秋山和慶指揮東京交響楽団
シェーンベルク「モーゼとアロン」 1994
 

  

1994年1月29日(土)サントリー・ホール

シェーンベルク モーゼとアロン

 秋山和慶 指揮 東京交響楽団

 

初めてのオペラ体験。寒い日だったので、トレンチコートは着ずに厚いオーバーを着ることにする。名にしおうサントリーホールなのだから。かつて、ジーンズによれよれのスニーカーで係員に胡散臭い目で見られたことがあるのだから。

演奏については、前々日のFM放送で同じプロを聴いていたので、ある程度の予測をして臨むことができた。予測というよりも期待と言うべきだろうか。作品については、かつてFM放送でレヴァインの指揮するウィーンフィルの演奏を聴いて好きになってしまったもの。そのためか否かシェーンベルクという作曲家は、同じ新ウィーン派のヴェーベルンやベルクよりはずっと親しみを持っている。そして今回は、その「モーゼとアロン」を愈愈生で聴くことができるのだ。いまこうしてキイボードを叩いていても、頭の中は未だ音楽が鳴り止んでいない。それほど素晴らしい体験をしたのだと思う。

とにかく凄い迫力だった。と言っても力任せのごり押しというのでは勿論ない。サントリーホールの空間いっぱいに音楽の様々な断片や糸が渦巻いていて、客席の私自身がその坩堝に放りこまれた印象だった。とこかく、こり音楽の豊穣さには、現在の私の能力ではとても捉えきれない。例えば、第2幕の冒頭、合唱が“モーゼはどこだ”と何声にも分かれて、対位法のように互い同士掛け合いをするところ。“モーゼはどこだ”というフレーズが重なり合い絡み合う。そのリズムの重層性。いくつものパターンとその転換のめまぐるしさ。目眩がするほどかっこいい。そして、重なってきこえてくるメロディが、まるでバッハのオルガン曲のフーガを聴いているような感じ。それだけではなくて、例えば、シューマンのピアノ曲は右手と左手の線が交錯し絡み合って、左右の合一とは異質な複雑なメロディを作り出している。“モーゼはどこだ”には、そういう要素もある。目の前正面に並んだ合唱団のそこここで、同時並行に“モーゼはどこだ”が沸き起こる。これを追い掛け、ときほぐしていく楽しみときたら。これが最初から最後まで、約2時間高い緊張感のもとでつづけられてしまう。とりわけ、第2幕の途中でアロンが偶像崇拝を認めて乱知己騒ぎとなるところから、モーセが登場するところまでのほとんど管弦楽曲といっていいクライマックスの部分(あくまでもドラマのではなく音楽の)。プロコフィエフやショスタコーヴィチらの無機的なリズムの錯乱とは一味違う、ベートーヴェンの第7交響曲をもっと無機的にして野蛮にしたような荒々しさや原始的な力を感じされる音楽であったと思う。だからと言って単調というのでは決してない。驚くほどの多彩さ。オーケストラの至る所で、声部が剥出しになったようなフレーズが種々雑多に発生し消滅し展開する。そしてまた、旋律の意外性。次の音を期待すると、それが見事にはずされる。予想を上回る以外な展開に驚かされたことは数知れず。「えー!そんなのありか!」シューベルトなどのように音楽の流れに、ゆったりと身を任せるということはない。その代わり、スリリングな緊張感を十分堪能できた。未だ、あの時の興奮が醒めていない。(こんな風に書くと「春の祭典」を想うかもしれないけれど、あれは私には知的すぎるというか、頭で観念的に考えすぎているような印象なのです。これは、もっと肉体的でした。)

モーゼを歌ったバスのジークフリートの声が、地の底からジワジワと湧き上がるようにホールを満たす感じで良かった。歌うことを許されないという設定なので終始朗詠調であったが、声の存在感たるや見事なほど。第3幕は、彼の独壇場。尤も、モーゼとアロンの2人が前に出てきて、オケの沈黙の前で科白を交わす数分なのだけれど。彼の低い声でのドイツ語の科白を聴くと、それだけでドラマを感じる。ドイツ語そのものの肉体性に触れえた感じがした。

とにかく、凄い音楽、すばらしいオペラ初体験だった。

この作品は、構成の上でもモーゼとアロンという二つのキャラクターの対立を軸にしている。それだけでなく対立的要素が随所にあった。それが演奏に漲る緊張感の原因の一つと思われる。コーラスなど、まるで隣同士が対立しているように聞こえる。上述の掛け合いなど、パートに分かれて行なうのではなく、パートの中でも行なう。普通の掛け合いのように、お互いに補って複雑な音楽にするのではなくて、互いに相手を打ち消し合っているように聞こえる。そして、相手に打ち消されまいと互いに対立しあう感じがした。まるでコーラスという秩序立ったまとまりではなく、混沌としている。その中でコーラスのメンバー各個人が、相互にバラバラで孤立しているように聞こえる。まるで烏合の衆のように。それが一斉にユニゾンでフォルテになると、群衆がパニックになってこちらに我先に殺到してくるような切迫感、迫力があった。同様にソロ歌手の重唱も声を合わせて歌うのではない。互いに歌っていることが異なっていたりする。聴くほうも一方のみを追い掛けて聴くわけにも行かず、謹聴を強いられる。オーケストラも同じであった。この対立の網から、強い緊張が発生しているのだと思った。

例えば、第2幕の殆ど管弦楽作品といってもいい部分。それぞれの楽器の音をモザイクのように散りばめて、聴く私がメロディやリズムといった「かたち」を自ら構成してしまうという、謂わば即興的な楽しさが一杯だった。例えば、トランペットが一音鳴らす。その次の瞬間に、弦楽部がほんのひとさわり、同時にクラリネットが弦の音とは関係のないような音を一息。こういうのが次々と。聴いている私は、この中から適宜聴きたい音を、その時の気分でピックアップしてみる。そうして、気が付いてみると、演奏から自分なりに音楽を創ってしまう。こんな楽しみがあったのか、と思った。今まで、十二音とか音列とか無調とか難しそうな響きの専門用語に恐れおののいていたけれど、実はこんなに楽しいものとは知らなかった。知らずに食わず嫌いになっていたのが、なんと阿呆らしいことだったか。他の人はどうだったか分からないけれど、この演奏会では殆どノリノリの世界だったと思う。

 
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