内田光子ピアノ・リサイタル・シリーズ
シューベルトのピアノ・ソナタ連続演奏
 

 

久方ぶりの演奏会。3回セット券でサントリーホールの向こう正面右側で、ピアニストの背中が間近に見える、つまり、鍵盤の上の指の動きがよく見える席。音響の方はイマイチだけれど。(2日目で隣の席だった人は響きが悪いというので、他の空いている場所に移ってしまった)また、シェーンベルクは楽譜を見て弾いたので、前半は譜面台があって後半外すことになり前半と後半とでは音の抜け具合が異なるという趣向。

  

1995年10月16日(金)サントリーホール

シューベルト:ピアノ・ソナタ第15番ハ長調D840

シェーンベルク:3つのピアノ曲Op11

シェーンベルク:6つのピアノ曲Op19

シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番ハ短調D958

 

レリーク・ソナタの冒頭の1音を聴いて、「柔らかい!」の一言。慥かにモーツァルトのピアノ・ソナタのCD等を聴くと内田光子の音は柔らかい。しかし、モーツァルトの場合は軽い感じで打鍵が浅い。このシューベルトはそれとは違った。深い打鍵で、その分ずっと響きのふくらみが豊かになる。まるで、同じハ長調の18番のソナタ冒頭の和声の靄がかかったような響きを彷彿とさせる。たった1音の印象深さから一転して、弱音で波型のように楽譜では上下する音形をゆっくりと舐めるように弾く。繰り返し。主旋律にオブリガートのようにつき従うのが、例えばケンプのようなピアニストの場合なら主旋律の響きに和声的なふくらみを与えるのに対して、内田光子は対立的に扱い2声的な響きをつくりだしているのが面白かった。この音形に応答するようなパッセージがつなぐように音量が上がり、波型の音形が強打される。これまで聴いたピアニストは、ここでの盛り上がりは段々と音量を上げるとともに緊張感をつのらせて波型の音形の強打につなぐのだが、内田光子は弱音のゆっくりとした動きから突然強打にもっていく。さらにアッチェラレンドをかけない。つまり、他のピアニストなら音量が上がるにつれてテンポをあげていき、強打となりその後旋律が勢いをもって進み始める。シューベルトに特有のメロディが推進力をもって曲をすすませるのがこれである。この間、切れ目が入らないのがさらにシューベルトの特徴。だから、シューベルトの演奏はどのようにフレーズやパッセージを繋いでいくかが焦点となる。しかし、内田光子は敢えてギャップを与えた。果たして、メロディがスッと前へ進むことで強打の緊張が籠もることなく流れことがなくなってしまい、重苦しさが残るような演奏になってしまった。(リヒテルがたまに、こんなシューベルトを弾く)以降も、弱音主体のゆっくりとしたテンポ。メロディをあまり歌わさず。緊張感をこもらす、蓄積させるような重苦しさ。突然の強打が曲の流れを切断する。その強打も、音の抜けをしないので緊張感を発散させるカタルシスまでには至らないので、却って重苦しさを増す。そういう演奏。シューベルトの音楽の楽しみの一つ、転調によって場面が一転してしまうような鮮やかさも抑えていて、抜け道を自ら塞いでいくよう。曲をすすめたのは、左手のバラエティ。たとえば、よく歌うはずの第2主題の提示から展開部に移るところの左手の動き。ただ和音でリズムを刻むだけのものが、色々に場所を変えて聞こえてくる。まるで、ハ長調の「グレート」交響曲の第1楽章でリズムの刻みを各木管楽器が入れ替わり立ち替わり吹くところを彷彿させる。全体に、この曲の演奏は所々で、同じハ長調の第18番のソナタや「グレート」交響曲を連想させるような演奏の仕方をしているところがあって、意外な点を見てしまった。

第2楽章。シューベルトは緩徐楽章をベートーヴェンのようにアダージョにしない。立ち止まって瞑想に耽ったりするほど時間の余裕はない。だからアンダンテでメロディを奔らせる。だからシューベルトのメロディには推進力がある。目を暝ってメロディに浸るというよりも、メロディに乗ることができる。思わず口ずさむ…というのも、このテンポの良さのせい。これは、ある意味ではダンス・ミュージックと言ってもいい。しかし、内田光子は第1楽章の重苦しさをそのまま引き摺って、アダージョといってもいいくらいにゆっくりと始める。しかも、メロディの途中で一旦休止してしまう。メロディ前半の訥々とした問い掛けの丁度真ん中、少しだけ休止する。それだけで流れが一旦止まる。聴いていて、問い掛けが重く沈む感じ。その直後、メロディ後半の問い掛けへの応答で、メロディが奔らない。まるで葬送行進曲のような歩み。聴いていて、息が詰まるようなシューベルト。朝日新聞のインタヴューで“シューベルトのソナタに死の影を感ずる。苦しくても「助けて!」と叫ぶことなく、すべて内にこめてしまう。棺桶の中にいるような重苦しい閉塞感がある。”というようなことを言っていたが、こういう演奏がそうなのか、と納得。

後半、譜面台を外したためなのか、音の抜けが全然違う。響きに伸びが生まれ、鋭くなったみたい。第19番のソナタの冒頭、ハ短調の和音の叩きつけるような響き。前半の第15番のソナタの柔らかさとは全く異なった世界。前半の第15番のソナタの印象から、同じハ短調のベートーヴェンの「悲愴」ソナタのようにハ短調の和音に続く和音のリズムで構成されたアレグロの第1主題と第2楽章に続くようなアダージョの第2主題の深いギャップと対立を際立たせるような演奏をするかと予想したけれど、そうはいかなかった。前半とは打って変わった快速テンポ。豪快にピアノを鳴らそうという感じ、しかしながら非力さが出てしまって腰を落ち着けて鳴らすまでには至らず、自然とテンポが速くなってしまった、という感じ。冒頭の和音の残響が響ききらないうちに和音の連打に入ってしまう、繰り返しの後上昇のスケールも息急くようで、しかも例えばルプーなんかは軽く流すように弾くところを内田光子はひとつひとつの音をしっかりと弾く、慥かに力が入っているなと感じるけど、この後和音の連打のリズムで構成されているところなど前にのめりそう。単にテンポが速いというだけではなくて、矯めがない感じ。シューベルトのリズムって楽譜の小節線とはチョットだけずれたような特徴があって、それがリズムの矯めとか揺れを内包していて、それが歌うメロディと連動するのだけれど、内田光子の場合はキチッと楽譜の小節線の通りに弾いているっていう感じがした。だから、この後の第2主題なんかは、ピアニストが腕によりをかける聴かせ処なのに、全然歌わない。それが内田光子のシューベルトの特徴なのかというと、未だ消化しきれていないようにも思える。前半と後半の演奏の乖離さは、そのことを物語っていると思う。しかし、魅力がないとも言えない。ややもするとソナタっていう枠組から逸脱してしまうシューベルトのピアノ・ソナタ(遺作の3作では形式と調和したなんて解説に書いている人がいるけれど、そんなのはシューベルトに溺れた経験がないから言えることだ、とあえて断言してしまう。私はそういうシューベルトを断固支持するぞっ!)を敢えて強引に、形式にガッチリと閉じ込めてしまうとどうなるかっていうのが、内田光子のこの演奏だと思う。そうすることで、水平方向に無限に伸びようとするシューベルトの音楽がぐっと凝縮されて水平方向の力が抑えられたことで垂直方向に力が転じた。例えば、強弱の対照が内田光子では強調される。それと、他のピアニストなら緊張と弛緩が交互するところを緊張の一点で通そうとしたところ、まるでベートーヴェンの中期のソナタを聴いているようだった。当然第2楽章は、ホッと息をついて甘美なメロディに浸るというのではなくて、ベートーヴェンの「熱情」ソナタのように緊張感を持続するため結果として、重苦しい演奏となる。同じように弾いてもベートーヴェンなら、迸るような力強さとなるのに対して、シューベルトは重苦しくなってしまう。内田光子がシューベルトに感じている“死の影”とはそういうものではないか。だから、短い第3楽章のパッセージも律儀なまでにしっかりと弾かれる。第4楽章も同じ、モーツァルトのようにロンドで軽快に終わることはできないという風に、しっかりと重い。しかし、この楽章を通じて左手が切れ味が鋭くとても雄弁で、ときたまフェイク気味にリズムを刻むところなんかは、聴く方はフェンイトをかけられて前につんのめってしまうような楽しさがあって、私自身とても昂揚して聴いていたと思う。鮮やかだった。第1〜3楽章の重さを受けとめてしまうほどのものではなかったけれど、十分盛り上がって終わったと思う。だけど…、っていう思いは払拭できないんだよなー。

 

1995年10月21日(土)サントリーホール

シューベルト:ピアノ・ソナタ第16番イ短調D845

シェーンベルク:5つのピアノ曲Op23

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番イ長調D959

 

シューベルトの短調のピアノ・ソナタって決然と始められるのが多い。第1日目のハ短調のソナタは和音の強打で始まるし、今日の一曲目と同じイ短調の第14番のソナタだって序奏なしでいきなりの第1主題、それが歌うにはほど遠いメロディで悲劇的な感じ、若い頃のポリーニはこれを思いっ切りのffで弾いてのけた。で、今日の第16番を内田光子はどう弾くか。序奏は聴くか聴けないかの弱音で耳を峙てておいて、一転の強打。やっぱり。怒濤の速いテンポ。「冬の旅」の終曲「辻音楽師」の伴奏パッセージと同じの、5回の同一音の連打。内田光子はポリーニばりに思いっ切りのffで弾いてしまう。実演で内田光子の左手の雄弁さは堪能してきたけれど、ここも、跳び上がって弾いていた。これでは、後に続く歌う部分とギャップが生じてしまう。そこで何と内田光子は休止を置いてしまう。なんじゃこりゃ。これは、後半の第20番のソナタでもそうだったけれど、今日の演奏は休止をやけに強調して演奏していたと思う。旋律の流れを休止で一旦断ち切ることで堰止めてしまう。そこで勢いが矯められて、次のフレーズの開始で一気に流れる。それとは別に不意の休止で聴く者を戸惑わせる効果、次のフレーズの開始で旋律が流れ初めてホッと胸を撫で下ろす。これで思い出すのはブルックナーの交響曲の総休止。2日間、内田光子のシューベルトを聴いてスケールは大きいとは思った。それは多分こんなところも原因しているのだろう。でも、それで切り捨てられてしまったもの、それがとても惜しいなって思う。この楽章ならば、展開部で「冬の旅」の「辻音楽師」の伴奏パッセージを「冬の旅」の他の曲から持ってきたように聞こえるところに入れ始めるところ。右手で「辻音楽師」の手回しオルガンを回して、左手でメロディを弾く。まるで、別々のものをまとめようと暗中模索するかのように転調を繰り返す。それがまた何度も突然の休止による沈黙によって宙吊になってしまう。こういうところはケンプの演奏なんかで聴くと本当に面白い。内田光子は二つ以上の要素を単に並べるようなことは行なわないので、こういうリラックスした楽しみはない。第3楽章は例によって、左手の雄弁さがよく生かされるところなので、予想通り楽しめた。

2曲目のシェーベルク。これが楽しかった。難解な現代音楽の祖、十二音階のシェーンベルク作品に楽しいというのは変かもしれないけれど、3日間を通して、この曲が一番生き生きと演奏されたと思う。なんのかんの言う以前に、初めて聴く曲のはずなのに、メロディがどうかとか全く把握できないのだけれど、音を聴いていてこうしなければならないって判ったし、次はこうしてほしいと思ったら、その通りになったという私としては希有の経験をさせてもらった。具体的に喋る言葉は未だ持ち合わせてはいないのだけれど、中の3曲目。音列をただ繰り返すような曲、音色とタッチの変化がまさにこうしてほしい通りに変化して没入してしまった。3日間ともシューベルトには全く没入できなかったのに。

後半は、やはり譜面台を外したので、音の抜けが違ってきた。切れ味のいい第20番のソナタ。ちょっとブレンデルの演奏を思わせる。でもやっぱり違う。それは何か。多分、この第20番のソナタは遺作の3曲の中で旋律が最も明確で、旋律に1本の筋が流れていて、それが途切れないことだと思う。だから冒頭のイ長調の和音は、第19番のソナタの強打とは性格が違って旋律の流れを断ち切るほど決然としてはいない。ブレンデルもそれはよく承知しているのではないか、彼にしてはこの和音の斬れ込みは鋭いけれど、決して旋律の流れを途切れさせない。しかし、内田光子はそうは弾かなかった。これは、第16番のソナタの場合と同じような理由によるのだろうと感じた。それともう一つ。第4楽章のコーダの手前のところ、弱音でロンド主題を弾くのだけれど、旋律の途中で休止をして旋律の流れをブチ切ってしまう。これを何回も繰り返す。しかも、休止の入るところが違う。聴く者は旋律が途中で不意に断ち切られてしまうので、何度も戸惑う。前につんのめってしまう。このロンド主題がよく歌う主題なので尚更だ。それで、旋律の流れが何度も断ち切られることで勢いが矯められる。それがコーダで一気に爆発する。内田光子はこれを第1楽章からやろうとしたのではないかと思う。勢いをただ流すことなく、一旦矯めて一気に吐き出す。坦々と流れようとするシューベルトの音楽に強弱とは別に凹凸を、立体感を与えようとした。これが第16番の演奏でしたが、ここではこれで曲全体の演奏を構成しようとしたと感じらました。慥かにシューベルトのソナタって、そういうスケールの大きさはある。そういうのもありか、と思った。そう思うと、とっても引き締まった演奏に聞こえた。これが今日聴いた内田光子のシューベルトの特長。第1楽章で下降音階が何度も繰り返し出てきて、それが時には裏返ったり形を変えたりするところは、内田光子は多彩な音色で弾き分けてみせてくれて、どこかショパンの第3番のソナタを連想させられたりして(但しシューベルトはショパンに比べてずっとおおらかだけれど)、そういう色彩感は彼女の特長だったと思う。第2楽章は一転して遅い。前のところでも書いた気がするけれど重苦しい。アンダンテ(歩く速さで)ではなくて巨人が首を垂れて重い足を引き摺るような歩み。一歩一歩がずっしり聴く者にのしかかる感じ。短いメロディをたたみかけるように積み上げる。シューベルトのメロディははっきりと終わったという感じを持たぬまま、どんどん伸びるように発展してしまうところがある。だから、フレーズも聴く者にとっては、いかようにも聴き取ることができる。これが、多分言いたいことを言えなくて、逡巡している、言いたいことの核心の周囲を堂々めぐりしているような印象を受ける原因かもしれない。しかし、内田光子はメロディをハッキリと切ってしまう。言いたいことは言いたくても言わないと決断してしまったかのようなのだ。だから、繰り返しが水平方向にだらだらと伸びないで、垂直に積み上がる。その結果、Op90や142の即興曲に見られるような即興性が影をひそめてしまう。それが重苦しさをつのらせる。前回で演奏した第15番のソナタの第2楽章によく似た構造のメロディだが、同じようにメロディのまん中に休止を入れて葬送行進曲のように聴かせて、なおかつ積み上げる。この第20番のソナタが遺作の3曲の中で最も明るく華麗だ、なんて誰が言ったんだ。この第20番のソナタの第2楽章と第3楽章の主部の旋律は前半がとてもよく似たリズムになっている。同じようなリズム構成でまるで正反対の方向に向いているかのように分かれてしまった対照が、この第2楽章と第3楽章を聴く楽しみでもある。けっこうシューベルトは同じ根っこから色々な枝を生やすところがあるのだ。内田光子の演奏からは、そういうのとは別種のシューベルトがきこえてくる。だからこそ、終楽章があれだけ盛り上がったのかもしれない。しかし、この大規模なソナタのこんな演奏ならば、どんなに盛り上がっても足りないだろう。しかも、この場合の非力さは致命的だ。

 

 

1995年10月26日(木)サントリーホール

シューベルト:ピアノ・ソナタ第9番ロ長調D575

シェーンベルク:組曲Op25

シェーンベルク:ピアノ曲Op33a&b

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960

 

仕事の関係で最初から聴くことができなかった。拍手の合間に急いで着席して聴いたシェーンベルクは集中できなかった。欲求不満を引き摺りながら休憩時間。ロビーで吉田秀和を見た。嫌な予感?まぁしょうがないか、とあきらめつつ後半の第21番のソナタを聴いた。

出だしは、どう弾くのか。アンドラーシュ・シフのように旋律の線を何本も抽出してそれらの細い線を撚り合せて一本の糸を紡ぐようにメロディを織り出していくのか、ルプーの右手の主旋律に添えられたオブリガートを控えめに響かせて和声の薄い靄の中で霞がかったような幻想のメロディを歌わせるのか。

遅い!リヒテル並みの遅さ。しかも、中声部の旋律をはっきりと独立させている。左手のゆったりとしたリズムに乗って2本の旋律線が絡み合う。その先には不気味な低音のトリル。そして休止、聴く者を突放すような空白の時間。いつも、この曲の出だしを聴くと、無としか言いようのない闇の深淵から、そぉーっと静かに音楽が現れてくる感じがする。左手の低い刻みは冥界の巨人の不吉な足音のようでもある。闇から少しだけ顔を出したメロディを再び深淵に引き摺り戻すかのように低音のトリルがメロディを打ち消してしまう。後に残るのは無の時間。これは、私の個人的なお話し。そこで、このトリル、内田光子は一音一音が音符になっているかのようにしっかりと弾いてしまう。あれっ、これってトリルじゃなかったんだっけ。だから、ここはリヒテル以上にテンポがゆっくりとなる。なんか息苦しい。まるで、深淵からメロディが現れてくるのは、高く翔び放とうとするのではなく、聴く者を闇に引っ張りこもうとしているよう。これをもう一度繰り返しのあと、転調すると曲調ががらっと変わって出だしのメロディを引っ繰り返したようなのが軽快に進みだす。転調の際のハッとするような場面転換の鮮やかさ、最初の緊張からスッと抜け出してメロディがドライヴするのに身を委ねる心地よさ。シューベルト弾きならきかせどころのはずなのに…、内田光子は禁欲を強いる。リヒテルの演奏もそういうところがあるけれど、CDを聴き直してみたら、リヒテルだって控えめに演っているじゃないか。では、ずっと坦々としているかというと、この後の小さなヤマ場は思い切り強打していて、強弱のコントラストをやけに強調している。弱音から強打に一気に跳躍するので重苦しさに慣れた耳にはカウンターパンチを叩きつけられる感じ。メロディはこのように坦々とした重苦しい弱音と一気の強打。これでは単調で、ただでさえ繰り返しの多い長大なこの楽章、通して聴くのは苦痛になってもおかしくない。多分そう思う。でも、結局それで通してしまった。二十分以上の時間、息を詰めて聴いてしまった。変な喩えだけれども男の人なら誰でも身に覚えのある、初めて精通を経験したときの、あの、「出る、出る…。」どういうわけか「けれど、出しちゃいけない」という尋常でない快感と「いけない」という感じの拮抗。私のいつもよく知っているシューベルトの甘美さというのは、こういうもの。転調の時のスゥッていう感じは、本当に突き抜けちゃう、と言いたくなる。(下ネタで失礼致しました)内田光子のは、こういうことを全く感じさせないストイックな演奏だけれど、釘づけになってしまった。第2楽章も同様。繰り返しが重くのしかかってくる。それが、第3楽章になって突き抜ける。他の人の演奏に比べればおとなしいのだろうけれど、前の2つの楽章のあとでは。軽いというのがこうまで心踊らせるものか、と。ここでは弱音が繊細に感じられてしまうのがとても不思議。それと左手の動きの多彩さ。前の2つの楽章でもチラチラと見え隠れしていたのだがここにきてブレイクしましたっていう感じ。終楽章なんか私しゃ狂乱状態。といっても演奏は、むしろおとなしいのではないかと思う。第3楽章が終わって間をおかず、ポーンと終楽章のロンド主題が高らかに鳴らされると、どうしてシューベルトはこの大ソナタの終わりを軽快なロンドにしたのか理由が判るような気がした。

 3日間を通して、シューベルトではこの第21番のソナタの演奏が一番好きになれた。でも、どこかこなれていないという感は拭いえなかった。そういうゴヅゴツした感じは、半分は意識的に演っていると思うけれど、未だ消化しきれていないところもあるんじゃないか(偉そうなことを言っている)と思った。もうちょっと寝かせて熟成させた後での演奏を聴きたい、その時、CD録音でもしてくらたらいいと思った。

偉そうなことを書き散らしてしまいました。とにかく、内田光子は名ピアニストだとか、名演だとか、シューベルトのソナタは傑作だとか、そんなことはどうでもいいことで、数日前に聴いた演奏のイメージを言葉(私の場合はこれが一番手っ取り早い)を反芻したいだけのことです。あそこのところのメロディの歌いとか、このとき限りの音!とか、頭、否身体に未だ息づいている生々しい音の印象を性懲りもなく列挙することで、少しでも演奏会を引き延ばしたかった。ごく他愛のないお喋りのはずですが、こむずかしく読まれたとしたら、それは私のどうしようもないスノッブさです。

 
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