橘玲
「大震災の後で人生について語るということ」
 
PART1 日本人の人生設計を変えた四つの神話

1.日本を襲った二羽の「ブラックスワン」

2.不動産神話 持ち家は賃貸より得だ

3.会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める 

4.円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ

5.国家神話 定年後は年金でくらせばいい

PART2 ポスト3.11の人生設計

6.伽藍からバザ―ルへ

7.世界市場投資のすすめ 

感想

 

著者は、3.11の東日本大震災と14年前の見えない大災害によって戦後社会は終わり、新しい社会に移行し始めたという。しかし、ほとんどの人はこのことに気付かず、3.11によって、はじめて、これまで目をそむけていた人生の経済的なリスクに正面から向き合わざるを得なくなったと言う。

ここで、リスクについて、著者は「欲望と同様に、それによってひとびとの行動を規定するもの」と定義する。危険に遭遇すると、生き物は反射的に身を守ろうとする。同様に、我々も無意識のうちに危険を回避する選択をしていて、リスクに対する耐性(許容度)はひとによって大きく異なる。ひとは誰でも、危機に際して最悪の事態を想定し、そのなかで最善の選択肢を探そうとする。このときに、最悪事態はそのひとのリスク耐性によって大きく異なってくる。たとえば、震災のさいに買い占めに走ったひとは自分が抱えているリスクをリスクが管理できる許容範囲を超えたと感じたことから不安に陥ったためで、これを倫理的に批判しても意味はない。この問題を解決するには、一人ひとりのリスク耐性を上げるか、リスクに強い社会を作るしかない。

著者は、日本人も日本社会もリスクに対して脆弱になってきていると警鐘を鳴らす。日本社会をいま大きな不安が覆っているとすれば、そのひとつの(そしておそらくはもっとも大きな)理由は、日本人の人生設計のリスクが管理不能になってきたからだと言う。戦後の日本人の人生設計を支配してきた四つの神話が崩壊してきた。それは「不動産神話」「会社神話」「円神話」「国家神話」だという。しかし、我々は、いまだに神話なき時代の人生設計を見つけることが出来ず、朽ちかけて染みだらけの設計図にしがみついている。役立たずとなった設計図から生ずるリスクが、日本人の行動を規定している。皮肉なことに、我々はリスクを避けようとして、そのことで逆にリスクを極大化させ、それが不安の原因になっている。3.11以後を生きるとは、この神話を奪われた世界を生きることに他ならない。

 

PART1 日本人の人生設計を変えた四つの神話

1.日本を襲った二羽の「ブラックスワン」

英語ではブラックスワンは、あり得ないことの比喩で、無駄な努力をすることを、ブラックスワンを探すようなもの、という。ナシーム・ニコラス・タレブの『ブラック・スワン』では、この特徴を三つあげている。

@異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。

Aとても大きな衝撃があること。

B異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。

今回の代診と、それに続く原発事故も典型的なブラックスワンだ。ひとたび、ブラックスワンが現れる、世界の姿は一瞬にして変わってしまう。だから、我々はその意味を知るのは、ずっと後のことだ。著者は、その例として1997年を指摘する。この年、タイのバーツ暴落をきっかけに東アジア・東南アジア諸国が未曽有の通貨危機に見舞われた。世界の金曜市場に混乱は波及し、日本の金融不安を再燃させ、大手銀行や証券会社の破綻が相次いだ。この翌年、日本の自殺者数が異常に増えた。の大部分が無職の中高年男性だった。その理由は失業によって人生設計の経済的基盤が根こそぎ失われてしまったことによる。

2.不動産神話 持ち家は賃貸より得だ

著者し「生きる」ということを経済的に考えるためにバランスシート(貸借対照表)を用いる。この上ではすべての資産は金銭価値に換算されて計上される。当然、不動産もこの中の重要な資産になる。国債を保有していると半年に一度決められた配当が支払われるように、不動産を誰かに貸していると、毎月、家賃を受け取ることが出来る。キャッシュフロー(現金の流れ)は国際でも家賃でも同じような流れになるため、不動産は株式や債券などと同じ金融資産として扱われる。ところで、普通は、この説明に違和感を抱く、それは、マイホームでは家賃収入を受け取ることはなく、投資用不動産とマイホームは違うもので、一緒にするのはおかしいと思うはずだ。経済学では「帰属家賃」という言葉で、マイホームとは自分で自分に家賃を支払うと考える。例えば、時価5000万円のマイホームを所有しているとして、それを賃貸に出せば毎月20万円の家賃収入が得られるとする。しかし、マイホームを賃貸に出せば、本人は別に家を借りて賃料を支払わなくてはいけない。それを考えれば差引ゼロだ。ということは、マイホームでは、家主し賃借人が同じで自分で自分に家賃を支払っていると考える。つまり、マイホームの所有者は帰属家賃と言う見えない収入を受け取っていると考える。つまり、マイホームとは不動産投資であり金融資産そのものということになる。

そこで、金融資産として考えてみると、普通、資産投資ではリスクを考え分散投資が一般的だ。しかし、一般的には、住宅ローンを組んでマイホームを購入すると言う場合には、手持ちの自己資本に借り入れによるレバレッジをかけ、すべてをマイホームという不動産に集中投資することになる。

経済学的には、マイホームと賃貸の違いは不動産投資のリスクを引き受けるかどうかにある。マイホームの場合、不動産価格が上がればその利益は自分にものになるが、その一歩で地価が下がったり、想定外の出来事で不動産が価値を失ってしまうと、その損失をすべて個人で負うことになってしまう。逆に言えば、それだけリスクが高いからこそ、そこから得るリターンが大きくなる。だから、マイホームは金融資産としてみれば、レバレッジをかけたハイリスクな不動産投資なのだ。しかし、これまで、最も安全で有利と信じられてきた。その理由は日本の地価が80年代半ばまで年率15%で右肩上がりの上昇を続けてきたことによる。このような環境では、無理をしてでも住宅ローンを借りてマイホームを取得し、不動産価格が上がれば買い換えて、個人は急速に金融資産を増やしていくことが可能だった。しかし、90年代のバブル崩壊で地価は下落に転じ、「不動産神話」は終わりを告げた。それ以後、マイホームを買った人はひとすら損をし続けた来た。

一方、賃貸に目を向けてみると、不動産投資として首都圏の物件では一般に5%の実質利回りが目安とされている。しんし、実際には、価格の安いワンルームマンションの利回りが高く、分譲マンションや一戸建てになるにしたがって利回りは安くなる傾向にある。これは、ワンルームマンションの方が物件価格が下落するリスクが高いためだ。投資用ワンルームマンションは魅力的な利回りを維持するために高い家賃を設定しなければならない。これに対して、一戸建てやファミリー向けマンションは借り手がいなくて家賃が下がる。これは、ファミリーに持ち家志向が未だに強いためだ。さらに90年代以降、不動産価格が下がった都心部に大型のタワーマンションが建てられるなど、人口が減少しているのに不動産物件が増えているため、貸し手は慢性的な空室リスクに悩まされ、賃料は低下傾向にある。このように地価が恒常的に下落している日本では賃貸生活が有利になる一方で、マイホームはますますハイリスクな投資になってしまった。

家を持つという志向には経済的な要因以外の動機があるため、そのこと自体は否定できない。しかし、リスク分散という視点から見れば、リスク耐性の低い個人が、特定の不動産に高いレバレッジをかけて金融資本のすべてを投じるというのは極めて危険な選択だ。住宅ローンを払い続けている限りは不動産投資のリスクは顕在化しない。しかしいったん失業により収入がなくなると、マイホームを売っても住宅ローンの返済はできないから、人生の経済的な基盤を一挙に失ってしまう。我々が、マイホームのリスクから目を逸らすのは、この事実を直視するのが不快だから。

3.会社神話 大きな会社に就職して定年まで勤める

前回はマイホームを金融資産として個人のバランスシートを見たが、ほとんどの人は金融資本からえる収入より仕事で稼ぐお金の方がはるかに多いはずだ。この「働いてお金を稼ぐ力」は、「人的資本」ということになる。一般に、我々がこの世界で生きるために富みを獲得する方法は、次の二つだ、というより、これ以外の方法でお金を稼ぐことはできない。

@人的資本を労働市場に投資して、労賃を得る。

A金融資本を金融市場に投資して、利子・配当を得る。

@の人的資本は、人間の生物としての物理的な特性から、若い時ほど大きく、一定年齢を越えて働けなくなるとゼロになる。これに対し、金融資本は年齢に関係なく蓄積することが可能となる。そこで、年齢によって@とAの構成が変わってくる。若い時は金融資本(貯金)がほとんどないから人的資本がほとんどだが、人的資本は年齢と共に減ってきて、代わりに金融資本が増えてくる。老年になると、年金を含めた金融資本からの収益で生きていくことになる。これは、@とAの分散投資、投資のポートフォリオを適切に管理することが人生設計といえる。

人的資本の典型例として会社員の収入を考えてみると、学校を卒業してから働き始め、定年で退職金を受け取る平均的なサラリーマンの収入カーブは長期債券に投資して、定期的に配当をうけとり満期支払を受けるのと驚くほどよく似ている。サラリーマンになるということは、会社から毎月給料という配当を受け取り、退職金として元金が召喚される債券を買うようなものと、著者はいう。

日本の大手企業は終身雇用制を取っているので、会社に就職した時点で定年までの人的資本の価値が確定する。人的資本を会社に投資して、言わばサラリーマン債権を購入するというのは、有利な取引と言える。戦後の高度経済成長以後、日本では、人的資本のすべてを会社に投資することが人生設計における経済的な利益を最大化する最適戦略だった。

しかし、バブル崩壊後、この「成功の方程式」が揺らぎ始めた。サラリーマンの人生設計は「会社は潰れない」という神話を前提にしていた。

平均的なサラリーマンの生涯年収は3億円とも言われているが、福利厚生や企業年金を加えると企業が支払う人件費コストは1人5億円とも言われている。しかし、ほとんどの人は、これほどの収入があるという実感を持てない。その理由の一つは、これがグロスの収入で、所得税や社会保険料の支払いが含まれている。サラリーマンの人生と言うのは、40代までひたすら会社に貯金して、50代から回収をはじめ、満額の退職金をもらってすべての帳尻を合わすようにできている。前項で、サラリーマンが競って住宅ローンを組んでマイホームを買ったのは、若いうちにまとまった金融資本が作れない以上、それ以外に効率的な資産運用の方法がなかったからとも言える。すなわち、サラリーマンとマイホームこそが、戦後の日本人の人生設計における“最強戦略”だったと言える。定年までに住宅ローンを完済し、退職金をほぼ無税で受け取り、その後は悠々自適の暮らしをするという、たしかに計画通りなら、素晴らしい人生かもしれない。

しかし、この政略には、一つの重大な問題がある。それは会社がつぶれず、定年まで雇用が続くことが前提となっていることだ。つまり、会社が倒産するのは珍しいことではなく、大企業でも品番にリストラが行われるようになり、サラリーマンでいることのリスクが顕在化してきた。

年功序列と終身雇用の日本的な雇用制度では、中間管理職以上は転職の余地は殆どない。中高年サラリーマンは、いったん職を失うと再就職はほぼ不可能と言われている。このように労働市場の流動性がない日本では、経済的なショックで会社から引きはがされてしまうと、1億円以上あった人的資本(サラリーマン債権)がいきなりゼロになってしまう。それに加えて、住宅ローンを借りていてマイホームを購入していたとすると、心的資本は会社に依存しているから、いったん職を失えばその大半が毀損してしまい、金融資本はレバレッジをかけて不動産に投資されているので、天変地異や何らかの理由で不動産の価値がなくなれば債務超過に陥ってしまう。日本には、このようなハイリスクな人生のポートフォリオを持つ人がたくさんいる。1997年のブラックスワンで自殺に追い込まれた人は、このような人々だ。

4.円神話 日本人なら円資産を保有するのが安心だ

5.国家神話 定年後は年金でくらせばいい

我々の人的資本は一定年齢を超えるとゼロになり、それ以降は金融資本だけで生きていくことになる。この金融資本には年金も含まれる。年金は金融資本の運用を日本国に委託したものだ。日本の高齢者は、不動産を除けば、年金以外の資産はほとんどが円預金である。年金は国が支払いを保証しており、円という通貨は日本という国の信用に基づいて市場で流通している。ともに、日本という国にリスクを集中させているという共通点がある。これは、国家が最も安全な投資先だと考えられているからだ。

しかし、国家にも「財政破綻」「国家破産」というリスクがある。その不安が、いま重苦しく覆っている。1000兆円という日本国の一般債務は莫大だ。経済的に見れば、国家とは再配分の機能であり、お金を吸収しては吐き出すパイプのようなもので、人間と違って寿命がないため、利息を払い続けることで、永遠に借金を借り換えていくことが出来る。しかし、それでも借金を永遠に増やし続けることはできない。小さな地震や雪崩の崩落は毎日のように起きていても、我々はそれが大惨事の前兆とは思わない。しかし、その間にも地殻や雪の斜面は臨界状態に組織化されていき、ある日突然、巨大地震や雪崩となって人々を襲う。日本の財政も、借金が増えるにつて臨界状態に近づいていることに間違いはない。

国家が債務超過になっていること自体は問題ではない。国家というのは、経済的には国民から税金を徴収して再分配するための機能でしかないから、政府が資産を持つ必要はなく、債務超過は必然とも言える。しかし、個人金融資産等を加えた国全体のバランスシートが債務超過になってしまうと、担保以上の借金をしていることになり要注意状態だ。日本は現在のところは要注意状態にないが、少子高齢化を運命づけられているため時価評価では債務超過になってしまう。

といってもキャッシュフローがプラスになっていれば、かつかつでも毎月の返済分だけ稼いでいれば、国債の利払いが出来ているうちは借り換えることが出来る。その指標がプライマリーバランスと呼ばれる、国債発行以外の収入と国債の利払いを除いた支出の比較だ。これがゼロなら、債務の増加は利払いだけになる。

このように、日本の財政状況をバランスシートで見ても、プライマリーバランスで見ても、ただちに破綻することはないとしても、現状は極めて厳しい。

自分と家族を守らなければならない一人の生活者としては、できる限りの備えをしておくしかない。国家破産の場合の経済的な帰結は、原理的に次の三つの経済事象を引き起こす。

@高金利

A円安

Bインフレ

この三つが同時に、かつ異常なレベルで発生することになる。国家破産後は、今とは逆の、インフレ、高金利、円安の世界となる。

 

戦後の日本人の人生設計は4つの神話の上に築かれてきた。

不動産神話

会社神話

円神話

国家神話

これらを前提にしたポートフォリオは、戦後の経済成長に最適化した人生設計だった。このところの日本が急速に閉塞感を強めてきた理由の一つは、多くの人がこの経済的なリスクに気付き始めたからだ。しかし、神話が崩壊した後の新しい人生設計を見つけ出すことが出来ずに、古い設計図にしがみつき、そのことがますますリスクを高め、社会を閉塞させていった。

日本人はリスクを嫌うようになり、安定を求め神話にしがみつくように生きてきた。そのようなリスクを避ける選択が。かえってリスクを極大化することになってしまった。既得権を守ろうと必死になることによって、政府の財政健全化計画は頓挫し、ますます国家破産のリスクが高くなるという悪循環が起きている。国家破産を恐れる人々は声高に批判するが、自分自身がリスクを生む原因になっているのだから、どれほど叫んでも不安が去るはずもない。これこそが、現代の病なのだ。

 

PART2 ポスト3.11の人生設計

6.伽藍からバザ―ルへ

1980年代の日米で労働者の比較調査を行ったところ、意外な結果化出ている。当時のアメリカ製造業を中心に大規模なリストラが相次いで、日米貿易摩擦が最も激しくなった時期にあった。それでも、アメリカの製造業の労働者たちは自分の仕事に満足していて、友人にもこの仕事を勧めたいと思っており、入社時に戻ることが出来ても、もういちど今の会社に就職したいと考え、自分の仕事人生は合格点だと感じている。これに対して当時の日本経済はバブル経済の絶頂期でわが世の春を謳歌していた。それにもかかわらず、日本のサラリーマンは自分の仕事に不満で、友人にはこの仕事を勧めないと語り、就活をやり直すことができたらこんな仕事は絶対に選ばないと答え、自分の仕事人生は不合格点だと思っていたのだ。実は、愛社精神も仕事への献身度もアメリカの労働者の方が高く、日本のサラリーマンは会社が大嫌いだったという見も蓋もない事実が明らかになった。

この事態を説明するために、著者は伽藍とバザールという概念を持ち出す。伽藍とは、人の集団が物理的・心理的な空間に閉じ込められている状態で、バザールは開かれた空間で、店を出すのも畳むのも自由だ。例えば、両者では「評判」をめぐって全く異なるゲームが展開される。

バザールは参加するのも出ていくのも自由だから相手に悪い評判を押し付けようとしても何の効果もない。悪評ばかりの業者は、別の場所に移ればいい。その一方で、よい評判も退出すればゼロにリセットされてしまう。だから良い評判を持っている業者はそれを資産として大切にして、同じ場所にとどまり、さらによい評判を増やそうと考える。このようにして、バザール空間でのゲームは、できるだけ目立って、たくさんのよい評判を獲得することになる。これがポジティブゲームだ。

これに対して閉鎖的な伽藍空間では、押し付けられた悪評はずっとついて回る。だから、できるだけ目立たず、匿名性の鎧を身に纏って悪評を避けることが生き延びるための戦略になる。これがネガティブゲームだ。例えば、最近の会社の入社式、会社訪問では、男も女も黒のスーツに白のシャツで、靴や髪形までほとんど同じだ。これは会社が定めた服装規定ではなく、彼らが誰の指導も受けず、伝統や慣習とも無関係に自分たちだけで生み出した秩序といえる。

80年代には伽藍にはまだ拡張の余地があり、悪評を押し付け合うネガティブゲームは会社の成長でパイが拡大しているときには目立たなかった。多少の悪評も新事業や海外に転じれば帳消しになった。しかし、バブルが崩壊し、景気が落ち込むと、日本的な会社のグロテスクな面が顕わになり始める。運悪く悪い上司に当たったりしても会社には逃れる場所はなく、転職しようにも再就職の道はなく、伽藍の世界が定年まで延々と続くことになってしまった。

アメリカでも、ほとんどの労働者は毎日会社に通っている。しかし、労働環境は日本とはかなり違って、2割のスペシャリストと8割のバックオフィスで構成されている。バックオフィスは同一労働同一賃金で、年功序列はない。つまり、50歳でも20歳でも仕事の内容が同じなら給料は変わらない。これは反面では、条件さえ折り合えば年齢にかかわらず再就職できることになる。彼らの給料の差は能力によるものだけだ。これは効率性から生まれた制度ではなく、「公正」と「正義」から生まれた。これを成り立たせているのは流動性のある労働市場だ。そこでは、会社で取得した資格や職能は汎用的なもので、それを基準にほかの会社に移ることが出来る。これに対して、スペシャリストは意識としては自営業者に近い。彼らは自分のキャリアの途中でたまたまその会社に所属しているのであって、より条件のいい仕事やキャリアアップのチャンスがあれば、新天地に移っていく。彼は「会社のために働く」のではなく、プロフェッショナルとして自らの資格や能力を会社に提供し、それにふさわしい報酬を受け取っている。彼らを評価するのが成果主義で、会社の庇を借りて営業する自営業者のようなものだから、自分の稼ぎが報酬に反映するのは当たり前で、それ以外の方法で給与を決めることはできないのは当然だ。

日本のサラリーマンは人的資本すべてを会社に投資してリスクを極大化している。これは会社がリスクを分散化してきたから、安定してきた。日本の企業は多角化、総合化を志向する会社が多い。そこで雇用は安定化し、個人のリスクはヘッジされていた。一方アメリカのシリコンバレーの会社は、一つの事業に会社の全資源をリスクを極大化させている。ここでの社員たちはよい評判を多く獲得することでリスク回避を図っている。シリコンバレーの社員は殆どがスペシャリストで、その業績はプロジェクトごとに評価される。会社が倒産しても重要なプロジェクトにかかわっていれば、その評価によって他者への転職が可能となる。だから、彼らはプロフェッショナルとして会社の利益に貢献すると同時に、できるだけ外部にも目立つようにして個人のキャリアを労働市場で最大化させようとする。これに対して日本の会社は評判は社内で流通するだけで、外部と共有されない。サラリーマンの関心は内側に向いたままで外のことは気にしない。かれらは社内でよい評判を獲得するか、それが難しければ悪い評判だけは絶対にさけるように全力を投じる。

もし、この本の読者が就職を控えた学生であるなら、「安定した大きな会社」は最もハイリスクな選択かもしれない。一端伽藍の世界に入り込んでしまうと、40歳の転職可能年齢を超えると人的資本が会社のリスクと一体化してしまい、どれほど理不尽な状態になっても底から逃れることが出来なくなってしまう。そんな暗澹とした未来に比べれば、たとえ不安定に見えたとしても、汎用的な知識、技能、職歴、視覚を獲得できる仕事のほうがずっとマシだ。そもそも、「適職」などというものは、実際に仕事をして見なければ分らない。そう考えれば、自分のキャリアを一つの会社に限定するのではなく、転職を前提として、もっとも得意なこと(向いていること)を探す方がずっと効率的だ。そして、いったん「適職」を決めたならば、会社ではなくその仕事に自分の人的資本のすべてを投入すべきだ。それによって業界や消費者の間で高い評判を獲得できれば、それがスペシャルとなってくる。

「人的資本のリスクを分散する」といっても、色々なことに闇雲に手を出せばいい、ということではない。営業や会計、設計など自分が最も得意とするものに人的資本のすべてを投入し、その専門性の中で汎用的な知識や技術を獲得し、バザール世界で通用する「評判」を獲得していくのが基本戦略。独立するにしても、こうした専門性や評判をベースにしなければ成功は覚束ない。

7.世界市場投資のすすめ

「会社」に人的投資のすべてを預けることはきわめてハイリスクな人生設計になる。この残酷な世界を生き延びるには、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことで、極大化した人的資本のリスクを分散しなければならない。しかし、もしそれができなかったら…。そのときは、人的資本のリスクを金融資本でヘッジすることになる。

自分と家族の生活を守ることが出来る最低限の金融資本を持つことを、「経済的独立」という。経済的な基盤なくしては自由は手に入らない。

ところで、投資というのは儲けることだと考えるのはあまりにも短絡的だ。金融資本は、あくまでも人的資本を加えたポートフォリオ全体の一部としてかんがえるべきで、人的資本と金融資本の間には、次のような関係がある。

@金融資本が大きければ、人的資本でリスクがとれる。

A金融資本が小さければ、人的資本でリスクを取ることはできない。

@が経済的独立だとすれば、Aは会社とう伽藍に閉じ込められた状態で、しっかりした経済的基盤を持っていれば、それだけ選択の自由度が広がる。この定義は、因果関係を逆にして次のように書くことが出来る。

B人的資本が大きければ、金融資本でリスクが取れる

C人的資本が小さければ、金融資本でリスクを取ることが出来ない。

例えば、人的資本が小さく、なおかつ金融資本もほとんどないのなら、ギャンブル的な金融商品に投資するのも合理的な戦略の一つだ。失うものが何もなければ、大損しても、自己破産すればいいだけだ。それに対して、人的資本リスクが高い時は、儲けることよりも保険を掛けることを考えるべきだ。

8.大震災の後で人生を語るということ

自由とは選択肢数のことだ。何らかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のない人ほど苦境に陥ることになる。立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きるすべを持たないからだ、というように。

日本人は世界で最もリスク回避的な国民だが、皮肉なことに人的資本と金融資本のポートフォリオでみれば、ほとんどの日本人がリスクを極大化した人生設計をしている。この世界が残酷で理不尽なのは、大規模な自然災害や経済的な変動が起きたときに、最も弱いひとたちに被害が集中することだ。このひとたちの人生設計のポートフォリオはあまりにも脆弱なので、想定外の衝撃に耐えることが出来ない。

この本には、伽藍の世界を捨ててバザールへと向かう旅を書いていると著者はいう。伽藍の世界では。リスクを極大化したポートフォリオがとられ、社会が大きく変化したことで、さまざまな問題を生み出すようになった。バザール世界では、この迅雷のポートフォリオをリスク分散型に組み替えて行こうとする。

実際には、ほとんど日本人は、このようにはできないし、だから、これは絵空事といわれてもしょうがない。しかし、その絵空事が、一部の人には実現可能な世界が開けてきたことも確かだ。それが大震災という圧倒的な現実を前にして、絵空事を突き詰めることでしか、先に進めないこともあると、著者は考えたという。

この国にはいま、政治を批判する怒りの声が渦巻いている。しかしそのひとたちは、伽藍の世界に立てこもったまま、そんな国家に自分の人生のすべてを預けようとしている。我々にできることは、個人のリスクを国家のリスクから切り離すことだ。

 

書名から連想するのは、もっともらしい人生論か、あるいは説教が書かれているのかと思ったら、主として実践的な経済的自立のハウツー本の内容だった。しかし、この本が他のハウツー本と違っているのが、書かれていることは絵空事と自己認識した上で、大震災という圧倒的現実を前にして、その絵空事を突き詰めることを敢えて選択することを前提に議論を進めていることです。そこで、著者の目に映るのは、リスクを極大化させてしまいながら、それにしがみつき身動きが取れなくなっている人々の姿という現実でした。その現実を変えていくためには、国家が、社会が、といいながらみずからの脆弱な基盤から目を背けることではなくて、個人が自分なりに、人生のポートフォリオという経済的基盤を見直すという作業です。しかし、これには、現在の自分の姿をいったん自己否定することにもなりかねません。それは観念的なものではなく、実際には、このようにこれまで生きてきたのかという結果から問われる、きわめてシビアなものでしょう。それに耐えていくには、敢えて絵空事として、できる人だけが、やっていけばいいということになるでしょう。

 
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