リチャード・セネット
「不安な経済/漂流する個人」
 

序章 スマートネイティブたちの世紀 

第1章 官僚制度

第2章 才能と<不要とされる不安>

第3章 消費政治

第4章 われらが時代の社会主義

感想

 

半世紀前までは官僚制による多国籍業や国家社会主義により人々の生活が断片化され、その解体が叫ばれた。その結果、組織は解体されたが、共同体は回復しなかった。このような不安定で断片された社会で、人々の連帯を支える価値や習慣は何かといった文化的な視点をみる。このような社会で成功できる人間は限定され、三つの条件がある。一つは時間に関わる点で、職から職へ、場所を移動しながら短期的関係や自分自身を律していかなければならない。組織が長期的な枠組みを提供しなくなったら、個人は自らの人生の物語を即興で紡ぎ出すか、あるいは一貫した自己感覚抜きの状態に甘んじなければならない。二つ目は才能に関わる点だ。現実が変化を要求する中で、技術の有効期限の多くは、実際、長いとは言えない。新たに台頭した社会秩序は一芸に秀でるという職人的理想に否定的影響を及ぼした。現代の文化は、職人技に代わって過去の業績より潜在的能力を高く評価する能力主義という考えを発達させた。三つ目は二つ目に由来し諦めに関わる。いかに過去と決別するかだ。職場で過去にどんな業績を上げていたとしても、それは必ず地位の保証にはならない。これは、人間が積んできた経験を過小評価できることで、こうした特質は、持ち物を重宝する所有者ではなく、新品を買いたいがために使えるのに古い製品を簡単に捨ててしまう消費者のそれに類似している。

いわゆる1990年代以降の新資本主義では、短期的にものを考え、何事にも後悔しない新しい人間でなければ富は得られない。そうした人間以外に見られたのは、自分たちを人生の漂流者だと感じる中産階級の大集団だった。

著者は、ここで組織はいかに変わったか、余剰人員として解雇されたりする不安と「スキル社会」における才能はいかに関わっているか、消費行動は政治的態度といかに関わるか、を主題として扱う。新たな資本主義の使徒たちは、三つの要素─仕事、才能、消費─が彼らの望むかたちに変化すれば、現代社会はより自由になるという。著者と彼らの意見は相違するがもそれは、組織も技能も消費パターンも変化しているが、こうした変化によって人々が解放されたわけではないと主張しているからだ

 

第1章 官僚制度

近代の資本主義の常態は不安定であった。市場の大変動、投資家の興奮、工場の新設、閉鎖、労働者の大移動。さらには、生産、市場、金融の地球規模での拡散や新技術の出現により、現代経済もこうした不安定なエネルギーに満ちている。しかし、組織の面では19世紀末までに企業内の官僚制は固い殻を纏い開かれることはなかった。ここで大きな役割を演じたのは、事業の内側における組織編成の方法であった。事業は軍隊的モデルの組織を資本主義的営為に応用したことがそれだ。

ビスマルク宰相のドイツにおいて軍隊的モデルはビジネスのみならず、市民社会のあらゆる組織にも応用されたが、ビスマルクの眼からすれば、それは平和を守り、革命を防ぐ役割を果たすものでもあった。どんなに貧しかろうが、自分の職は安泰であると悟った労働者は、社会におけるみずからの地位をはっきり想像できない労働者と違い、反逆に及ぶことも少なかろう。これこそ社会資本主義と呼びうるものの基本的政策であった。これは長期的な利益を望む投資家との思惑とも合い、軍隊化された社会資本主義の拡大につれて、経済業績は上昇しはじめた。そのとき、官僚的制度は市場に比べ、はるかに効率的に見えたに違いない。

この軍隊的社会資本主義の柱は時間にある。長期的かつ漸進的で、何よりも、予測可能な時間。時間の合理的思考が可能になった時、人々がみずからの人生を物語として考えることが可能になる。例えば、将来の昇進過程を思い描くことや、一企業に長年勤務すれば所得がどのような弧を描いて上昇するか予測することが可能となる。肉体労働者の多くにとって住宅購入の計画はこのようにして可能になった。商業活動に波乱や運不運がつきものだという現実は、こうした戦略的思考を阻害する。現実世界の流動性、とりわけ、景気循環の流動性のなかでは、もとろん、現実は計画通りには動かない。しかし、将来設計が可能であるという実感は、個人の行動と力の幅が書く出した証とも言える。

 

社会的資本主義

マックス・ウェバーの分析によれば、このシステムの真髄は命令系統にある。アダム・スミス時代以来、経営者は分業の効用を明確に認識し続けてきた。スミス的分業は複雑な作業を分割して、大量の製品を短時間で作り出すという効率性を求めてのものであった。その真価は市場で、人々が買いたいと考えるものを、競争相手よりも短時間で大量に生産するものであった。軍隊の分業は、競争や効率性の特質は経済のそれとは異なる。時には兵士はせんしすることもある、軍隊における兵士の社会的契約は絶対であり、軍隊の崩壊を防ぐためには、各階級の役割が明確で厳密でなければならない。ウェーバーは軍隊の論理を国の官僚的「職務」の分析に反映させた。職務ということは巨大官僚組織のすべての人間を含む。実際の権力はピラミッド型に配置され、ピラミッドではそれぞれの役割を持つような形で「合理化」されている。命令系統を上に辿っていくと権限を握る者の数は少なくなる。「仕事ができる」とは与えられた仕事以外、決して何も行わないということである。アダム・スミス型モデルでは、期待以上の仕事をこなす人間が報われる仕組みが組み込まれていたのに対して、ここでは定められた一線を越えることは許されない。このウェーバー型モデルでは時間感覚が不可欠である。一度決定された役割は変更されることがない。誰がどんな職務につこうとも組織が安定性を失わないためには、役割を一定にしておく必要がある。このようなピラミッド型構造によってビスマルクはドイツの労働者に社会制度内で何らかの地位を与えることを約束することができた。その反面、組織は肥満体にならざるを得なかった。官僚機構が巨大化する政治的・社会的理由は、効率性よりも人心の安定のための包摂にあった。

ウェーバーはこのような組織が個人に与える影響について懸念を持っていた。官僚的制度は満足の遅延に慣れさす教育を人々に施す。行動の今この時点での意味でなく、命令への服従によって将来もたらされるであろう報いについて考えることを学ばせるのだ。このような遅延の原則を習得した人間は、満足の到着自体を拒絶するようになる、やる気のある人間ほど、今持っているものに満足せず、現在を現在のまま享受しない。欲求充足の遅延は人生の習慣となる。つまり、個人的衝動には組織的文脈が付与され、官僚制度の階段を昇ることはひとつの生き方になった。鉄の折が牢獄であったとしても、それはまた精神的安住の地ともなりうる。

 

檻から解放されて

このようなウェーバー型のピラミッドは20世紀になると大組織を支配する構造的現実となった。心理面から言えば、この組織は自己保存や自己安定を志向するようになる。しかし、効率主義的な、つまり機械的な分業はその通りにはいかなかった。それは、上からの命令が組織構造を下るに従い、様々に協議され、解釈される、つまり指示が歪められていった。このような教義や解釈を通して、企業内の人物は主体性を実感する。そこで、組織に対する不満と組織に対する帰属心は両立する。全体に不満があっても、物ごとを自らの責任において理解する余地が残っている限り、人は組織を離れることができない。結果として、ウェーバー的な組織は、巧みな時間操作を実現させた。あらゆる社会関係は発達に時間を要する。個人と他者の相互関連からなる人生と言う物語を語るには、少なくとも人の一生の長さは続く組織が不可欠になる。その中で、やる気のある個人が出世願望に狂うこともなく、野心と言う獣を手なずけるため、官僚構造には権力を解釈し、現場で権力を理解する機会が含まれているから、変革に一縷の望みをかけて、その職にとどまっている。一種の幻想を作り出している。

しかし、この幻想は脆いもので、20世紀末には崩れ始める。まずは大企業では、ブレトンウッズ体制の崩壊によりグローバルな投資マネーの支配を受けるようになる。それは、以前のような受動的で馴染みの投資家というものではなく、能動的審判者となった。つまり、経営者たちは企業の独占的な権力のトップではなくなった。このような投資家は短期的な利益を求める。このような投資家たちにとって魅力的な形に組織は変容し始めた。それは、外に向かって内部的変化や柔軟性の兆しを明らかにし、ダイナミックな会社であると人に印象付けるもののことをいうのだ。反対に、組織の安定性は企業の刷新力、新しい機会を見逃さない積極性、変化を促すエネルギーの欠如と見られ、弱点と見なされることになった。そして第三に通信や生産の技術革新によって情報革命がおこり、新しい形の機能集中による指令の仲介、解釈の消滅が起こった。さらに組織はルーチン作業を機械化することで大きな基礎を必要としなくなり、大衆労働者を締め出し始めた。つまり、ビスマルクが意図した混乱や不安の除去といった側面が切り捨てられることになった。

このような変化は、今のところ一部の巨大な組織にのみ当てはまり、大多数の組織である中小規模のローカルな会社ではウェーバー型組織である。

 

組織の構造

新資本主義による新たな組織の特徴はピラミッドのような伝統的建築物から現代的機械に換わった。「柔軟」な組織は短期的な課題に対して多様な機能の一部のみがいつでも選択・活用できるように、労働は課題に応じるだけの短期的なものに限定され、組織はアウトソーシングを活用し課題が変化するたびに膨らんだり縮んだり、社員は増えたり減ったりするのだ。雇用は短期化され、臨時雇用化、縮層化、非線的進行過程の三つの礎石の組み合わせの上で、組織の時間フレームは縮小し続ける。すぐにできる小さな課題だけが注目される。

短期的課題に合わせた労働は労働の社会的な質までも変化させる。命令系統のピラミッドの中では、まず、自らの義務を全うし、自らの機能を果たした後、労働者は業績、年功により決まった地位に準じた報酬を受ける。つまり企業構造自体は明確である。しかし、短期的課題をこなす労働では、このような明確さはなく企業はしっかりした構造を持たず、未来もまた不透明で予測できない。こうした環境にうまく対応するためには不確実性に対する許容範囲が広くなくてはならない。「柔軟」な組織が人間関係の技術の向上を訴え、協調性の育成を実施するのは単なる偶然ではない。心理的外皮を剥いでしまえば、残っているのは確固たる欲求だけなのだから。こうした環境で不透明な状況に遭遇した場合には、前向きであることが要求される。

「柔軟」な組織では権力が中枢に集中する。それは組織の中枢が業務内容を規定し、結果を判定し、会社を伸縮させることになるからである。しかし、業務担当者に短期間で柔軟な結果を出させるには、一定程度の権限を与えることで、彼らの自主的努力への動機付けを行おうとする。そのために企業は内部競争を行わせ、最良の結果をできるだけ早く道引き出すことに努める。こうした制度が社員の間に高レベルのストレスと不安を生み出している。報酬は勝者総取りで、勝者の報酬は巨額にのぼる。このような中でストレスを抑えられるのは、特定の会社に帰属意識を持たない人たちだ。ピラミッド型企業と現代的企業は、不安と怖れの感情的相違の検討を通して比較できる。不安は起こるかもしれないことと結びついている。恐れは起こっていること結びついている。不安は不確実な状況において起こり、怖れは苦痛や不運が確実な時に起こる。ピラミッド型組織の欠陥は怖れを起こすことにあり、現代的組織の欠陥は不安をもたらすことにある。企業改革が行われるとき、従業員には何が起こるのが予想できない。この不確実性は不安となって蔓延するが、確実なのは不平等の更なる拡大だけだ。

命令の権威は系統を下がっていく過程でさまざまに解釈され、情報は上に昇るに従って歪んでゆくが、再編の激震に揺れる官僚制度においては、制度の中間層が抹消されたことによって、そうした命令系統も分断されることになった。再編を終えた「柔軟」な企業は、連続性を失い、中心は周辺を特殊な形で支配する。周辺の人々は命令系統における上下のいずれとも接触を持たず、労働においては殆ど独立した存在である。この両者の接点は結果にしかない。この繋がりの喪失は距離を生み、距離が離れれば離れるほど不平等は拡大する。

 

権威と支配

権威とは依存関係から生まれる複雑な社会的プロセスのことである。人は権威的人物には自発的に服従する。権威的人物に統治される人間は、彼あるいは彼女の権威を疑わない。それがカリスマ的であろうが官僚的であろうが、下の者は自らに欠けているもの、不可能なものの責任を取ってくれるものと信ずる。軍隊は、その両方の支配を備えている。これに対して現代資本主義的組織はカリスマ的指導者を信奉しても、組織的権威は歓迎しない。それは、組織に帰属心を示し、問題解決の経験に長け、下で働く労働者の理解者たらんとする人物がトップから消えるからである。あるいは、特定の人物、限定された集団が中心において責任を果たしているという実感が、中心と周辺の完全な分離が起こると、周辺ではもちえなくなるからでもある。このような責任の回避は、組織が従業員に依存のない自己管理を求めるようになる。中枢から与えられる目標や命令を業績評価を最高の形で受け取るのに、自らの力量意外に頼るものはないからだ。反面、企業は支配する人間に対する責任を、反省的に捉えられなくなってきている。しかし、一部の人々にとって、中央支配の強化と権威の縮小の組み合わせほど好都合なものはない。最先端企業は起業家精神旺盛な若者を惹きつけてやまない。こうした職場は権威的人物として働きたいという希望をほとんど持たない人間にとっては、年齢を問わずうってつけのはずだ。こうして職場を心地良く感ずるのは、高度な技術を備えた人間である。彼らは職場に不満があれば自らの特殊技術とともに職場を変えることも可能なのだ。彼らは職場への帰属意識は希薄と言える。これに対して一般には、権威が重視されない企業では居心地の良さは長続きしない。新たな経済組織が、官僚制解体に関わった構造変化は、三つの社会的損失をもたらした。

 

三つの社会的損失

構造変化に伴う三つの損失とは、組織への「帰属心」の低下、労働者間のインフォーマルな相互信頼の消滅、組織についての知識の減少である。それらは一般労働者の生活にきわめて明白に見出すことができる。彼らはある種の抽象的、知的道具としてお互いに関わり合っている。それを社会資本と呼んでいる。

帰属心はこの社会資本を測るための主たる基準となり得る。軍事組織の社会資本が大きいのは人々が帰属心から、組織のため、あるいは、軍隊内の兵士のネットワークのために命をも投げうつという事実からも明らかだ。先端組織はその対極にある。そこには非常に低水準の帰属心しか見られない。景気が好調な場合なら、条件に良い供給業者や下請をインターネットを利用し、容易に見つけることができ、それらと長期的関係ではなく、短期的取引相手として使う。しかし、景気が失速すると企業は彼らに支払い猶予の延長を求めたり、帳簿上で負債の肩代わりを求め始める。しかし、彼らには他人の問題を背負い込む義理はない。また、企業が労働者に、給与削減などの自己犠牲を促しはじめているが、これに対して労働者たちは会社の浮沈などどうでもよく、会社を救う積極的努力をほとんど何も行おうとしなかった。このように帰属心は景気循環を生き延びるのに不可欠な要素でもある。奮闘する企業にとって、社会資本の大きさの現実的重要性は真に大きいと言わざるを得ない。労働者自身にとっても。帰属心の欠如はストレスを、とりわけ長時間労働から来るストレスをさらに増大させる。

第二の社会的損失はインフォーマルな信頼の消滅である。信頼には二つの形、すなわち、フォーマルなものとインフォーマルなものがある。フォーマルな信頼とはある者、ある集団が他の者、他の集団と接触した時、後者は前者の提出した条件を尊重してくれるであろうと信じることを意味する。インフォーマルな信頼とは、とりわけある集団にプレッシャーがかかった場合に、頼れる人物が誰か了解できているという類のことを意味する。インフォーマルな信頼の発達には時間がかかる。集団やネットワークにおいては、態度や特性を知るための小さな手がかりは段階的にしか現れない。普段我々が他者に見せている仮面は危機に際して我々がどれほど頼りになるかを覆い隠している。短期間の官僚的組織には、こうした他者理解を発達させる時間的余裕はない。変化の激しい現代的企業において、従業員同士、お互いを真に知り得ないとすれば、不安は増大するしかない。お互いを知悉した者どうしが長くキャリアを積み重ねてゆく組織に比べれば、変動の激しい企業はいくら強調の表面的効果を強調してみたところで、所詮、冷たく不透明な組織にしか過ぎない。結果として現われるのは簡単に切断されるネットワークに過ぎない。

第三の社会的損失は組織についての知識の弱体化である。官僚制的ピラミッド欠点の一つは、その硬直性、役割の非流動性などだが、長所は組織を機能させる知識の膨大な蓄積にあって規則の例外や裏ルートの調整など暗黙知が自明になっていることだ。このような組織に関する最大の知識を受け継ぐ者はアシスタントなどの地位の低い職員で、この種の知識はインフォーマルな信頼の補足となる。官僚ピラミッドの改革で先ず切り捨てられるのは、このように地位の低い職員である。経営陣はコンピュータ化された技術がこうした職員の代役を果たしてくれるはずだと期待するが、実際、大部分のソフトウェアは決められたことを実行するだけで、選択までは行ってくれない。

問題の根源は所有と支配の分離にある。経営者は会社に対して長期的、効果的責任を取ることが許されず、権力を握っているのは短気な投資家だからだ。企業内に帰属心と信頼と組織的知識を熟成しようとすれば時間がかかる。このような社会的資本はボムアップでなされるからだ。現代的企業での上からの命令は素早く、そして絶え間ない。下部にとっては解釈の余地が減り、組織を理解する過程かなくなっていくのだ。

 

自己理解

ピラミッドは相対的に安定したアイデンティティの源泉であり、労働者の自己理解にとってこれほど重要なものはなかった。好調な企業は誇りを実感として与え、不調な会社でさえ、少なくとも、方向感覚は提供する。自分の外側に存在する固定された現実のなかでは体験する欲求不満や怒りとの関係で、人は自らを理解するからである。労働の価値が家族や共同体による認知にあることは、前世代も今も変わらない。

最先端業種の特殊環境が文化に乱れをもたらしたとすれば、それは職業的安定の道徳的価値に対してだ。つまり、安定性に道徳的価値がなくなってきたのだ。その結果サービス業の中でも手を使う職種、看護師、運転手、管理人といったものは、仕事自体の文化的内容より安定性と報酬を重視する移民労働者によって担われる傾向が強くなってきている。さらに中産階級での傾向が顕著だ。公的部門が採用の危機に瀕している。文化的変容は若者から公的職業に対する信奉心、官僚として働けば社会から尊敬を得られるという信念を奪った。

先端的労働の道徳的価値は成功にあったといえるが、エリートになれない人々にとって、一生涯、成功を追求するのは容易なことではない。この点でウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と衝突することとなる。長期的目標を視野に据え、いま可能な欲求充足を先延ばしにすることが、プロテスタンティズムの倫理を支える時間的原動力であった。労苦はいつか報われると信じるから、人々は同じ組織の中に幽閉されることも甘受する。自己抑制は欲求充足の先送りによって可能となる。仕事に対するこうした個人的価値づけには、ある種、信頼に足る組織の存在が不可欠だと言える。その組織は、将来、報いをもたらすべき安定性を有していなければならず、経営者は社員の努力の証人としていなければならない。

しかし、新たなパラダイムにより自己抑制原理としての欲求充足の先送りは意義を喪失してしまった。このように組織状況が失われたからだ。これは階級の視点から説明できる。特権階級の人々は家族的背景や教育を通じて築き上げられたネットワークが縁故関係と帰属意識をつくっているからエリートには長期的戦略の必要性はなく、欲求充足先送りの倫理は用をなさない。しかし、大衆はこのようなネットワークを持たないから、セーフティネットがなく、組織を頼りにせざるを得ない。ピラミッドの下の方ではネットワークは粗く、その網目が粗いほど、生き延びるための本格的な戦略的思考方法が必要で、その戦略的思考方法には買い得可能な社会的地図が必須なのである。

社会的資本主義の後退は新たな不平等を生み出した。「柔軟」な組織では、中間的官僚層を徹底的に省き、中心が組織の周辺的権力を支配すると言う権力の新たな構図が現れた。この新しい形の権力は組織としての権威を持たず、社会資本も乏しい。これがもたらしたのは、帰属心、インフォーマルな相互信頼、及び組織に対する蓄積された知識の欠如であった。個人から見れば、仕事の道徳的価値は大きく様変わりし、先端的労働は欲求充足の先送りと、将来を見据えた戦略的思考というふたつの所要要素を破壊した。社会的なものは収縮し、不平等と孤立はますます強く結びついた。速度的に広がっていく。

 

第2章 才能と<不要とされる不安>

先進国の豊かな経済では職を欲しながらも必要とされない人間が多数存在する。かつては自らの有用性を証明できれば、つまり、教育と特殊技能さえ身につけていれば雇用の機会に恵まれていた。しかし、「技能社会」においては失業者の多くは既に教育を受け、技術を習得した人々である。その失業の理由は、職の海外への安い流失にある。

 

不要とされる不安

<不要とされる>ことへの不安は、グローバルな労働供託、オートメ化、高齢化の管理という三つの要因から出ている。しかし、三つはそれぞれの外見からは想像もつかないものを内包している。豊かな地域から貧しい地域へと雇用を流出させるグローバルな労働供給は、資本主義では労働力は最も安価な所で調達されるという前提からだろうが、それだけではない。労働力調達には一種の文化的選択と言う要因が働いていて、労働賃金の高い国を離れた雇用は、賃金の低い国々の中でも、熟練技術のある、場合によっては、高度な技術資格をもった労働者が多い地域に流れる。このことが先進国国内に影響を及ぼす。途上国の労働者は先進国の同様の職種の人に比して給与は低いかもしれないが、社会的地位は低いとは言えない。意欲と訓練、すなわち教養を持つからこそ、彼らは雇用者にとって魅力的なのである。競争に敗れた者たちは更なる競争力獲得のために人的資本を増強せねばならないが、そうできる人の数は多くない。海外の競争相手に太刀打ちできないとなれば、かれらはもはや不要となるほかはない。不要とされることへの不安は外国人脅威論と結びつく。脅威論人種的、民族的偏見の蔭に、外国人の方が生存のための自己防衛能力により秀でているのではないかという不安を隠している。グローバライゼーションとはひとつには、人的エネルギー源が移動しているという、そして、先進国の人間でさえ結果手に時代に乗り遅れるかもしれないという感覚のことをさす。

不要とされることへの不安はオートメ化の裏側にも隠れている。かつてのオートメ化は人間の手が機械に取って代わられれば、ホワイトカラーには新たな、そして、より多くの仕事が生まれることが想像できた。しかし、それは50年前の機械的作業しかできない機械なしか当てはまらない。現代の機械はマイクロプロセッサー等によって、あらゆる作業領域の労働力削減に寄与している。人間にはできない速さで計算を行うコンピュータなどのように、他の科学技術は人間を模倣しようとはしない。したがって、機械が人間の手にとって代わるというイメージは正確ではない。人間にはできないような、経済価値のある作業を機械が行えるようになるにつれ、<不要>の幅も拡大している。

海外への雇用流出と真のオートメ化は、すべてではなく一部の職種に影響を与える特殊なケースであった。これに対して高齢化は<不要>の拡大という点から見れば、はるかに広い領域で影響を及ぼしている。これは単に生理的年齢だけでない。スキルの耐用年数から考えれば、年齢と直接かかわるのは才能だ。身につけた技術の耐用年数は短くなる一方だ。技術者は経歴の中で技術の再習得を行わねばならない。ここに労働市場経済が破壊的な形で介入する。高年齢の社員は基本給が高くも社員の再教育は高額な事業でもあるから、若い社員を雇用する方が費用を抑えられる。さらに若者は職場の条件が気に入らなければ抗議するより退職を選ぶ。雇用者にとってみれば若者は人件費が安いばかりか、御しやすい。そうした社会資本主義構造を放棄した企業に見られる若年労働者の才能のみを重用する雇用からは、経験が増すにつれ経験の価値が減ずるという結果が生まれた。

経験が増すのと反比例して経験の価値が減ずると言う公式は、若干軌道修正した今日の経済でも、その深部で現実性を維持したままである。技術の消滅はテクノロジー発展の永続的付随物ともいえる。オートメ化では経験はほとんど意味をなさない。技術の新たな購入の方が、従業員の再教育より安価なのは市場力学からすれば自明のことだ。一度、発展途上国の有能な労働者へ向いた需要は、先進諸国の労働者がみずからの経験をどんなに発揮して見せてもとりもどすことはできない。こうした状況の積み重ねなよって<不要とされる不安>は今生きている多くの人々の生活のなかの動かし難い現実となりつつある。

 

職人技と能力主義

職人技の包括的定義として、それ自体をうまく行うことを目的として何事かを行うこと。あらゆる分野の職人技には自己鍛錬と自己評価が欠かせない。規範が重要であり、質の追及が目的となっていることが理想である。即物性が強調されたものが職人技である。

このような職人技は「柔軟」な資本主義組織にとっては扱いづらい存在だ。問題は職人技の定義の中で、それ自体を目的として何かを行うという部分で、うまく行うための理解が深まれば深まるほど、やり方が大切になる。短期的取引と常に変化する任務をベースにした組織では、こうした深さは養われない。「柔軟」な組織が恐れるのは、こうした深さだ。

能力主義は「柔軟」な組織に対して別の問題もつきつける。自明とも思われる事実、それは能力判断にはヤーヌスの二つの顔があるということだ。つまり、能力を抽出するのと同時に、無能あるいは能力の欠如を排除する。ビスマルクが初めて着想した社会資本主義では、優秀さによってだけでなく、年功序列によっても活性化されていた。自らの時間を犠牲にし、組織に奉仕する限り、官僚的組織は能力の有無にかかわらず、彼らを見捨てることはなかった。近代社会における、ダイナミックな組織における才能の発見も、社会的包摂の枠組みの中で起こる。ベストの人間に報いるためのテスト、評価、尺度は、エリートレベルに達しない人間をふるい落とすための基礎でもある。ピエール・ブルデューはヤーヌスの顔の習慣を「差異化」と呼んだ。大衆は知らないうちに資格を剥奪されるかハンディを負わされているが、エリートは誰にも見える形で教育、職業、文化組織からそれにふさわしい特権を与えられている。エリートには光を当てる反面、大衆は影の中に落とし込んで隠すのが、差異化の特質であるとブルデューは見た。このような光によって見えてきたのは、むしろ白黒つけがたい複雑な状況である。これには能力主義における発見のされ方、すなわち、才能自体の明確化と定義にかかわる微妙な側面が含まれている。官僚的組織が見ようとしているは、非具体的なものだ。例えば自律的に見える仕事を数値化することはできても、自律的行為の自律性は数値化することができない。職人技に不可欠なのは特別な知識の完全習得と所有である。新しい形の才能は、単一の仕事内容に関わるのでも、仕事内容によって決定されるのでもない。先端企業や「柔軟」な組織は古くからの能力に固執するのではなく、新しい技術を次々学ぶことができる人材を必要としている。ダイナミックな組織は変化し続ける情報や現実を解釈し、それに対応できる能力を重視する。従って、能力主義体系による才能評価には柔らかい中心がある。柔らかい中心は特殊な形で潜在能力という才能に関心を寄せる。ある人間の潜在性は問題から問題へ、また、課題から課題へと器用に渡り歩く能力のことである。

 

潜在能力

人間の潜在性という概念には、遺伝により受け継いだ生物学的な能力で、社会環境での経験を経て後天的に獲得された能力と区分する考え方が前提にある。潜在能力の発掘というのは、人種、階級、ジェンダーによる偏見が消滅しない限り、社会の全構成員の才能が平等に利用されることはあり得ないという、潜在能力の発見と正義を重ねあわせて見られていた。トマス・ジェファソンの楽天的な「自然の貴族」に依拠した才能の発掘は当初、そうした正義を伴い出発した。例えば大学進学適性試験(SAT)だ。この件は才能の発掘を目的として、対象者に課せられる問題では、例えば数学の知識は後天的に得られたものとして、それよりも数学的思考のプロセスを問うものだ。言うなれば「天賦の能力」だ。しかし、その能力を発見しようとして社会的示唆、感覚的推論、感情的理解は信念や真実と共に、発見の努力の対象から外されてしまうことになってしまった。このような文化的偏向を試験から取り除こうとして、あまりに薄っぺらなものになってしまっている。その結果、「潜在能力」というフレーズに現われた潜在というものが、「柔軟」な組織の慣習に通じるようなものになってしまっている。このような組織では場面から場面へ、たやすく飛び移るようことのできる能力、プロセスが重要視される複数の仕事に長けているために、コンテクストや関係性が壊れていても、どんな手を打てるか、先の先まで読み通す能力であり、その最高のものは想像的作業能力である。最悪の場合、こうした才能は経験と環境とのつながりを切断し、感覚的印象を遠ざけ、分析と信念を分離し、感情的愛着を無視し、深くまで掘り下げる努力を批判する。

 

知識と権力

潜在能力の成り立ちは、<不要とされる不安>と才能の関係に戻らざるをえなくなる。ミシェル・フーコーの議論では、能力主義という支配の形態だ。自らに無知であり、自らの生活経験の理解も苦手であるという印象を大衆はエリートによって強くたたき込まれる。潜在能力を問う試験は知識のシステムの浸透度も測ることができる。潜在能力は社会・経済的環境から切り離され当人の天賦のものと看做され、例えば「潜在能力に欠ける」という語はその人の人となりに対する根本的な意見となってしまっている。そこには、もはやあなたは要りませんというメッセージが深い意味で込められている。才能なき者は消えていくばかりだ。非才と判定されたものは集団、集合の中に埋没する。能力主義が考え方であると同時にシステムであり、しかも人を判断の対象としか捉えない組織的無関心に基づくシステムでもあった。さらに深刻なのは、才能を探す者たちの投ずる網が狭く、多種多様の個人のもつ多種多様の能力を並べて比較しようとしないことだ。潜在能力発掘の視野は広いものではない。

先天的能力は原理的には変わらない、そのためか、「柔軟」な組織においては従業員記録は修正不可能な会社の所有物となっている。最初の判断が唯一の基準となり、後に加えられる項目はその判断に一貫性を持たせるためのものに過ぎない。これは、業務内容が次々に変わる組織では、問題を次々に処理する機動的能力を求める。プロジェクトは突然開始され、突然終了するから、ひとつの問題にのめりこんでいれば、機能不全を生じさせてしまう。ここで必要とされる社交技術は、誰とでも速やかに仕事ができる、というのが潜在能力の社交的条件である。いかなる状況の中でも経調できることが必須のスキルなのだ。このような理想的自己の特質が不安の原因になるのは、それがきわめて多くの労働者を無力化しているからだ。帰属心とインフォーマルな信頼関係の欠損が生じた職場では、経験的蓄積の価値の浸食が起こり、能力の空洞化を招く。

職人技の鍵というべき要素は、何事かを間違いなく技術を習得することにある。日常的作業でも、改善しようとすれば試行錯誤は起こる。そこで間違いを犯しても、それを乗り越える自由が保障されていなければならない。このようにスキルは段階的にしか進歩しない。しかし、テンポの速い組織では時間をかけた学習は難しく、迅速に結果を出す圧力が強すぎるのだ。

原理的に言えば、すべての従業員に過ちから学ばせ、試行錯誤を通した学習を許すのが良質の企業というべきだが、現実に大企業はそのようなことをしない。これは企業規模によることだ。小規模なサービス業では、顧客のケアが会社の浮沈と直接かかわって来るが、大企業ではサービスが表面的であっても支障をきたすことはなく、むしろ処理に時間をかければ効率が落ちるだけだ。

 

<不要>という物理的不安の出現とともに、不安な文化的ドラマの幕が開いたのだ。他者の眼前で自分を有益にして、かつ、価値のある人物に見せるにはどうすればよいか。その古典的ともいえるやり方は、職人的に特別な才能、ある特殊なスキルを示すことであった。ところが現代文化では、職人技は別の価値観に押されがちなのである。能力主義のそもそもの目的は例外的能力を持つ個人にも能力発揮の機会を与えることであった。これが繰り返し主張されているうちに、能力主義は倫理的色彩を帯びるようになり、社会が機会を用意できるか否かは正義の問題となった。身分、家柄といった過去の業績ではなく、これから育つであろう潜在性を探求しているうちに、才能の発掘は「柔軟」な組織の特殊な状況に適合するようになった。この組織はこのような道具を個人昇進のためだけでなく、解雇のためにも使用する。解雇されるか否かの基準として使用され、これにより内在的才能に欠けると判断された人間は、不確実な状況の中に取り残される。彼らは彼らのあげた業績にも拘らず、もはや、役に立つとも価値があるともみなされえないからである。

 

 

第3章 消費政治

新しい経済は新しい政治を生んでいる。かつては不平等が政治に経済的パワーをもたらしていた。今日の不平等は純粋な富と職業経験の二つ観点から形成されている。

消費の問題は、ウォルマートの店舗に代表されるような新しい経済の核心と関わる。欲しいものすべてが安く入手でき、一か所に集められている。あらゆるものが即座に手に入るウォルマートでは、命令系統が求心化されているのに似て。商品陳列棚の間を歩き廻る消費者に向けて収斂していく。ここでは店員は消費プロセスから切り離される。人対人の値段交渉も、売り込みもない。この点において、ウォルマートは上下をつなぐ中間層の社員を排除した先端企業と類似している。どの商品を購入するかの決定が、直接、世界規模のイメージ・メイキングとマーケティングの原動力となっている。

現代の人々はウォルマートで買い物をするように、政治家を選択していないか。政治組織の中枢が支配を独占し、ローカルな中間的政党政治が失われていないか。そして、政治世界の消費者が陳列棚の名の知れたランドにとびつくとすれば、政治指導者の政治運動も石鹸の販売宣伝とかわりなくなる。

 

自己消費的情熱

プラトンによれば、経済は欲求と欲望によって動き、政治は正義と権利の上で動くべきものだった。だから、経済活動は人々の政治力、エネルギーを吸い取ってしまう。近代社会では労働者は激しい肉体酷使と精神的疲弊ゆえに政治的想像力を働かせる余裕はない。現代に入ると消費の意味が変容する。バルザックの小説の登場人物たちは持たぬものに対しては非常に強い情熱を燃やすが、所有したとたんに熱意を喪失する。ここでは、自らが貯めたあらゆるものに執着する古い農夫型社会から、消費が完了すると物欲が萎えるコスモポリタン型社会への推移が現われている。欲望の拡大は、一方では機械生産による物量の拡大と、もう一方では所有したとたん快楽が消えてしまうということだ。

個人が自己消費的情熱と積極的に関わってきた様子は、才能発掘と労働形態における変化によく示されている。第1に職場管理の変化によって、先端組織では被雇用者個人の地位が脆弱なものであり、人々は企業の中で役職を得ようと必死になることはあっても、ひとつの地位にとどまり続けることは目標としない、折角得た地位にも満足できなくなった以上の意味合いを持つ。組織が常に刷新されていると職のアイデンティティは枯渇するのだ。第2に技術が先進分野において急激に時代遅れになりつつあり、そこでは職人技の価値がなくなり、様々な課題に取り組める万能型の人間的技術が高く評価されるという、業績と熟練は自己消費的であり、知識の文脈と内容は繰り返しの使用に耐えない。このような状況を促し、正当化するうえでカギとなる役割を演じているのが商品の消費である。人々にモノを買わせるとき、自己消費的情熱も同時に買わせるのが望ましい。自己消費的情熱の売込みは、ブラント化と商品に可能性と潜在性を着けることで行われる。

 

ブランド化と潜在性

今日の製造業ではプラットフォーム方式により標準的製品にちょっとした変更を加えた製品を瞬時に大量に生産できる。そこで基本的には標準品でしかないものを売るために、売り手は簡単に作れるわずかな相違点を価値として誇張し、ブランド名をつける。そこでは、消費者が職人のような思考で製品の有用性について考えるのを阻止しようとする。ここで意図しているのはちょっとした差異が利益を生むことである。このような差異の演出は利益確保のうえで、この上なく重要となる。差異が誇張されれば、それを見たものは消費の情熱を刺戟されるのだ。その誇張のやり方としては、視覚イメージによる差異化で製品そのものに対する関心を薄めつつ、製造者は製品からの連想、ヴァリエーションの幻想を多く作る、例えば高級感、を売り物にしようとする。製造技術の進化により品質の均質化、均一化が進むと、消費者は差異という刺激を求めるようになる。消費者にとっての刺激は動き続けることにプロセスに移り、想像的な参加するということだ。近代の宝を蓄え続ける消費者の目的は蓄積にあるのに対して、現代の消費者はモノを手離したとしても、それが喪失としてじっかんされることがない。むしろ、モノは均一であるため捨てるのもごく簡単なため、放棄は新たな刺激の発見プロセスにふさわしい行為なのだ。こうして自己消費的情熱は完成する。

消費の情熱の第二の兆候は能力に見られる。例えばiPadは3分の曲を一万曲記録し再生できるが、それを目一杯使ってすべての曲を聴く人はいない。この商品の魅力は、人ひとりには使いきれないものを持っているという事実にある。才能の発掘は人が既に何を知っているかよりも、どのくらい学習することができるかに興味を覚える。同様に小さなiPadは能力の拡張の錯覚を起こさせる。消費者が機械に組み込まれた満杯の能力と自己同一化し、使いこなせないことこそが魅力となる。抽象的な言い方をすると、能力が現実から切り離されたときに欲望は動き出す。やりたいことを、できることの枠の中に抑えておきたくないからだ。飽和状態こそが人を刺戟し始めるのだ。

要約すればこうだ。消費の情熱は、想像的に関与することと、能力から刺激を受けることという二つの特徴を持つ。消費者はモノの真価は本体ではなく付加価値(飾り)にあると勘違いする。同じように能力の過大評価は個人だけでなく企業にもリスクをもたらす。自分たちには目に見えない未開発の能力があると労働者が信じ始めれば、彼らの服従心は弱まるばかりだ。今日の先端組織の経営者は能力のイデオロギーに染まっているが故に、将来の能力は、現在組織が把握しているものをはるかに凌駕すると信じてやまない。目的追求のため、経営者はますます大きな権力を中央に集中させ、上意下達的方針を徹底しようとする。能力は無限であるということよって、人々は日常生活のルーチンと制約を超越した何ものかを夢見ることによって、解放される。自分が、直接知っているもの、使っているもの、必要としているものを、精神の上で超越した時、人々は解放されるといっていい。消費の情熱は、このとき自由の別名となる。

 

消費者としての市民

ハンナ・アーレントは、真に民主的な場では市民は、自由に考え、忌憚のない議論を交わす権利を有している。功利性や実利性が標準として、その場を支配してしまうと可能性よりも現実性になびくため、好ましくない。彼女は政治的想像力に自由な動きを望んだ。市民は法を作り、法と共に生活し、法を使い尽くすと、旧い法が形式的に生きていたとしても、次の法を作り出す。まさに消費の情熱に重なる。ここには将来の進歩が強く期待されている。

しかし、この夢は根拠薄弱だ。新たな組織が革新的政治を生み出さない理由を説明するために、ここでは消費と政治が共有する劇場に焦点当てて説明している。

消費が劇場的であるのは、例えば陳列されている商品の多彩さと量によって消費者のモノへの理解を変えることで、本来平凡であるはずのウォルマートでさえ消費者に疑念を忘れさせ劇場と呼べるような魅力的な空間へと変身する。今日、消費の情熱には劇的な力があり、まだ所有せぬモノへの欲求は消費者を刺激し、潜在性のドラマにより使いきれぬモノを欲するように仕向けられる。政治も同様に劇場的だ。消費者=市民が進歩的政治に背を向け、消費者が消費に仕向けられるように受動的状態に向かってゆく五つの経路をここで示す。これらの要素は新資本主義の文化から、直接生じたものばかりである。消費者=市民には(1)製品プラットフォームに類似した政治プラットフォームと、(2)<金メッキ>が作り出す差異が提供される。また、消費者=市民は(3)人間性というよじれた幹を真剣には受け取らず、(4)より利便性の高い政治を信頼し、(5)継続的に供給される新しい政治製品を受け入れるのを促される。

(1)政治的プラットフォーム。例えば、フォルクスワーゲンのプラットフォームは共通シャーシであり、細かな物質的差異が付け加えられて価値を変え、いくつかのブランドになる。現代政治ではコンセンサス政治と呼ばれ、同じような形態をとっている。アメリカの共和党と民主党の違いは大きいように見えて、その実、それぞれが政権に着いたときは、両党の差異はほとんど消えてなくなっている。

それは社会資本主義という枠を超えようとした社会の論理的進行方向と言える。このプラットフォームの最も重要な共通要素は国家の役割だ。国家は、今、きわめて支配的であり、中央は人材・資財・資源の下部組織の業務の遂行を監視する。権力と権威が分離しているからだ。ビジネスと同じくらい政治においても官僚制度はどんどん権力を中心に集中させる一方、市民に対する責任を回避する傾向も強めている。新たな組織秩序は責任をこのように回避し、自らの無関心を周辺に位置する個人やグループにとっての自由にすり替える。新しい資本主義に由来する政治の悪弊はその無関心にある。

(2)金メッキについて、政治のプラットフォーム化が起こると、対立政党の各々のレトリックは、差異を強調せねばならなくなる。そこで、有権者やメディアを真に動かすのは差異になってくる。政治的<金メッキ>の中でもっとも単純なのは、物事の象徴的誇張である。些細なことを象徴的に誇張するのは製品宣伝に通じる。政治家の個人的資質へのマスコミや大衆の異常な関心は共通プラットフォームという現実を見えなくする。政治家の自己宣伝からは経歴や業績が削除され、意図、欲望、価値、信念、趣味といったものが体現される。このような個性の強調は権力と権威の分離をさらに進める。

現代政治における最も大きな<金メッキ>には事実の再文脈化がある。例えば移民問題という事実が再文脈かされる。移民の大半は納税を欠かさない労働者であり、人々の嫌がる清掃に様な仕事に就いている場合が多い必要不可欠な存在になっている。しかし、彼らは政治的に利用され、非生産的な亡命申請者と同じ文化的範疇に組み込まれるよう定義し直される。その結果、外国人を恐るべき巨大な存在としてブランド化し、人々の不安を反映する象徴的な場となっている。とくに労働界では、外国人の存在が失業、あるいは不要とされる不安をかきたてている。

このようにププラットフォームとブランドは政治において結びつき、広告の世界と同じように政治の世界でもブランド化は現実主義的判断の消滅を招き、きわめて現代的な偏見への扉を開けることになった。

(3)何物からも充足感を得られない消費者の心理の中に発見できる。現状に満足しない今年進歩的であるに違いない。しかし、政治家が先端組織から肯定的教訓を得ることは少ない。そこでは日常的経験の領域が軽んじられているからだ。「人間性というよじれた幹」に対する苛立ちには、日常への無関心がある。日常生活という現実を攻撃し、そのよじれた幹を強引に真っ直ぐにしようとする。

(4)市民が現代消費者のような行動をとり始め、政治問題がややこしいからと身を引いて、いわゆる職人的思考放棄してしまうことである。このことは政策担当者の日常への無関心と対を成している。消費者は使い易いものを買うのであり、コンピュータにしろ自動車にしろ、それがどう動くかには関心を持たない。しかし、使い勝手の良さは民主主義を駄目にすると言っても過言ではない。自分の周囲の世界がどのように機能しているかを市民が進んで発見しようと努力することこそ、民主主義には不可欠なのだ。これは人々が怠惰にあるのではなく、人々に職人的思考を難しくする政治的風潮を経済が作り出している。「柔軟」な組織においては、何かに深く関わるということは、労働を内向きなものに、あるいは視野の狭いものにすると怖れられる。ある問題に必要以上の興味を抱かせるものは、能力判定を通過しない。さらに現代科学技術が生み出した情報の過剰供給は、情報の受け手を受動的にする。iPadの過剰搭載は使用者の能力を奪う。膨大な量の生のデータはひとつの政治的事実である。量が増すと、情報の管理は中央集権的に行われるようになる。中央集権的に上から膨大な情報が降ろされるにつれ、受け手は情報についての反応が鈍くなり、コミュニケーションは衰退する。

(5)政治家と人々との相互不信である。

以上の5つの理由から新たな組織のモデルが進歩的政治を助長しないことが分かる。しかし、出現しつつある組織生活の文化が同様に重要な役割を果たしている。こうした文化には、公において他社への長期的依存を避ける理想的自己や、才能の能力主義的概念と同じように消費の情熱が含まれている。個人的変化を評価する一方で、集団的進歩を否定する文化も存在するのである。新たな資本主義の文化は単発的な出来事、一回きりの関係や交渉に適するような形で調整されている。

 

第4章 われらが時代の社会主義

大きな官僚制度は抑圧と同時に結束を促す。軍隊化されて資本主義の秘訣は時間─人々が組織の中で生涯にわたる物語と社会関係を形成できるように構造化された時間─の構成にあった。組織化された時間と引き換えに個人が支払う代償は自由、あるいは個性であった。「鉄の檻」は牢獄であり故郷でもあった。

そして、官僚制度は先進経済部門で自己変革を遂げた。しかし、新たな組織は小さくなっていないし、より民主的になってもいない。権力は中央に収斂されて構造を変え、権威からは権力は奪い取られた。参画と指令の仲介の機会は減少し、低レベルの個人的相互信頼と不要とされることへの高レベルの不安が生まれた。こうした社会的崩壊の核心にあるのが、組織における時間尺度の短縮である。先端は表面的人間関係を利用する。短縮された時間尺度は人生設計を戦略的に行おうと努力する個人を混乱させ、満足先送りの原則に基づいていた古き労働倫理の制約力をかすませてしまうのだ。このような否定的側面に対して、肯定的側面として、組織生活がより浅薄になるなかで、個人的活躍を促す自己の特質の向上がある。特質とは依存の拒絶や潜在能力の発展や所有への執着を超越する能力のことである。こうした特質は生産能力の領域に限らず、社会福祉、教育、消費の分野でも重要視されるようになっている。

これに対して、ニューレフトの人々は、物質的生活を文化的標準に従って改善しようとした。必要なのは、精神的、感情的な錨であり、職場での変化、特権、権力を測る価値観なのだ。最後に、この文化的な錨になるであろう三つの批評的価値、物語性、有用性、職人性について考えてみる。

 

物語

時間的尺度が短く、また、不規則な組織は人々から物語的展開の概念を奪う。物語的展開とは、単純に言えば、出来事を時間の中で結びつけること、経験を積み上げていくことである。これに対して、この10年間で三つの革新的試みに強い印象を受けている。第一は、短期的で「柔軟」な組織に欠落する継続性と持続性を労働者に提供するために、「並行組織」を形成しようとした試みである。第二はジョブ・シェアリングである。第三は、金持ちと貧乏人の区別なく全員に最低所得援助を行い、個人の望む通り使うことのできる制度に、北ヨーロッパの社会福祉の仕組みを転換しようという「基本所得」計画である。こうした三つの努力は、厳しい現実の反映である。不安定さは新しい組織モデルに最初から組み込まれていたもので、それに対抗するための試みだ。

政治は物語自体にかかわる文化軸を中心に展開される。良く練られたプロットでも虚構の中で時代遅れとなれば、通常の生活でも稀少なものとなる。自我はしばしば、表面下に隠れたものを見ようとして、一見、論理的に見える話をバラバラに解体しつつ、出来事を語り変え、そして、再構成しようとする。この自我は経験と積極的に格闘し、それを解釈する語り手「物語的主体」である。しかし、新たな組織の人間は、しはしば自らのうちに「物語的主体」の欠落を感じることがある。即ち起こったことを解釈する力が自分たちにはないと思うことがある。この三つの試みは、自らの長期にわたる時間経験を解釈する主体を、人々に回復するための文化的実験である。

 

有用性

自己を有用だと感じられることは、自分だけでなく他者にとっても重要な何がしかに貢献していることを意味する。不要になる割合が政治経済のなかで広がった分、人々の有用性は市民社会のインフォーマルな関係の中で広がるのではないか。有用性のより本質的な価値は二つの領域の中に見出すことができる。第一は公益に関わる仕事によって報酬を得る人々の中であり、第二は家庭での無給の働き手のなかである。とくに第一の公益的仕事の場合、地位ということが制度的認知に結びつく。この地位の奥底にある価値は正統性と関わっている。組織から正統性を与えられたとき、人々はステータスを得る。有用であることもこの枠組みに入る。ステータスは公的認知の証しともなる。

有用性は公共の利益であるとことを改革者たちが受け容れさえすれば、現代経済の非常にダイナミックな部分が作り出した<不要>とされることへの不安と怖れも、適切に解消されていくだろう。能力主義崇拝ではこうした不安は解消されない。人々の有用性を認識させる方法の模索は、より包括的でなければならない。有用性は実利性質以上のものを含む。公的サービス機関に努める労働者には価値があり、家庭領域の人々にはないものだとすれば、それは国家による象徴的な有用性の評価に負うところが大きいと言わざるを得ない。

 

職人技

新たな資本主義の文化に対抗するための第三の価値は職人技であろう。それは最も根本的な抵抗であるが、実は、政策として想像するのは非常に難しい。

職人技は新しい文化が理想化する労働者、学生、市民には欠けた根本的美徳をもつ。それはコミットメント(専念、関与)である。執着心と競争心の強い職人は物事をうまく行うことにコミットしているだけでなく、正しいや正確なという語が、うまくなされたという意味になるためには、自らの欲望を超えた、また、他者からの報酬に影響されない客観的標準が共有されていなければならない。何も手に入らずとも、何事かを正しく行うことが真の職人精神なのである。私欲を超えたコミットメントほど人々を感情的に高揚させるものはない。それがなければ、人間は生存するための闘争だけに終始することになるだろう。

組織への帰属心というかたちのコミットメントが急激に減少したことについては既に述べた。新しい文化による才能の見方からしても、コミットは容易ではない。精神的流動性が要求されれば、深いかかわりは許されない。これは自らの支配が及ばない現実から、人々が切り離されたことを意味する。コミットメントはプロセスとしての自己について、深遠なる問題を提起する。コミットメントには必然的に限界があり、ひとつのことに集中すれば、他のさまざまな可能性は捨象される。これによって逃すものが出てくるかもしれない。台頭しつつある文化は何ものも逃さないよう個人に強大な圧力をかける。限界線の代わりに、文化は諦めを促す。

 

権力の新たな秩序は、これまでになく皮相な文化によって達成された。しかし、それ自体を目的として何事かを行うことによってしか、人々は自分自身を生活に固定できないのであるから、職場や学校や政治における浅薄さの勝利は、実は、脆弱なものに過ぎない。

 

 

この著作は、どちらかというと厳密な論述というよりは思索的な、ロジックというよりはレトリック的なものだ。それぞれの個所で指摘されている事象には鋭い指摘があり感心させられるけれど、それを全体としてどうだという組立には緻密さを欠く。ただし、何となくイメージはしやすい。だから読書メモは取りにくい。この著作は、結論を求めるという読み方ではなくて、これを基に議論をするのに適しているのかもしれない。そのためには、読む者に本当の読解力を求める、つまり、自分の言葉に置き換えることができる力を問われる著作ではないかと思

 
読書メモトップへ戻る