西島千尋
「クラシック音楽はなぜ<鑑賞>されるのか」
 

序章 日本だけにある<鑑賞>と言う言葉 

第1章 音楽をきくのは専門家─明治の<鑑賞>は批評?

第2章 子どももみんな音楽をきこう─信じられた芸術鑑賞の力

第3章 音楽をきいて精神訓練─クラシック音楽の<鑑賞>で身に付ける日本精神?

第4章 音楽を愛そう─日本国民は将来みんなクラシック音楽鑑賞者

第5章 音楽は「ただきく」ものではない─<鑑賞>と「きく」ことの違い

第6章 みんなできこうクラシック音楽─<鑑賞>は日本人の義務

第7章 ポピュラー音楽にかなわないクラシック音楽─<鑑賞>教育の失敗

終章 なぜ日本にだけ<鑑賞>という言葉が生まれたのか

感想

 

 

音楽が「きく」対象として意識されたのは、19世紀中頃のドイツにおいてであり、それまでは音楽は踊りのため、労働のため、儀式のため、社交のためのものであり、ただ「きく」ために存在していたものではなかった。

日本では芸術とかかわることを<鑑賞>という。しかも、この言葉はもともと日本にあった言葉ではない。明治以降に使用され始めた言葉のひとつだ。しかも、<鑑賞>が指し示す意味は変化しつづけてきている。この変化の過程は、近代国家日本がいかに芸術とかかわるべきかの模索の経緯を表わしていると言える。しかも、興味深いことに、他国には<鑑賞>にあたる言葉はない。

 

序章 日本だけにある<鑑賞>と言う言葉

<鑑賞>と言う言葉には二つの意味がある。ひとつは世界各国にも共通する音楽のたしなみ方を意味し、もうひとつは最初に述べた日本独自の意味の鑑賞である。共通する音楽のたしなみ方とは、コンサートホールで聴衆として一定のルールを守ることであり、エチケットを守っていれば、心の中でどう思っていようが、それらしいコンサートになるわけです。実は、クラシック音楽のコンサートには、このようなマナーを含めてクラシック音楽に集中するしかけが為されている。例えば、コンサートホールは外界から遮断し、訪れる人を非日常的な空間に囲い込む、またホール内でも座った人の視線はステージに集中するように仕掛けられている。演奏が始まる前に証明は可能な限り落とされるが、それは誰が隣に座るが重要でなく、関心をステージに集めるためと言える。しかし、ステージでスポットライトを浴びる演奏者や指揮者が主役かと言えば、そうではない。例えば、オーケストラの服装は黒か白に限られている。これは召使の服装で、いわば音楽という主人に仕えていることを示している。このような様々なしかけ、聴衆が守るべきルール、そして芸術作品という考え方によって、クラシック音楽のコンサートは集団的な反応形式が重視される。その集団的な側面が<鑑賞>のひとつの側面、世界に共通する意味である。

それでは、<鑑賞>のもう一つの意味、つまり日本独自の鑑賞について考えてみよう。それは、個人の内面に踏み込む内容をもつ。ある音楽と関わっているとき、その人がどうきいている、どのように感じているかは分かりようがない。だが、クラシック音楽には理想とする聴き方があるという考え方がある。これは美学の用語でいう「美的体験」に似ている。自然対象や自然の光景、人工品のなかでは特に芸術作品を対象として、その感覚的な美質を味わい、さらに技術的・精神的な構築物である芸術作品の場合には、その制作の技法を評価し、そこに絶えず意味を探求し、さまざまな解釈の可能性を比較考量しつつ、全体の思想を把握するという、感覚的で技術的、かつ知的な多層的理解の、ダイナミックなプロセスである。しかし、<鑑賞>の対象は芸術に限定され、評価・判断の要素はふくまれていないようだ。また、外国語、例えば英語にも、appreciationのような似た言葉があるが同じではない。

<鑑賞>は明治中期に美術の分野で批評の意味合いで使われ始め、文学や音楽にも波及していった。大正から昭和にかけては批評は客観で<鑑賞>は主観という使い分けがなされていくが、批評がプロなら鑑賞はアマチュアといような、この区分も曖昧で、戦後になると<鑑賞>独自の概念が形成されていく。このような<鑑賞>の変遷の意味するところは何なのか。当初の鑑賞は翻訳語のひとつで専門用語であったのが、批評と使い分けられることで非専門化し、次第に主観性が強調されていく。この過程は専門家から、より多くの人々を鑑賞の主体として想定する過程であるであるとも捉えることが出来る。しかも、専門用語であった明治から大正にかけては権威を生み出す行為であった鑑賞が、徐々に権威に従う行為へと変化していった。このことを極言すれば、近代日本は、権威に従う鑑賞者を求めてきたとも言えるのではないか。

 

第1章 音楽をきくのは専門家─明治の<鑑賞>は批評?

明治中頃の日本では、西洋音楽にまつわるものが文明のシンボルとして機能していた。一方、伝統的に音楽の地位は低かった。このとき、西洋音楽の受け入れを主導したのはエリートたちだったが、彼ら自身も馴染みのない「芸術」をどのように受け止めるべきかで悩んだ。そのひとつは「音楽は真(科学)である」という捉え方である。音楽は西洋知に貢献するとして扱うというもので、バウムガルテンの美学思想の影響によるもの。この過程で、音楽の序列が出来ていくことになる。西洋音楽は「文明的音楽」と呼ばれ、進歩した音楽と位置づけられた。この中で日本国内の身分差と音楽も結び付けられていく。三味線を使用する民間の俗楽は淫靡卑猥で品性が下劣とも、見なされこれに替えて,日清戦争後の大東亜を視野に入れた日本は大国民として恥ずかしくない国民となるためには西洋音楽を広めなければならない。とはいえ、クラシック音楽に接触できる機会は限られており、唯一、社会的に展開されたのは学校教育における「唱歌」の授業であったと言える。しかし、唱歌はあくまでも教育の一環であって、芸術ではなかった。それは、明治政府に、従来の日本にはなかった拍節的な唱歌を利用して児童らを国民皆兵化するという意図があったということだ。より直接的に言えば、明治政府には唱歌や唱歌遊戯(唱歌に合わせて行う集団的動作)によって号令に合わせた行動を身につけさせるという意図があったのである。これは、何万人もの兵を戦場で秩序正しく整然と行動させるという目的に適う。また、唱歌は身分や地域に関係なく全国民が接しうる唯一の音楽であったことから,日本国民である自覚を持たせる役割も課せられていた。唱歌は全員で斉唱するもので、万民の心が同じ調子になることで、万人協同一致の精神が涵養されるという。このように唱歌はいわば「うたう」という参加する音楽であり、演奏を「きく」という行為ではなかった。当時は、オーケストラなども整備されておらず、西洋音楽の器楽を聴く機会はきわめて稀であったといえる。その中で、音楽を「きく」対象として捉えようという動きが生まれてくる。このような、音楽を「きく」対象として意識され始める過程で<鑑賞>という語・概念が徐々に生成していくことになる。明治に日本で音楽を「きいて」いたのはほんの一部の決まった顔ぶれであったという。一方、唱歌の現場では、教師たちが他人の歌をよくきかなければ、自分も歌うことが出来ない、と考えるようになっていった。しかし、このような唱歌の授業は子どもたちには不評であったようだ。

  

第2章 子どももみんな音楽をきこう─信じられた芸術鑑賞の力

大正に入ると、政治・社会・文化の各方面で大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的、自由主義的な運動が起こる。明治には科学的であることで権威づけられていた芸術が、大正に入ると科学に対抗するものとしてその精神性が喧伝されるようになる。これは日露戦争後の物質的な豊かさへの不安がそうさせたと想像される。このなかで芸術に対して下劣な流行歌が蓄音機の普及などに伴い人気を博していく。これに対して、関係者は西洋音楽の普及に尽力したが、実際に芸術に触れる機会がなく、書物を通じた啓蒙が広まった。このような時に<鑑賞>には音楽の理解に向けた努力と思慮分別が必要で、その結果音楽を好きになれるという議論まで飛び出した。また、教育界からは、芸術性の陶冶による人格形成のために芸術を中核に教育を展開することを目指すドイツ芸術教育思想の影響から、<鑑賞>教育が着目され、いってみれば芸術にのめり込むようなことをすすめるようなことか。このような中で蓄音機が普及により音楽教育が変化する。そこで、アメリカの大手レコード会社のガイドブックをもとに、今で言うライト・クラシックのようなものを実際にきかせる教育が行われるようになったという。ここで使われたガイドブックはアメリカ流のappreciaition、子どもには余計な説明は不要でありきくということそのものを重視するものであった。

 

第3章 音楽をきいて精神訓練─クラシック音楽の<鑑賞>で身に付ける日本精神?

昭和に入ると、ダンスホールやジャズレコード、アメリカ映画の人気やラジオ放送の開始などもあり、人々の音楽とのかかわり方が、「する」こから「きく」ことへとかわっていった。とくにレコードの流行は、音楽を深刻な態度できくことの流行でもあった。当時の名曲喫茶(クラシック音楽のレコードを店内で流す喫茶店)では、ベートーヴェンのレコードを深刻な顔をしてきく人が多く、おしゃべりをははかる雰囲気であった。音楽鑑賞教育が次第に定着していく。当時鑑賞教育では、人格の重視され、大正期の精神性の強調がさらに進み、音楽と人格・心が、同一化、合致するものであると捉えられるようになる。これと期を一にするように鑑賞が主観的でよいか、それとも客観的であるべきかというジレンマが現われる。これは、突き詰めれば、「好き嫌い」か「正否」かということだ。音楽教育では音楽を楽しむことを重視する方向が強かった。いずれの立場を重視するにしても、鑑賞の題材となる音楽はクラシック音楽であったということだ。しかし、実際に取り上げられたのは、前章で紹介したアメリカのライトクラシックやポピュラーミュージックであり、それも有効に使用されたかは疑問がある。しかし、昭和16年鑑賞は法制化され、観賞用のクラシックレコードは免税措置を受けて発売された。これ戦時体制の中でクラシック音楽を大衆レベル,全国レベルで国策宣伝・教化動員の手段として活用しようというしたものだった。このわうな統制した上で大衆へ広げるという文化政策のありかたはナチスドイツの文化政策に倣ったものだった。そこで、統制という名で規制されたのは流行歌だった。

だが、戦時体制という言うならばナショナリズムが高まった時代に、なぜ外国のクラシック音楽が役立つのだろうか。昭和初期、クラシック音楽は「学問的趣味」の様相を帯びるようになる。大正の中頃から学生文化がバンカラ文化から多様化に向かい、文学や音楽が「学問的趣味」として認められるようになる。その中で、とくにベートーヴェンが突出する。明治期の富国強兵が進むと大正期には「国家」から「個人」へと人々の関心が移り、個人の煩悩や苦悩が注目を浴びる過程でベートーヴェンの人格的葛藤が物語として人々の共感を得ていった。ベートーヴェンの作品以上に彼の人格や生き方が「人格形成」や「生きることの範例」として人々の関心を集めた。西洋文化に親しんだ大正教養主義が思索や読書、芸術鑑賞を通して個人に集約される思想的基盤が形成されていった。昭和初期教養主義はマルクス主義の影響が加わり社会改革が志向される。この大正・昭和初期の教養主義に共通しているのは、青年らしい柔軟な感受性を開いて、善きもの、美しきもの、正しきものを受け容れことだった。このような昭和教養主義を背景として、一人ひとりの精神や情操の教育が行われ、それがひいては国家の改革に結びつくことになる。ここで芸術の鑑賞とナショナリズムが結びつく。芸術の鑑賞が精神の訓練、向上に資するわけである。この動きに伴って鑑賞の概念の抽象化が進んだ。大正には美や喜びを直観させることが鑑賞とされたが、それでは精神の訓練や向上には馴染まない。

 

第4章 音楽を愛そう─日本国民は将来みんなクラシック音楽鑑賞者

太平洋戦争の敗戦により、占領軍の指導を受けながら教育基本法が施行される。そこで、音楽鑑賞教育が新たに始められた。この指導要領の作成にあたったのが作曲家の諸井三郎だった。彼は、音楽美に触れることで人間性および精神生活を高められると考えており、それが知識や技術の教育に対する、芸術教育の意義であると考えていた。さらに作曲家としての立場から、日本の音楽を世界水準に待て持っていくという理想を抱いていたという。そのためには、専門家だけでなく、根本的土台を支える聴衆、子どものころから豊富な音楽経験を持つ優れた聴衆の育成がひつようであった。その対象とした音楽はクラシック音楽であった。彼の理想は、留学先のドイツで出会ったような音楽愛好家だが、このような理想と当時の民衆の趣味に大きなギャップが存在し、そのギャップを急激に埋めることは容易でないことも分かっていた。そこで、段々と向上させることが、現時点での目標であると考えていた。しかし、教育現場では、鑑賞教育は普及しなかった。なぜなら、教師が実際にどう教えていいか分からなかったからである。しかし、諸井の鑑賞に対する考え方は共有されていった。<鑑賞>は知識や教養という捉え方でなく、精神の訓練でもなく、心の活動を豊かにさせることが鑑賞の目的であるという。このような心の強調に伴い批判されるようになったのが言葉だった。音楽の美は言葉で表わすことはできないのだから、美辞麗句を用いて音楽を説明することは真の鑑賞を阻害することであり、直接の音楽の美しさを味わうことにあるのだ。と心と言葉が対立的に扱われるようになった。しかし、当時の大多数の国民にとって音楽はうたったり楽器を奏でるもので、きくものではなかった。

 

第5章 音楽は「ただきく」ものではない─<鑑賞>と「きく」ことの違い

昭和25年ごろより朝鮮戦争などを契機に占領軍の方針が転換し、米国の指導が強まった。また、諸井三郎による指導要領は高度すぎるということで、改訂が行われた。その中で、米国の影響が強まり、<鑑賞>は英語のアプリシエーションの訳とされた。その意味は、音楽の本質・美をききわけ、ききとり、享受すること。さらにリスニングに当たる聴取とを意図的に対比した。つまり、聴取は断片的な音を感覚的に聞く聞き方であり、この音色は何の楽器の音かなどの取り扱い。これに対して鑑賞は全体的、統一的な音楽を精神的に聞く聞き方となります。鑑賞の意義は音楽を美的対象として受け入れることとされました。

ここでの「きく」ことには知的な面とマナーの面が特徴的です。子供たちはやがて社会人となるので、その際のために音楽をきくエチケットを身につけておく事を求めた。また、それ以前の知的な鑑賞が復活した。しかし、また、実際には鑑賞教育はあまり実施されなかったといっていい。これは、音楽科の教員の多くが演奏家としての教育を受けていたことや、鑑賞の意義が教育現場に浸透していなかったこと、また、鑑賞の定義づけが抽象的で、高度な印象を与えてしまったむこと、さらに、このような<鑑賞>に対して評価を加えることの難しさ、などによるためと考えられます。このころから、ただ「きく」ことと<鑑賞>の差異化が進む。それはまた、流行歌に対してクラシック関係者が抱いていた脅威も影響している。彼らに言わせれば、レコードが与える音楽(つまりは流行歌)に屈服することで主体性を失い、音楽への真の感動を失ってしまうという危惧があるという。

 

第6章 みんなできこうクラシック音楽─<鑑賞>は日本人の義務

戦後が遠くなり、高度経済成長の時代に入ってくると音楽鑑賞教育が義務化され、きくべき音楽教材が学習指導要領で指定されることになる。他の科目、算数などでは全国的な平均も見やすいが、音楽鑑賞となるとそうも行かない、そこで国家的標準を満たさせるため、というわけだ。また、教育現場からも要請があったという。さらに、子どもに対して、適切な音楽を選曲し、きかせば、子どもはそれを好むようになる。学校教育が子どもの流行歌を作り出せば、望ましからぬ大人の歌(つまり、流行歌)などを口にする必要はなくなる、と考えられた。これに並行して、各地の学校に音楽鑑賞設備(ステレオ装置)が設置されていく。しかし、教育現場では<鑑賞>について様々な議論がなされてきても、方法としてはただ「きかせる」こと以上に発展させることは難しかったようです。

鑑賞教育が義務化されたことにより、改めて<鑑賞>とは何かという問いかけが為され、多様な解釈が林立する状態を招いたが、<鑑賞>が美を受け取る行為であるである点では一致していたといえる。しかし、どれだけ基本認識が共有されていたとしても、それを教育する具体的で確実な方法は誰にもわからない、というのが実情だったと言えます。

 

第7章 ポピュラー音楽にかなわないクラシック音楽─<鑑賞>教育の失敗

音楽鑑賞教材に対しては、多くの批判がありました。それらは主に、@一貫性がない、A保守的である、Bクラシック音楽の中でもロマン派・古典派に偏重している、Cクラシック音楽として正統的でない、Dクラシック音楽に偏りすぎている、などです。さらに、もっと根本的な批判として共通の教材という制度により固定観念が生まれカリキュラムや教材の開発が進まないという批判でした。鑑賞教育により何を目指すかという議論から、いかに共通教材を教えるかに移ってしまったというわけです。

何よりも、音楽鑑賞教育の失敗と見なされたのは、子どもがクラシック音楽を好きにならないということでした。では、子どもたちはどのような音楽を愛好していたのかといえば、流行歌であった。この中で、ポピュラー音楽の愛好の仕方と、クラシック音楽の愛好の仕方が意識して区別されるようになる。ポピュラー音楽は感覚的にきけばよいが、クラシック音楽は感覚に終わってはならず、精神的にきくことの重要性や芸術的感動を得ることの必要性が説かれた。このため、以前はあったクラシック音楽に親しむというニュアンスは薄れていったと言える。これに対応して、ポピュラー音楽をただきく場合をリスニング、クラシック音楽をきく場合に対応するのがアプリシエーションと区別されていく。そこで、リスニングとアプリシエーションが切り離されていく。

これは教育現場での教員養成についても、大きな課題となった。教師自身が感動できないものをどうやって子どもに教えられるのか、という意見が現場からあがったのである。また音楽専科の教師は演奏家として訓練されるため、音楽鑑賞を低く見る傾向にあり、さらにクラシック音楽以外の音楽をほとんどきかないため、クラシック音楽の正統性に疑いを差し挟むことはなく、一般的な教員や子どもとも認識の溝は埋まらなかった。

一方、太平洋戦争に敗戦した戦後日本は文化国家を標榜した。これは、戦時体制が文化や芸術を抑圧したことへの反省や文化が平和に結びつくとの認識からで、当時の人々にとっては平和は切実であった。その一環でクラシック音楽が重視されたのであった。文化庁による芸術政策も進められた。芸術祭や文化ホールの建設など、民間でも音楽家養成学校や楽器メーカーによる教室などで底辺を広げる動きが始まった。ただし、この弊害としては、芸術は無料で享受できるとの風潮が広がり、数多く立てられた文化ホールが赤字に悩まされる原因はここにもあった。演奏施設や演奏者が揃ってくるに従って、聴衆が追いつかないという状況。鑑賞教育をいくら施しても、聴衆は育たない。関係者はポピュラー音楽への批判をもって、クラシック音楽の浸透を阻むものとしていた。その根底には、いったん優れたクラシック音楽に接すれば、子どもはその芸術性に気づくはずという傲慢ともいえる楽天主義があったようです。

  

終章 なぜ日本にだけ<鑑賞>という言葉が生まれたのか

ここまでのところで見えてくるのは、@<鑑賞>にはさまざまな意味があると言われながらも、実際には批評とは異なり、芸術に肯定的な意味を持つ言葉であったこと、A<鑑賞>を行う人が変化してきたことの2点である。

明治の<鑑賞>という言葉が生まれたころは、批評から享楽まで幅広い意味合いを含み込んでいた。その後、対象となる芸術がクラシック音楽に限定されていくにつれて、昭和以降、批評が専門家に、鑑賞はそれ以外の人と分化が進む。そのプロセスで音楽が、「きく」対象となり、独自の<鑑賞>概念が形作られていく。このこしは視点を変えて言えば、分化、つまり、分業化というのは仕事などで言えば効率化、つまり合理化を目的として行われることであり、批評と鑑賞の分業もまた、合理化であるとも言うことが出来る。国民全員が批評家という専門家になるには難しく時間を要するけれど、批評は専門化が請け負い、その他の人はそれほど難しい経験や探求を積まなくても、理解し味わったり愛好すればよい。鑑賞は、クラシック音楽を社会に成立させようとする人々と、その人々が他の人々をクラシック音楽に巻き込もうとする際に、クラシック音楽と人々を結びつけるために生み出された言葉であって、クラシック音楽の聴衆をより多くの人々にひろげようとする過程で鑑賞が形成されたと言える。

なぜ、全国民がクラシック音楽界に巻き込まれなければならなかったのか、という疑問が残る。現実に国民の誰でもが聴衆になれるような環境はステレオやレコードの普及や各地に音楽ホールが建設されコンサートが頻繁におこなわれる昭和50年代以降になってからだ。欧米のように芸術とその環境が存在していたのと、異なり、日本の場合は、明治初年当時、芸術を成り立たせることと、芸術が成立する社会のための教育制度を整えることを同時に行い、両者を切り離すことは出来なかったことに由来する。

もし、明治初年のクラシック音楽の輸入が単なる欧化政策の一環で、欧米に日本が文明化されていることをアピールするのであれば、国立のコンサートホールや、いくつかのプロオーケストラの存在程度で可能なことだ。しかし、日本の場合は、明治以前に伝わっていたものの多くを意図的に保護せず、国民全体を巻き込んでクラシック音楽界を築こうとした。これは日本が文明化された国家であることを示すにとどまらず、国民全員が文明化された近代的な国民であることを示そうとしたことに他ならない。鑑賞という態度を国民全員が見につけるということは、国民全員が近代的な人間として音楽とかかわるということでもある。<鑑賞>は感じ方は人それぞれ自由でよいと、主観的であってよいと言われるのは、そのベースにクラシック音楽が芸術であり、芸術であるから他の音楽よりも好きになってしかるべきだという客観的な価値判断がある。だから、関係者はポピュラー音楽への警戒感を露骨に示している。では、どのように、クラシック音楽をよしとする価値観を共有するか、どのようにしてクラシック音楽の魅力だとされている事柄を理解するか、<鑑賞>教育の課題として考えられつづけてきたことである。

そもそも、コンサートホールでクラシック音楽をきくエチケット、本書の言葉で言えば「世界共通のルールとしての鑑賞」から考えると、西洋芸術のルーツは古代ギリシャの人文教育にあり、野蛮な人間に対して人間らしい人間に導くことが目指されていたという。この人間らしい人間が持つべきものとして重要視されたのが言語であり、理性であった。この理性が近代には学問、法、芸術の三種類の価値領域に分極化する。こうして理性が重視されるに従って、蔑まれていったのが身体と言える。そこで、身体と関わりなく理性で音楽でかかわっていくことを示すために、音楽をきく以外の行為を行わないという「世界共通のルールとしての鑑賞」が用意された。コンサートホールではこのように個々の聴衆がひとり瞑想のうちに音楽を聞くという場を共有するのである。これは一面では、他人と快楽をともにすることにより楽しんでいる自分の姿を確認し合うことができるという理由がある。そして、さらに近代以降の社会では感情や興奮をコントロールすることが理性的とされた。コンサートホールで身体を動かさないからこそ、近代的な人間として感情をコントロールし、理性的に感動していることを表明できるということになるのだ。こうしてみると近代芸術の成立と理性的な受容の態度は表裏一体のものだと言える。すべての人間は理性を持っているという考えは、芸術はすべての人間に開かれていることになる。しかし、現実は芸術に積極的にアクセスする人間は限られたものだった。そこで、芸術と人々とを仲介する専門家が登場する。ところが、専門家が使用する専門用語は閉鎖的で神秘化され、芸術と人々との距離はさらに広がることになる。それでは、その段階をすっ飛ばそうという「芸術は理屈ではない、自由に心で感じればよい」という言説が説得力を持っていく。

国民全体を聴衆としてクラシック音楽へと誘うということは、国民全体を理性を備えた近代的な人間へと導こうとすることだと言えば、議論の飛躍だろうか。

 

本書は音楽をきくという行為、クラシック音楽を鑑賞するということの意義の変遷を追いかけることで、この特異性を考えていくというものです。以前にも「音楽好きの脳」とか、人は音楽をどのように受け入れるのかということに関連する本を読んだことがあります。著者の議論は類型になりがちですが、とても分かり易い。ここで言っているように、音楽で言うとクラシック音楽と流行歌の関係は、表現にかかわるもの全般にいえることです。演劇の世界で言えば、歌舞伎俳優は人間国宝として国家から顕彰されるのに、商売として多くの利益を生み出すテレビドラマの売れっ子タレントが何らかの表彰を受けるには、それなりの格調高いとされている芸術的作品と見なされる品目で、それは往々にして興行としては儲からない、で新境地をひらいたとか評価されなくてはならない。また、絵の世界で言えば日本画とか画壇といったものはすでに経営的には崩壊しているのに、国家的な保護で展覧会が開かれ、補助金が下りる。これに対して、まんがやアニメーションは表現の規制が行われる。この背後に流れるものを分析して見せたと言う点で、以前読んだ「芸術崇拝の思想」にも通じるところがあると思います。

もともと、このような著作に興味を持つようになったのは、例えばクラシック音楽で評論家や批評家と呼ばれている人たちが、自分がどのように音楽に接しているかと言うことに対して、無自覚でいるとしか考えられないような文章に多く触れてきたことへの欲求不満からでした。この演奏はいい、とか、この作品はいい、とか、彼らが言う場合に、どうしていいと言えるのか。かれらと意見を異にする人、ベーシックな音楽観を異にする人への言葉がないということです。そういう異質な人に話すには、先ず自分から、私はこうだというのを、相手と共通できる地盤まで下りていって、そこから違いを認識させていく議論が必要なはずです。それをしないと、単に好き嫌いの言い合いに終始することになってしまいます。例えば、著名な吉田秀一という音楽評論家は、文章はたいへん文学的で上手らしいのですが、なぜその演奏をとりあげたのかという議論は巧みに避けていて、たまに、そういう箇所にくると、この良さが分からない人はそもそもクラシック音楽など聴かなければいいのだ、と断言して決め付けてしまう。そういう不誠実さを目の当たりにしていると、そもそも、音楽に接するとはどういうことなのかと考えてみたくなったというわけです。この著者の議論は首肯で切る部分は多いのですが、少し物足りないところがあります。それは、きくという行為を切り離して独立させたのはクラシック音楽に特徴的なことかもしれませんが、レコードやCD、携帯音楽プレーヤーといったものは、一人しずかにきくために作られ、世界中多くのひとが利用している。クラシック音楽以外のきくだけではない参加する音楽も、この機器に取り込まれている。こういう状況まで踏み込んで分析してほしい。「芸術崇拝の思想」の著者ならここに文化帝国主義の幻影を見るかもしれません。

 
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