西田宗千佳「世界で勝てるデジタル家電」
 

はじめに 

第1章 iPadは何がすごいか

第2章 アップルがしかける「超」量産の時代

第3章「プラットフォーム」で家電は変わる

第4章 日本は「オーバークオリティー」なのか

第5章        本当に勝つなら「ルール」を変えろ

感想

 

はじめに

日本経済の退潮が言われて久しい。その原因として取り沙汰されているのは、曰く中国の安価な労働力を背景とした価格戦略に負けた、あるいはアメリカのソフト開発力に負けた。著者は、これらの意見を否定しませんが、これらは氷山の一角でしかないと言います。では、日本を苦境に追い込んだ氷山とは何か。この氷山の姿をよく表しているのがアップルのiPadだと言います。日本の企業からなぜこのような商品が登場しなかったか、を詳細に分析していくと、それが分かると言います。

 

第1章 iPadは何がすごいか

それでは、まず、その見本も言うべきiPadの分析から始めます。まず、iPadを使って、まず気がつく特徴としては、動作が滑らかで軽快であること、バッテリーが長く保つこと、そして、5万円をきるという価格の安さです。さらに、手で触って操作できるという良さもあります。要は、安くて、便利で、楽しい。

しかし、パソコンとして技術的な先進性で評価すると、さほど注目すべき点はなく、パソコンしても品質の高いものとは言えない。例えば、マルチタスク機能、複数のソフトを同時に利用し、切り替えながら使う機能、が限定的で、音楽を流しながらの作は難しい。こうなっている理由は、処理負荷が増大し、バッテリー動作時間が減ってしまうのを避けるため。実際、iPadに搭載されているCPUはパソコンで一般的に使用されているものに比べると10分の1程度の性能だ。また、iPadのつくりを見ても、日本のメーカーならもっと軽く、小さく作れると言います。このような点から、iPadのモノ作りあり方は、日本のメーカーの発想と真逆の発想と言えるものです。

IPadが機械として高性能でないからと言って、快適であるという話とは矛盾しない。それはパソコンとは利用スタイルが異なるからだと言える。先ほどの話でiPadのCPUは性能では高いものではないが、ごく小さなものです。CPUが小型のため空いたスペースに大きなバッテリーを搭載できるわけです。つまり、iPadではバッテリーの搭載を優先して、他のパーツの占める面積を小さくしていると言えます。しかし、携帯電話には長時間の動作、薄型化と並んで多機能化の要求が高いため、日本のメーカーは省電力化に注力しながらも、容量を削減する努力をしています。これに対して、iPadは正反対の方向性、つまり、処理性能はそこそこでいいから、サイズを小さくするというものでした。

そこで、iPadのCPUです。これはアップルのオリジナルですが、日本のメーカーは、種類が豊富なことやコスト面などから外販品を購入しています。ではなぜ、アップルはオリジナルのCPUを使用しているのか。その理由の第一は、データを蓄積しているメモリーとデータをやり取りするためのパス速度を通常の2倍に高速化しているためです。これは実際に使用すると違いを体感できますが、そのためコストが上がり、普通はパス速度は抑えた製品作りがされます。しかし、アップルはコストアップよりも実質的な速度アップを狙える設計を優先しました。そして、理由の第二点めは、小型で必要十分のCPUをもっとも割りのいい技術で作ろうとしたためと言います。普通は見方のLSIは高性能化、省電力化のために、より微細な製造方法を用いますが、多額の投資が必要になります。それに比べれば、iPadのCPUはその方法を取らないので、小型でも価格を抑えられる。しかも、大量に生産するので、コストを下げられる。

というのも、同じCPUをiPadだけでなくiPhoniPodにも使用しているからです。実は、iPadiPhonの二つの製品の違いはサイズくらいで、設計はほとんど共通していると言っていいものです。つまり、iPadiPhonを大きくすることで用途を広げたものと言えるのです。サイズを大きくすればバッテリーも大きくなるし画面も大きくなる。どちらも利用者が望むものです。そこにはパソコンともスマートフォンとも違う機器の市場が存在することを見抜いていたと言う他ありません。そのために、アップルはCPUやOSを自前で持っている。OSについては、単に自前で持っているから、というのではなく,利用者が求める価値にあったハードウェアと、それを生かす能力をもったOSを持っていることが重要なのです。例えば、アニメーションをなめらかに動かしたり、アプリの切り替え時に画面全体を半透明にして動かしたりとより高度な処理をする場合GPUというLSIが必要になります。通常、家電ではCPUをはじめとした機器を作るために必要な機能を一つの機能にまとめています。そして、5年くらい前までは、高度なGPUを搭載したLSIは多くありませんでした。たとえ機能があっても、それを操作性向上につかえるソフト、つまりOSがなかったのです。ところがアップルは、自社でOSを持っているため、OSと搭載製品の開発タイミングを自分たちの事情で合わせることができるため、他社に先駆けてGPUを搭載し、その機能を生かした製品としてiPhoneを開発することができたのです。この有利さが、もっとも実感できるのが操作性の部分で、例えば、タッチセンサーのタッチの快適性やレスポンスの速さです。これはGPUをしっかり使い、最適化されたOSを搭載しているからです。筆者は言います。“実のところ、タッチ機能も、美しいグラフィックも、日本メーカーはiPhone登場以前より、ずっと模索し続けていた。しかし、それを徹底的に追求したのは、アップルが最初だった。”

しかし、一方では、アップルが完璧を求めているわけではない。例えば、アンテナ問題。あるいは、iPhoneのデジカメ機能には色むらが生じるところがあります。しかし、それが商品性に影響するかという点で、iPhoneには写真を加工するアプリが多数あり、ここで撮影以降の楽しみを充実させている。これを利用する人にとっては、写真の質だけで価値が決まるのではなく、その写真をメールで送ったり、ブログに掲載したりする場合には、自分で思うように加工できることの方がありがたいも多い。

これをまとめると、こうなる。消費者の位置に立ったときの利用上の価値を考え、たとえば、軽いこと、小さいこと、カメラや通信の精度は、必要なレベルに達していれば許せる。その上で快適な利用環境が作られている。仮に、電波・カメラ・サイズ・操作性の4点で携帯電話を評価するとすると、日本のメーカーのようにはじめの三つが95点で操作性が60点の携帯電話よりも、最初の三つが90点でも、操作性が90点という方が合計点が高い。さらに、多くの人に取り操作性の持つ価値は相対的におおきい。とすれば、差かさらに広がる。iPhoneの人気の秘密は、そのような配分のうまさにある。

 

第2章 アップルがしかける「超」量産の時代

仮に、iPhoneを落として画面を破損し、アップルのサポート窓口に持ち込んだとする。そうすると、壊れたiPhoneを引き取り、その場で修理対応のために用意された「新品」と交換してしまう。このような手順をとられれば、利用者としてはありがたい。そこで故障というトラブルで顧客が被るマイナスの感情を抑えることができます。しかし、大きな理由は、このような利用者のためだけではなく、修理を含むサポート業務を効率化する上では、細かく直すより新品交換の方が安くつくのです。

この理由は、まずサポートのコストです。修理のトレーニングを積んだ人員の配置。修理のための設備の用意。修理に費やす時間などを節約できることになります。しかし、これが成立するのは、修理のためのコストが交換する新品を余計に生産するコストを上回る場合のみに限られる。それは生産台数にもよる。

そういった製造を請け負っているのがEMSと呼ばれる、いわば家電製品の製造を担当する企業。ここにも、修理ではなく交換の対応にしている理由がある。それは、薄型で分解が面倒なつくりになっているためだ。それは、iPhoneiPadの現物を見ると分かるのですが、ツメを引っ掛けたり、ピッタリとした部品をハメ込んだりして作られている。このようなつくりは、組み立ては決められた手順でハメ込むだけになり、作業が極めて効率的になる。しかし、その反面、分解が難しくなる。このときに修理を前提にしなければ、分解の必要性は少なくなるというわけです。つまり、EMSで猛烈な数をつくるというビジネスモデルならではのこちだ、ということなのです。

中国で大量生産といえば品質の面で不安があるかと言えば、しかし、商品としてのクオリティーは他社の製品をはるかに凌駕している。その中で、性能や機能でなく「価格に比した、商品としての満足感」だけでいうなら、これを越える物はない。モノとしての満足感が高い、とくにデザイン面で評価が高い。だがその本質はデザイナーにあるのではなく、デザイナーを生かす環境づくりにある。つまり製品化にともなう制約の点だ。とくに、今言ったようなEMSの生産上の制約を、アップルはEMSに言うことを聞かせている。つまり、売るためには、顧客満足度を高めるためにはどうするべきかという視点て考え、デザイナーの意見を最大限取り入れる努力をしているのが、アップルの強さなのだ。

そのようなデザインとモノ作りの発想を突き詰めた典型例としてユニボディという手法を取り上げます。これは、アルミを切削してボディー素材を作る手法で、通常使われる圧延に比べ時間がかかる。これには理由がある。まず、デザイン上の理由。そして、部品を分割しないことで剛性に優れ傷みにくくなるという強度上の理由、そして、部品数が減ることで組立コストが下がる。最後に、リサイクルが容易である点で、これはアルミの切削くずはリサイクルが容易である点です。しかし、これだけでは他のメーカーだって同じように切削加工を行うはずだ。ここでアップルは、さらに、ボデイーデザインを共通化しているのだ。実のところ、ボディー一つあたりの製造コストは、樹脂製の他社の方がずっと安いはずだ。だが、たくさんのバリエーションを作ることはコスト増となる。これに対して、アップルは種類を絞り、生産効率を向上させると、トータルでのコストは変わらない。大量生産とクオリティーの問題を同じレベルで見て、他社とは別の方向性に向くことで実現させている。これは商品の魅力を最大限にという方針を徹底しているからと言える。

アップルが行っているのは、冷静に考えればシンプルな戦略といえます。製品は量産したほうが安くなり、量産するには相応の設備と人員が要る。生産設備と人員は安く外注できるところがあるのだから、そこを使う。だが、自噴たちが求める品質に到達させるところは譲らない。そのために、ユニボディのような生産方式をとり、デザインから設計まで多くの部分を自社でコントロールしている。組み立てコストが安く、パーツコストも安いのに、実際の売値は他社と変わらない。しかも、顧客はより先進的なものと思い、徹夜で列を作ってまで買い求める。つまり、安く作り、最大限の価値を生み出すというのが、アップルのビジネスと言えます。

 

第3章「プラットフォーム」で家電は変わる

現在のデジタル家電の動作はプラットフォームという基盤によって動いています。このような構造はゲーム機から生まれたと筆者は言います。その理由として、一つはゲーム機はコンピュータであること、二つ目はソフトで大きく価値が変わるということ、三つ目は、iPhoniPodにつながる共通項として、圧倒的な量産が前提の商品であること、の三つです。このコンピュータと量産、そしてその特性を生かしたビジネスモデル構築と言う点で、その後の家電に与えた影響は大きい。ゲーム機自体は高い製品でなく、ゲームそのもので価値を演出する必要がある。そこで重要なのは価格で、任天堂は、他社が簡単に追いつけないように性能面で差別化を図りつつ、低価格な製品を作れるよう技術開発を行った。そこでポイントとなったのはカスタムLSIです。この製造を担当したのはリコーで、任天堂はリコーに対して、かなりまとまった台数を一括購入することによりコストを下げた。さらに、任天堂は、量産を前提とするだけでなく、同じ製品を長期間販売する戦略を取った。これにより、1台あたり生産コストをさらに下げることができる。この間技術が進歩しても、同じゲームソフトを動かすために敢えて性能を上げずに、開発リソースを低コスト化に絞ることで、さらにコストを下げる。

以下、著者は携帯電話やテレビの世界でプラットフォームがどのように機能しているかを詳細に分析します。

家電においてデジタル技術の比率が低かった時代には、パーツそのものの性能が上がらないとコストも性能も上がらず、よい家電はできなかった。だが、デジタル技術の重要性が増すにつれてプラットフォームに左右されるようになった。LSIは他社から購入できる。機能の不足や改善はソフトの改良によって行うことができるというように、モノ作りの形は、以前とは変わってきているのだ。ここでアップルは、グラフィックや操作性といったプラットフォームの余力が商品の価値を決めることにいち早く気がつき、それを最初から量産し、複数の製品で使いまわすということでコストを下げるという戦略を取ったのだ。このように家電メーカーにとっては、自社製品を作るためのプラットフォーム戦略は「命」といえる。アップルがプラットフォーム戦略を重視するのも、そのためだ。

 

第4章 日本は「オーバークオリティー」なのか

「日本のデジタル家電は、品質が非常に高い。モノ作りの技術や本質で、日本が負けているわけではない」という声があります。たしかにそうだと思います。では、日本の家電が優れている点はどこなのでしょうか。他方で「技術的に優れている」ことは、本当に「商品として優れている」ことなのでしょうか。それを考えていきます。

例えば、日本の携帯電話に対してiPhoneのほうがバッテリー容量が約1.8倍あるのに、待ち受け時間は43%も少ない。この両者の差は省電力機能の差です。両者は電力消費の特性が異なります。端的にいえば何もしていないときの消費電力をいかに少なくするかの能力の差なのです。例えば、メールを受信するときには、メールを読む以外の作業をしていない。そのような時に携帯電話をフルパワーで動かすのは無駄です。そのため、日本の携帯電話は、このような時、ほとんどの処理をオフにしてしまいます。携帯電話内のCPUは、自分に処理が回ってこないことを検知すると、動作を極力止めてしまうように作られている。この細かなコントロールの積み重ねが、最終的に大きな省電力機能となる。それが日本の携帯電話の「多機能なのにバッテリー動作時間が長め」という相矛盾する要素を同時に実現している。しかし、これに対して著者は本当に消費者のニーズに合っているかという。例えば、消費電力を節約するため日本の携帯電話は操作の反応速度が鈍く「もっさりしている」。

別の例として、著者はノートパソコンをあげています。日本には薄型で軽量なパソコンが多数存在します。これに対してアメリカのパソコンは堅牢につくられていて日本製のものほど軽くない。日本のパソコンは軽量で柔構造ゆえに精密機械であるパソコンが振動に対応できるように精密な設計が行われてます。その組み立ては職人技術の世界で、どうしても高価なものとなります。現在、このような付加価値に日本人はお金を払っていますが、他の国の人はあまり買いません。

もうひとつ、日本のメーカーが執拗に追い求め、差別化を追求するポイントがテレビの画質です。とくに黒の表現では、韓国や中国のメーカーの製品とは一線を画したクオリティを有しています。しかし、それが商品としての売れ行きにつながってはいないのです。つまり、画質が付加価値として購買に結びついていないのです。これに対して、韓国のサムソンは画質をある程度犠牲にして、テレビそのものの厚みを劇的に薄くしたデザインが非常に高く評価され、価格を抑えることでアメリカで成功をおさめました。人々の欲しがっていたのは高画質ですが、その分高価で手に入らないテレビではない。少々画質が劣っていても、デザインがよくて、今までよりリビングで栄えて、手に入りやすい価格のテレビだったのです。サムソンは、それをいち早く分析し勝負をしかけ、勝利したのです。

日本の家電のオーバークオリティとは、動作検証に対する考え方だと筆者は言います。例外処理やエラー処理の部分を厚くしすぎることはコスト効率の上でも問題となるし、ユーザーのニーズに柔軟に対応できにくくしています。

 

第5章        本当に勝つなら「ルール」を変えろ

アップルはよい製品を作ったことで勝ったと言われるが、それは部分的には正しい。これまでも述べてきたように商品作りのバランスにおいて非凡であるが、それで勝利したわけではない。例えば、生産性に対する圧倒的な手当てやネットサービスとのタイアップなど。つまり、優れたハードを大量に売ることを本質的なビジネスの源泉に定め、その上で優れた操作性、配信サービスといった武器を用意し、ハードウェアの魅力を高めた。それを支えたのは低価格な機器を生産し、高い利益率で売るというシステムだ。アップルは携帯電話のビジネスを異なったルールに書き換えてしまったといえる。ライバルが、そのルールで戦う限りアップルを凌ぐ利益率を上げるのは難しい。少なくとも他社がアップル並みの成功を収めるには、再びルールを書き換える必要がある。

また、家庭用ゲーム機のビジネスでは過去にルールを書き換えることでライバルに勝利した例がある。1990年代のソニーのプレイステーションがそうだ。プレイステーションはゲームの表現に3Dを導入したことで知られているが、それはハードウェアの差別化に過ぎず、勝利の要因はソフト供給をROMカセットからCD−ROMに変更し製造コストと時間を短縮し、ビジネス環境を再整備したことであり、サプライチェーンで最終的に勝利をおさめたことにある。これに対して10年後、任天堂はニンテンドーDSで携帯ゲーム機で本格的にタッチペン操作を導入したゲーム機となったが、勝利の要因は、従来顧客ではなかった30代や40代を掴み「脳トレ」などで従来のゲーム以外の顧客をつかんだことだ。ゲーム機においてさまざまなルールが模索されるのは、機械を売れば終わりと言うビジネスを脱しているからだ。

また、テレビの世界で3Dは日本製品が優位性をもっている画質を再び差別化のキーにしようという戦略といえる。

 

このように、日本の競争力が失われたと多くの人が言うが、それは日本の技術力が失われたからではない。技術力はあるのだ、しかし、それを日本国内で消費されるデッドエンドで浪費したことが間違いのもとなのだ。たしかに、日本国内には、それなりの市場があるためデッドエンドの商品を作ってもそれなりに売れ、利益を生むことが出来た。だが、海外の各国では国内市場が小さいため海外に出ざるを得ず、日本が見失ったいくつかの市場を真剣に攻め、自国の外で強みを発揮した。今後家電の多くが、iPhoniPodのようなルールで作られ、販売されていくとすれば、勝つためには量が必要で、その上で品質の追求していかなければならない。日本だって高度経済成長期は海外で戦ってきたのだ。今だってゲーム機は海外で勝負している。

昨年から、日本の製造業に関するものを何冊か読んでいますが、国際標準化との戦略だったり、ビジネスモデルとの関連だったり、開発と生産の関係だったりと、それぞれ切り口はことなるものの、共通しているのは、今まで通りのことを続けていればジリ貧になるという認識です。おそらく、検索でこのブログを訪れている人は、多かれ少なかれそういうことで悩みつつ、ウェブを検索してヒントでも、と思っている人もいるに違いないと思います。私も、メーカーに勤めている人間として、他人事ではない、切実な問題でもあります。そして、私がこれまで読んできた著作から感じるのは、それぞれの著者は危機感を持っている一方で、日本の製造業、技術を熱く信じているということです。私も、これらを読むたびに力づけられるような気がします。いろいろ危機的とか言われていますが、こう人たちがいる、こういう人たちを生んでいる、日本の製造業というのは、我ながら、やはり、凄いなと感心したりもし、正月早々、力がこみあげてくるような思いに、正直、とらわれました。この本、具体的で読みやすく、非常に分かり易いのですが、著者の危機感の強さからか、論旨の運びに心配事をどうしても言いたくなって、ぶれてしまうところがあります。それが、読み方によっては悲観的ともうけとられてしまう恐れがあるのが、ちょっと懸念というところです。

 
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