大久保隆弘
「エンジンのないクルマが変える世界」
 

 

最初に著者は本書の目的を次のように書いています。“エコカーの中でも「エンジンのないクルマ」であるEVに焦点を当て、開発の背景や各社の取り組み、今後の市場競争などに触れながら、EVが与える産業や社会への影響ついて、経営戦略やテクノロジーマネジメント、マーケティングといった経営学の視点から考察している。特にEVの登場によって

     自動車のモノづくりは、どのように変化するか

     グローバルな自動車産業・電池産業の競争がどうなるのか

     EVの普及のために必要な産業政策や企業の戦略はどうすべきか

     EVによって、関連業界や他産業はどのような影響を受けるのか

     日本経済にとって、EVや電池産業がどのような意義を持つのか

     将来の自動車はどのように変化するのか”

EVをめぐる覇権競争は、従来の自動車メーカーの行ってきた競争とは本質的な違いがあると、著者は言います。その第一の点は自動車からエンジンがなくなるという点です。自動車メーカーは長い歴史をかけてエンジンの性能向上に努めてきました。例えば燃費の向上、排ガスの削減、軽量化など、このような良いものを安く作るという思想で延々と少しずつ積み重ねてきた競争が、電池になると機械工学で言う匠の技の世界ではなく、電気化学のイノベーションの世界に取って代わります。突如として新しい進化が生じたり、長い低迷期が続いたりするのです。エンジンのような努力の積み重ねではなく、段階的で、従来の開発のタイプのマネジメントとは異なるのです。

第二に、自動車メーカーのモノづくりの特徴は、自動車メーカーを中心とした系列化にあり、多くのサプライヤーの作った部品を自動車メーカーが効率よく組み立てるという垂直統合的なモノを行ってきました。しかし、電池とモーターは、自動車メーカーだけの力では、開発と量産化ができないものです。技術のない自動車メーカーは、電池技術のある電池メーカーなど外部に依存しなければならなくなります。内製する自動車メーカーと外部依存する自動車メーカーとの格差が始まるだろうし、強い電池メーカーは複数の自動車メーカーと取引をする可能性もあります。従来の垂直統合の系列化から電池を中心とした水平統合的なモノづくりに発展する可能性もあります。

 

 

アメリカはオバマ大統領がグリーン・ニューディール政策を打ち出し再生可能エネルギーの開発と利用を前面に打ち出した長期政策です。ここで特に関係するのは、PHEVの開発による自動車産業の復興とスマートグリッド等による電力供給の安定化と効率化であろうと、筆者は言います。かつて、1990年代の初め、当時クリントン政権が打ち出した情報スーパーハイウェイ構想に敏感に反応することができず、インターネットをパソコン通信程度の利用価値と捉え、情報ネットワークが発達した後の壮大なビジネスチャンスを予期できなかった。そして、90年代半ばに日本にITの波が押し寄せたときには、すでにアメリカが主要な技術の規格を整え、通信サービスと運用システムを掌握していました。今回も、同じような波が押し寄せる可能性は極めて大きいと筆者は言います。しかも、今回はエネルギーと電力・電気産業、家電・エレクトロニクス産業、自動車産業など国の基幹産業を直撃する可能性があります。ここで、大きな鍵を握るのは、EVでもスマートグリッドでも蓄電池です。

この政策の狙いは、単に地球環境の保護、温暖化防止にあるのではなく、再生可能エネルギー社会への転換を政策的に誘導し、すでに支配権を奪われた石油エネルギー、電力、自動車、家電などの産業を強化し、再びこの分野で世界の強力なリーダーの地位を奪還しようとする意図が読み取れます。さらに政治的な脅威である中東諸国に対する政治的牽制、豊富なエネルギー資源を有するロシア、あるいはBRICs諸国に対する技術革新による牽制にもなります。そして、次世代エネルギーの核となる技術の獲得と規格標準化をリードし、アメリカに永続的な富をもたらす仕組みを作ることにあると筆者は言います。そして、筆者はこの政策の実現の鍵を握っているのは日本だと言います。アメリカの製造業は株主重視の経営により短期的な数字を追いかけるあまり、製品ポートフォリオ戦略の罠にはまり,成果につながる長期的な芽を摘み取ってしまう傾向にあります。液晶や二次電池がまさにそうなのです。そして、これらの開発を長期にわたって続け製品化したのは日本企業です。日本はアメリカが開発を滞らせた二次電池を携帯電話やカメラ、ノートパソコンなどの小型電子製品に応用して成長を遂げてきたわけで、アメリカが開発過程で越えられなかったいわゆる「死の谷」や「ダーウィンの海」を企業同士や社内の技術の融合、裾野の広い製造業での新製品活用で市場を形成しながら乗り越えてきました。グリーンニューディール政策に大きな影響を与えるのは、この日本の技術基盤とモノづくりの総合力だと筆者は言います。アメリカはポートフォリオを組み替えるうちに収益性のない事業は売却によって外部に放出してしまい、モノづくりの技術を融合させる基盤が足りていません。その意味で、日本がアメリカと対等な相互補完関係を築く絶好のタイミングであると筆者は言います。

電気自動車の歴史は古く、ガソリン自動車と変わらぬものですが、価格が高い、航続距離が短い、パワーが乏しいといった阻害要因があり、これらのほとんどと鉛蓄電池によるもので、リチウムイオン電池の登場により、一気に商品化が進みました。日本企業がEVなどのエコカーの開発を本格的に始めたのはカリフォルニア州が90年に定めたZEV規制によるものです。排ガスを出さない新車を03年には10%にするというものでした。後に、この規制は改められました。

 

 

三菱自動車は電気自動車の開発を40年以上にわたり行ってきていました。90年初めにソニーがリチウムイオン電池の開発に成功すると、三菱自動車も自動車用の電池研究を始めました。そこでの開発上の問題は、リチウムイオン電池の性能の向上と安全性の確保でした。性能を上げると安全性に問題が生じるという二律背反性を有する難しい一面があります。06年ハイブリッドが注目されていた時期に三菱自動車はEVの本格的な商品開発組織MiEV推進部を新設します。それはトヨタやホンダに2〜3周遅れでやっても勝負にならず、長年の実績のあるEVしかないという、意識であったという。商品化の難点は、電池性能と車体の問題で、実用的な効率から言えば、電池のユニットはコンパクトであるほうがいいが、航続距離を考慮すると多くの電池を積む必要があるという二律背反の問題でした。また、モーターとインバータは重電関係のメーカーである明電舎が手がけました。大手自動車メーカーであれば、電池もモーター、インバータも内製化を進めます。特にインバータはエンジン車でいえばエンジンとトランスミッションでありコアの部分です。これを明電舎が任されたことでコアを外に切り出された格好になりました。

一方、日産自動車はカルロス・ゴーンCEOのもと中長期的な計画のもとで進められました。オーチャードコンセプトと長期的な課題を技術開発によって果実としてユーザーに提供する意味合いで名づけられたもので、果実(技術、製品、機能)を育む果実園ようなの経営方針です.このような果実園経営の特色は、顧客に対する価値を最初に考え、定義し、時期を明確にして、それを最初にするためのプロセスを逆行するように手段、方法、必要資源を考え、各々の技術者の持つ知識・技能をつなぎ合わせて整理し、最大の顧客価値を発揮する果実が実を結ぶようにそれぞれに明示するところにある。この中でEVの誕生は、単にリチウムイオン電池が開発されたとか、いいモーターが完成したからというものではなく、EVという果実の価値を顧客視点ではかり、創造のプロセスを階層化して明確にする。電池のような基盤技術に対しても疎かにせず継続的、組織的に向き合っている。

このように、三菱自動車も日産自動車も経営危機を乗り越え、不遇の時代を長く経験し、その間にトヨタやホンダに差をつけられ、HVの開発に遅れをとり、その結果、EVに経営資源を傾注させて、トヨタ、ホンダの先を行く創造的な次世代自動車を完成させました。というわけで、両社にとって、EVは起死回生のイノベーションと言えます。

 

 

一方、電池に関しては90年代にニッケル水素電池、そしてリチウムイオン電池が実用化され、電池の発明から一世紀が経って、ようやく新しい原理が発見されたことになります。しかし、その90年から現在までに20年が過ぎ、その間改良による性能の向上やコストダウンはあったものの、基本的な原理は変わっていない。半導体などの進化のスピード比較すると遅々としているように見えます。電池の技術開発の特徴はセレンディップ(思いがけない幸運)なもので、これを見落とさず実現に結び付けるのは開発者の経験と熟練に裏づけられた勘が必要で、計画とおりに開発が進むと言うものではない性格のものです。

電池メーカーとしては長年鉛蓄電池とその周辺事業を続けてきたGSユアサがあり、三菱自動車、あるいはホンダとそれぞれにリチウムイオン電池の合弁を行っています。

もともと、リチウムイオン電池は日本で製品化された製品で、当初は日本企業が世界市場を独占していましたが、現在は中国や韓国にシェアを奪われつつあります。半導体や液晶で日本が韓国や中国に取って代わられたような構図は未だ生じていません。しかし、2010年代初めのPHV、EVの発売を目指して、世界の自動車メーカーと電池メーカーの提携はほぼ終わっています。だいたいのところ、日本の自動車メーカーと日本の電池メーカーの提携,、欧米の自動車メーカーと韓国、中国メーカーの提携という構図におさまります。このことは,日本の電池メーカーのグローバル化を妨げる危険や欧米主導による標準化の流れに遅れをとるリスクを孕んでいます。

さきに、電池の技術開発の特徴を述べましたが、リチウムイオン電池が今後このまま順調に進化していくかは、例えばDRAM半導体のようにイノベーションサイクルがあって、数年サイクルで一定期間を経た後に確実に次の段階の製品ができるかというと、必ずしも電池の歴史と同様で不透明です。現時点では、基本的な技術は公知のものとなり、アジア勢のキャッチアップが始まっています。これはリチウムイオン電池のイノベーションが成熟期に差し掛かっているか、あるいはライフサイクルの踊場にあって次の段階への移行時期が到来している、ということを意味しています。しかし、先は見えないという状況です。もし、イノベーションが滞ると次はコスト競争になってしまい、日本企業は市場からはじかれ淘汰される結果にもなりかねない。はじかれた企業には次のイノベーションを起こすチャンスは失われてしまいます。それがエンジンの競争と電池の違いです。最悪のシナリオは、イノベーションが停止したときに、すぐに追い越され、その都度日本企業は競争から脱落し、またイノベーションが生じて追い越せても、イノベーション停滞期に技術的優位さなくなり、コスト競争力で追い越される。その繰り返しの果てに日本企業は1〜2社が存続するだけとなり、完全にイノベーションが停止したときに、市場からすべて排斥されることになってしまうというものです。

リチウムイオン電池の進化を陰で支えているのが材料メーカーであり、正極、負極、セパレータ、電解液の四つの要素で構成される二次電池は、各要素別に異なる材料メーカーが電池メーカーに供給しており、これらは日本企業が優勢を保っています。リチウムイオン電池は、材料自体の進歩や材料間の組み合せがイノベーションに大きく関わっており、この分野ですべての材料メーカーが備わっているのは日本企業の優位性と言えます。しかし、材料メーカーは日本のみならず世界のメーカーに材料を供給しており、材料では差異化できません。電池メーカーの差異化の可能な範囲は自社が特許を取得する以外は、素材の組み合せや配合、製品化、電池の量産化技術などにかぎられる。

 

 

EVとなってモノづくりは変っていくのかという視点から。エンジンの自動車では、自動車会社と部品を供給するサプライヤーの関係がクルマづくりには非常に大切であり、自動車産業は、各自動車メーカがサプライヤーを傘下に従えながら、自らが設計・開発した自動車のデザイン・機能・パフォーマンスに合った部品材料を統合しながら製品化する擦り合わせ型産業と言われ、企業間の調整能力や組織能力によって、一つの製品の品質を最高レベルに引き上げるシステムで日本企業はここに強みを発揮していました。このようなモノづくりの有様がEVの時代にどのように変化するのか、従来、エンジンを内製しない自動車メーカーは車体メーカーと呼ばれ自動車メーカーと一線を画されていました。それほどエンジンは自動車メーカーにとって他の部品とは異なる意味合いもつコアな存在でした。自動車メーカーは長い時間をかけて、このエンジンの性能の向上に努めてきました。これが自動車メーカーのコアであり、競争力の源泉でした。しかし、EVの出現によって、そのエンジンの必要がなくなります。エンジン変わる代替品として優れ電池を手にするメーカーが優位性を持ち始めています。

また、自動車メーカーにはエンジン以外にもコア・コンピタンスがあります。それは、走る、曲がる、止まるという自動車を設計、開発、改造する技術と、大量に販売するマーケティング機能を有していることです。自動車の開発、量産、販売のトータルプロセスには3万点に及ぶ部品を関連企業とともにインテグレーションする活動が伴い、これをコントロールする機能を有するのが自動車メーカー最大の強みです。

エンジンの代わりに電池になったとしても、自動車メーカーの技術・ノウハウなくして自動車は作れません。つまり、電池メーカーでは自動車を作れないのです。しかも、自動車は多品種大量生産で、車種も多く、モデルチェンジも頻繁に繰り返されます。それらを個々にインテグレートする必要があります。自動車メーカーは、コア・コンピタンスであるエンジンを失っても電池があればEVを作ることはできます。その逆は当面ありえないと言えます。このようなトータルインテグレーションの重要性に加えて、その中で従来の日本企業の強みをいかに生かすかと言う視点が大切で、次の3点の克服がポイントと言えます。

     軽量化

     低コスト化

     安全性

 

 

自動車のコア・コンピタンスという視点からは、エンジンがなくなり、代わりにコアとなる電池を持たない自動車メーカーは自動車に比べて不利になるが、電池メーカーが取って代わるということはないだろうと著者は言います。しかし、コアとなる期間部品が電池になることで否応なくモジュール化は進展し、新たなクルマづくりの枠組みが産業に生じる可能性はきわめて高いと言えます。コアのコンポーネントである電池やモーターを中心に部費の水平統合化は進み、自動車メーカーの系列的な取引関係を主体とした枠組みは崩れていくことになるでしょう。自動車の動力源が必ずしも自動車メーカーから生まれる保証がないというのが、新しい時代のフレームであり、これからのモノづくりの設計思想や開発、生産、企業間の連携や競争に大きく関わる前提条件となるでしょう。また、川上産業、例えばエンジンの部品数は1万点以上に及び産業の裾野は広いが、EVに代わられると、部品の取引量も業者の数も減少する。それはエンジンやその周辺、変速機、駆動系が電池、モーターやインバータに置き換わることによる。

またEVが社会的に普及し、エンジンによる自動車と変わらぬ便利さをもてるためには社会インフラの整備が不可欠と言えます。

 

このあと、今後のEVをめぐる戦略について、著者は具体的な提言を展開します。これは、本書の核心ともいえるべきものなので、実際に本書を手にとって読んでみることをお勧めします。

 

私の個人的な感想は、EVは自動車の動力がエンジンからモーターに変わることによる変化を筆者は丹念に追いかけでいるように見えますが、モーターによるEVとエンジンによる自動車は全く別のものという発想はないですね。そのような可能性は否定できないと思います。だからこそ、テスラのようなEVを製作するベンチャー企業が生まれてきているわけですし、中国で世界に先駆けて大規模にEVが作られ始めているわけですから。その時に、従来の自動車の概念とは、発想自体が異質な代物が出てきてスタンダードになる可能性も否定できないのではないか。例えばテスラにEVのデザインはエンジンによる自動車では考えられものです。そうなれば、パソコンのようにモジュラー化したモノづくりで生産されたEVが普及する可能性もあるわけです。例えば、近距離の買い物等に用途を絞り込めば快適性などは多少我慢しても価格がうんと安くなれば、消費者は歓迎するかもしれません。

だから、本書で著者が分析している内容は、この2〜3年は慥かにそうだと思いますが、その後の中長期的には、ひとつの可能性として見るものではないかと思います。液晶テレビの最近の数年のアジア等への爆発的な普及とそのフィードバックとしての欧米での低価格化は予想を超えるものだったのではないかと思います。そのような将来の不確定さ、場合によっては可能性がEVにはあるし、著者の主張しているような戦略を取る場合には、当然リスクとして考えざるを得ないと思います。私は、EVにはそれだけのポテンシャルがあるのではないかと思っています。

 

 
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