ウラディーミル・アシュケナージ
ピアノ・リサイタル 1995
 

  

1995年11月14日(火)東京文化会館大ホール

モーツァルト 幻想曲ハ短調K475

ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K457

ピアノ・ソナタ第9番ニ長調K311

ショパン   夜想曲第7番嬰ハ短調Op27−1

夜想曲第8番変ニ長調Op27−2

舟歌嬰ヘ長調Op60

マズルカ第35番ハ短調Op56−3

マズルカ第36番イ短調Op59−1

バラード第4番ヘ短調Op52

ボロディン  スケルツォ(アンコール)

 

アシュケナージというピアニスト。ピアノ好きの私の友人N氏やT氏が、いつもボロクソに貶す人である。対して、数多く録音されているCD。他人の評価はあくまで他人ごとであって私自身とは関係ないものの、おそらく最初で最後の機会と思った。たまたま電話がつながって、空席があるので聴いてみようという気になった。ちなみに、現在のところ私はアシュケナージのCDを1枚も所有していない。

東京文化会館のロビーは開場前というのに沢山の人の波。会場へは長蛇の列。パンフを買うのも、特設CD売場も人、人。客席は立錐の余地がない。もちろん満員御礼。アシュケナージって人気があるのだ。開演のベル、で場内が暗くなるとすぐにセカセカした歩き方で小人が舞台に登場し、間を措かず弾き始めた。なんか落ち着きがないな。素っ気ない。ピアノの音の第一印象もそんな感じ。モーツァルトの中では、どちらかというと私には縁遠い作品が取り上げられていたためかもしれないけれど。ハ短調幻想曲なんか、他の人ならもっとゆっくりと弾くのに、サッサと終わらせたいとばかりに速いテンポ。それと意外に、この人細かいところをいじって弾く。悪くいえば小細工。それが何故かとっても目立って、どちらかというと目障り。そのためだけではないのだけれど、音楽が生き生きと流れない。その最大の理由は、彼の弾く音そのものが死んでいるということ。つまり、一つ一つの音が相互に繋がらないし、動かないということ。それぞれの音が点々と置かれてあるだけ。これはイクタス同人から吹き込まれた偏見のせいかもしれない。CDで聴けば、たぶん気にならないことだとは思う。細かいところならば、トリルがきれいだとか色々素晴らしいところはあるのだろうけれど、それが演奏の全体とは結びつかない。だから、前半のモーツァルトは退屈。

友人のN氏の言によれば、甘ったるい音というのだが、アシュケナージは結構鋭い音も出していた。なんだ、こんなこともできるのか。後半のショパンの演奏も前半とたいして変わらず。ショパンの音楽はモーツァルトと違って形式という外側の枠ががっちりしていないので、モーツァルト以上にガタガタの印象。それらしく音色の変化やテンポルバートをしているのが空々しくて見ていられなかった。なんで、こんなピアニストの演奏にこんなに沢山の人が聴きいっているのか不思議に思った。小利口な優等生の発表会といった趣き。

それが、最後のバラード第4番の演奏でがらっと変わった。これまで外れ続けていた歯車がガチッと噛み合った、と言わんばかり。いったい何が変わったのか、はっきりとは分からないのだけれど、音に血が通いはじめたのか、出だしから違って聞こえた。速めのテンポが血の流れをどこまでもスムーズに流す。ショパンの曲のなかでも複雑な構成を持ち、割合にしっかりした形式のこの曲。片方では、しっかりとそれを押さえながらも、これほどまでに即興性があったのかと思うほど、奔放さを発見してしまった。バラードの単純なテーマを繰り返しながら、そこから派生してくるフレーズの多彩なこと。そのうち、あるものは曲からはみ出して、どこかへ行ってしまう。アシュケナージの指は大きくテンポを揺らして、それを執拗に追い掛ける。すっごいアナーキーな演奏だったと思う。あぁ、アシュケナージの魅力ってこれだったのかと思った。滋味とか円熟とか名人とかという称号からはほど遠い。どちらかというと即興の無秩序さに翻弄される楽しさといったところか。それが、この前までの演奏のように音が死んでいると、形骸だけが残骸のようにあって無秩序か形だけが奇を衒ったようにしか聞こえない。バラードの演奏がすごいと思ったのは、それだけではなくて、即興に身を任しながらも、バラードの単純なテーマの繰り返しが見え隠れしながら変奏されることでリズムが生まれるのを、それこそ精妙に即興の土台に据えていたこと。それが、いま生まれたばかりのような瑞々しい音を音楽として新鮮さを持続させていたこと。これは、私がアシュケナージを、たとえば先月聴いた内田光子のような演奏家みたいに、いうならば楽譜を解釈するとは違う、音楽をプレイするタイプと聞き取ったことによるかもしれない。だから、その演奏について具体的にどうこう言葉をもって思い出すことは無理と言い切ってしまおう。だから、たぶん、アシュケナージの音楽、私が聴いた彼の音楽、この時のバラードの演奏から感じ取った音楽は、突然彼の指に降って湧いたかのようで、彼にとっては自分では生み出すことはできないような、湧いた際に消えないようにするのが精一杯のような(それができること自体もすごいことだと思う)、ほとんど自力で出会うことは不可能な、出会ったと意識したとたんに消えてしまうようなもののように感じた。私にできるのは、その瞬間に居合わすことのできた幸福に感謝するだけかもしれない。だから、いままでは彼のCDは消極的な意味で敬遠していたけれど、これからは積極的に遠避けよう、耳にしないようにしようと思う。

 

 

1995年11月17日(金)東京芸術劇場大ホール

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第16番ト長調Op31−1

 ピアノ・ソナタ第17番ニ短調Op31−2 「テンペスト」

プロコフィエフ 「ロメオとジュリエット」Op75 より

  「別れのロメオとジュリエット」

  「仮面舞踏会」

 ピアノ・ソナタ第8番変ロ長調Op84「戦争ソナタ」

ショパン    マズルカ第36番イ短調Op59−1(アンコール)

 

この前のバラードだけで十分だったのだけれど、もしかしたら、万が一、もう一度。という期待がないわけではない。それで無理をした。ベートーヴェンのソナタ。まぁ、こんなもんじゃないの…。第16番のソナタなんか装飾の細かい音の粒がそろって綺麗だったし、「テンペスト」だって破綻することなくきちんとまとめられていた。プロコフィエフは突っ掛かってくるような鋭さのない、ある意味では洗練された?聞き易い、きれいきれいした演奏。(「何じゃ、こりゃ!?」っていう驚きとか戸惑いがないとプロコフィエフって面白くないと思うのは、私だけなのかしら)きっとCDで聴けば、それなりに…と思うだろう。それはそれで、どうのこうのではない。しかし、という思い。と、やっぱり、という感じ。きっと、CDなんかをよく聴いて勉強しているような人は感心するんだろうな。それでも、一瞬だけ、アンコールで弾いたショパンのマズルカの中間部の演奏、繰り返しが繰り返しを呼ぶとでも言うような感じ。繰り返しのパッセージの中に幾重にも同じパッセージが内包しているような、変な喩えだけれど玉葱の皮を剥いていくと皮の下には皮が現われてくるので必然的に皮剥きを繰り返すことになるような、いつまでも繰り返してほしい、そんな演奏。それが、その後の主部が再現されると、もうその一瞬は終わっていた。後で、帰宅してあらん限りの同曲の録音を聴いたが、そんな生々しさは聴き取ることはできなかった。

このような文章を書くことは、とても恥づかしいことだ。きっと、後になって読み返してみたら、どのような演奏だったか、さっぱり判らないだろう。書いた本人ですらそうなのだから、ましてや、他人が読んだならば、なおさらのことだろう。

 
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