1994年5月17日(火)カザルス・ホール
ウェーベルン ピアノのための変奏曲 Op27
リーバーソン 花冠
バッハ
イタリア協奏曲 BWV971
ゴールドベルク変奏曲 BWV988
久しぶりの演奏会。演奏会に足しげく通うようになって、こんなに間があいたのは初めてかもしれない。平日の演奏会とあって会社を半休しようと思ったら、恰度社外の仕事ができたので直帰として早めに仕事を切り上げることができた。おかげで、ゆっくりと会場に向うことができた。今日はついている。 初のウェーベルンとリーバーソンはよく判らなかった。会場には終始緊張感が高かった。あのポゴレリチの時の圧倒されてしまうような緊張感とは質的には違う。しかし、今日のゼルキンも咳ひとつできない、音をたてられない感じはしていた。それは圧倒されるのとは逆に引き込まれるといった感じだった。いつの間にか音をたてようなどと身体がうごかなくなっている感じだった。ウェーベルンとリーバーソンの演奏にしても、曲が終わって、残響が長く(実際、異様に引き伸ばした感じがした。)残っていて、客席からはゼルキンが立ち上がっても拍手が起きなかった。これは、どこで拍手してよいやら誰もが決めかねていたからかもしれない。ウェーベルンのとき右手が高音部を強打した時に音がビリつくように聞こえたのが何度もあって、これがかなり気になった。ゼルキンのピアノは粒立ちのしっかりした、分離のいい硬質な音だとばかり思っていたが、今回の印象ではよく響く音なので意外だった。とはいっても以前のシャーキンとは違い鳴りすぎることはなかった。弱音が主体というのでもない。中庸という印象だった。左手で残響を長く引っ張り、右手でスタカート気味に響きを抑えて対位法みたいなパッセージを弾いていたのが面白かった。右手と左手でこうも違うように弾き分けられるのだろうか。残響ののこる中から硬い音が、それを引き裂くように現われるのは鮮烈だった。今日の演奏会のプログラミングは、このような和声と対位法との交錯なのだろうか。
今日最高だったのは、イタリア協奏曲。冒頭を出会い頭とでもいうのか、ガツーンとキツイのを一発という感じで、目一杯(でもないか)の強打で始まって。ギシギシ、ガタガタとペダルを踏む音が何度も聞こえるほどペダルを使っていた。テンポも速い。いままででは聞こえないようなフレーズが沢山出てきた。へぇー、こんなものが隠されていたのか。ダイミックの幅も広くとっていた。しかし、第二楽章が凄かった。それは、信じられないほど瞑想的だった。テンポは極端なほど遅い。しかも、フレーズをずっと切らないでつなげている。かといってシューベルトのようにモノローグにはならない。左手がゆっくりとリズムを刻んでいる。その規則正しい動きすらが瞑想に誘う心地がした。ピアノ協奏曲第五番の第二楽章をもっと瞑想的にしたよう。そして、右手の旋律がとても即興てきな感じがした。本当、これだけで今日の演奏会は大満足。他に何も要らないほど。そして、第三楽章。一転して極端に速いテンポ。それまでの、陶酔を誘うような静かな世界からパッと視界が開ける感じ。一瞬、自分の周囲の全てが見えるような解放感。それを、ゼルキンはペダルを全く踏まず。打鍵をごく浅くして軽い音で弾いた。それも、目にも止まらぬスピードで。そして、細かいフレーズがまるでジャズのアドリブを聴くように即興的に聞こえてくる。音の跳躍が殆どなくて、隣かまた隣に動く音は、ジャズピアノの指が一つずつ動くのを連想させる。それほど生き生きとしていた。しかし、それだけでなくこの動きもまた、一面静けさを感じた。それはポゴレリチのあまりの分離のいい音の隙間から感じられる静けさとは違う。もっと瞑想に誘うようなものだ。私はこの正体が把握できないでいる。それほど、素晴らしかった。家に帰ってシフのCDを聴いたが、平板に聞こえてしまった。
ゴールドベルク変奏曲も良かったと思う。しかし、前半最後のイタリア協奏曲の印象があまりに強かったので、最後まで特徴を掴みきれなかった。第一変奏はグールドほどではないにしろ、強打してくれたし。変奏によっては驚くようなテンポで弾いたところもあった。遅いテンポのところはだいたい、対位法の要素の強い変奏で、その場合はレガートもスタカートもせずに拙いかのような弾き方で、ポツリポツリと弾いた。それがまるでトリオ・ソナタのように聞こえてくるのが凄かった。どちらかというとピアノの響きを重視した弾き方のように感じられた。旋律もよくうたっていた。しかし、情緒的というのではない。終わってみればあっという間だった。
鳴り止まぬ拍手。しかし、あれだけ長時間の曲を速いテンポとはいえ一気に弾ききったのだ。アンコールはなかった。それでも、私は十分堪能したと思っている。こんな演奏会は、そんなにやたらに遭遇できるものではない。 |