらしい。同様にオーケストラのメンバーは、指揮者の仕事を、自分たちの総譜を媒介すること、演奏中に自分たち一人ひとりが、どのように作曲家や作品に音の次元で関わるべきかを示すことだと考えている。だが演奏家は、なぜ自分たちが楽譜通りに演奏しなければならないのか、とか、自分たちと作品との間を誰かに媒介してもらう必要が本当にあるのか、と問い直すことはめったにない。

このことがおよそ疑問抜きに受け入れられるのは、この〔作曲家─指揮者─演奏家という〕関係が権威主義的で序列的でしかるべきと信じられているからだろう。現代のプロのシンフォニー・オーケストラは、実際、産業社会における会社をモデルとしていると言える。一般的な会社であれば、一兵卒の平社員が、会社からどんな製品を作るかについて相談されることなどまずない。同様に、オーケストラの場合、演奏する曲目について団員が相談を受けることは決してない。彼らに要求されるのは、運営上の方針に従って選曲された曲目を、彼らの目の前に差し出された音符に従って演奏することだけだ。オーケストラという組織の内部には厳密な分業が存在していて、ほとんどの演奏者は唯ひとつの楽器のエキスパートでしかない。これもパフォーマンスを効率よく生産するためのものだが、高度に発達したアンサンブルの縁さうにこうした分業がどうしても必要というわけでもない。

プロのオーケストラ団員に求められる音楽的技術は、疑いなく高い。一流のオーケストラが音をはずすことは稀だし、演奏が崩壊して中断すること等、まずない。だが、他の音楽文化で称賛される即興性や記憶力などの技術は、オーケストラの演奏家にはほとんど役に立たず、衰退の傾向にある。曲の全体を見渡すような長期的な音楽的思考さえ、指揮者の守備範囲と思われている。ステージ上のオーケストラが提示する、没個性的な集団主義の姿は、単なる幻想ではない。普段はいかに個人主義的で、特殊な個性をもった演奏家でも、ステージ上ではまるで指揮者の演奏する楽器かのように、自身を集団演奏の中に埋没させなければならない。

近代的な職業演奏家と近代的なコンサート制度は、必然的にいくつかの通念と一緒になって出現した。これらの通念のすべてが現在では当然視されているが、実際のところ、どれも、音楽パフォーマンスに本質的な要素でも普遍的な要素でもない。第一の通念は、音楽は演奏するためのものだ、というもので、これは二番目の、公共の場で音楽を演奏するのはプロの仕事である、という通念に繋がっている。第三の通念は、音楽の演奏とその聴取専用に使用される、フォーマルなコンサート・ホールの存在であり、第四の通念は、演奏を聴くために聴衆が代金を払ってチケットを買うということである。これらの相互に関連し合った複数の通念が西洋の音楽文化に出現したのは、ようやく19世紀に入ってからのことで、近代的な演奏の専門家が生まれたのもその頃であった。

アマチュア・ミュージシャンの公のステージからの排除は、ミュージッキングに対する人間の態度の、根本的な変化を意味している。つまり、それまでの音楽作品が演奏のために作られてきたのに対して、今や作品は聴くためのものとなり、我々はその作曲と演奏のための専門家を雇うようになったのだ。ついには曲が、パフォーマーに素材を提供するためにではなく、聴き手に衝撃を与えるために書かれるようになった。こうして、聴き手という新たなターゲットが生まれ、そのターゲットに強いインパクトを与えられるほど、良い曲だということになった。

音楽の意味が作品の中だけに秘められているという通念が受け入れられると、次のような態度の変化も、必然的に起こってくる。すなわち、我々は可能な限り完璧な演奏で作品を聴きたいと思い始めるのだ。だが、この種の完璧主義の代償がいかに大きなものかということこそ、しっかり認識される必要がある。その代償とは、完璧主義と一緒になって現われる通念、世の中のほとんどの人間には、音楽パフォーマンスで積極的な役割を果たすだけの能力がない、という通念であり、このために圧倒的多数がミュージシャンの住む音楽の世界から締め出されているという現実である。コンサート・ホールという、二つに切り離された世界にあからさまに象徴されているのは、まさにその分離なのだ。凡人は、専門家によってあてがわれる音楽の消費者になるべく、運命づけられている。彼らは、音楽という商品に金を払うのだが、どんな商品を買うのとも同じで、商品自体に注文をつけることはできない、買うか買わないかの選択しかできないのだ。

このシンフォニー・コンサートという出来事は、二つの世界の住人にとって、まったく別の意味を持っているらしい。その利害関係も、単に違うのではなく、対立する部分すらある。聴衆にとってのコンサートが、偉大な音楽的精神との交流という超越的な体験にまでなり得るのに対して、オーケストラ団員にとってはいつもの退屈な仕事に過ぎないか、場合によってはフラストレーションの溜まる時間にもなりうる。この出来事が祝うのは、調和や合意、親密さではなく、むしろ、金の行き来に支配された社会、人間が生産者と消費者に分離された社会における、非人間的な関係のようにも見える。

 

第5章 うやうやしいお辞儀

音楽はいうまでもなく、この空間にはありとあらゆる芸術が配置されていて、リヒャルト・ワーグナーが夢想しながらもついに実現できなかった、あらゆる芸術が盛り込まれた完全な芸術作品、「総合芸術」を実現されている。しかも、ワーグナーの夢想した総合芸術がステージ上でただ1度きり行われるものだったのに対して、現在の私たちの世界では、毎夜のように催されるコンサートで実現されていて、しかも観ている私たちまでその一部になることができる。もしそのことに気づかないとすれば、それは、私たちがステージ上で生み出される音だけに集中するように教え込まれてきたため、周囲にある音以外の豊かな意味の感触を無視しているから、というだけではない。あらゆるすべての芸術作品が、ほとんど目に見えないほどに見事に継ぎ目なく溶け合っているからでもある。だがいったん注意を向ければ、一人の指揮者の許でシンフォニー作品が上演されるたびに、オーケストラと聴衆とがコンサート・ホールに集まるたびに創り出されるひとつの芸術作品が、いかに完全なものかが分るだろう。実のところ、この芸術作品の体験は、私たちがこの建物に入った瞬間から始まっていたのだ。いや、本当はその更に前から始まっていたのかもしれない。建築家がそこで行われる出来事に相応しい環境を整えようと空間に工夫を凝らして設計を始めた時、オーケストラが曲を練習し始めた時、マネージャーがホールを予約して責任者から清掃員にいたるまでのスタッフを集め始めた時、作曲家がシンフォニーやコンチェルトのアイディアを最初に書き留めた時、このいずれかの瞬間にこそコンサート体験が始まっていた、と言えるかもしれない。もっとも今夜演奏するパフォーマーたちがその才能を認められて音楽大学に入学した時や、洋服屋や仕立屋がステージ衣装を作り始めた時までさかのぼることもできるだろう。さらには、この集団的な演奏を生み出す楽器が進化して発展する少し前の、今から何世紀か前にさかのぼることもできるだろう。総合芸術とは、それほどに複雑な歴史をもつ複雑な出来事なのだし、実際、ワーグナーが心に描いていたよりもずっと興味深くて意義深い芸術の統合なのだ。そしてもちろん、その本当の名前は「儀礼」である。音楽作品の演奏は、明らかにこの出来事の中心ではある。しかし、チケットを買うこと、座席の配置、オーケストラや聴衆の振る舞い方、ロビーで販売している飲み物を飲むこと、プログラムを買うことといった些細な要素も含めて、この広大な場所で起こることに無意味なことなど何ひとつない。すべてはこの出来事にとって本質的な要素であり、それらがこの出来事に独自の形を与えている。仮に、ここで行われる出来事の重要性が音楽作品にしか関連していないとしたら、人々は自宅で寛ぎながらレコードやラジオで作品を聴くのに十分に満足して、とっくの昔にコンサートに行くのをやめていたに違いない。

自宅でレコードを聴くという私的な儀礼は、ドラマ性の面では、ホールで入念に演出された公の出来事とは、比べようもない。たしかに、レコード鑑賞を可能にした記録技術は、シンフォニー・コンサートの文脈自体を変えてしまった。コンサートの記録を映像で観ることまで可能になったおかげで、今や曲を聴くためにコンサート・ホールに足を運ぶ必要がなくなったのだ。しかし近年、コンサート・ホールに行くという行為には、新たに凝縮された儀礼的な意義がつけ加わった。この50年以上のコンサート・ホールの建設が爆発的に増えていることにも表れているように、現在でも多くの人々にとって、コンサートに足を運ぶことは重要な出来事なのだ。

それに、録音技術の発展が日常的な場面でのミュージッキングの儀礼的な意義を弱めた、という想像も間違っている。例えば、エレベータやショッピング・モールのBGMともなると、我々が音楽を聴いているというよりは、音楽が我々の耳に入ってくる。こんな風に音楽と接している現在の我々の状況、たしかに、歴史上かつてないほどに、また世界中のどこよりも、聴くという行為をごく日常的に、かつ非儀礼的にしてしまったように見えるかもしれない。しかし、儀礼的な意義に変化はあったが、矮小化されたわけではない。BGMを特定の空間で聴くことは、資本主義的な価値観を確認して、探求して、祝うという儀礼に他ならない。というのも、この種のBGMは、客を少しでも長い間ショッピング・モールに留まらせて、そこで少しも多くの買い物をさせようと仕向けているからだ。このことは、かつての国王や王子の価値観が、音楽パフォーマンスを通じて確認されていたことと、本質的には違わないように思える。一連の価値観が別の価値観に置き換えられているかもしれないが、誰もがその価値観に従うように呼びかけられている点では、何ら変わりがない。実際、どんな場所でも何気なく音楽に出会えるような音楽に状況にあっても、ミュージッキングは常に何らかの目的をもって行われている。

ステージでは指揮者が登場する。指揮者の登場は、シンフォニー・コンサートという出来事に焦点をもたらした、ステージ上の演奏は言うまでもないし、リハーサルでの彼の存在感も唯一無二のものだったはずだ。この指揮者の権威は、総譜を支配できることに由来している。

その人自身が音を出すわけでもなく、しかも、グループの演奏を(内側からというより)外側から指揮する音楽家というのは、そもそも奇妙な発想だ。これは世界の音楽文化の中でも、西洋のシンフォニーとオペラの文化だけに独特なものかもしれない。指揮者の役割は、ルネサンス期のキリスト教会のミュージッキングに誕生した。音楽アンサンブルの形式に起源をもつ。この新たな形式のアンサンブルは、別々の音を統合させるという偉業を成し遂げたのだった。この演奏には、自ら参加するというよりは、聴いてもらうためのものという性格があったのだ。そして、この音楽パフォーマンスは、アンサンブルのために個人が集団に完全に従属することが不可欠だったという点でも、新しい現象と言えた。

現代的な意味での指揮、オーケストラの外部にいる聴衆をターゲットにした調和的なサウンドを、その細部に至るまで、すべて指揮者が責任を持つという形態、が定着するためには、演奏家の音楽的な自律性と自主的な活動の権利とが、破壊される必要がある。オーケストラが即興演奏をするミュージシャンで構成されていれば、指揮者の支配はもっと小さなものになるはずだからである。それに、音楽作品が聴かれるために作曲される限り、作曲家の想像と違う音を出すことは許されない。つまり、楽譜に対する絶対の忠実が不可欠になってくるのだ。と同度に、作曲家は、彼の望む演奏を全て音符として書き込まなければならなくなってくる。こうして、作曲家と指揮者による二つの役割が互いに補強しあって、音楽的な表現を細部に至るまで操作し、管理するという、長きにわたる奮闘が始まったのである。

ときどき、そもそも指揮者は必要なのか、と訊く人がいる。オーケストラのミュージシャンは、外部の権威に煩わされることなしに、自分たち自身の演奏を達成できないだろうか。そういう試みは過去にあったが、最終的には失敗に終わった。失敗の要因には、経済的なものもあったし、政治的、それに純粋に芸術的なものもあった。指揮者抜きで納得のいく演奏を作り上げるには、普通のオーケストラのように各々のミュージシャンが自分のパートだけを理解していては追いつけない。彼らの一人ひとりが、パフォーマンス全体のコンセプトとそのなかでの地震の位置づけを理解する必要があるのだ。ミュージシャンはこれを耳で知るだけではなく、肝に銘じておかなければならない。彼らは独立自存できるようにならなければならないし、どんなオーケストラがなしうるよりも、互いに対して多大なコミットメントを持続させねばならない。同様に、指揮者のいないオーケストラは、一つの曲の演奏を完成させるのにも、より多くの時間が必要になる。だが、どんな専門家組織とも同じように、プロ・オーケストラの世界でも、「時は金なり」が現実である。指揮者不在のアンサンブルについての批評は、刺激に欠けていて退屈でさえあるというものだ。アンサンブルの合意によって到達したシンフォニー作品の解釈/演奏

よりも、ひとりの人間の視点から下りてくる解釈の方が、鋭く個性的になるだろうということは、語の定義からも、ほぼ明らかだ。現代的なコンサートの聴衆や批評家、それにクラシックレコードの仕入れ係も、個性的な鋭さとドラマティックな演奏を称賛するようになってきた。概して、演奏に劇的な緊張感があるものほど好まれる傾向にある。指揮者の機能はオーケストラを物理的に調和されることや、演奏を生み出すことだけではないからだ。指揮者は、聴衆として座っている人々の想像力の中心に、英雄的なポジションとして存在する。指揮者の役割とは、オーケストラと聴き手の双方にシンフォニー作品の緊張と対立を味あわせつつ、最後には主調のカデンツァの解決へと導く、パワフルで信頼に足る君主の役割と同じなのだ。彼の存在こそが、近代産業社会の中産階級の人々に緊張と解決の意味を与えるのだ。指揮者こそ近代的な権力の感覚の化身であり、我々の誰もが社会的・政治的な活動の場でそうありたいと思い描く、限りない力を発揮することで対立を一気に解決するというイメージの象徴なのである。シンフォニー・コンサートが少なくとも一部の人々に、これほどまでに大きな満足感を与える「儀礼」であるのは、この意味で当然といえるのかもしれない。

 

第6章 死んだ作曲家たちを呼び起こす

今このコンサートホールには、隔離された、この隔離自体も体験の一部なのだが、二千人もの人々が、互いの関係や世界と自分とのつながりを探求し、確認し、祝うために集まっている。彼らはその関係を単に音として聴くだけではなく、この巨大な空間の全体から感じ取っているのだ。儀式の責任者は指揮者である。彼は、神聖な本(楽譜)に没頭して、あの世から作曲家の霊を呼び起こす、魔術師でありシャーマンなのだ。彼は作曲家が想像した音響的な秩序のヴィジョンを実現して、それをここにいるすべての人に感じてもらうためにそうするのである。このヴィジョンは、単に抽象的な音のパターンとしてではなく、人間同士の関係のパターンのメタファーとしても実現される。コンサートの常連や現代の音楽家が、過去の作曲家に個人的な親近感をおぼえたり、それらの人物や人生に好奇心を抱いてたりしたとしても、何の不思議もない。それに、作曲家の伝記や音楽批評という産業が成り立つのもそういった好奇心のおかげなのだ。今夜、このコンサート・ホールでは、作曲家の価値観と秩序のヴィジョンだけではなく、その人物と人生も呼び起こされる、というわけだ。今夜のコンサートで披露される曲の作曲家の全員がすでに没しているということ、それもホールに集まっている誰もが生まれるずっと前にこの世を去っているということは、奇妙ですらある。ここにいる人のほとんどにとって、偉大な作曲家といえば、故人を意味するほどだ。今生きている作曲家はもちろん、1920年以降にこの世にいたどの作曲家も、過去の作曲家のように、現代の聴き手と演奏家の想像力を支配することはできないでいる。

指揮者のジェスチャーで呼び戻される大作曲家は生身の人間ではない。その時代に生きてその時代に死んだ人物としてのベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーではない。彼らの伝記がその生涯をいくら詳細に描こうと、作品の演奏が彼らを甦らせることはない。ここにやって来るのは、現代を生きる我々の欲求を満たすために、伝記の断片から想像/創造された、神話的な英雄なのだ。その人格や身ぶりも、我々の思い描く人間同士の社会的な秩序によって出来上がっている。それらの群像は、世俗的で現実的な歴史や、日常的な時間に属しているのでは全くない、歴史的な時間の埒外にある、我々の心のなかの過去、つまり神話に属しているのだ。どんな神話も同じで、この神話も、いまを生きる我々の価値観や振る舞い方のモデルとパラダイムを与えている。神話世界の群像が確固たる不変の総譜を残したということは、彼らもまた、神話的な不滅な存在だということを意味する。彼らは今を生きることができない。神話的な英雄であるためには不滅でなければならないし、不滅であるためには死んでいなくてはならないのだ。私は、作曲家をある種の預言者に、総譜を神聖なテクストに、指揮者を司祭に喩えることができると思う。たとえば、司祭と同じく、指揮者は神聖なテクストを解釈する権利を主張し、その解釈を一般民衆に押し付ける。そして時に傲慢という罪を犯し、自分のことを預言者と同等か、場合によってはそれ以上だと錯覚することがある。そして、楽譜の責任者であり解説者である批評家や音楽学者に、手厳しく的確な非難を受けるのだ。これはひとつの喩えに過ぎないが、そこには本質的な類似がある。コンサート・ホールの外観と内部空間には単なる神聖さ以上の何かがある。どうやらここに来る人々は、美しくて耳心地の良い音楽以上の何かを求めているらしい。彼らは、ある儀礼に参列しに来ていて、そこでいわば「永久性」と「確信」とが演じられているように思える。死せる文化的英雄が呼び起こされるのは、彼らが暗号化した音の関係が永久に残り、それらがこれからも不変だということを再確認するためなのだ。

この20年ほどの間、昔ながらのパフォーマンスを再現させようとする、「本物の演奏」ムーヴメントがある。これも、急激に変化する現代社会にあって、永久性と確信とを守ろうとする探究のひとつなのだろう。数ある作品の中で「真正」なヴァージョンを探し出そうとする音楽学者の勤勉な態度は、ユダヤ法典や聖書、コーランを研究する古代文献学者の、文字による証明に取り憑かれた姿や、書き記されたものに対する崇拝、特定の文書に対する何世紀にもわたる議論を、否応なく思い起こさせる。

レパートリーの硬直とオーセンティシティ・ムーヴメントを目の当たりにすると、コンサート業界では均衡状態が達成されていて、時間の流れが止まっているかのように印象を受ける。だがもちろん、そんなことはあり得ない。どの世代の音楽家も聴き手も、かれらなりの価値観でもって文化を作り変えている。だからこそ、作曲家や作品の再評価が不断に続けられるのだし、新たな伝記と批評研究という場で、それぞれの著者たちが、作曲家とその作品の最終的な真実に到達したという確信を得るのだ。またそれゆえに、作品の唯一の正しい演奏法と新たなサウンドのパターンが発見され続け、そこに新しい関係が投影されるのだ。

神話は単なる嘘ではなく、我々が自身に向けて語る、物事の成り立ちについての物語なのだ。従って神話は、それが実際にあったことであれ、想像上のことであれ、「現在」に奉仕するためにこそ、過去の出来事として語られるのだ。実際の歴史がどうだったかは、神話の価値には無関係なことであって、我々が神話に導かれて辿り着く豊かな人生の広がりのなかにこそ、神話の価値があるのだ。最後に、コンサート・ホールで演奏される音楽作品が、実のところ、我々による自身に向けた、自身についての物語なのではないかということ、したがってそれが本質的に神話なのではないかという仮説を提示したい。コンサート・ホールでそのパフォーマンスに参加することによって、我々は、自分たちの望ましいと感じる関係の概念を、探求し、確認し、祝うのだ。

 

インターリュード2 すべての芸術の母

人間の音楽パフォーマンスには、どんな意味と意義があるのか、儀礼、神話、メタファー、芸術、そして感情。これらの概念は非常に密接につながり合っている。これらのどの概念も、関係、つまり、我々が一人ひとりのつながり、我々と我々が属する社会集団とのつながり、我々とその他の社会的集団とのつながり、さらには、我々とその他の社会集団とのつながり、さらには、我々と自然界や地用自然的世界とのつながり、と密接にかかわっている。人間の生の中で最も重大な事柄ともいえる関係と、である。

儀礼という言葉には、現在では神話と同じく、あまりにも繰り返されてしまったため過去に持ちえた意義を喪失した行為、という否定的意味合いがある。このような解釈は、儀礼という概念の持つ意味合いをあまりにも狭めてしまっている。だが、一旦言葉の持つ意味が正しく理解されれば、世の中の全ての音楽パフォーマンスが儀礼なのだということが分かるはずだ。儀礼とは、我々人間が身ぶりの言語を駆使して、宇宙の秩序やその一部に存在する諸関係や、我々自身と宇宙秩序の、そして我々人間同士の関係の理想を、確認し、探求し、祝うというも組織化された行動様式のことである。儀礼的な行為を行う人々はその身ぶりを通じて、自分たちがそうあるべきと想像し、考え、感じる世界を模範にしつつ、自分たちがどう結びついているかを表現する。これらの関係、それから関係を祝う行為の儀礼には、インフォーマルで小規模なものもあれば、フォーマルで壮大な規模のものもあるし、もちろんその中間もある。つまれ、求愛や性行為のように一人か二人の人間しか関与しない儀礼もあるし、家族やクラブのようにこじんまりとしていて、見方によれば少々排他的な集団が行う儀礼もある。そこでは、世界に存在する結びつきの構造や、人間同士の理想的なつながりが、身ぶりのパターンよって表現されているのだ。人間相互の望ましい関係を共有することは、同じ共同体に属することと同義なのだから、これら数々の儀礼には、次のような意味合いがある。即ち、第一に「これが私たちなのだ」という共同体意識の確認の行為、第二に自らのアイデンティティを突き止めようとする探究の行為、第三にそのアイデンティティが他者と共有されていることを喜ぶ祝祭の行為、という意味合いである。儀礼が執り行われる間には、強烈な体験が集中する。その濃密な時間のなかで、参加者たちの理想を隠喩的に写し取った関係が、彼らの間で現実のものとなる。こうすることで儀礼への参加者は、理想的な関係について学ぶだけでなく、現に自らの身体でそのつながりを経験するのだ。かれらはそうして関係を探求し、確認し、祝うのだが、その表現に言葉はいらない。参加者は、言葉による概念で経験を把握するのではなく、感情的に巻き込まれるのだ。その経験があまりに強力になると、この世とあの世の超自然的な境目が壊れてしまい、儀礼への参加者は日常的なアイデンティティを離れて、いわゆる憑依状態になることまである。ところでこの感情は、儀礼に参加することで引き起こされるのではない。むしろ感情の高まりは、儀礼がその役割を果たしていること、人々を参加に駆り立てていること、儀礼が創り出したつながりを参加者が一致して感じていることの徴なのである。そしてもちろん、儀礼の場で実現するさまざまな関係に直面して、時に我々は、平静な感情を保てなくなることがある。儀礼には多種多様な形式があるが、儀礼に参加することが、身ぶりの言語を使って理想的なつながり概念を確認し、探求し、祝うという、ひとつの行為への参入だということには、変わりがない。これは儀礼の世俗的な解釈だが、儀礼には聖なる解釈もある。これら二つは互いに排他的ではないし、どちらも妥当なものだ。二つの解釈は同じ経験についての異なった見方であり、これら各々の見解こそが、互いの理解を深め合う。世俗的な解釈は、伝統的な儀礼の可変性や、言語活動における身ぶりの起源とその生存価を説明する。他方の聖なる解釈は、社会の中で不変と思われて疑問視されることのない価値観や、人間性と宗教の根本的なつながりについてのヒントを与えてくれる。そして後者の解釈によると、儀礼に参加することとは、無意識のうちに神話を演じるということなのだ。

近代的な普通の用法では、神話とは自然現象や歴史上の出来事に関するある種の一般的見解を具体化した、まったく架空の物語、もしくは架空又は想像上の人物や出来事を意味する。現代社会において神話という観念が、儀礼という観念に劣らず軽蔑されている。しかし、神話も人間本姓にあまりに深く埋め込まれているために、儀礼と同様、排除することはおそらく不可能だろう。神話とは、世界がいかに現在のようになったかについての物語のことである。それらは典型的な英雄や悪党による、典型的な創造と破壊についての物語で、登場人物がすることは、人間の行動や行動の模範例とパラダイムを提供していて、社会的、文化的な慣習の基盤となっている。神話の登場人物が神話の時空間上で作り上げる関係は、人間同士がどう関わり合うべきか、その他の生き物やモノとどう関わり合うべきかという規範を、我々に与えている。神話の中には、宇宙の全体、もしくはその一部分の由来を知らせてくれるものがあるが、物事の成り立ちを知ることは、そのあるべき姿を知ることに等しい。そもそも、あらゆる物語り行為には、神話の本性に通じるところがある。我々は物語を語り合うことで、自分たちについて、とりわけ自分たちと世界とのつながりについて学んでいる。

我々はここまで、身ぶりの言語という儀礼の世俗的な側面と、神話の聖なる側面について考察してきた。どちらに重点を置くにせよ、儀礼に参加するということが隠喩的な行動形式に参加することだ、という点に変わりはない。隠喩とは、学校で教わる装飾的な言葉の綾以上のもので、実は、我々が世界について考えて世界を理解するための重要な手段なのだ。隠喩的に考えるとは、身体や感覚器官を通じた確固たる経験を、より抽象的なパターンや概念に投射することである。身体的な感覚を通じて知覚される具体的な関係は、道徳、倫理、社会関係といったより抽象的な関係に匹敵する。政治的な権力ですら、身体の感覚を通じて形作られる。コトバも隠喩を通して放たれる。我々が隠喩と関わらずに話すことは不可能である。我々が抽象的な概念を把握するのに身体経験に依拠している。元の意味から隠喩的な意味に向かって滑り出ていく傾向はあらゆる言語に見出されるという。

結び合わせるパターンという術語も把握しきれないほど広大で複雑な世界に存在するものや観念のつながりを、感覚的かつ経験的に理解するための隠喩である。ここでいうパターンとは、我々が繰り返し知覚する規則や関係の視覚的なイメージのことだ。そして、そのパターン全体や一部分を支配すべく喚起される神性もまた、隠喩的な思考の結果の他ならない。ベイトソンの指摘が正しければ、うまく機能する隠喩やイメージ図式は、一定の複雑さを備えているはずだ。例えば「世界」を意味する「劇場」、「人生」を意味する「パフォーマンス」という隠喩がうまく働くのは、私たちの生活の中に現実に劇場があるから、というだけではない。劇場自体が複雑な構造を備えているためでもある。だから、「世界は舞台」というアイディアを作り上げる時、我々は世界が劇場と同じだと言っているのではなく、劇場の見えやすい部分のなかでも特に直観的に把握できる関係が、あまりに広大で複雑なために全体を直感的に理解すること不可能な、「世界」や「人生」のある側面を理解するのに、有用な場合がある、と言っているのに過ぎない。このような我々は、この上なく複雑な人生の過程のなかから、状況に応じた特定の場面を映し出す隠喩を選び取っているのである。実際のところ隠喩も、儀礼や神話と同様に、関係に関わっている。この三つのどれもが、ある一つの過程の異なる側面なのだ。人間はその過程の中で、物理的で感覚的な経験や世界に内在する身体の経験を利用して、極端なまでに複雑で抽象的な概念を理解する。実際のところ、人間だけでなく、すべての生き物がこれも同じことを行っている。神話は関係の成り立ちを隠喩的に語ったもので、儀礼は隠喩が行為に変化したものだ、把握することができる。というのも、隠喩とは必ずしもコトバ的な過程ではないからだ。むしろ隠喩は、関係を表現する身ぶり、ふるいは生物学的なコミュニケーション言語の次元に属する。言語的な概念にとっての隠喩の働きと、関係にとっての身ぶりの言語の働きは、同じである。儀礼と呼ばれる身ぶりの複雑なパターンは、参加するもの同士の間に繋がりを生み出す。その儀礼では、神話に基づく理想的な人間の繋がりが模倣されるか、あるいは演じられるのだ。儀礼に参加する人々は、複雑なつながりをそのままに経験する。

儀礼に参加するということは、そこで何かを見たり聞いたり、味わったり匂いを嗅いだり、あるいは触ったりということだけを意味するのではない。我々は儀礼において行為する。なかでも、他者と共に何かを実演してみせるという身体的な経験にこそ、儀礼に参加することの意味がある。一人一人が積極的に参加すればするほど、その他の一人一人も行為することに、創造することに、表現することに動機付けられるだろう。それによって我々は儀礼というパフォーマンスにさらなる満足を見出す。我々は、儀礼の場で持続的に行為し、創造し、表現することによってのみ、我々自身が行為、創造、表現に動機付けられる社会を生み出しうるからだ。しかし、その一方で、我々は儀礼に積極的に関わることが、快楽と歓びを我々に齎す理由をよく知っている。なぜなら、そうすることで我々は自身の夢を叶えているからである。このことがミュージッキングとどんな関係にあるのか。答えは単純だ。儀礼とはあらゆるすべての芸術の母に他ならない、ということだ。儀礼も芸術も、生物学的なコミュニケーションとしての、身ぶり的な隠喩なのである。我々の理想的な関係の概念が、確認され、祝われる、その方法が、儀礼や芸術活動のなかに練り上げられているのだ。

しかし、儀礼と芸術の連合はさらに深いところまで達している。儀礼は単に芸術を利用するのではなくて、儀礼それ自体がパフォーマンス芸術の偉大な総体なのだ。儀礼にこそ今日われわれが芸術と呼ぶものすべての起源がある。今日の西洋社会で我々は、芸術が儀礼から分離されていること、つまり芸術の自律性と独立性、そして世俗性に誇りを持っている。私は、この分離を現実のものというより錯覚に近いものだと感じている。この分離の起源は一般に思われているよりずっと近年にあると認識している。絵画、彫刻、ミサ曲、協奏曲のどれもが、元来は当時の儀礼のために、特別な出来事や儀式の際の展示用に生み出されたもので、これらがあたかも儀礼の機能を持たず、純粋な鑑賞だけを意図した完全に自己充足的な作品であるかのように見え始めるのは、19世紀の中ごろか、それよりも少し早い時期に過ぎない。儀礼の機能を持たないように見えるのは外見上のことに過ぎない。シンフォニー・コンサートでは作品の演奏は儀礼の機能からは引き離されてはいない。儀礼の性格は変わってしまったかもしれないが、その本質的な機能は残っている。このことはコンサート・ホールの建築を見ても分る。コンサート・ホールは教会や寺院と同じく儀礼のための建物なのだ。この儀礼では、産業社会の中産階級の人々が、自分たち自身に対して、もしくは彼らの周囲にいる人々に対して「これが私たちなのだ」と言うことに動機付けられているのだ。だからこそ、すべての芸術がパフォーマンス芸術なのだということ、芸術とは何をおいても活動なのだということ、すなわち創造する、展示する、実演する、見る、踊る、着る、行進する、食べる、嗅ぐ、映し出すという行為のことなのであって、創り出された対象のことをいうのではない。つまり、何を創り、展示し、見るかを、音楽のパフォーマンスでいえば何を演奏し、聴くかを、我々が選ぶことの方が、明らかに意義深い。対象は行為を生み出すためにあるのであって、その逆ではない。

人類初期の社会や現在の多くの未開社会においては、宗教、儀礼、芸術の活動は互いに切り離されてはいない。今日の分断された一つひとつの芸術も、過去に達成し得た統合を常に目指している。どんな芸術的パフォーマンスもつぶさに観察してみれば、表面上それが専心している芸術以上のものを包合していることが、分かるはずだ。例えば我々は、音楽パフォーマンスという儀礼が、いかに身体的で社会的な環境と一定の衣装や振る舞いの流儀を、その参加者に要求するかを見てきた。しかも、それらは物珍しい行動として現われるではなく、できる限りその場に自然に、なおかつそこに集まる人々が帰属意識を感じられるように現われる。その場に利用可能にあらゆる芸術的メディアが総動員されて、ひとつの総合芸術が作り上げられているのは、この目的のために他ならない。そして、その場にある一つの一つの要素は単なる飾りではなく、パフォーマンスという人間の出会いに本質的な部分を成しているのである。

 

第7章 総譜とパート譜

近代的なコンサート・ホールでの演奏は、常に、楽譜の読み書きと能力に基礎づけられている。この種のパフォーマンスは本来的に、作曲家による指示を演奏家が等しく理解し、それに服従していなければ成り立たない。だから、パフォーマーが自分の演奏を独自に創り上げるというタイプのパフォーマンスは、ここでは起こり得ない。

西洋のコンサート文化では演奏が楽譜に全面的に依存しているが、これは奇妙に両義的で、世界の音楽文化の中でも独特な実践だ。たしかに記譜法は、音楽作品を何世紀にもわたって正確に保存することや、演奏家の学習の高速化や効率化を可能にした。しかし、他方で演奏を書かれたものだけに限定してしまうと、我流の演奏力を衰退させかねない。その結果、コンサートやオペラの一流ソリストでさえ、その全キャリアを懸けても、真に「かれら独自のもの」といえるだけの音楽的な身ぶりにとう達することはできない。実際この状況は、今日の演奏家たちが拠り所とする、楽譜の作成者たる作曲家たちも含めた過去のミュージシャンには、奇妙なこととして受け取られるはずだ。第一に、彼らのような過去のミュージシャンが、楽譜に関心を抱いたかどうかは疑わしい。彼らは、百年後はおろか数世紀にもわたって自分の作品を保存することなどには、ほとんど、むもしくはまったく興味をもっていなかった。彼らが楽譜を利用したのは、自分の作品を様々な場所で演奏するためであって、保存のためではなかった。第二に、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、さらにはその他の大作曲家の誰も、作曲や演奏で、楽譜に全面的に依存などしていなかった。誰もが作曲と演奏の両面で、記譜に基づいたモードと非-記譜のモードの両方に堪能だったし、状況によって二つの間を容易にスイッチできた。彼らのような巨匠が楽譜なしのパフォーマンスで披露したのは、19世紀末までの名のあるミュージシャンであれば当然期待された即興演奏のハイレベル版だった。彼らにとって即興ができないミュージシャンなど、その器用さや楽譜の解釈力のレベルに関わらず、大事な技能が欠落した存在か、さらに悪くいえば、必要な音楽的経験に恵まれない可哀そうな存在だったはずだ。楽譜はもちろん音楽作品ではないし、作品を代表するものですらない。それは演奏を、つまり適切に遂行することで音楽作品と呼ばれる特定の音の組み合わせを割くり出すことを可能にし、しかも好きなだけでその音の組み合わせを繰り返すことを可能にする、コード化された一連の指示書にすぎない。

かといって、音楽作品アイデンティティは、生み出された音の響きにあるのでもない。その一つひとつを取り出してみれば、音は音に過ぎないからだ。音色、ビッチ、強さ、持続、アタック、弱まりといった聴覚的な特徴も、我々に何らかの意味を感じさせるかもしれない。しかしそのどれも、考えつく限りもっとも単純なメロディがもつ意味ほどには、複雑ではあり得ない。音がそうした豊かな意味を持つには、互いに他の音と関係するように配置されなければならない。そうして作り出される音の連なりがいくつか関連付けられて初めてその全体像を結ぶのである。

音を聴くとは、空気の振動が耳に伝わるという、具体的で物理的な出来事の結果。我々の心に聴覚的なイメージ゛が結ばれ、その聴覚的な特徴を知覚する、と言う意味だ。しかし、我々には聴覚的な知覚のあいだにある関係は、聞こえてこない。関係とは物理的な出来事ではなく、心的な出来事である。そして関係は、心の中で作られる。音を言葉で表現しきれないほどに込み入った関係に配置するのも、その関係のパターン、すなわち、メロディ、ハーモニー、リズム、反復、変奏、そしてこれらすべてを巻き込んだ長時間にわたる規則、を生み出したり知覚したりするのも、我々の心である。それに意味を付与することを学ぶのも、我々の心である。関係こそが1時間以上も続く交響曲か、もしくは1分間にも満たない単純な歌かに関わらず、作品のアイデンティティと意味を同定するのだ。すでに見たように、関係を知覚してそれに意味を与えることは、能動的なプロセスである。音の関係から意味を生み出せるだけの準備が出来ていない限り、音楽作品は存在し得ない。このことは、ある人が秩序と意味と美を聴き取るところで、別の人は無秩序と無意味さしか聴き取れない場合もあることからも明らかだ。一つの作品からある一連の意味を聴き取った人が、別の意味を聴き取った人に、その作品について教えることは不可能だし、その逆もまたありえない。もし、音楽作品が、演奏家が奏で、聴き手が聴く、音同士の関係の中に存在するのなら、音楽作品はパフォーマンスのなかでしか存在し得ない、ということになる。作品のアイデンティティや意味がいかなるものであれ、それはミュージッキングによって初めて形を与えられるのだ。作品は、ミュージッキングという活動から切り離すことはできないし、ミュージッキングが行われる最中でしか知り得ない。演奏が終わってからもなお作品が存在するとして、それは演奏を聴いた人の記憶に中にしかありえない。実体としてあるのは、演奏の指示が記された楽譜だけだ。技能のあるミュージシャンであれば、楽譜を見ただけでその演奏がどんなふうに鳴り響くかを思い浮かべられるだろう。しかし、それも想像の上で存在するに過ぎない。考えてみれば、これは他のどんなモノや出来事が想像されたり想起されたりする場合にも当てはまることだ。

だが、今日のコンサートの世界を支配しているのは、音楽作品がどんな演奏をも超越して存在し続ける、と言う考え方だ。ここにはプラトン的な実在の概念を見出すことができる。すなわち、作品があたかもモノのようにそこにあるという考え方であり、パフォーマンスは本来的に作品の近似物でしかありえないという考え方だ。そうした幻想は、姿かたちのある楽譜と言う実体によってもたらされているのだろう。これは、行為から抽象的な実在を創り出し、それがあたかも実際の行為以上にリアルだと思い込む、ヨーロッパ的な性向のためなのだ。たしかにパフォーマンスは儚いものに違いないが、パフォーマンスが、音楽的な過程や音楽作品に従属するなどということはあり得ない。反対に、パフォーマンスこそがミュージッキングの過程の根本なのであり、その他のすべてのプロセスはそこから派生するのに過ぎないのだ。確固とした作品なしにミュージッキングが成立することも、実際にはよくある。その場合の作曲行為は、ミュージシャンが気に入ったフレーズを何度も繰り返した後に、それをある程度、通時的で共時的な構造をもった音に結晶化させようと目論むことで始まる。こうして、音楽作品はパフォーマンスから進化し、つねにパフォーマンスに向かって戻っていく。パフォーマンスを促進することこそが、作品の機能なのである。

音楽を書き記す行為は、作曲行為のずっと後に始まるが、これは人間のミュージッキングに標準的に備わるものではなく、むしろ例外に属する。この記譜の機能は常に二つからなる。一つは、音の順序を固定して誰が弾いても同じように演奏されるようにすることで、曖昧な人間の記憶の代わりをすることであり、もう一つは、作品が生み出された場から地理的もしくは時間的に隔たった人々もその音の順序を学習し、演奏することを可能にすることである。西洋社会はさらに、ここからコンサート文化に独自な第三の機能を生み出した。すなわち、作曲家が一人静かに曲を組み立てられるための媒体としての役割を持つようになったのである。こうして実際に音を聴く人なしに作曲が可能になったおかげでも作曲行為はもはや現実の時間とともに流れる音の中で仲間と協働して行うものではなくなった。この第三の機能こそが、西洋のクラシック音楽文化における、音楽作品の精巧さと複雑さを可能にしたと言われている。

一方、記譜法に頼らないで作曲することはできる。参照用に書かれた楽譜がなければ、曲は繰り返されるパフォーマンスを通じて変化し、発展を続けるだろう。そして、それらを比較するための不変の「正しい」ヴァージョンがない限り、変化をわざわざ気にかける者もいないだろう。誰も曲を固定化したり保存したりしないのだから、パフォーマンスの状況が変わればそれに伴って曲も変化する。曲は珍重するためのものではなく演奏するものためのもので、パフォーマンスの目的は曲の提示ではなく、その出来事に相応しい演奏をすることなのだ。そうすることで、その出来事は人間同士の出会いを促し、パフォーマンスは出来事を秩序付けて、その場での出会いを忘れがたいものにする。これを可能にする曲は尊重されるが、それができない曲は捨てられてしまう。この喪失によって、新しい創造的な仕事を行う余地が生まれるのだから、これを損失だと感じる必要もない。尊重されるのは創造的な仕事であって、そこで創り出されるモノではない。ここでは作曲、練習、演奏は一つのプロセスなのであり、無極とパフォーマンスの間にも、作曲家とミュージシャンの間にも、区別などない。つまり、そうした文化では音楽的な世界は統一されていて、すべてが密接につなぎ合わされているのである。このような額に依存しないパフォーマンスでは、人々の力関係は拡散していて中心がない。全員が一定の権利と責任とを分かち合うのである。どんな共同作業とも同じで、楽譜のないアンサンブルにもリーダーはいるが、リーダー以外のパフォーマーも曲に貢献するのだから、リーダーが創造性を独占することはない。聴き手と見物人もまた、演奏中のミュージシャンに対して、ダンスやその他の視覚的・聴覚的な反応でエネルギーをフィードバックすることで、確実に創造的な役割を果たしている。彼らはまた、鋭い鑑識眼でパフォーマンスの良し悪しを見極める。なぜなら、彼ら自身もまた別の機会では、演奏する側に回る人々だからである。

しかし、ミュージシャンが曲の変化を防ぐために演奏の指示を書き記す必要を感じた途端、ミュージッキングの性質と担い手たちの間の関係に変化化が訪れる。それまで一体になっていた音楽の宇宙にひびが入るのだ。作曲家とパフォーマーの分離、作曲とパフォーマンスの分離、パフォーマーと聴き手の分離と言う分裂のプロセスが始まる。そして、演奏家に何をすべきかを指示する作曲家と、かれらに演奏を指示する指揮者に権力が集中し始める。今日のコンサート・ホールや録音時の演奏を特徴づける、作曲家の意図通りの音に対するしつこい忠誠の強要、比較的新しい現象であって、せいぜいこの時代に始まったにすぎない。

昨今の聴衆はクラシック音楽の作品の演奏に、形式的及び構造的に、圧倒的な完璧さを聴き取っているが、それは往年の聴衆が作品に聴き取っていたのとは明らかに異なる。「過去は異国」という喩えがあるように、我々は作品の演奏という儀礼を通じて、過去を訪れている。だがそれは、騒乱、猥雑、混乱に満ちた、現場としての過去ではない。それは、作品に聴こえる特徴と作曲家の人生の断片を意図的にではなく、我々の無意識の願望に沿うように、つなぎ合わせて構築した、神話的な過去、テーマパーク的な過去なのだ。それらの作品は、過去に持ち合せていた驚くほどのショック、興奮、不安、当惑などを、親しみ易さと引き換えに失ってしまっている。現代の演奏の意味を一言で表すならば、それは安心感だろう。それらの作品の演奏は、もはや誰の不安もかき立てない。コンサート・ホールでの演奏と言う儀礼は、参列者に対して、過去から連綿と続くものが未来永劫変わらないことを再確認して、安心させているのだ。しかし、この儀礼で昔から受け継がれ、これからも変化することがないのは、演奏の指示が書かれた総譜だ。総譜は、コンサート・ホールに集まるすべての人間同士の関係と、その全員の関心の中心にある音の関係とが交差する地点にある。だから、シンフォニー・コンサートという儀礼に参加したいと望むのが、産業社会の住人、特にそこから最大の恩恵を受ける人々だということに、なんら不思議はないのである。

 

第8章 ハーモニー、天国のようなハーモニー

今夜の指揮者の身ぶりから生み出されるのは、楽器の最高音から最低音までの全音域が鳴り響く、とてつもなく濃密なサウンドだ。現代のシンフォニー・コンサートに使用されるすべての楽器は、滑らかなアタック音を出すことが可能で、じつにスムースな音色で演奏される。オーケストラが生み出すサウンドは極めて澄んでいて、雑音がほとんど見当たらない。ここで大雑把にノイズとは望まれない音、認識されないか、認識できたとしても好きになれない音、と定義することができる。シンフォニー・オーケストラの音の世界では、ベルやサイレンのように音高を明確に知覚できない音は、全音階的な七つの音にもその間の五つの半音にも還元できない。ドラム、銅鑼、シンバルといった、音高におさまりきらない音を出す楽器は、まさにそのためにノイズ楽器と見なされていて、めったに出番がない。

オーケストラが生み出すのは、波乱にとんだサウンドでもある。短時間のうちに多くの変化が起こって、聴き手に息つく暇も与えない。演奏中は、あたかも時間が凝縮されているかのようだ。コンサートを待ちわびた人のための、厳選された贅沢な時の流れが、ここにはある。大音量とソフトなそぅんど、複雑な音とシンブルな音、緩やかな変化と急激な変化、優しく上品な音と騒々しい音、ごく少人数の静かな演奏と全アンサンブルがめいっぱいかき鳴らす演奏、これらは、突然の変化やコントラストによる驚きの連続なのであり、そのすべてが、聴き手を絶え間のない興奮状態に保っている。言い換えると、これは目的を持った音なのだ。期待を生み出しながら聴き手を時間の流れに誘い出し、注意深く計画されたにとどまることを知らない緊張と解放の間を往復しつつ常にクライマックスを目指し、最終的に解決と終結に辿り着く。力と力が対立する葛藤の感覚が、常に付きまとう。最も穏やかな瞬間も、クライマックスと解決に向けた前進のために、瞬く間に音の波に押し流されてしまう。事実、シンフォニー・コンサートの演奏を聴くことは、ある目的に従って統制された力/権力のイメージを目の当たりにすることに等しい。

個々で、少しの間立ち止まって見る必要がある。というのも、本来、目的を持つ音など存在しないからだ。目的という観念が人間の構築物だということは、言うまでもない。ましてや目的を持つ音、聴き手に期待を生み出しつつ時間的に前進する音、という観念など、言葉を話したり理解したりするのと同じように、その慣例に従った幾通りもの音楽を演奏したり聴いたりした上でなければ、理解不可能なはずだ。だから、我々がそれらの慣例を、話し言葉の慣例になぞらえて「構文」と呼んだところで、こじつけにはならないはずだ。すべてのミュージッキングの文化には、生み出される音の関係をコントロールすねための、構文に相当するものがある。これは、ミュージッキングの参与者がそこで生み出される意味を共有するためには、不可欠なものだ。だが、構文が音楽のすべてではない。というのも、もし音楽の意味が構文で説明可能だとしたら、曲を演奏する必要などなくなって、我々は小説を読むように自宅で楽譜を読めば済むことになってしまう。現在のコンサート・ホールで聴くことのできるほぼすべての作品は、ある共通の構文を利用している。それが機能和声と呼ばれる、一連の手順の複合体だ。機能和声は、共時的かつ通時的な音の関連をある程度方向付ける。つまり、機能和声に従って配置された音は、ノイズではないのである。

機能和声とは和音と言う音の組み合わせの中でも、特に三和音を通時的につなぎ合わせることで、「意味」を作り出すテクニックのことだ。ある和音から特定の和音に移行することで聴き手に期待が呼び起こされる。予期していた和音がならないと、意味の未完成さを感じてしまう。反対に、我々が普通と感じる和音の展開の仕方もあって、それを完全終止と呼ぶ。完全休止とは、ある地点から始まる一まとまりのフレーズ内の全ての音の知友心となる主和音で始まり、緊張とクライマックス、そして解決を経て再び主和音に戻るという、循環的な動きのことを言う。我々は皆、子供頃からこの連続を認識して反応するように訓練されているので、たとえ和音の名前を知らなくても、一つの和音がなったその次に何を期待すべきか、実際のところはよく分かっているのだ。しかしこの循環は、期待の裏をかいたりじらせたりすることで断ち切ることができる。こうなると更なる緊張が生み出されるが、この緊張は予期しないような方法で、なおかつ期待通りの和音に最終的に着地することによってのみ解決される。それをいったんじらしたり欲求不満にしつつも、最終的には聴き手の期待を満たす。このゲームに似た感覚こそが、西洋のコンサート文化における作曲技能の主要な要素である。いかに我々が慣れきっているとしても、機能和声に自然なところなどない。あらゆる音高の無限の組み合わせから特定の音だけを選び出すという三和音の発想は、たしかに、よく使われる和声が比較的単純な数学的比率を成すという自然法則に基礎づけられている。どんな音楽システムとも同じで、西洋の機能和声のシステムも、多くの手間と時間がかけられた人間の構築物である。だから、この方法で喚起される聴き手の快楽は自然なものではない。この快楽が、特定の音楽システムに慣れることで初めてもたらされるのは間違いない。だがシンフォニーの演奏では、演奏を聴いた瞬間に生じる満足感もある。音楽の喜びは作品形式の鑑賞によってしか得られないとか、形式が完璧でない限りは快楽はないと信じている人々もいる。

西洋クラシック音楽の専門用語に慣れていない人は、自分が機能和声のことを理解できていないと思うかもしれない。しかし、和音や和声同士の関係の呼び名を知らなかったり楽譜に書いたりできなくても、実際には母語が分るように理解している。もしハーモニーがいかに動くかを理解していなければ、壮大なスケールのシンフォニーやコンチェルト、あるいはこじんまりしたポピュラー・ソングに関わらず4セス気知覚の西洋音楽の本質を基礎づけてきた、緊張と解放、クライマックスと解決を感じられないはずだからだ。ほとんどの人々が機能和声の意味を学ぶのは、コンサート・ホールやクラシック音楽の録音からというよりも、映画やテレビに使用される音楽を通じてである。いずれにせよ機能和声は、シンプルな形であれ、コンサート・ホールだけにではなく大衆音楽や民衆音楽にも、ほほすべての西洋世界の音楽制作に浸透している。これは、我々の誰もが知らず知らずのうちに母語を学ぶのと同じように、我々全員に共通した音楽の理解の仕方なのだ。もちろん言語と音楽との間には違いもある。母語が分かるということは、他者の話し言葉を理解できて、なおかつ自分もその言語を話せるということを意味する。しかし、音楽の場合は、機能和声の生み出す効果を聴き分ける技能と、機能和声で意味を作り出す技能の間には壁がある。そして、その壁を乗り越えるには、長く専門的な訓練が必要とされてきた。本当のところは、楽器を弾いたり歌を歌える人なら誰でも、「スーツを心地良く着古す」くらいには機能和声の形式を習得することができるからだ。そして、母語に必要なのは学校ではなく普通の会話であるように、そういうやり方こそが大衆スタイルのミュージッキングに不可欠なのだ。あらゆる世代のミュージシャンが、そうやって機能和声を効果的に使っている。

和声理論には、別の側面がある。音高の閉じた循環を可能にした、平均律と呼ばれる要素がそれだ。このように音高同士の関係が、特定の音楽を演奏するための全体的なシステムに支配されていることは間違いない。我々が想定しているように、あるミュージッキングに参加する人々が理想とする人間同士のつながりが、音の関係に隠喩的に表われているとすれば、音高や音程はパフォーマンスにおけるすべての繋がりを基礎づけるはずだ。平均律は高度に抽象的で数学的な概念であり、キーボード楽器は言うまでもなく、ほぼすべてのシンフォニー・オーケストラの楽器に普遍的に使用されている。平均律に基づく曲や演奏を、我々は抽象的で数学的な音として聴くわけではない。自然な音として聴いているはずだ。だがそこにこそ、西洋産業社会の自然に対する態度が示唆されている。機能和声と言う技術は、論理と劇とを不可分に結びつけている。というのも、作曲家が和音進行を劇的に、かつウィットに富んだ意外性で飾り聴衆を喜ばせるということは、結局のところ、聴き手を驚かす和音の進行をハーモニーの論理に則って選び出すことに他ならないからだ。過去4世紀のあいだ時代を築いてきた作曲家たちは、もっと大胆で新規な驚きを作り出そうと、自らの作曲のハードルを上げ続けてきた。

 

インターリュード3 社会的に構築された意味

我々は儀礼において、「結び合わせるパターン」、すなわち心という巨大なパターンとそれを含めた世界に存在するあらゆるものや観念の結びつきのパターンを、十全に経験する。もちろん我々は、この結び合わせるパターンのことを、あたかもモノのように客観的に知ることはできない。知識(のパターン)とは、我々の内的な心の過程と外界との結びつきをいう。そして、知識とは心という過程で行われる能動的な斬り結びの結果であり、それは個人によって、また社会的、文化的集団によって多様である。実際。誰もが、世界や世界に存在する関係を異なった風に理解している。我々はこの世に生まれ落ちた瞬間から、自分たちにとって価値のある関係、覚えておくべき事柄、世界と経験の分類及び秩序付けの方法を、学び続けている。つまり、我々の価値観や世界の把握の仕方は、生まれつきのものではない。外界との一人ひとりの能動的な斬り結びの結果なのだ。これらの知識は経験によって変化するものだが、歳を取るにつれて根本的に変化する可能性は狭まっていく。

どの関係に価値があるかは、経験を通じて学ばれる。従って、理想的な関係についてのイメージが個人間で異なるとしても、一定の経験を共有する社会集団が抱く理想は似通ってくるし、その理想が集団内でさらに強められることもある。それこそが社会集団を定義づけているかもしれない。人間同士の関係や、人間と世界とのつながりについての前提の共有こそが、社会的文化的集団を一つにまとめ上げるのだ。さらに、その集団は自分たちの価値観を後の世代に伝えようとするだろうし、事実全ての社会集団は、公式か非公式かを問わず、そのための制度を備えている。そして、今日の産業社会では学校がその機能を持つ。以上のことは、我々一人ひとりが抱く現実感は客観的でも絶対的でもないということ、社会学者の言い方を借りると、社会的に構築されているということを意味している。リアリティは、学習によって築かれた、世界に存在する諸関係についての前提で構成されている。家族や恋人、組合やクラブのような小規模にものから、帝国や国家のような大規模なものまで、人間の集団は実に多様だが、どの集団もリアリティがもたらす意味なしにはありえない。何をリアルと捉えるかの感覚は、経験や性格の上で唯一無二の個人と、彼/彼女が所属する社会集団の価値観との間の、弁証法的な過程で身につけられるのだ。

そう考えることで我々は、ミュージッキングが社会や自己を定義づけるのにこれほど強力な手段として機能し続け向けている理由も把握できる。というのも、各々の社会集団がもつ価値観(世界のつながりや結び合わせるパターンについての概念)が異なれば、音楽パフォーマンスの場で実演される関係も、異なってくるからである。すべての音楽パフォーマンスは、特定の歴史的状況における特定の社会集団の価値を表現する。そしてどのパフォーマンスも、他に比べてより普遍的だったり絶対的だったりすることはない。どんな集団も、その組織や価値観を変化させるのだから、「特定の歴史的状況」も重要な要素だ。それらが変化すれば、ミュージッキングのスタイルも変化する。これまで見てきたように、コンサートと呼ばれるミュージッキングのスタイルは、西洋産業社会における中産階級の勃興に伴う近代的な現象であり、そこには彼らの価値観が表現されている。他方で、こりミュージッキングが過去の作品を使用しているという事実は、その作品の形式を決定づけた諸関係が、その作品が生まれた時代から現在のオーケストラの組織にまで、持続していることを示している。

音楽パフォーマンスに参加するすべての人は、自分自身に、参加者同士に、周囲のすべての人々に向かって、「これが私たちなのだ」といっているのに等しい。さて、今その「誰か」が、ある社会が社会化されてゆく過程で支配的な立場にいる人々だとしよう。しかも、その「私たち」が彼らの属する社会のその他の集団に対する根本的な優越性を自負しているとしよう。おそらく彼らは、自分たちのミュージッキングの形式こそが最高のものだと考えて、自信をもって、それをその他の人々に押し付けるだろう。そして、自分たち以外のミュージッキングの文化を劣ったものか、せいぜい自分たちの物真似に過ぎないと決めつけるだろう。

しかし同時に、「私たちが何者なのか」は、一人ひとりの「私は何者なのか」という観念によっても成り立っている。我々の誰もが同時にいくつもの社会集団に属しているのだから、どの価値観を採用して、どの関係を理想とするかには、ある程度の選択の余地がある。だから、「私は何者なのか」ということは、そんなに簡単には決められない。パフォーマンスのある文脈で個人が何者であるかは、彼/彼女が何を選択するか、自分自身がどうありたいと想像するかによっても、変わってくる。だから、「私たちは何者であるか」とは、「私たちはどうつながるのか」ということに他ならない。そして、音楽パフォーマンスによって表現される関係は、実在するものというよりは、ミュージッキングの参加者がそうあって欲しいと願う関係なのだ。

ここで我々が追求するのは次のことだ。世界に存在する複雑な諸関係を教え、それを印象付けるには、ミュージッキングやダンスを含む儀礼と呼ばれる偉大なパフォーマンス芸術が喚起する感情の方が、言葉よりもずっと有効なのではないだろうか、ということだ。音楽と感情の関係については、伝統的な一連の問題がある。学者もミュージシャンも、長年次のような問に悩まされ続けてきたが、音楽には感情というものが存在しているのだろうか?音楽はその外部にある何かを指し示すようには見えないが、だとすると音楽は何についての表現なのだろうか?音楽は音の心地良い組み合わせに過ぎないのだろうか?これらの疑問には、表面的にはまったく異なる二つの接近法がある。第一の見方は次のようなものだ。音楽は感情(ないしは感情群)のコミュニケーション、表出、表象に関わっている。そして、音楽は人から人へ、つまり作曲家から聴き手へと、演奏者を媒介にして感情を伝えることを可能にする。この見解はアカデミックな世界では、表現主義と呼ばれている。これと正反対なのが形式主義として知られている立場で、これによると、正しい音楽の認識と感情には何の関係もない(もちろん、ミュージッキングが感情を喚起することは否定しないが、ここでは音楽によって喚起される感情が軽視されるか、音楽の高尚な死命を傷つけさえするものとされている)。音楽の適切な目的は純粋で公平な美学的経験であり、そこには作曲家が出現させた音のパターン、音の形式、驚きをもたらす音の組み合わせという、美の黙考以外の何物も含まれていない。この見解の極端かつ最も厳格なヴァージョンは、音楽的響きがもたらすいかなる感覚的な快楽も否定する。私は、このどちらも私個人のミュージッキング経験にはあまりよく当てはまらないと、常々思ってきた。もし表現主義の言うことが正しいとして、一体どうして人々はそれほどまでの労力をかけて感情を伝達し合わなければならないのだろうか?なぜ聴き手はその感情を受け取りたくてたまらない、ということになっているのだろうか?これらの疑問は、常識的な感覚に基づいている。結局のところ、我々は他人の感情を感じることなしに、自分自身の感情を十分に持っているはずだからだ。反対に、音のパターンという抽象的な美の黙考自体が目的なのだという主張は、独我論的とまではいかないとしても、かなり自己中心的な営みに見える。形式主義はまた、ミュージッキングが高度な社会的な経験だということ、それこそが私が常にミュージッキングに見出す特徴なのだが、をほとんど無視している。

二つの学派は、実は見かけ以上に共通する部分がある。第一に、どちらの学派の思想も、感情の本質とその人間の生における機能についての問いを携えていない。どちらも感情を、嬉しいか悲しいかを表す独立した心的状態として片づけていて、感情にたいした意義を見出していない。第二に、どちらの学派の思考も、音楽の「モノ性」を前提としている。注意深く検討してみれば彼らの議論における「音楽」は、一般に曲や音楽作品を意味していることに気づかされるだろう。曲や作品の概念所与であることに気づかされるだろう。これらに疑問が差し挟まれる余地がないのだ。ここでも、パフォーマンス行為そのものが意味を生み出すということが無視されている。第三に、どちらの学派も、17世紀以降のシンフォニー音楽やその作品が、数あるミュージッキングの一つに過ぎないという事実を認識することに、失敗している。そこから人間のミュージッキングを一般化することは、その他の音楽文化にはまったく無関係なミュージッキングのあり方や、スタイルの理想を押し付けるのに等しい作業だというのに。

ここで我々は、再びベイトソンに立ち戻る。彼は音楽と感情の関係についての問題を解決する概念も提示している。というより、そこに問題などないことを理解させてくれる。ベイトソンは、感情は独立した心的状態ではなく、関係のあり方についての計算が意識の中で共鳴する様なのではないかと示唆する。計算とはベイトソン自身が使用する言葉だが、彼はこれによって漢字用に関する議論についてまつわる曖昧さや混乱を避けて、正確かつ明晰に語ろうとしている。今、すべての生物が、「私はこの実体とどう関わるべきか?」という問いに対する解答を、生存のために必要としているとする。すると、ます彼らには、この関係についての情報を、自分自身に対しても表象する必要が出てくる。そして、そのためには、生物は最低限の意識を備えていなければならない。即ち、関係が特定の感情の状態を喚起して、それが意識されるのだ。従って我々が幸福と呼ぶものは、愛されたり望まれたりすることが意識の上に出現する時の表象であり、悲しみはそれが欠如していることに対する反応なのだ。他方で、恐怖は生存を脅かしうる実体を知覚する時の表象である。

したがって、もし音楽することが、我々の世界に存在するいくつもの関係を言葉で表わすだけではなく、実際にその只中に身を置いてそれらを経験することも意味するのなら、それが強烈な感情の反応を引き起こすことに驚く必要はない。ところで、その感情とはパフォーマンスによって引き起こされるのではない。感情は、パフォーマンスがうまくいっていることの、ミュージッキングへの参加者が気持ち良い、もしくは理想的と感じる音や関係が、パフォーマンスの最中に実現していることの、徴なのだ。私には、悲しい曲を聴いて悲しくなるとか、ハッピーな曲を聴いて嬉しくなるとかいうことが、良いパフォーマンスに参加することで引き起こされる複雑な感情の動きの。粗雑な単純化に思える。我々はミュージッキングの最中に、正しいと感じられる関係や理想的なつながりを、全身と全感覚器官で経験する。意気揚揚とした喜びや何かを達成したかのような感覚は、ここから生み出される。そうすることで我々は、「これこそが本当の世界のパターンなのだ」「こここそが私たちが本当に所属している場所なのだ」と感じることができる。

そもそも、ある曲が悲しいとか楽しいかいう考え方は、17世紀以降の西洋におけるオペラやコンサート音楽に支配的だった表現的な様式にしか存在しない。この主張は、同時期に発展した音楽表記のシステムに依拠したものだから、どの音楽にも普遍的に当て嵌まるなどということはあり得ない。音楽の行為は関係に関わるものであり、そこで喚起される感情状態は、ミュージッキングが機能しているということの知覚でしかない。

音楽と感情のつながりでいえば、音楽の哲学的な考察には、もう一つの重要な問がある。即ち、「作曲された音楽作品の意味はどこにあるのか?」というのがそれだ。絵画や映画、小説などの場合では、芸術作品がその外部世界にある何かを指示していて、それが作品の主題の理解を容易にしている。だが楽曲は、一見したところ、作品の世界以外の名にも指示していない。一般に音楽作品は、抽象的で非表示的な音そのものとしてしか知覚できない。だとすると、これは何についてのものなのだろう?音楽作品は何かについてのものでありうるのだろうか?ここで再び音楽を、モノとしてではなく、本来的に行為なのだと考えてみよう。その行為とは、言うまでもなく関係に関わっている。すると、音楽作品がもつ意味は。曲の演奏時に出現する関係性のなかに存在することが見えてくる。ここには二種類の関係がある。ひとつは楽譜という指示通りに演奏することで生じる音の関係であり、もう一つはパフォーマンスに参加する者同士の関係である。不変の音楽作品がある場合は、音の関係が変化することはない。他方で参加者同士の関係は、参加者の構成、環境、参加者がそのイヴェントに対して抱く期待などが違えば、異なってくる。したがって、音の関係は、音楽パフォーマンスという人間同士の出会いの本質や意味の重要な部分を担いはするものの、パフォーマンス全体の意味を構成するわけではない。すでに見たように、西洋クラシック音楽の文化では、音の緊張と緩和、クライマックスと解決、発展と変奏を表現するドラマティックなものであり、参加者はそこに人間関係の発展を知覚している。つまりパフォーマンスは、人間関係についての物語として把握することが可能なのだ。

パフォーマンスの背後にある物語や理想的な関係は、我々の文化の別の物語の形式と同じくらい堅固に、西洋の伝統的思考法の一部として定着している。この二つは、作品自体は長期間変化していないのに、作品を読んだり演奏したりするという行為の意味が時代と共に大きく変化しているという点で実によく似ている。つまり、作品を演奏する際には、同時に二つの意味が生じるのだ。そして、二つの間の緊張は時間の経過と共にどんどん大きくなってきたが、不変の作品がなければこの緊張は起こり得ない。だが不変の音楽作品のあるなしにかかわらず、すべてのミュージッキングは、我々が自分と世界とのつながりを物語る過程なのだと考えることができる。その物語は意味は身ぶりの言語によって伝えられるが、そこには名詞がないし、時制も常に現在形だ。このことが意味するのは、一つにはその物語で語られるのが誰・何についてのことかが分らないということ、そしてもう一つは、そこで語られる世界の関係が言葉で表現し得るよりもずっと豊かで複雑だということだ。

広い意味では、すべての人間のミュージッキングは、自らの物語や自分と世界とのつながりを、自分たち自身に向けて語る行為なのだということができる。どの音楽パフォーマンスも時間とともに進化するし、パフォーマンスがもたらす関係も常に進化の途上にある。一緒にパフォーマンスを経験すれば、参加者同士の関係も変化する。我々が何者なのかというアイデンティティも、パフォーマンスを通じて理想的なつながりを確認したり、もしくはそれを揺るがされたりすることで、多少の変化や進化をとげるだろう。音楽する時、我々はこうしたつながりのただなかにいる。パフォーマンスが生み出す世界にわざわざ入って行こうと努力する必要などない。我々が望もうと望むまいと、その世界は否応なく我々を包み込むのだ。

ミュージッキングに限らないすべての芸術の活動が、基本的に人間同士のつながりについての活動だ。あらゆる芸術は、関係を表現する。生物学的な身ぶりの言語を操作することで行われる。それらが適切に理解されれば、すべての芸術は行為、すなわち「パフォーマンス・アート」と呼びうるものであり、その意味が創られたモノにではなく、創る、見せる、知覚するという行為の方にあることが分かるだろう。芸術とは、人間同士のつながりや人間を結び合わせるパターンの関係について理解できるようになるための活動に他ならない。我々は全身で、芸術と呼ばれるあらゆる活動を考えている。芸術こそは、デカルト的に心身分離の態度を否定するのだ。こうして結び合わせるパターンに直接触れることは、喜びをもたらすだけではない。ミュージッキングは、そのパターンがどんな形をしているかについても教えてくれる。

どんな種類の音楽パフォーマンスであれ、我々がそこに参加して、音楽する時、我々は、結び合わせるパターンの本質を探り、その妥当性を全身で確認し、自分たちとそのパターンとのつながりを祝っている。そして、パフォーマンスの最中に出来上がる関係を通じて、我々はそのパターンや関係について学ぶように仕向けられる。それだけではない。我々はパフォーマンスが続く限り、言葉では決してできない方法で、パターンと関係を複雑なままに経験するのだ。「我々は何者なのか」は、「我々はどう関わるか」にかかっている。我々が誰かを同定しようとすれば、我々はその人物とのつながりを知る必要がある。我々の関係こそが、我々を同定するのだ。アイデンティティの変容は他者と間関係の変化を意味するし、反対に、関係が変わればアイデンティティも変化する。だから、気の合う同士がミュージッキングを通して互いの結びつきを確認し、祝うことは、「我々が誰なのか」という感覚を探り、祝うことに他ならない。そうすることで、もっと充実した形で自己を感じることができる。要するに、それは気持ちがいいのだ。我々は、すべての不要なものごとを捨て去ったところで、「これこそが世界の本来のあるべき姿なのだ」と、「この世界こそ、我々が本当に属する場所なのだ」と感じる。そこで我々は、ほんのしばらくの間とはいえ、あたかも理想の世界に、正しいつながりに満たされた世界にすることを許される。この探究や確認の行為が意識的になされる必要はないし、少なくともこれらは言葉で表現できない。しかし祝うという行為の方は、言葉で表現されることがありうる。

音楽することが生きた世界のつながりを探求し、確認し、祝うということについての解釈の具体例は、実際にも、伝統社会のいたるところで発見できる。この考えが正しいのであれば、これほど多くの人々が、ミュージッキングをある種の〈神〉とのコミュニケーションだと言い、またミュージッキングが〈天球の音楽〉や〈祖先〉との共存の感覚をもたらすということに、まったく不思議はない。音楽の道徳的で倫理的な力や、音楽を通じて深層心理に分け入る方法について、これほど多く語られるのも不思議ではない。人類が神々を呼び起こすために、とりわけミュージッキングを用いることも不思議ではない。なぜなら神とは、結び合わせるパターンや正しいつながりのパターンが隠喩的に具体化されたものであり、神を呼び起こすことは、これらのパターンの神聖さや不可侵性を確認することに他ならないからだ。さらには、プラトンが音楽の旋法と国家の体制に繋がりがあると考えたことにも、不思議はない。

私は、これらの音楽経験の解釈を無意味だとか無用だというつもりも、またそれらの解釈を「単なる」隠喩にすぎないと貶めるつもりもない。その反対に、私は、音楽的行為の意義についての自分自身の考えの妥当性を、世界中に存在するミュージッキングの理解の仕方に照らし合わせることで、試したいのだ。それにどんな場合でも、隠喩は「単なる」何かではない。隠喩は「単なる」何かではない。隠喩は、我々が自らの経験を理解するための最重要な手段に他ならない。自らの感情や行為を正しく理解するための隠喩を創り出し、それによってより良く生きることこそ、我々のなしうる最良のことである。ベイトソンが我々に遺した「結び合わせるパターン」というイメージも、その一つだ。生きた世界にはっきりとした輪郭をもって放たれた個の隠喩は、我々が音楽するときに、字際に起こっていることを理解可能にしてくれる。そうすることで、この活動をめぐる数々の誤解や先入観から我々を自由にして、我々の内側にあるミュージッキングの力を取り戻させてくれる。「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」という有名な諺が意味するのは、次のことだ、儀礼という統合的なパフォーマンス芸術が断片化したものとしての、一つひとつの芸術活動のなかでも、もっとも直接的で濃密な結び合わせるパターンやつながりを経験できるのがミュージッキングである。音楽のことを、芸術の中で最も抽象的なものだという人々がいるが、それは間違っている。真実は逆で、音楽することこそは、あらゆる芸術の活動のなかで、最も具体的で、かつ媒介の少ない活動に参加することなのだ。

 

第9章 劇場のわざ

「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」しかし、少なくとも17世紀の初頭以降、音楽を含むすべての西洋の芸術は。劇場、即ち劇作家、役者、そして役者の身ぶりというわざにも憧れてきたのだった。

我々は、他者についての情報や、他者との情報の大部分を、身体による身ぶりのパターンから得ている。我々は殆ど気づかないままに、他者の身体の動きや姿勢、顔の表情、声の調子、抑揚のバターン様式から、その人物と自分との関係を解読しようとしている。れ我は日々、言葉にすることなくそれらをつぶさに観察して、自分と他者との関わり合いについての豊富なニュアンスを見分けて解釈している。と同時に、我々自身も、身ぶりによって周囲にサインを出している。サインにも意識的なものも無意識的なものもあるが、これらを解釈するのは他者である。社会的相互作用の観点からすると、無意識のうちにやりとりされる身ぶりにこそ、我々の本性を知る手がかりがある。そして、他者との関わり方についての最重要な手がかりも、そこにある。役者のわざとは、日常的にほとんど無意識に行われる、身体や声による身ぶりのパターンを巧みに操作することなのだ。

西洋のコンサート音楽も、演劇の状態に憧れる芸術表現の一つに他ならない。ミュージシャンが聴衆に対して表現するのは一連の利関係であり、その表現方法や聴衆の解釈の方法もミュージシャンと聴衆の双方が学習した慣習に基づいている。だとすると、西洋のコンサート音楽の技術的革新の源泉が劇場であり続けていることは、何ら驚くに値しない。モンテベルディ、カッチーニ、ペーリといった音楽家が音楽の合図と身ぶり、すなわち音の関係の語彙を、初めて体系的に発展させた。この音楽的な語彙は、人間同士の関係やそれに伴う感情だけでなく、登場人物の役どころや気質までをも表現できた。それらの音楽による身ぶりや感情が、歌手が演じる登場人物同士の関係が展開していくストーリーのなかに、配置されたのだ。こうして、歌手は役者に、作曲家は劇作家になった。そして、かれらは共働して劇のペース配分やタイミング、緊張と緩和のコントロール、クライマックスと結末への導き方等のテクニック、つまり劇という芸術の核心をマスタへしようと奮闘し始めた。音楽によって身ぶりや感情、すなわち関係、を表現する方法は、劇場風の仕掛けや工夫と共にステージ上で実演されることでますます確立していったし、聴衆もそれを容易に理解するようになった。音楽による身ぶりがシンフォニー音楽という、更に抽象的な劇にも使用されるようになったのは、聴衆がオペラで演じられる劇の意味を完全に理解した後、更に時代が下がってからのことである。機能和声の本格的な発達がオペラの発展と同時に進行したことは間違いない。緊張や欲求不満、欲望や充足、結末を引き延ばして焦らす等の効果を生み出す機能和声は、オペラの目的にぴったりだったからだ。機能和声が展開する時に生じる「喚起─クライマックス─解決」の循環は、性的な興奮と満足の循環に対応している。作曲家はこの音楽的な語彙を存分に利用した。17世紀初頭の音楽的な表現に目新しかったのは、次の二点である。第一に、音楽の身ぶりが身体の動きから分離して、聴き手が着席して不動のままに聴きはじめたということ、第二に、音楽の身ぶりが、特定の感情や気分を伴う身体の動きや声を表現し始めたということである。(音楽が直接に感情や気分を表現するものではない)。音楽の身ぶりが隠喩に表現しようとしたのは、聴衆がそれを聴いてどんな感情や気分を表しているかを認識できるような、身体の動きだった。これを達成するには、演奏の場から距離を置いて、外から眺めるように音楽を組み立てる必要があった。実際、この新しい芸術様式を生み出した巨匠たちは、表現をより完全なものにするために、意識的な努力や意見の交換、論争をしたし、彼らの試みのなかには多くの失敗もあった。

オペラやそれに続くシンフォニー音楽が劇場から学んだのは、緊張や緩和、クライマックスや結末を、ハーモニーの進行を通してコントロールする技術だけではない。オーケストラという一丸となった楽器の音質と音の肌理も劇場の舞台から発生したものだった。オペラのレパートリーが葬送の行進、勝利の行進、祝賀、悲しみと親しみの告白に満ちているように、シンフォニーもそれらの場面で満たされている。そこに登場人物の感情や彼らの性格が、対立、和解、衝突、敗北、勝利の場面に重ねられる。以上の事実から、音の形式という抽象的な美を鑑賞するための「絶対音楽」などというのが、西洋コンサート音楽の文化には実在しないことが分かる。反対に、演奏家としてであれ聴き手としてであれ、シンフォニーの演奏に参加するということは、まるで劇場にいるように、人間同士が生々しく関わり合うドラマに加わるということなのだ。だから、作品が演奏される時に聴き手と演奏家の両方が受け取る劇的な意味は、「音楽外のもの」などでは決してない。反対に、それらこそが作品の音楽的な意味なのだ。そのドラマは音の関係のなかに埋め込まれている。それは余分なものとして片づけられるものでも、本当の音楽的意味にくっついているおまけに過ぎないものでもない。

従って、聴き手がじっと鑑賞することが前提の純粋な器楽曲が、「ドラマティックな表現様式」の成立以後の17世紀初期に初めて発達したということは、単なる偶然ではない。ドラマの表現は、作曲家、演奏家、そして聴き手に、演奏家ら距離を置くことや、音の中に表現されたり、身体化されたりするものを見抜くための、ある種の分析的な心構えを要求する。それにこのドラマ的な様式は、音楽家と完全に別の役割を持ち、表現の本質を見極めようと客観的な態度でいる聴き手の存在を、暗黙の裡に前提としている。当然ながら、表現とは表現する側だけで完結するものではない。つまり、あたかも絵画を眺めるように、聴き手は外部で曲を聴かなければならないのだ。世界中のほとんどのミュージッキングや、ヨーロッパ初期のミュージッキングでは、曲には聴き手を参加させる役割があるが、ここにはそれが欠けている。曲の方が聴き手を観客として遠ざけているのだ。曲が完璧なのだから、聴き手はその演奏に集中する以外に、曲の本質に貢献し得ることはない、というわけだ。近代のコンサート・ホール文化に特殊なのは、聴くこと、それも演奏から完全に切り離された瞑想的な聴取、自体がパフォーマンスの目的になっていることだ。そこでは、演奏行為自体は、もはやミュージッキングの中核をなしていない。演奏は、それ自体に意味や満足が見出しうるものではなく、音楽作品を聴き手に差し出すのに必要な、単なる手段に成り下がってしまった。しかも、一人ひとりの聴き手も孤立して聴いている。ある聴き手が別の聴き手と関わることにも、何の意義も与えられない。今日のコンサート・ホールの演奏では、音楽作品は何をおいてもまず「聴き手」のために存在していることになっている。作品は、演奏家の方に向かってではなく、聴き手のいる外側の方を向いている。重要なのは聴き手に対する影響なのだ。にもかかわらず、聴き手の反応は決して考慮されることはない。かれらは、作品との間に私心を差し挟んだりしない、透明な存在であることが期待されている。

 

第10章 関係を表現する音楽のドラマ

小説か演劇か、映画か交響曲かに限らず、過去三百年あまりの間に西洋社会でつくられたすべての物語り行為の背後には、ある大きな物語もしくはメタ物語が横たわっている。それはストーリーを形作ったり、描かれる出来事の本質を示すだけではない。物語の手法そのものをも支配するのだ。それは次のような短い文章にまとめることができる。

秩序が確立される。

秩序が覆される。

秩序が再び確立される。

完璧な秩序には物語を駆り立てる緊張感がないが、最初の秩序が提示されたそのすぐ先には、波乱含みの変化がひっそりと待ち受けている。つまり、最初に提示される秩序が、何らかの形で変化させられなければならないのである。そうでなければ物語が成り立たない。一般的に秩序は次の四つの原理のうち、いずれかの方法によって再確立される。第一に、主人公が不安要素を克服したり退けたりする方法。第二に、主人公が不安に順応したり妥協したりする方法。第三に、主人公が不安と和解する方法。最後に、主人公が敗北するという方法。ここで問題になるのは、読者や観客、そして聴き手が、勝者と敗者のどちらに自らをアイデンティファイさせるか、ということだ。ある秩序とともに始まり、別の秩序とともに終了する。こうして物語は、明確な始まりから明確な終わりに向かって進んでいく。最後に現われる秩序は完璧かつ自足的で、登場人物やかれら同士の関係についても、もはや何も言うべきことが残されていない。エンディングは、演奏が始まったその瞬間から、既に期待されている。どの登場人物も、最初に読者や観客の前に登場した時のパーソナリティのまま振る舞うことらなっている。つまり、ストーリーは作者が考えた筋書き通りに発展することになっている。より厳密に言えば、すべての出来事はストーリーが上手く展開されるように最初から関連付けられているのだ。つまり、登場人物や出来事を効率よく配置することは、大方の読者や観客の好みに応えることなのである。クライマックスや結末の有無も含めて、物語がどう始まり、どうクライマックスを経てどう結末を迎えるのか、という物語の約束事にも、人間の生にとっての秩序の理念が示唆されている。秩序を構成するのが何で、どんな秩序が望ましく、どんな秩序が不安に値し、どんな出来事に意味があり、どんな対立と解決が決定的か、等がそれにあたる。価値観とは、そこで物語れる内容と同じくらいに、物語られる様式自体のなかにも埋め込まれているのだ。

シンフォニーに展開される物語と小説の間には、著しい類似がある。カノン形式やシンフォニー形式といった分類法は、シンフォニーが劇的なものが利として理解されるようになった、ずっと後に出来たものに過ぎない。我々は形式の完成度を味わうために小説を読むのではないし、小説家にしてもそのために書くのではない。同様に、まともな作曲家であれば、自分の作品を「完成された形式」のモデルに合わせようなどと努力するはずがない。そうではなく彼は、自らが紡ぎ出すドラマをもっと効果的にしようと、聴き手の反応を最大限に喚起しようとするはずだ。完璧な形式と呼ばれるものはドラマティックな効果の結果なのであって、原因ではありえない。今日、ソナタ形式と呼ばれているものは、衝突と解決というドラマに対応するために発達してきた物語の技術で成り立っている。楽譜の研究を通じて発達した、ソナタ形式という概念とその分析概念は、限られた範囲では確かに有用性を発揮したものの、概してミュージシャンにある誤解をもたらしたと言える。時間と共に展開する音の出来事を、静止した構造として、あたかも全体を見渡すかのような視点がもたらされたのだ。静的な構造という概念には、永久不変性か少なくとも永続性の含みがある。しかも、いったん音楽作品を構造として見始めると、パフォーマンスの儚さやダイナミズムとは無縁なイメージが喚起されやすい。すると我々も、パフォーマンスのことを、せいぜい作品の本質や意味に付随するものにすぎないか、更には作品と無関係なものとさえ考えるように仕向けられている。もし、多くの音楽学者が真剣に考えているように、音楽作品の喜びが構造の知覚のために起こるのであれば、我々は演奏が終わるまで作品を楽しめないはずだ。というのも、作品の構造を完全に知覚できるのは、演奏の最後の瞬間に限られるからである。この考え方は不条理なばかりか、我々が実際に音楽パフォーマンスを知覚する方法とは絶望的に異なっている。もし作品の喜びが曲の鳴り始めた瞬間からもたらされるのでなければ、誰がその続きまで聞こうと思うだろうか。不思議なことに、まるで西洋のコンサート文化だけが、このことを十分理解していないかのようだ。我々は、音を共時的で通時的な組み合わせとして聴いて、それを心の中で関係として位置付けることで意味を創り出す。ドラマ的な物語は、音の関係から直接に導き出される。構造を知覚しようとすることは抽象へと向かうシフトに他ならないが、楽譜に書かれたものを理解したい人々にとっては、これは間違いなく正当な活動だ。

シンフォニー作品についてのより実りのある理解の仕方は、シンフォニーを壮大なメタ物語、すなわち、秩序が打ち立てられ、それが揺さぶられ、新たな秩序が打ち立てられる物語として把握することだ。たとえ通の連中がソナタ形式だ何だと教えたところで、音楽的に訓練されていない素朴な聴き手がシンフォニーを第一にドラマティックな物語として聴くことには、何の間違いもない。分け我は完全な形式を聴くために、シンフォニーを聴いているのではない。

 

第11章 秩序のヴィジョン

音楽的な表現とそれが表わす身ぶりの対応関係は、字義的というよりは隠喩的なものだから、その試みは部分的にしか達成されてこなかった。だから、どんな種類の芸術的な身ぶりとも同様、音楽的な身ぶりが唯一の単声的な意味しかもたれないという主張はありえない。このことは、一つの物語に対する複数の解釈の可能性や、一つの作品が演奏され聴かれる時に、二つ以上の物語が同時に生じる可能性が、我々に残されていることを意味ずる。このため、音楽作品ではある緊張が生じる。つまり、特定のやり方で配置された音楽的な身ぶりで構成される作品が意図する意味と、特定の機会にその作品を演奏するという全体的な行為(ミュージッキング)の意味との間の緊張のことだ。音楽的語彙の体系化はまた、「音楽」の意味についての問いを立てたりそれに答えようとする際の混乱をもたらした。つまり、彼らが「音楽」という時、それはたいてい音楽作品のことを指すのである。音楽などというモノは、実際には存在しない。私が示唆してきたのは、シンフォニー作品が演奏されるとき、ステージ上では、ある秩序が破壊されて新たな秩序が確立されるという人間関係の変化と発展の物語が表現されているのではないか、ということだ。

実際、いかなる音楽パフォーマンスにも、それが楽譜に基づく音楽かそうでないか、作曲された音楽か即興で演奏される音楽か、意識的に作られ意識的に受け取られる類のパフォーマンスかそうでないかに関わらず、同じことが言える。社会的な存在として(音楽の作曲も演奏も完全に社会的行為である)我々は常に、身体の姿勢と動き、声のイントネーション等を使って、信号のやり取りをしている。そして、それらの信号をやりとりすることそが、他者との関係を確立したり知覚したりする、重要な手段なのだ。我々は自らの身ぶりを部分的にはコントロールできるかもしれないが、誰のコントロールも完ぺきではあり得ない。実際、身ぶりこそが意識的なコントロールの及ばないところで我々自身のことを赤裸々に語る言語だ、とさえいえる。もちろん、我々は作曲する時であれ即興する時であれ、ミュージシャンの作り出す身ぶりがどれほど意識的なのかを実際に知ることはできない。即興するミュージシャンは、演奏中に自らの身ぶりのすべてを意識的にコントロールすることは不可能だという事実を受け入れる。そして彼らは、意識下のガイドに任せてパフォーマンスすることに満足している。しかし、楽譜を見て演奏するミュージシャンは、楽譜に書かれていることのすべてを意識的にコントロールすることを目指しているし、目指さなければならない。楽譜と共に演奏することは、あたかもそんなことが可能かのような幻想を生み出すのだ。その証拠に、ベートーヴェンのノートには、すべてをコントロールしようともがき苦しんだ戦いの痕跡が残っている。だが、いかに心からそれを達成したいと望んだとしても、どんなミュージシャンも、神業的な職人のベートーヴェンやチャイコフスキーでさえも、すべての音楽的な身ぶりを完全にコントロールしたことはなかった。それに自分たちの仕事の意味を完全に理解したという作曲家も、一人もいない。彼らは、西洋コンサート=オペラ音楽文化の全ミュージシャンの頭のなかにあったメロディやリズムの莫大なストックから、自分なりに特定の質や関係を表現しようと、いくつかを選び出したのである。彼らはコトバの言語によって考えていたのであり、自らの芸術的な選択を、言葉を織り込みことなく身ぶりの言語で行ったのである。

 

第12章 コンサート・ホールではいったい何が起こっているのか?

コンサート・ホールで起こっていることは、その他のどんな音楽パフォーマンスで起こっていることとも、本質的には何も変わらない。つまり、歴史上のある瞬間に、ある社会的集団の成員が、ある儀式で、人と人とのある特別な関係に焦点を合わせるために、ある特別な音を使っているのだ。その儀式では、集団の価値観が探求され、確認され、祝われる。私はこれまで、この探究、確認、祝うという三つの言葉を多用してきた。その理由はこうである。ミュージッキングが関係に関わるものだが、この関係は、我々の生活の中に実際に存在するものというよりは、我々がそうあって欲しいと望んだり、経験したりと切望したりする関係のことである。そしてこの関係には、人間とそれ以外の宇宙の間にある結びつきも、我々と自らの身体の結びつきも、さらに超自然的なものも含まれる。いつどこで行われる音楽パフォーマンスでも、その最中に望まれた関係が目に見えるものとして具体される。そして、参加者はあたかも実在するものであるかのように、それを経験できるのだ。望ましい関係を実際にこのよにもたらすという意味で、音楽パフォーマンスはその関係を反映するだけではなく、それを積極的に作り出しもする。音楽パフォーマンスは、理想の関係や価値観についての観念を人々に教え込み、パフォーマンスの参加者にその関係を気に入るかどうかを試してみることを許すのである。音楽パフォーマンスを探求の手段と言うのは、この意味においてである。価値観を表現し合うことは、パフォーマンスに参与する人々が自らに、あるいは参与者同士に、またパフォーマンスに注意を払う全ての人に向かって、次のように言うことを可能にしている。「これが私たちの価値観、私たちが理想とする関係なのだ」、「これが私たちなのだ」と。これが、音楽パフォーマンスを確認の手段と呼ぶ理由である。第三に、価値観を探求し確認する活動に加わることは、自分たちのアイデンティティをより完全だと感じること、世界や自分の仲間たちとより上手くやっているという感情をそくしんさせる。満足のいく良い音楽パフォーマンスに加わると、参加者は「これが本当の世界なのだ」「こんな風に世界とつながれば良いのだ」と感じることができる。短く言うと、音楽パフォーマンスは自らと自らの価値観を、心地良いものと思わせてくれるのだ。音楽パフォーマンスはこうして我々自身のことを祝うのである。

音楽パフォーマンスによって生み出される関係には、二つの種類がある。一つは(それがミュージシャン自らのイニシアティヴによるのか指揮者に従うのかに関わらず)ミュージシャンが作り出す音の間にある関係であり、もう一つは、パフォーマンスに参加する人々同士の関係である。この二つの関係はさらに言葉で表現しえないほど螺旋状に複雑に関わり合うのだが、音楽パフォーマンスは、明白かつ正確にこの関係を表すことができる。

ミュージシャンが作り出す音は、経験の全てを構成するのではないが、音は経験を実現するためのきっかけをもたらす。従って、音の本性と音の関係も、全体としての経験の本質的な部分を占める。音の関係と作品の本性がいかなるものであれ、それらは些細な事柄ではあり得ない。あらゆる人間の社会と同様に、我々の社会でも、創造とパフォーマンスに多くのエネルギーと資源を捧げ、中にはそのために全人生を賭ける人までいる。そうすることで、望ましいとさける人間同士の関係や社会的秩序が表現されるのだとしたら、それらがどのようなものでありうるのか、どんなにぼんやりとであっても予測できるはずだし、いかに不十分であったとしても言葉にできるはずである。言葉が不十分なのは必然だ。というのも、ミュージッキングについて話す時、我々はミュージッキング自体に参加する時とは異なった表現のモードを使っているからだ。ミュージッキングの言語は、この生きた世界を統合する身ぶりの言語であり、これはコトバの言語とは違って語彙や分節的な意味を持たない。言葉は一度に一つの事柄しか相手にすることができないが、身ぶりに基づく言語では、たとえ明らかに矛盾していても、複数の事柄を一度に表現することができる。言葉は字義通りで命題的だが、ミュージッキングは隠喩的で暗示的である。また、言葉は唯一の意味を要求するが、ミュージッキングは一度に多くを意味する。

ふつう、シンフォニーコンサートという概念が意味するのは、入場料を払う準備のある人々にシンフォニー音楽作品を提供するための演奏会、というところだろう。演奏される即品は、過去の偉大な作曲家によって我々の時代まで伝えられたと考えられていて、考えうるどんなパフォーマンスをも超越した、永遠の意味と価値観を持つ存在だと考えられている。この作品を演奏したり聴いたりするために、音楽家と聴衆は巨大なホールに一同に会する。シンフォニーの演奏は、人々を元気づけたりその精神を育んだりすることで、聴衆が作品を楽しむために行われるということになっている。しかし、そうした理解は、複雑な関係の豊かな手触りを貧しくするだけだ。この理解は、コンサート・ホールでシンフォニーが演奏されるときに実現される意味だけではなく、あらゆる音楽パフォーマンスの意味を貧しくしてしまう。それに対して私がここで提示する見方とは、これらの人々は自分たちの価値観、つまり何が正しくて適切なのかと言う感情を、確認し、探求し、祝うための儀式に参加しようと集まっている、というものである。儀式の中心には、しかるべきレパートリーから選ばれて、その場で演奏される正典がある。しかし、楽曲が儀式の全体を構成するわけではない。そこで起こることのすべて、そこで生み出される身ぶりのすべてが、この出来事に貢献している。入場料を支払うというごく平凡な行為でさえも、単にサービスの代価を支払うという以上の、隠喩的な意味を帯びている。作品を提示するためにコンサートという出来事が行われるというよりは、出来事の中心となる演奏を可能にするために、作品が存在するのだ。音楽家が演奏し聴衆が聴く作品が、特定のレパートリーからのみ選ばれるという事実もこの上なく重要なことだが、儀式の中心にある要素は作品そのものではなく、演奏と言う行為である。

シンフォニー・コンサートやそこで演奏される作品の儀式は、大人に対するお休み前のお話しみたいなものだ。この二つには共通する特徴がある。第一に、どちらも、強力なメタ物語の一部としてストーリーが語られる。第二に、ストーリーがあまりに何度も繰り返されることで、ストーリー自体がかつてもっていた、我々を不安にさせるほどの力が失われ、完全に親しみ易いものになる。第三に、どちらの場合も、テクストに従った一連の行為の完璧な反復が求められる。

西洋コンサート文化の作品は、常に同時的(=和声的)かつ連続的(=旋律的及びリズミック)に組み合わされ、音のパターンの演奏で成り立っている。それらの音の組み合わせは、過去4世紀ほどの間に発達した記号システムを通じて、隠喩的な意味を作り出してきた。それらが寄せ集められて、人間同士の関係が、そして特定の規範と手本を提示するストーリーが伝えられる。その物語では、秩序の確立、魅力的で魅惑的な要素が秩序を不安に陥れる様子、そして最後に、秩序を取り戻すための闘争が語られる。秩序そのものにはこぢんまりした些細なものもあれば、ベートーヴェンのシンフォニーのように文化の全体を巻き込むほどに大規模なものもある。いかに上手に語られたとしても、そこで語られるストーリー自体に何かしら共感できたりさせられたりする部分がなくては、どんな反応も得られないはずだ。あるストーリーが共感を引き出すかどうかは、(それが言葉にされたり意識されたりするかに関わらず)そこで目指される願望や価値観による。ところで、シンフォニー等の芸術作品に見出される願望や価値観は、時と共に変化することもありうる。だからそれらの演奏を聴く人々は、時代や状況によって異なる満足を聴き取るはずである。それでは、これらの作品が、現代の西洋式産業社会の中産階級と上流階級の人々に共感され続けているのはなぜだろう。これを理解するためには、単にシンフォニー作品が、主人公と敵対者の闘争、主人公による征服、勝利の祝賀を表していることを知るだけでは不十分だ。征服する力の源が、論理、明晰さ、合理性だという事実こそが重要である。これら啓蒙期のヨーロッパに源流を持つ価値観の興隆は、シンフォニーの発達、ブルジョワジーの勃興と同時代的だった。そして、それらの概念を先導していたのが、シンフォニー作品の中心的な推進力である男性性なのだ。

「昔むかし」や「みんな幸せに暮らしましたとさ」の決まり文句も、シンフォニー作品の演奏と無関係ではない。「昔むかし」は、歴史的な時間や日常の時間から、シンフォニーの物語られる神話の世界へ我々を連れて行く。物語の中で語られる出来事は、単なるお話しではなく神話である。そのなかで、英雄的な人々の振る舞い、かれらの葛藤と解決が、具体的な闘争や解決として提示される。これらは、おやすみ前のおとぎ話と同じくらいに影響力のある、社会化の機能をもつのである。後者の決まり文句「みんな幸せに暮らしましたとさ」はメタ物語の核心的な性格、すなわちその閉鎖性を思い起こさせる。メタ物語には明白かつ決定的な始まりと終わりがあり、エンディングで登場する秩序こそが、最終的な秩序なのである。シンフォニー作品が常に壮大なカデンツァで終結させられることが、主人公が末永く幸せに暮らしたということ、物語に続きはないことを教えてくれる。

シンフォニー・コンサートとおやすみ前の時間との第二の類似点は、繰り返しの重要性である。シンフォニーのリパートリーでは、お気に入りの曲は何度も繰り返し演奏されるが、新しい作品がそのレパートリーに入れられることはほとんどないか、あったとしても渋々で仕方なしに、といったところだ。この事実に関しては、二つのことが言える。第一に、これは過去からの普遍の原理だったわけではないということだ。シンフォニーの黄金期には、飽くことのない新作への希求があった。この力が弱まったのは、古典作品を正典化するというアイディアが出てきた19世紀半ばのことだ。第二の点は、おやすみ前の時間のストーリーと同じで、シンフォニー作品の演奏の果てしない繰り返しが、それらが持っていたに違いない、我々の心をかき乱すほどの力を剥ぎ取ってしまった、というものである。一時期斬新とされた何千もの手法が、何度も使用されることで、平凡なものになってしまった。それらの作品の演奏は、当時とは異なる機能と異なる意味をもって、現在のパフォーマンスの儀礼に組み込まれた。今日それらを演奏することは、既存の価値を転覆したり不快にさせようとするものではなく、安心と心地良さのメッセージを伝えることに成変わってしまった。これらの作品一つひとつがあらゆる世代の賞賛によって幾度となく認可され、シンフォニー・コンサートと言う儀式の社会的承認をバックにして贅沢な環境で演奏されるものとなった今日、他にどのようなメッセージが考えうるだろうか。

第三の類似点は、子供と同じように我々も、物語が書いてある通りに完璧に話されることに、とらわれ過ぎていることだ。我々は演奏家に対して、音符だけではなくすべての装飾音、アクセント、スラーを楽譜通りに演奏することを要求している。私は、おやすみ前のお話が子供たちにとって良いものに違いないとは思うけれど、それが大人にとってどれほど良いものなのかについては確信が持てない。とりわけ、物事がいつまでも過去と同じではあり続けないということが我々の誰にとっても明らかな場合、安心を薬のように過度に投与することは、致命的にもなりうる。昨今行われるシンフォニー・コンサートという出来事の全体は、たとえ意識的にでないにせよ、産業社会の中産階級と上流階級にある種の安心感を提供できるようにデザインされてきたし、現在もそのようにデザインされている。かれらは自らの価値観と理想的な関係についての考え方を提示して、その出来事に参加する人々に向けて、それらが真実であり続けるということを主張する。この壮大な建物に入った瞬間から、我々の目の前にその関係は具体的に示される。まさにこの場所の外観と形式と組織が、その関係に形を与えているのだ。聴衆同士の関係、聴衆とオーケストラ団員との関係、ミュージシャン同士の関係、聴衆-ミュージシャン-指揮者の間の関係、この三者と作曲家との関係、かれらとホールの従業員との関係、ホールの内側にいる人と外側にいて儀式に参加しない人の関係、儀式への参加者とかれら自身の過去との関係、このすべてが提示され、儀式に参加する人々の全員が、かれらの思い描く理想的な関係を表現するのである。そこから見えてくるのは、コンサート・ホールで出会う人々との関係と、ミュージシャンによってもたらされる音と音との間にある関係を見出すことのできる近似した関係だった。私が音楽パフォーマンスにおける人間同士または音同士の関係の重要さを強調するのは、その場で現われる関係性にこそ、パフォーマンスの意味が横たわっているからである。私がシンフォニー・コンサートについて説明しようとしてきたことは、いつどこで行われるどんな音楽パフォーマンスについてもあてはまる。大雑把にいって、どんなパフォーマンスについてついても発し得る疑問は三つのグループに分けられるように思えるが、その概要は次のようになる。

1.音楽パフォーマンスへの参加者と、それを囲む物理的配置/環境との関係はどのようなものだろうか。

2.音楽パフォーマンスへの参加者同士の関係はどのようなみーものだろうか・

3.そこで生み出される音同士の関係はどのようなものだろうか。

この三つの幾分恣意的に分類した関係は、孤立しているのではなく、複雑に繋がり合っている。これはグレゴリー・ベイトソンが、第二の結びつき(関係同士の間にある結びつき)や、第三の結びつき(関係同士の間にある結びつきと、また別の関係のある結びつき)と呼んだものに相当する。第二の結びつきでさえ言葉にするのは相当複雑なのだから、第三の結びつきともなると、公式としてみえてくるもののあまりの複雑さに、我々の心では把握しきれないと思わせられる。音楽パフォーマンスの最中に確立される関係のパターンと、それらの(第二、第三、…、第n次の)つながりを結び合わせるパターンは、隠喩的な形式で、我々自身、それ以外の人々、そしてそれ以外のすべての生きた世界とを結び合わせるパターンのモデルとなる。そしてそれらこそが、人間の生において最も重要な事柄なのだ。人間が取り持つつながりのパターンが複雑で矛盾しているように、我々の奥深くにある願望や信念のイメージも、複雑で矛盾している。もし我々が、人間の生におけるミュージッキングの位置を探ろうとしているのは、それはまさにいま、ここにあるということだ。

 

ポストリュード

我々の日常の音楽実践について考える。

第一に、もしミュージシャンが、「儀礼」と呼ばれる壮大なパフォーマンス芸術の一切面であるなら、それはすべての生物が生存のために使用し理解しなければならない、生物学的なコミュニケーション言語のやり取りと言うことになる。そして、すべての健常者に発話する能力と他者の発話を理解する能力が備わっているのと同じように、ミュージッキングの能力も生得的なものなのだ。それらの能力は、もちろん育みそだてることができる。今日の西洋社会では、話し言葉が日常的に学習され実践されることは、当然だと考えられている。どんなに恵まれないこどもであっても、通学し始めるずっと前から、家族や友達同士の間でその能力は育成されるはずだ。しかし悲しいかな、ミュージッキングには話し言葉のように日常的で持続的な育成の機会がほとんどない。現代の産業社会では、パフォーマンスが日常的に育成されることや、ミュージッキングが社会の重要な活動として動機付けられるための、大きな社会的文脈が失われてしまった。演奏の方法を教わる人は沢山いるが、実際のパフォーマンスに動機付けられるのはごくわずかの人々に限られている。

しかし、アフリカをはじめ、音楽的な能力が普遍的でかつ共有されているという、夢のようなことが、実際に多くの社会や文化では。日常的に現実なのだ。話すという基礎的な能力には誰もが恵まれているが、ある人は議論するのに長けているだろう。同じように、伝統社会でも、ある人は他の人よりも音楽的な才能に恵まれていることが認められている。そういった人々が、その他の全員が積極的な二加わることのできるミュージッキングという共同作業の、リーダーや先導者になるのだ。思うに、今日の音楽教育の最大の課題は技術的に優れたプロの音楽家を育てることではない。そうした社会的な文脈を、公的な場と日常的な場の両方を通じて、音楽の活動にもたらすことのはずだ。その努力こそが、本物の発展、すなわち社会全体の音楽化につながるのである。

ミュージッキングに限らず、関係を探求し、確認し、祝うことは、ひとつのパフォーマンスで完結することのではなく、別々のパフォーマンスの間にある関係にまで広がり得る。もっと広い世界を知ろうと思えば、異なるスタイルやジャンル、それから異なる伝統や文化におけるパフォーマンス同士のつながりを発見することだってできる。このつながりの螺旋はどこまでも広げることができるし、それを進めることは我々自身のつながりの理解を拡大することに等しい。もちろん、そこで行われるのは我々自身の探求だけではない。我々が行うパフォーマンスに対する他者の反応も、相互的なつながりを創り上げる。他者の反応我々自身のパフォーマンスに影響を及ぼすことがあるし、パフォーマンスが両者の関係に影響を及ぼすこともある。似たような反応が起これば、両者は結束させられるだろう。ミュージッキングについてのコトバによる言説も、音楽経験になり代わるものとしてでなく、音楽経験に何かを付け加えるものとして重要な役割がある。

もし、ミュージッキングが生物学的なコミュニケーション言語の一部分を本当に担っているのだとしたら、ミュージッキングは全人類に共通する生存装置の一部だということになる。音楽することは、単に余暇を充実させるものではない。社会の理想的なつながりを学ぶための活動なのであり、他者と会話するのと同じくらいに、個人が社会の中で成熟するために不可欠な活動なのだ。話すこととミュージッキングには多くの共通点があるが、違いもある。特に重要なのは、ミュージッキングには、複数の秩序が重なり合った複雑さや重層性、そして水銀のように変化する人間同士の関係を、言葉には不可能な仕方で表現する力があるという点だ。

だが、たれもがミュージッキングの能力を生まれ持っているのだとしたら、西洋の産業社会のなかでこれほど多くの人々が、自分にはどんな簡単な音楽活動もできないと信じきっているのはなぜだろう?彼らは、神経システムが形成される以前の幼年期や青少年期に、潜在的な音楽性を開花させるための適切な経験が与えられなかった。発達期に会話する機会を剥奪された人間が、ついには十分な会話能力を発達させられないように。だが、それよりももっとありそうなのは、周囲の人間が執拗に彼らを非音楽的だと教え込むねというものだ。

ミュージッキングの能力の理論と我々の日常の音楽実践との関連の第二番目は、次のようなものである。もし音楽することが、人間と生きた世界全体の壮大な結び合わせるパターンとのつながりを探求し、確認し、祝う行為なのだとすれば、どんなミュージッキングも真剣に取り上げられるべき活動なはずだ。どんな種類の音楽パフォーマンスでも、そこに参加する誰もが、自分たちに注意を払う全ての人々に向かって、「これが私なのだ」と言っている。これは何にもまして真剣な確認行為に他ならない。それから、すべてのミュージッキングが真剣な営みなのであれば、それぞれのミュージッキングに優劣の判断を下せるわけがない。万一その必要があったとしても、それは、参加者たちの理想的なつながりがどれだけ上手く表現(探求、確認、祝賀)されているか、という点でなされるべきだ。そうして表現される関係が好きに慣れないことも十分にあり得るし、その意見を率直に言う権利だって我々にはある。だが、その意見が純粋な美学に基づくのと同じくらいに、社会的に構築されているということは、理解しておくべきだろう。つまり、ミュージッキングの良し悪しを判断するということは、単に音楽スタイルについての意見を交わすということではない。音楽パフォーマンスによって表現される理想的な関係全体について、意見を交わすことでもあるのだ。

ここで問題となるのは、パフォーマンス空間に出現する関係で、例えば、西洋のクラシック・コンサートのような聴き手に黙って聴く以外の選択肢を与えないパフォーマンスは、聴き手の人間性を貶め、不平等な関係を確認していである。

私の二つの主張、すべてのミュージッキングは真面目な営みとして取り上げられるに足る活動だということと、すべての人間には十分なミュージッキングの能力が備わっているということが、相互に依存し合っていて、なおかつミュージッキングとは何をおいても演奏することと聴くことなのだということなのだ。

ミュージッキングの機能が参加者の理想的な関係のあり方を探求し、確認し、祝うことだとすれば、最上のパフォーマンスとは、その技術的なレベル如何に関わらず、包括的に、巧妙に、そして明白にすべての参加者をミュージッキングに駆り立てるものでなければならない。この包括性、巧妙さ、明白さは、芸術的な技巧にかかっているだけではなくて、むしろ参加者(つまり演奏者と聴き手の両方)が、自分たちのベストを尽くすかどうかにかかっている。この考え方に従えば、最上という言葉は技術のことだけではなく、愛着を伴う関心や細部に至るまでの注意と共に出現する、パフォーマンスは時のすべてのつながりのことを言っていることになる。持てる力を出し切ってベストを尽くすことこそが、新たな領域へと前進するための秘訣である。なぜなら、ベストを尽くす人こそが、より深くミュージッキングに関わるようになり、つながりのなかに新たなニュアンスを発見し、その表現のための新たな技能を発見するからだ。個人がヘスとを尽くすことは、特定の音楽作品の演奏が上達する以上に、その人の音楽性をも発展させる。

シンフォニー・コンサートという儀式の検討から、すべての音楽パフォーマンスが結び合わせるパターンの概念を拡張したり変更したりするのではないということは、すでに分かっている。実際、ほとんどのパフォーマンスは、世界のパターンとそれに対する我々の姿勢の確認作業に過ぎない。平均的なシンフォニー・コンサートの聴衆は、自分たちの世界にあるあるつながりの概念を拡張するような、新たな経験を探し求めたりはしていない。むしろかれらは、自分たちが慣れきっている繋がりのパターンを確認したがっている。だからと言って、そんなふうに慣習的なパターンを確認するだけのパフォーマンスを軽蔑してはいけない。それらの儀式は、「これこそが世界の本当の姿なのだ」とか「こここそが私のいるべき場所なのだ」と言って、自分たちの価値観や結び合わせるパターンが、現実のものでありかつ有効であることを確かめるために、必要な営みなのだ。だが我々は、見慣れた関係を新鮮な光のもとで見せてくれたり、世界の中での自分たちの位置をほんの少し違った角度から見せてくれたり、自らの考える関係についての概念を広げてくれたりするようなパフォーマンスも必要としている。これを成し遂げられるのは偉大な演奏家だけではない、新しいビジョンと共にこの世に降りてくる彼らの力は、誰にでも開かれている。

良いパフォーマンスの実現に不要なものとしては、作曲家の書いたテクストの権威と、忠実な演奏に対する強迫観念がある。どちらも現代のコンサート・パフォーマンスの特徴だ。我々は、パフォーマンスこそが先に誕生したのだということを、決して忘れてはならない。このことは、人類の音楽史の観点からも、個としてのミュージッキング能力の発達という個体発生の観点からも、そして、美学的にも正しいと言える。音楽とはパフォーマンスなのであって、曲とか作品とかいうものは、ささやかなものであれ最大限に壮麗なものであれ、書かれたものであってもそうでなくても、パフォーマーに何か演奏するための素材を与えるために存在するに過ぎない。我々が演奏する時、そのパフォーマンスが続いている最中は、我々は音の間や参加者同士の間に、ある一連の関係を出現させる。我々はパフォーマンスを経験するあいだ、自らの理想とする関係のモデルを学ぶ。このある種の模倣活動は、私がここで使用してきた三つの後(探求、確認、祝い)によって暗示されるように相互的なものだ。パフォーマンスの間中、ミュージッキングへの参加者や周囲にいる人々の間を、あらゆる情報が一気に駆け巡る。それらの情報は、コトバだけでなく、身ぶりの言語によっても伝えられる。

ここから、何世紀ものあいだ哲学者たちを悩ませてきた別の言葉、すなわち美についての洞察も得られるかもしれない。というのも、ここに音楽という言葉に似た混乱があるからだ。音楽などというモノがないのと同様、美などというモノも存在しない。あるのは、ある対象や動きがそれを知覚する人間に心地良いという反応を起こさせ、彼らにそれを美しいと知覚させる、ある種の性質だけである。どんな刺激も、生の刺激が意味にまで変換されるには、知覚者側の能動的な活動が不可欠である。一個人の外部にある知識と同じで、刺激も絶対的なものでなく、知覚するものと知覚されるものとの関係に他ならない。我々が美と呼ぶ知覚は、その関係の意識化しうる形の表象なのである。美の感覚はこの過程の結果や目的化しうる何物かとして出現するのではなく、ある関係が生起しているという徴なのである。

美の感覚とは、知覚者が身ぶりやモノと結び合わせるパターンを通じて繋がっていることの徴であり、知覚者がそれらのパターンを理想の関係として受け取っていることの徴だということだ。たとえて言えば、知覚者の心の中に理想的と言える関係の網目が「秩序」や「論理」としてあって、そこに知覚されるモノや身ぶりの秩序や論理がうまくマッピングされるような場合のことである。それがぴったりとはまり込むことで、美と呼ばれる感覚が生じる。美が対象を眺める者の眼の中に存在するという古い見解には、ある程度までの整合性がある。というのも、美がモノや身ぶりのなかに絶対的な意味で存在するわけでないということは、確実だからだ。そうではなく、モノや身ぶりが喚起される特定の反応を、知覚するものが自身の内側で知覚するときに、美は生じる。もちろんミュージッキングの場合は、我々の反応はモノに対してではなく、常にパフォーマンスという身ぶりのパターンに対して起こる。

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