イーヴォ・ポゴレリッチ
ピアノ・リサイタル 1995
 

  

1995年11月13日(月)三鷹市芸術文化センター

モーツァルト 幻想曲ニ短調K397

 ピアノ・ソナタ第5番ト長調K283

 ピアノ・ソナタ第11番イ長調K331「トルコ行進曲つき」

シューマン  交響的練習曲

ショパン    スケルツォ第2番

 

もう、なんと言ったらよいのだろうか。言葉がない。すごかった。感動した。どうしてこんな月並みなことしか言えないのだろう。とにかく冷静に書いてみよう。

開始が7時15分からというので、いつもと同じ時刻に会社を出た。八高線の車内放送で中央線は人身事故のためダイヤが混乱しているのを知った。「しまった!」と思っても後の祭り。焦った。八王子駅のホームで上りの到着が20分程度遅れるとのこと。それでは遅刻だ。ポゴレリッチはステージでは休憩しないから途中入場はできない。ちょうど遅れてきた特急に乗った。三鷹までの特急料金720円は馬鹿馬鹿しいが背に腹はかえられない。ほっと一息、でも焦りは静まらない。三鷹について目指すホールはどう行けばよいのか判らない。焦りから、とにかく歩きだす。開演時間は刻々と迫る。漸く目印の八幡神社をみつけ、会場に着いたのは開演5分前。滑り込みセーフ。

とは言うものの、何か嫌な予感。昨年の演奏の記憶も残っているし、最初のインパクトがどうしても強いのでどうしてもそれ以上を求めてしまう。直前にプログラムの変更があったのも気に掛かる。当初は、後半にグラナドスの舞曲集を予定していたのがラヴェルの高雅で感傷的なワルツとショパンのピアノ・ソナタ第2番に変更となった。当日のプログラムを見たら、更に前半のクレメンティやハイドンが消えて、上述のようになっていた。

こうして、どうでもいいことをダラダラと書いても冷静にはなれそうもない。

 

後半開始のチャイムが鳴っても客席が暗くならない。おかしいと思っていると、ステージの袖に主催者が現われ、ポゴレリッチの風邪によるコンディションの不調を説明した。そして、突然演奏曲目が変更される旨の発表。ショパンのソナタを期待してきたのにシューマンの交響的練習曲になってしまった。昨年、この曲はサントリーホールで聴いたのだ。しかし、これがすごく良かった。一昨年のリストのロ短調ソナタ。同席した中安氏は感動したらしいが、私にはいまひとつ判らなかった。それに較べて、このシューマンは…。あぁ、文章の乱れは勘弁してほしい。シューマンの交響的練習曲という作品自体はシューマンの作品の中でもクライスレリアーナや三曲のソナタに比べれば一段落ちる作品と思っている。昨年のポゴレリッチの演奏でも、感心はしたけれど、だからどうした?という感じだった。しかし…。

コンディションの不調をおおっぴらにした責任感でもあるのだろうか、弾き慣れている曲でも他の演目から急に変更したから緊張したのだろうか。最初から、何かただならぬ気配というのか、緊張がビンビンに張っているのが、客席に座っていてもハッキリと分かった。前半のモーツァルトの時も音に伸びはあったのだ。最初の変奏曲のテーマがピアニシモで現われた時、背筋に寒気が疾った。ゾクゾクッとした。だいたいシューマンのメロディって和音の靄に隠れていたりして明確でない場合が多い。この交響的練習曲は割合ハッキリしている方で、訥々とメロディが進行するようなところがある。それをポゴレリッチは弱音でゆっくりと弾いた。ゆっくりということは、ピアノの一つ一つの音の間が空いてしまうこと。だから、彼独特の、あの音で弾かれるのがハッキリと聴くことができる。ポゴレリッチの音の生々しさは、どう言ったらよいのだろう。これは、私がこれまでに聴いてきたものと質的に全く異なるものだ。私がこれまでに聴いてきた音というのは、以前に「音楽って何だ」という記事で書いた通り、メロディとかリズムとかいった意味のまとまりを構成していくものであり、それによって自らを存在させるものであった。しかし、ポゴレリッチの音はその全く逆なのだ。つまり、すでにメロディとかリズムとかいった意味のまとまりに満ちている場において、一挙に実質を賦与することによって現実に存在させてしまうかのように主体的に在るのだ(ポゴレリッチの精緻さ)、と。それだけにとどまらずポゴレリッチの音は、その強烈な存在故にメロディとかリズムとかいった意味のまとまりを破壊してしまうほど(ポゴレリッチの荒々しさ)。それが、この最初のテーマの演奏にも微かにあった。割合明確であるはずのテーマのメロディから、音がまるで自分勝手にあらぬ方向へ彷徨い出ていこうとするよう。この時点では未だ萌芽の段階だったけれど、変奏がすすむにつれて、それがどんどん大きくなっていった。強烈な音。強いアクセントでメロディが破壊されてしまって、いくつもの断片になったのがいくつも現われる。これは先の話。この最初の部分での弱音でも、それはチラリチラリと顔をのぞかせる。ポゴレリッチ独特のメロディをブチ壊してしまうようなアクの強いアクセントで。

ポゴレリッチはこのテーマの部分の直後に、所謂遺作の五つの変奏曲を続ける。一般的な演奏を聴き慣れた耳には、ダッダッダっていう第一変奏が続かないので「あれっ?」と戸惑うところがある。このような構成は昨年の来日公演でも演っていたので、今回は戸惑うこともなかった。弱音でテーマを始めて、その後に弱音主体の叙情性の強い遺作の五つの変奏曲を置き、構成的な練習曲を続けると、演奏がすすむに従って段々と盛り上がっていくことになる。その意味で、ポゴレリッチの配置のやり方は説得力がある。他のピアニストが採らないのが不思議なくらい。でも、ポゴリッチの音を聴けば「それがどうした」となる。遺作の最初の変奏。ショパンの練習曲作品10−8の演奏を聴いたことのある人は、それを思い出して。弱音が細かく、細かく、粒立ちも鮮やかに、疾り回る。比較のためにポリーニのCDを聴いた。全体のテンポはポリーニの方が早いのに、ポゴレリッチの方がずっと疾走感が強い。それに、ショパンの時には疾走感がとても心地よかったけれど、このシューマンではほの暗い。不気味とまではいかないが、何かが…起こりそうな(不吉な)予感に捉われるような感じ。パッセージを繰り返すと、重苦しさがつのる感じ。右手の細かな音の疾走の陰で、左手がテーマをバスで支えるかのように(一度目のときは、単にバスの音の動きと思った)分かるか分からないかのように弾くのだが、分かってしまうとどうしようもない。微かに現われる不気味さに戦慄をおぼえしまう。次の変奏では、幾分テンポが落ちた弱音の動きの中で、テーマの断片が切れ切れに現われては消える。ポゴリッチの生々しい音が、弱音でも信じられないほど強烈でどんどん逸脱が出てくる。時には三声や四声にきこえてしまって、いったいどうなっているのと。次の変奏のちょっとしたfに驚き、そして遺作のうちの最後の5つめの変奏。弱音での下降する音階がこんなにも美しいものだったのかと唖然としてしまう。その下降から幾筋もの逸脱が様々な旋律にきこえて、きいた印象がどんどんとりとめもなくなっていく。まるで迷路に入り込んでしまったかのよう。こんな迷路なら、いつまでも彷徨っていたい。下降する音階が繰り返す度に、最初の弱音にちょっとしたアクセントをつけて突出させるその印象深さ。中間で転調したときの迷路からパァーッと広場に出たような鮮やかな感じ。それらが、あまりに美しいので、本当にこんなでいいのだろうかという訝りにも似た不安がよぎってしまう。そのためばかりでもないのだけれど、何か不吉な感じがつきまとうのはどうしてなのだろうか。と、いつしか弱音が消え入るように遺作の変奏は終わってしまう。

このまま、消え去るピアノの音と一緒になくなってしまいたい。それができないなら、何も聞こえないところで放っておいてもらいたい。遺作の変奏が終わった時に一瞬感じたこと。でも、その思いを聴き慣れた第一変奏が破る。遺作の変奏のときにはチラチラ見え隠れしていた不吉さが、ここで現われる。次の変奏の左手での強打の荒々しさ。乱れるのも気にせず、こちらに突き刺さってくるかのよう。そして響きが尾を引かず、さっと消えてしまう。直後の一瞬の沈黙の深さ。このあたりから、ピアノの音の生々しさが全開バリバリになる。シューマンの曲の中では、キチッとつくってある方(それだけに退屈)なはずなのに、どんどんピアノの音があらぬ方々へ疾る。これ以上いったら壊れてしまうという限界線上を綱渡りしているような感じ。そして、ホールいっぱいに放射される音。知らず知らず顔の前で両の掌を合わせていた。合掌の格好をしていたからといってポゴリリッチを拝んでいたというのではなく、何かに対する防御の姿勢を無意識のうちに取っていた。このまま最後までいったら、いったいどうなってしまうのだろうか。それほど、この曲のこの演奏は不吉で美しくって…。最後の一つ前の変奏は、それを煽るかのように不吉な弱音で始まる。ポゴレリッチの弱音とでも言うしか言い表わすことのできない世界。これ以上聴きたくはないと思いながらも、耳がそれを裏切る。繰り返しの度に徐々に音量が上がる。危機感の、緊張のボルテージも上がる。fになるころは、3つあるいは4つの旋律が同居しているような、それがどれもまともに完結しない。それら全部をひっくるめてフィナーレに突入する。いつもなら、このフィナーレは繰り返しばっかりで、しかも強音のワンパターンなので空疎な感じがして退屈、交響的練習曲にピンとこないのもフィナーレが大きな原因のはず。しかし、このフィナーレのくどくて芸のない繰り返しが、この日の演奏ではそうならなければならない、それ以外に考えられないように感じられた。曲の進行につれて、音の逸脱によって旋律の断片が数えきれないほど現われてしまった。あまりの多さに混沌とした状態。このままでは、変奏曲という全体の構成が今にも崩壊してしまいそう。とこもかくにも、一応の決着をつけて曲を終わらせるために、曲を終わらせるのだと自らに言聞かせるかのような、くどい繰り返しをする。ポゴリッチの演奏から、そんな風に感じた。それに、ポゴレリッチのピアノがフィナーレに来て、信じられないくらい鳴っていた。繰り返しのひとくされをすごい音量で弾く。それに圧倒されていると、次の繰り返しでは、それを上回る。もう、これ以上すごい音は出ないだろうと思うと、予想を超えた音が出てくる。これでもか、これでもかと言うほど予想は裏切られる。その快感ときたら。終決を声高に叫びながらも終われず、なおも、より声高に叫び声を上げざるをえない。それって、他の曲でシューマンらしいと感じていたこと。実は、退屈と思っていたこのフィナーレもそうだった。今まで、私はこの曲の何を聴いていたのだろうか。音量がどんどん大きくなって、演奏は本当に盛り上がった。それに、シューマン的な盛り上がりへの強迫観念のような鬼気迫るところが感じられた。演奏が終わって、しばらくは拍手をする気も起こらなかった。気が付いたら、背中にベットリ汗をかいていた。

 
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