三品和弘「どうする?日本企業」 |
第1章 本当に成長戦略ですか? 日本が歩んだ衰退の道 第2章 本当にイノベーションですか? 日本が歩んだ衰退の道 第3章 本当に品質ですか? ピアノが奏でた狂想曲 第4章 本当に滲み出しですか? 鉄が踏んだ多角化の轍 第5章 本当に新興国ですか? 日本が教えた開国攘夷策 第6章 本当に集団経営ですか? こうしたい!日本企業
今の日本で、どこの会社でも経費節減と早期退職のあらしが吹き荒れて、年収は頭打ち、年金だっていくらもらえるか定かでない…。そんな不安が職場に蔓延している中で、大企業各社が発表する中期経営計画の中身を覗いてみると、売上も利益も右肩上がりで伸びていくことになっている。驚くべき秘策でもあるのかと探してみると、これといったものは何も見当たらない。このことに著者は違和感を抱く。 大企業各社のトップが「負の遺産の整理は一巡した、ここから先は成長に向かって舵を切る」と高らかに宣言してから、すでに10年が過ぎようとしているが、その間「日本を元気に」という掛け声も至る所で聞いたが、現実はバラ色とは縁がないまま。この状況あるいは要因を著者は、日本病にかかったと形容する。
第1章 本当に成長戦略ですか? 日本が歩んだ衰退の道 これはデータに明らかであり、メーカーでは1960年以降一貫して下降トレンドを辿っている。問題の根は深く、少なくとも第一次オイルショックの時期に端を発していると指摘する。二度にわたるオイルショックやバブル崩壊などの大事件に際して一時的に利益率は急降下するが、直後には必ず急上昇している。このような場合、多くの人が痛みを感じるため、政府が対策を打つなど、実は恐れるに足らない。我々が本当に脅威と受け止めねばならないのは慢性病、すなわち誰も気が付かないほどゆっくり起こる変化のほうだと著者はいう。 これに対して、売上高は21世紀に入っても増え続けている。データを取った企業は1960年以前より上場している古参の企業だが、未だに売上を伸ばし続けているのは驚くべきことだ。反面、実質利益に目を向ければ1970年前後から停滞期に入っているため、利益率はどんどん小さくなってきている。これらの結果から、日本企業が「成長の奴隷」になってしまったのではないかと思える。まるで強迫観念に取り憑かれたように成長、成長とまくし立て、売上高は伸ばし続けて来たものの、その陰で利益を度外視したツケがたまりにたまって、閉塞感を打破できない状況に追い込まれてしまったのではないか。著者は、これを「豊作貧乏」と呼ぶ。 では、日本企業の利益が頭打ちとなった1970年に何があったのか、著者は戦後復興の終焉があったと指摘する。第二次大戦後の焦土と化した日本の再建とその派生需要が未曽有の経済成長を牽引したが、1970年代に焦土の再建は一段落し、住宅や主要な耐久消費財は行き渡った。戦後復興には確かに緊急性があった。極端なモノ不足を背景とした需要も際限なく見えた。そういった環境下では、いかに工場を拡張し、フル稼働させるかが全てだ。ところが、そのような非常事態モードを脱してしまえば、内需の性格が変わるのは当然だ。国際社会も日本を保護対象から外して、自立を求めてくる。腰を据えて新たな行き方を定めるべき節目がここにあったことは間違いない。しかし、日本は、結局のところ舵を切らず、折よく吹いてきた神風をとらえ、安易に便乗する道を選んでしまった。神風は遠くアメリカから吹いてきた。 しかし、日本の突然の変わり身に、アメリカは烈火のごとく怒り、日本企業の節度なき輸出攻勢を「失業の輸出」と非難する一方で、日本対策を練り始めた。そうした流れの中で台頭したのが、アメリカ企業の製造下請けを買って出た台湾勢であり、韓国勢だった。一方、ここまでして成長を追い求めた日本は何を得ただろうか。利益という点では何のゲインもない。そもそも日本製品がアメリカ市場を短時間で攻略できたのは、アメリカに簡便な販路が出来上がりつつあったからだ。そして、日本企業が量販に打って出れば出るほど、アメリカの販路側に利益が落ちる構図があった。その上、円高傾向に逆らって輸出を増やしたわけだから、利益が犠牲になるのは道理としか言いようがない。さらに悪いことに、火のついた貿易摩擦を鎮める過程で、日本企業は不利な譲歩を何度も迫られ、重荷を背負わされ、疲弊していった。いまや電機メーカーは、台湾勢や韓国勢が仕掛けてくる設備投資競争に敗退してしまい、半導体メモリー、液晶パネルと敗戦を繰り返している。疲弊したところを付け込まれてしまった。これだけ痛い目に遭いながら、驚くべきことに日本は未だに起動を修正していない。 そこで著者は、こう主張する。いまだ日本は「無理やり成長」のツケに苦しんでいるのに、相変わらず「成長戦略」の大合唱でよいのか。成長を目標に掲げると、優秀な社員ほど逆算を働かせ、数字を積み上げる方策に、つまり。結果の読める世界の勝負に、走る。そこには、結果の読めない未知の世界に挑戦しようとする道は閉ざされてしまう。本来の仕事の醍醐味は、仕事を通して世界を変えるところにあるはず。企業利益は、そういう目標に挑戦する意欲をかき立てるための報酬と考えられないか。それにもかかわらず世界を変える努力を放棄して、既知の世界で数字の積み上げに走っている限りは、日本企業が衰退の道を歩むのは自業自得といってもしょうがない。
第2章 本当にイノベーションですか? 日本が歩んだ衰退の道 日本の戦後企業史を語る道具として、戦略が働きかけるべき対象の重層構造を描いてみると、下(土台)から立地、構え、製品、オペレーションと重なる逆ピラミッドの重層図が描ける。日々のオペレーションや、個々の製品は、働きかけて変えることも難しくない。しかし、それらが乗る土台となると話は違ってくる。誰に向かって、何を売るビジネスを営むのかという事業の「立地」や、売ると決めたものを売る相手と決めた相手にデリバリーするまでのプロセス(構え)は、思い立ったからと言って、簡単に変えられるものではない。だから、戦略性が高いといえる。また、下に向かって細くなる逆ピラミッドの重層図としたのは、企業の本質的な不安定さを示すためだ。資本主義が競争を通して進歩を生み出す特性を備える以上は、優れた「立地」や「構え」も陳腐化するのは時間の問題。土台が傾き始めると、どれだけ製品やオペレーションを強くしても衰退に歯止めをかけることはできない。 日本の戦後企業史には、この重層図を一斉に下から上に登り詰めるという特徴があった。それは敗戦の思わぬ効果と言える。戦時生産体制を改めて、新たな事業立地を模索し始めたのが1950年代で、多くの企業は1960年代に事業立地を変更する「転地」に成功している。そして、1970年代に構えの構築が一段落すると、それ以降は経営戦略の焦点が上半分の製品やオペレーションに移動していった。日本企業が横並びと言われるのには、このような同期性によるところが大きい。競争の焦点は絶えず同期していたからだ。しかし、日本の企業と同期していない海外の企業は、平気で異次元の競争を仕掛けてくる。そのため、製品次元やオペーレーション次元の競争にどっぷり浸かっていた日本企業にとっては、グローバリゼーションが鬼門となった。いったん「立地」や「構え」を崩されてしまうと、いくらイノベーションで対抗しても、体力を消耗するだけだ。今でも、この消耗戦を、いまの日本企業が大挙して戦っている。 ここで、ケースとして腕時計の市場において画期的なクォーツ時計を開発し、一時は世界市場を席巻したセイコーが、その後自滅していった事例を取り扱っています。具体的なケースで興味深く、とても参考になる分析を行っていますが、興味のある方は、実際に本書を手に取ることを、お勧めします。 セイコーはクォーツという画期的な技術イノベーションの後も、果敢にイノベーションに挑み続け先進的な製品を生み出し続けた。これは技術者たちの並々ならぬ努力の結晶であり、そのような努力は、本来ならば事業の成功によって報われてしかるべきところ、衰退の一途を辿ってしまった。 慥かにセイコーの凋落には様々な要因が絡んでいる。円の高騰、バブルの崩壊、携帯電話の普及、中国製品の台頭、ネット販売の興隆等、これらの要因を個別に吟味していくと、どれも不可抗力に見えてくる。しかし、著者は根本的にはセイコーの戦略の誤りが主要因と結論する。 まず、セイコーは創業者の慧眼により時計専門店ルートを逸早く押さえ込み、国内で中級帯と高級帯市場の6割を占有するガリバーの地位にあった。しかし、技術進歩の大きな波に乗ることだけを考えてしまった。その結果、中級帯と高級帯の守りが疎かになり、そこを攻め込まれてしまった。剣が峰は1982年にあった。香港勢が10ドルのクォーツを引っ提げてアメリカに乗り込んできたのだ。アメリカ市場を奪われたセイコーは、ここで正面切って香港勢と戦う道を選ぶも、返り討ちにあってしまう。この結果多額の毒別損失を計上せざるを得なくなり、さらに、限られた経営資源を香港勢との戦い、つまり、普及帯に張り付いていた間、他の戦線が手薄になり、その隙に本丸の中級帯や高級帯を攻め込まれ、安住の地を失った。そして、スイスのスウィッチ・グループのブランド・ポートフォリオ戦略にしてやられてしまった。ではクォーツというイノベーションとはセイコーにとって何だったのか。 それ以前は、中・高級帯の実用時計しか存在していなかった。正確な時を知ることのできるのは高価な機械的腕時計に限られ、この時計は歩度調整やメインテナンスを必要とするもので、そのため、職人を抱える時計専門店しか販路になり得なかった。ここで、セイコーはインベーションを起こした。その第一幕は、新たな武器で主力市場の上を開拓するつもりで運上帯市場に送り込んでいった。そして、第二幕は、普及帯市場の出現をもたらした。電子部品を買って組み立てるだけというモジュール化が起こり、新規参入が相次いだ。しかも、クォーツ時計はメインテンスを要しないため、時計専門店以外の販路を拓く結果につながり、価格破壊を激化させた。その結果、中級帯の顧客が選択を与えられたことになり、普及帯に乗り換え始める。つまり、自社の中核市場が崩れ始めてしまったわけだ。そして、第三幕として、実用時計市場の消失が起こってしまう。過剰供給が腕時計を無用の長物としてしまった。携帯電話をはじめとして至る所に時計が組み込まれて、これらすべてがクォーツ時計なのだ。これだけ普及していれば、もはや腕時計をしていなくても、時を知るうえで困るということはない。皮肉にも。クォーツ時計は実用時計の頂点を極めることで、実用時計に幕を引く結果を招いたのだ。 こうしてみるとクォーツというイノベーションがセイコーの首を絞めたことは明らかだ。この章で「本当にイノベーションですか?」と問いかけたのは、このことだ。 ではセイコーは、どうすればよかったのか。考えられるのは「転地」だ。時を知るのに困らないとなると、腕時計の副次的な性格が純化され、旧来の事業立地から派生する形で新たな事業立地が生まれている。そこでは可処分所得の高い人を相手にしてファッション・ステートメントや、時を刻むコンパニオンを売るというビジネスが成立した。スウィッチ・グループはこの事業立地を自ら産み育てることで、その盟主に収まる道を歩んだ。これに対し、セイコーは旧来の事業立地の防衛に明け暮れて、主役の座から降りる道を突き進んだ。 ここで、仮にセイコーがスウィッチ・グループの果たした事業立地創造の役割を自らに課したとしたら、と考えてみると、著者は難しかったと分析する。セイコーには、新しい事業立地に流用できる事業の構えがなかった。創業時の構えを長らく放置して、アップデートを怠ってきたツケと呼ぶべき性質の問題である。つまりは、メンテを怠り傾きかけた土台の上に、それには不釣り合いな製品を載せようとして、実らない努力を重ねてきたことになる。
第3章 本当に品質ですか? ピアノが奏でた狂想曲 しかし、この章ではあえて日本人の品質信仰に異議を唱える。その理由を著者は三つあげる。 第一の理由は、信仰の起源に疑問がある点だ。以前のメイド・イン・ジャパンのイメージは「安かろう、悪かろう」だった。それが、1980年の日米半導体セミナーの席上でHP社の重役が日本製DRAMの品質の高さを表明した。これを契機に世界での評価は一変した。ここで、日本は舞い上がってしまったと著者はいう。 第二の理由は、品質信仰の根拠が揺らいでいるからだ。韓国製品や中国製品もアメリカでは日本製品と比べて遜色ないという評価がされるようになってきている。もはや、メイド・イン・ジャパンが高品質を占有する時代は終わったと言える。しかし、日本=モノ造り大国論が国内で独り歩きしている。 そして第三の理由は、品質信仰の弊害が目に付くからだ。品質と一口に言っても、意味内容は様々で、日本が得意とする品質もあれば、苦手とする品質もある。それなのにメイド・イン・ジャパンがすべて高品質と思い込んでしまうと、日本の駄目な点が見えなくなってしまい、現状の閉塞状況を打破することなど望めない。 ここで、ケースとしてピアノの量産により世界市場を席巻したヤマハが、その後自滅していった事例を取り扱っています。具体的なケースで興味深く、とても参考になる分析を行っていますが、興味のある方は、実際に本書を手に取ることを、お勧めします。 ヤマハが欧米で脅威と受け止められたのは、従来の100倍の規模でピアノの大量生産に乗り出したことだ。いわば、それまで「工芸品」であったピアノが「工業品」になってしまうことを意味した。工芸品と工業品の対比は、今では品質の多義性として理解されている。つまり、品質には一つの絶対的な定義があるわけではなく、いくつもの側面があるということだ。中でも「工芸品」の品質概念はパフォーマンス・クオリティと名付けられ製品が顧客の期待を上回る程度、これに対して「工業品」の品質概念は今フォーマンス・クオリティと名付けられ製品が顧客の期待を裏切らないていどと解釈された。お宇部か感じた脅威の核心はこの先にある。パフォーマンス・クオリティは、顧客に見える素材や仕上げが醸し出すものなので、これを上げるには原価を積み増す必要がある。それに対してコンフォーマンス・クオリティは、製造工程からバラつきを徹底的に排除することによって上がる。従って、品質が上がるほど、材料や作業の無駄が減り、原価が下がることになる。品質が上がると原価が下がるということは激しいインパクトをビジネスの世界に齎した。そして、ヤマハの優位はコンフォーマンス・クオリティにあった。 しかし、中国製のピアノがヤマハを真似るように、しかも低価格で世界市場に輸出攻勢をかけてきた。これに対して、ヤマハはピアノの生産を海外にシフトさせると同時に国内拠点は高付加価値化を図った。その核となることが期待されたのが、グランドピアノだった。それまで、ヤマハが得意としてきたアップライトピアノは、ピアノを習う子供のいる家庭が主戦場で、安価で場所を取らないことが訴求点となり、品質に関してはコンフォーマンス・クオリティが求められる。これに対してグランドピアノは、一定の腕前に達した音楽大学生や演奏家が顧客となるため、品質に関しては、あくまでもパフォーマンス・クオリティの勝負になる。それゆえ、ヤマハにとっては異次元の挑戦とも言えた。しかし、音楽学校というボリュームゾーンは押さえることができたが、トップクラスの演奏家の支持を集めるまでには至っていない。 著者は、ヤマハの製品には落ち度はないという。しかし、ピアノというものの特性を考えると、一般的に工業製品の耐用年数は、例えば、自動車で10年前後だが、ピアノはうまく維持すれば100年経っても潰れず、親子の代を超えて引き渡すべき宝物といえる。とすれば、たかだか10年しん付き合わない自動車と、一生付き合うピアノでは、顧客の求める価値が違ってくるのは当然だ。さらに、ピアノは限られた人のための奢侈品である。そこで求められるのはパフォーマンス・クオリティ以外の何物でもない。弾くという行為に対して、いかにピアノが応答するか、その一点に尽きる。つまり、ピアノという代物は、ピアノを愛する人々が、ピアノを愛する人々のために造る楽器で、そういう世界に原価やら効率やら経営の言語を持ち込むべきではないのかもしれない。韓国勢や中国勢の急伸は、少なくともピアノにおいてコンフォーマンス・クオリティが強靭な参入障壁にはならないことを示唆している。ヤマハは、欧米勢と同じようにパフォーマンス・クオリティを追求したピアノも造っているが、その手のピアノしか造らない欧米勢と比較されてしまうと、その志に疑念の目が向けられるのは致し方ないところだ。 当のヤマハは、いま中国に建設したピアノ工場に集中投資をかけている。日本の高度成長期と同じ大市場が出現しつつある中国を見逃す手はないということだろう。しかし、いつも据え膳をぱくつくだけでは、経営に戦略性など生まれるはずもない。この大市場が一過性の市場であることを弁えないと、日本で味わった苦難を繰り返すのが関の山だ。コンフォーマンス・クオリティを訴求すれば中国に勝てるという決めつけにも危うさが潜んでいる。新たに豊かになった国には旺盛な内需があり、その内需が大量生産を支え、大量生産がコンフォーマンス・クオリティを鍛えるという図式がある。その点を踏まえると、中国から次のヤマハが出てきても不思議はない。
第4章 本当に滲み出しですか? 鉄が踏んだ多角化の轍 これに対して、アメリカの企業は専業に徹し、隣接領域に事業を拡大しようと思えばできるのに、据え膳には手を付けない。自分たちのアイデンティティが不鮮明になるのをよしとしない。その代わり、独立した事業を買い集め、事業ポートフォリオを組む企業がアメリカでは幅を利かせている。こう考えると、滲み出し型が日本企業、狙い打ち型がアメリカ企業のイメージとなる。 マイケル・ポーターは一貫して狙い打ち支持派で、多角化を試みる際は、多角化先事業の利益ポテンシャルを見て是非を判断すべきで、「どこから」など関係ない、「どこへ」多角化するかが肝心だという。競争優位は地縁に頼って得るものではなく、他社に先駆けて有望な事業を見出すところから生まれるという。さらに、これに従わない日本企業を見て、ヒトの限界を指摘する。地縁に固執するのは、自分が知らない事業に尻込みする経営者の偏好であるとして、未知の世界に挑む心労から自分を守ろうとする私心が働いていると指摘する。たしかに、社内の人間だけで多角化に挑もうとするから隣接以外の領域が恐ろしく見える側面もある。閉じた会社組織内で積む経験を重んじてきた日本企業の限界が、こういう時に現われるとも言える。 ここで、ケースとして鉄鋼業の事例を取り扱っています。具体的なケースで興味深く、とても参考になる分析を行っていますが、興味のある方は、実際に本書を手に取ることを、お勧めします。 日本の鉄鋼は1980年代に世界一の座に登り詰めた。しかし、出荷量は1973年のピーク以降増えていない。そこまで伸びていった高度成長という時期が定常状態とは違う異常な時期といえる。瓦礫の山と化した国土を再建するプロセスで高度成長は実現したが、いったん再建が完了してしまえば、あとは消費分・摩耗分を補うだけの仕事しかない。その転換点が1973年ごろではなかったか。この点は、鉄鋼メーカーの幹部も心得ていた。1970年の八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄となったのは、需要の伸びの鈍化に対処する、高炉の整理再編のためだった。 しかし、これ以降も高炉は逆に増えていった。この時期、設備の世代交代の時期にあり、業界全体に「囚人のジレンマ」が働いてしまった。つまり、成熟化時代を乗り切るにはコスト競争力のある高炉を持つに限る。だから需要の減退に直面しても設備投資の手を緩めるわけにはいかない、という論理が企業レベルで働いて、業界全体で供給過剰を助長してしまった。その結果は悲惨で、1970年代に停止した高炉23基のうち、12基は20年も使っていない現役の高炉、うち5基にいたっては1960年代後半に立ちあがったばかりの新鋭炉だった。現在の国内の高炉は23期でその状態は1990年から続いている。ということは1970年から20年間は生産能力の調整に費やされたことになる。いつまでも高度成長は続かないと認識していても、新世代の製鉄所建設計画に固執した結果、鉄鋼メーカーはあたかも成長が続くことを前提としたかのごとく、高炉建設に邁進してしまった。その結果、稼働している高炉のスクラップを余儀なくされる事態に陥った。その結果、鉄鋼メーカーは後始末に追われ成長戦略のツケとして多額のリストラ費用を計上することになった。 さらに、日本企業は、良好な労使関係を維持する代価として人件費を固定費化した。これは余剰人員が出る局面で大きな支出を強要する。リストラ費用は巨額になるが、高炉は損金処理をした上で解体すれば終わりだ。しかし、終身雇用という形で雇用を保障した手前、社員を何が何でも守らなければならなくなる。 そして、鉄鋼会社は雇用を守るために事業を営む、そこために新規事業を手掛けることを余儀なくされた。しかし、悉く失敗してしまうという惨憺たる結果となった。 そこで取られていた戦略は、次のようなものだったのではないか。まず、何はともあれ鉄鋼事業の国際競争力を円高基調の下で回復させたい。これを優先課題と位置付けると、やるべきことは二つ。一つは、高張力鋼やシームレスパイプなど、他国にない技術を伸ばすこと。もう一つは、最先端製品だけで製鉄所は持たないで、設備の近代化と人件費の削減を図り、コスト競争力を上げること。そうなると、資金は鉄鋼事業に集中投下したいが、余剰人員を鉄鋼事業から外すための策も欠かせない。投資金額が少なくて済む多角化事業を起こして、そこに社員が退職するまで収容しようと考えた。 しかし、そこで誤算が生じる。本業で技術が救世主とならなかったのだ。高付加価値鋼板の行方が怪しいことが判明したことで、多角化事業の目的に迷いが生じ、利益面で本体の足を引っ張りながら生き残ってしまう結果となっている。経営陣は、自社技術を過信して判断を間違えてしまった。自社技術への強い思い込みが誤りを招いたと著者は指摘している。 ではどうすればよかったのか。鉄鋼業界で多角化による複合経営を成功されたのは神戸製鋼だが、これは鉄鋼事業全盛期に打ち出された路線で一朝一夕の善後策ではなかった。それ以外の鉄鋼メーカーは全盛期に鉄鋼事業に私有中投資をかけることにより、規模や効率において神戸製鋼を寄せ付けない地位を築いた。ここに善後策を論じる余地はない。だから、専業で行くと決めた以上は、鉄の浮沈と運命を共にする以外に道はない。それを前提とするなら、そもそも余剰人員を抱えないように細心の注意を払って採用を進めるべきだった。実際になされた善後策で最も有効だったのは出向だった。これは製鉄所内の遊休地に他社の工場を誘致し、そこに社員を送り込むという施策だ。社員の席は残したまま、先方の支払う給与が足りない分は補填するというものだった。この補てん分は持ち出しになったが、代わりに巨額の投資を要しなかった。 第5章 本当に新興国ですか? 日本が教えた開国攘夷策 結論から言えば、当時の日本は外国企業に門戸を開く一方で、あの手この手を繰り出して自国企業の防衛に努め、望外の成功を収めた。当時、日本に来て期待通りの成果をあげた外国企業は数えるほどもない。自らが新興国であったときは外国企業の侵攻を見事に阻止して自国企業を守り抜いた国が、次は外国に侵攻して成長を続けようという虫のいい目論見を新興国が果たして許してくれるのだろうか。 敗戦後の日本で、政府は参議用の再建を最優先課題に掲げた。しかし、アメリカから見ればその惨状は日本が自ら招いたもので、侵略されたアジア諸国は被害者といえた。だから、当時のアメリカには、日本が侵略したアジアの国々より豊かになることは絶対に許されないことであった。しかし、アメリカの姿勢はソ連との冷戦を機に転換した。日本政府は、この間隙をついて1949年外国為替及び外国貿易管理法を成立させ、外国企業の活動を未然に封じ込めてしまった。これは、海外からの輸入、海外への送金、外国企業による土地の購入、外国企業の企業による日本企業の買収に制限をかけるという内容だった。これをアメリカが認めるはずもなく、1950年政府は外資法を急いで成立させた。ここでは外国資本の出資比率を50%以下に制限したうえで、投資を認可する条件として「日本経済の自立とその健全な発展に寄与する」「国際収支の改善に寄与する」の二点を明示している。許認可体制に移行して、活動を認める外国企業を具体的に選別できるようにして、露骨なまでの国益優先政策を進めた。1961年には外国企業が出資比率100%の子会社を日本に成立してもかまわないと、条件を緩和した。しかし、外貨準備が不足気味の現実を盾に取り、利益の海外送金を禁止していた。従って、日本で稼いだ利益は日本国内に再投資するしか道はなかった。日本の利益誘導を国際社会が容認したのは、戦後復興という大義名分があったからだ。だから1964年、日本はIMF8条国に指定された。もはや、国際的に庇護を与える特殊な国ではないということだ。日本政府は輸入を管理する手段を失い、輸入の自由化が実現した。さらにOECDに加盟すると資本の自由化を断行するに至った。これによって、日本企業は外国企業に買収される可能性と向き合うこととなった。さらに1979年外資法が廃止されて、送金と資本取引が原則自由となった。その後1997年外国企業の日本における活動は政府の管理下から外れ、この時点で名実ともに原則自由化が実現した。しかし、裏面では非関税障壁について日米で激しい攻防が続けられる。日本政府はオモテで自由化の推進を喧伝するウラ側で見えにくい手段で障壁をつくり出した。例えば重電機の分野では行政指導を活用し、製造ライセンスの供与を義務化したり、製品仕様にメートル表記を義務付けたりした。 自由化は新興国にとって諸刃の刃なのだ。競争力のない自国企業を保護して時間を稼ぐには、自由化を遅らせるに限る。しかし、自由化を進めない限り、競争力のある自己企業に海外進出のチャンスを与えることができない。だから、新興国はオモテとウラを使い分けて、少しでも有利にコトを運ぼうと画策し、そのお手本となったのが日本だった。 新興国は、本当に、当時の日本と同じような状況に置かれているのだろうか。中国はたしかに高度成長の軌道に乗ったと言えるが、深刻な失業問題を内部に抱えており、産業の育成が待ったなしである点は戦後の日本と共通する。中国が外国企業に対して門戸を開いた理由は、地方都市や内陸地帯に雇用機会を創出させたい、大学生の専門性を活かし給料の高い職を提供してほしいということではないか。この点でも戦後の日本に通じる。しかし大きな違いは交通インフラだ。日本は高度成長が始まる前に交通基盤が整備され国土が面になっていた。これに対して中国では人だけはなく物流も移動手段が限られ、大都市間が線で結ばれただけの状態にある。 著者は、中国の歩みは、日本の32年前の経験と驚くほど重なり、丁度今の中国はアメリカから執拗に人民元改革を要求され、小幅ながら元の再評価に動いたという、日本が変動相場制への移行を余儀なくされた時期に重なる。そうなると、アメリカの圧力が強まり、資金移動の自由を保証する「自由化元年」が数年後に迫っていると考えてもおかしくない。その数年先には、通貨の劇的な切り上げの可能性もあろう。しかしながら、行政当局による介入がなくなる「完全自由化元年」は、まだ20年近く先のことだろう。中国で普通に事業を展開できるようになるまで、しばらく時間がかかる。 では、日本企業が採るべき戦略は。先行者優位という戦略概念もあるが、実際には後出しジャンケンが勝つ事例も少なくない。ここで、過去に日本に進出した外国企業の例を振り返ってみる。日本は1985年の自由化までの参入阻止政策が有効に働き、この時点では日本に入ることのできた企業は数えるほどもない。ということは、これと逆の立場で今の中国を考えれば、日本では名の通った名門企業も、新興国では彗星のごとく登場する地元企業を相手に苦戦を強いられる可能性は決して小さなものではない。以前の日本は技術輸入大国だったが、後に技術を教えてくれた欧米パートナーを世界の市場から駆逐するに至っている。そう考えると、中国が世界に新幹線を輸出するときいても、驚くに値する要素はないのではないか。 しかし、このように高い参入障壁を乗り越えた外国企業も存在していた。それらは、石油、コンピュータ、化学、薬品の業種だ。これらの業種は自由化以前に日本政府が政策を実現するうえで必要不可欠な製品を提供していた企業だ。しかも、固有の資源や技術を有していたため、他社に代わりが務まる余地はないに等しい。だから、保護政策の網をかいくぐるまでもなく、歓迎されて現地に根を張ることができた。新興国で先行投資が実るとしたら、この条件に該当する企業だろう。一方、日本での自由化以降に外国企業が躍進を遂げたのは、小売、自動車、自動車部品、化粧品、食品、金属、半導体などだ。例えば、自動車については並外れた雇用吸収力があることから、日本は保護すべき国策産業として守り抜いた業種で、1980年以前はシャットアウトの状態だった。しかし、2005年の時点ではドイツ勢の躍進が目立つ。ドイツのメーカーは自由化を見届けてから自社販売網の構築に乗り出した。ここではその前に下手な投資をしなかったことが幸いした。これに対して、そこまで待てなかったアメリカ勢は、商権関係を複雑にしてしまい身動きが取れない状態に陥った。ドイツ勢は自由化の時代を迎えるまで静観した。そこまで待てば、消費者の嗜好が多様化し、国策車に満足しない人も出てくる。通貨の高騰が始まると、輸入車や輸入部品の相対価格が下がり、一気に市場が拡大する。それ以前に動いて将来の自由度を狭めるのでは、面白くない。 また、例外として、機械、電機、卸売などは、新興国で現地の企業が育ってくると、外国企業の出番がなくなるという現象が起きている。これらのビジネスに共通した特徴としては、販売力の重要性を上げることができる。顧客との技術折衝が鍵を握るため、どうしても地元に密着した国産勢が優位に立てる。そういうフィールドでは遠い将来を睨んだ投資は控えるべきだろう。実際にアジア進出を図っている日本企業の緒戦の様子は、ここでの予想とほぼ一致している。 新興国では汎用品を捨てて、特殊品(ニッチ)で勝負するに限ると著者は指摘する。アジアでは、売上1000億円、営業利益100億円辺りを目標とするのが一つの知恵だという。そこを超えて規模を拡大しようとすれば、汎用品に手を出さざるを得ず利益率が犠牲になってしまう。アジアで成功を収めている日本企業は、日本の復興期に成功を収めた欧米企業とほぼ同じ業種に集まっている。ただし、これらの企業にしても前途洋洋とは限らない。事業を継続する力はあるが、地場企業の反攻を受けると予想されるところある。
第6章 本当に集団経営ですか? こうしたい!日本企業 これに対して、日本は第二次産業で生きているので後続の国々がシェア争いに参加してくると防戦一方に追い込まれる図式に陥っている。 企業経営の面でも、例えばGEのジャック・ウェルチの戦略は、表向きは「選択と集中」で知られているが、実際にウェルとが残した事業と切り離した事業を分析してみると、彼が取捨選択の基準としては、日本勢を敵に回さないというポリシーで貫かれているのが分る。アメリカの量販店に並ぶ日本製のテレビを見て、ウェルチは時代の非可逆的な変化を冷静に嗅ぎ取った。日本製のテレビがアメリカの量販店に並ぶということは、その背後に海運や陸運の物流革命があり、アメリカ国内の流通革命がある。ということは、仮に日本を叩いても、次に韓国や中国が出てくるので、キリがない。ウェルチはそう達観した。 他方、主戦論に傾いた日本は苦境に立たされている。苦戦の原因については日本の特殊性が指摘されている。例えば、狭小住宅の屋根にソーラーパネルを乗せようとする日本は、単位面積当たりの発電効率を重視するが、砂漠を発電所に変えたいほかの国はキロワットあたりの発電単価を重視する。日本の技術は世界一というが、それは日本のモノサシで測った場合のことで、異なるモノサシの国では世界一でも何でもない。この特殊性を認識していない故に、世界で苦戦を続けている。しかし、本当にモノサシの問題なら取り換えれば済むことだ。それよりも拡散現象への対応を誤ったことにある。例えば、日本のメーカーが川上部門でイノベーションに遭遇した結果、カネさえ出せば韓国、台湾、中国勢にも、優れた機械・装置や部品・材料を買える時代になってしまったということだ。そこで正面からぶつかれば、価格競争となり人件費が相対的に高い日本は不利だ。新興国プレイヤーの成長から利するために、機械装置や部品、材料の供給に徹するという戦略もあったが、今や手遅れで、彼らが出てきたときに主戦論により正面から戦う道を選んだため、かれらも後に退けなくなり現在の状況を招く結果となった。 日本企業の得意戦法は、実行部隊を意思決定に関与させ、計画の推進力で勝負するというものだ。ブルーカラーのホワイトカラー化、遅い昇進、定期異動、全社的品質管理、改善活動、方針管理、事業計画といった日本企業に顕著な特徴は、実行部隊の技能形成を促して、現場で判断させるための工夫と解釈できる。この戦法は、異常対応能力の向上を通してコンフォーマンス・クオリティに結実した。ただし、この戦法が機能するためには、推進力を発揮する場を大局的見地に立って定める指揮官の存在がなくては生きてこない。しかし、今の日本企業から指揮官が消えうせる事態が発生している。それは、大物経営者の引退により集団経営に移行していったことに重なる。経営者に関しては、創業経営者(起業を得意とし、自らの手で巨大企業を創り上げた経営者)と操業経営者(組織の管理を得意とし、社内で昇進を重ね、巨大企業の経営を継承した経営者)に区分できるが、操業経営者では指揮官になれない。現在、韓国や台湾や中国の創業経営者が日本の操業経営者を駆逐するという構図が出現してきた。そしてまた、かつて日本に追い詰められたアメリカからも新たな創業経営者を輩出させてきた。 では、どうすればいいのか。著者は、もはや量産品には見込みが薄いという。現時点では、未だ日本企業に相対的な優位がある。しかし、いつまで持続するか分らない。中国やインドが大規模な国内市場に向けて量産に乗り出せば、工程からのフィードバックが頻繁にかかり、学習効果を活かす投資機会も多い、そのプロセスから、コンフォーマンス・クオリティの向上や、原価の低減も生まれる。また、量産のコストは装置レベルの規模によるが日本の企業は一般的に生産施設が分散化し規模を活かせない体制になっている。大規模集中的な設備投資により韓国勢に押されていった日本の半導体産業などは、まさにあてはまる。こう考えると、規模の経済がモノを言うビジネスは避けて通るに限る。 そこで著者が狙うのは、さらなる拡散傾向の先取り路線だ。拡散傾向が進むにつれて、従来の垂直セグメンテーションは効力を失いつつある。拡散の進行は、所得階層や性別や国籍の境界から意味を奪い去り、「ユニ」市場を生みでしている。 著者が望みを託す活路は「リ・インベンション」であるという。簡単に言うと、歴史に残る発明を取り上げて、一からやり直そうというものだ。技術的なイノベーションは、最初の着想も大切ながら、それに続く実作業の割合が高いため、どうしても組織戦や持久戦の様相をまとう。それゆえ、ハングリー精神に満ち溢れた人々の集う国が有利になる傾向が強く出る。これまではアメリカ発の着想が日本で利用サン化された事例は枚挙にいとまがないが、今後は、日本発の着想が韓国や中国で量産化される時代に入ることは覚悟すべきだ。その点で、リ・インベンションは、最初の着想が圧倒的に重要で、それに続くステージにおいても実作業の比重がさほど大きくない。リ・インベンションが社会に受容されるまでの道筋をつける仕事は技術力以上に構想力を要求する。また、技術力は組織に宿るが、構想力は秀でた個人に宿る。日本に勝ち目があるのはその点だ。その点では若い世代に期待できる。例えば、スマートフォンの事例は、従来の携帯電話の発展形として様々な機能を付加していったフィーチャーフォンがインサイダーの通信業者がつくったものだ。これに対してスマートフォンは、フィーチャーフォントの境目は必ずしも明瞭ではないものの、アップルという電話とは無関係の特定の企業が前面に出た点で様相が異なる。そして、この製品はPCとの連携を前提にし、ポケットに入るところまで小型化したうえで通信機能を付加したPCという位置づけで、ユーザーと事業者との力関係を根底から変えてしまった。フィーチャーフォンは提示されたメニューの中からユーザーが受動的にサービスを受けるというものだったのに対して、スマートフォンはPCと接続することでスマートフォンに持たせる機能をユーザーが選択できるようになっている点が大きく違う。このようなユーザー主導のオープンプラットフォームとなれば、通信業者は既得権を失い、フィーチャーフォンのメーカーかせ通信業者の下僕の身分であったのに比べて、アップルは通信業者から独立できる。 いまや世の中はレベルの高いモノで埋め尽くされている。多様なモデルが市場にひしめき、どの製品も性能は均質化してきている。そこで価格競争が激化するのは当然と言える。すでにあるものに満足している顧客を驚かす。そういう高い次元に躍り出た企業だけが圧倒的な支持を集める時代になってきている。その中では、常識を身につけた人ではなく、常識を創りにいく人が経営に当たらない限り、企業は凡庸に埋没し、価格競争を耐え忍ぶために粛々と身を削る日々を余儀なくされる。しかも、クリエイティブは専門家に任せて、経営者は利益管理に専念するという安易な図式は通用しない。これからの時代を支配するのはカネではなくアイディアだからだ。 最後の著者の考える処方箋は学者さんらしく、具体性に欠けますが、言いたいことは分かります。そして、前半の現状に到った事情の分析の切り口はとても説得力があり、今後に向けてどうしようかと考えるための示唆に富んでいると言えます。その意味で実践的で、実務家の向けの分析といえると思います。コンサルタントと呼ばれる人たちも実務の専門家として、このくらいの視点と分析はしてほしいと思いました。この程度のベースがあって、はじめて経営者に対して助言を加えられるのではないかと思います。 |