濱野智史「アーキテクチャの生態系─情報環境はいかに設計されてきたか」
 

第一章 アーキテクチャの生態系とは?

第二章 グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?

第三章 どのようにグーグルなきウェブは進化するか?

第四章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?

第五章 ウェブの「外側」はいかに設計されて来たか?

第六章 アーキテクチャはいかに時間を操作するか?

第七章 コンテンツの生態系と「操作ログ的リアリズム」

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?

感想

 

第一章 アーキテクチャの生態系とは?

本書の分析する対象は、2000年代に登場したネットコミュニティやウェブサービス、具体的にはグーグル、2ちゃんねる、はてなダイアリー、ミクシィ、ユーチューブ、ニコニコ動画です。しかし、大事なのは何を追うのかではないのではなく、如何にして追うのかということです。すなわち、これらを「メディア」として捉えるのではなく、「アーキテクチャ」として捉えます。著者はこの言葉を、ネット上のサービスやツールをある種の「建築」とみなす、あるいはその設計の「構造」に着目するという意味で用いるとしています。ネット上のウェブサービスもまた、情報技術によって設計・構築された、人々の行動を制御する「アーキテクチャ」とみなすことができる。言い換えれば、ウェブサービスは複数の人々が何らかの行動や相互行為を取ることができる「場」のようなものと捉えることができる。

では、「アーキテクチャ」という概念の内容について本章で検討する。ローレンス・レッシングによれば、規範(慣習)・法律・市場に並ぶ、人の行動や社会秩序を規制するための方法といい「環境管理型権力」とも概念化されている。具体例でいうと、飲酒運転を規制するには道路交通法上の罰金や減点のような処分が決められていますが、これは「法律」による規制、それだけでは飲酒運転をする者が絶えないため、自動車にアルコールの検知機能を設置し、飲酒している場合にはエンジンがかからないようにするという、飲酒することが、そのまま運転することができなくなることに直結させてしまうという規制が「アーキテクチャ」に当たる。そもそも規範や法律という規制方法が有効に働くためには、規制される側が、その価値観やルールを事前に内面化するプロセスが必要になるが、「アーキテクチャ」は、規制される側がどんな考えや価値観の持ち主であろうと、技術的に、あるいは物理的に、その行為の可能性を封じてしまうという規制である。さらに、レッシングはアーキテクチャの特徴として、規制されている側がその規制を存在自体に気づかず、密かにコントロールされてしまう、ということを付け加えている。これを要約すると、次のようになる。

@      任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。

A      その規制の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能。

という2点にまとめられる。さらに付け加えておけば、1点目の特徴は、時間が経過するにつれて、2点目の特徴を帯びるようになる。先ほどの例ならば、アルコール検出装置は、ある日突然、いつも通っていた道に壁ができるようなもので、それまで存在しなかった規制が登場するわけで、規制される側はそれをうっとうしいと感じる。しかし、その規制が登場してからしばらくの年月が経つと、それは「物理的」な制約から「自然」な制約に変質する。つまり、規制がはじめから存在しているという世代から見れば、それは自然なことになっているわけだ。

 

第二章 グーグルはいかにウェブ上に生態系を築いたか?

WWW」(World Wide Web=以下ウェブと表記)の特徴はハイパーリンクやハイパーテキスト、つまり複数の文書間をジャンプできるようにする、という仕組みにある。これは1980年代後半CERM(欧州原子核研究所)の研究員が、このようなハイパーテキストの発想をインターネットという通信システムと組み合わせて開発したものだ。彼は、世界中の大学や研究所で同じ研究をする研究者の論文などの文書情報をインターネットを通じて効率的に公開・共有するシステムを考えた。かりに、研究者相互で電子メールを使って文書ファイルのやり取りをした場合には、新しい文書を作成するたびにファイルのやり取りをし、ファイルを更新しなければならない、さらに複数のバージョンがバラバラに拡散してしまうため、最新のバージョンが行き渡っているか分からなくなることもある。それならば、どこか1か所のサーバーに文書ファイルを集約すればいいということになるが、今度は誰が管理するのかという問題が生ずる。そこで、彼は各研究者が自分の管理しているサーバーに自分の文書を設置しておいて、他の研究者は必要な時にその文書を読みに行くという仕組みを構築した。そして、どこのサーバーにどのようなファイルがあるのかというデータの所在を表現するための仕組みとして、「ハイパーリンク」や「URL」が実装された。つまり、世界中に散らばったファイルから、必要な情報を指定し、すぐにジャンプして取り出せる仕組みとして、ウェブ及びハイパーリンクは構想された。

その後、インターネットの普及に伴い、利用者やサーバーが増えてくる。これに伴い、ハイパーリンクという情報共有の方法は、その文書の数が増えれば増えていくほど、その処理できる情報の量に限界が生じてくる。認知限界と呼ばれる問題で、文書ファイルの数がたくさんあり過ぎると、どこに何かあるかを探すのに、人の認識能力では限界が生じることになる。そこで検索エンジンが登場する。当初の検索エンジンは、人力で収集されたリストだったので情報量が足りなかったり、検索技術が未熟だったりと、性能がいいとは言えなかった。

これがグーグルの登場により、劇的に変化する。グーグルは検索結果の精度を飛躍的に高めたが、それは「ページランク」という仕組みに起因する。ページランクとは、@まずグーグルは、ウェブ上に膨大に存在するウェブサイトの「リンク構造」を「ポット」と呼ばれる自動巡回プログラムによってつぶさに追跡し、A「数多くのページからリンクされているページは重要と看做す」「その中でも重要なウェブページからリンクされているページは、より重要なものとみなす」といったアルゴリズムに従って、膨大なウェブページのランク付けを行い、B基本的にページランクの高いものから、グーグルの検索結果の上位に表示していくと言うものだ。とりわけ重要なのは、Aの重要性をランク付けする方法だ。それが画期的だったのは、ウェブページに書かれた「内容」によって重要性を判定するのではなく、ハイパーリンクと言う、文章の内容とは直接関係のない部分に注目した点にある。グーグル自身は、この仕組みを投票にたとえている。

このような仕組みはウェブのリンク構造を解析することで優れた検索結果を導くというものだが、言い換えれば、グーグルはユーザーたちのリンクを貼るという行動を、その検索結果の精度を高めるための協力ないしは貢献として、利用していることになる。グーグルの検索結果が優れているのは、あくまで人がウェブ上から情報を探し出し、それをリンクによって指差すという行動結果(協力結果)に基づいている。

このようなグーグルによる検索の仕組みは、間接的に、かつ無意識に人を貢献、協力させるという点で「アーキテクチャ」の特性を備えたものと言える。

次に「ブログ」について見ていこう。アーキテクチャの進化という点から見ると、ブログの特徴は、グーグルに検索されやすいウェブサイトを自動的につくる仕組みという一点に集約することができる。これはブログの「パーマリンク」と呼ばれる仕組みで、一言でいうと、ブログの記事単位で発行されているURLのことである。このパーマリンクによって、よそのブログで面白い記事を見つけたら、自分のブログ上で、その記事へのリンクを貼って紹介するということができるようになった。今では当たり前となったこの機能の意味については、かつてパーマリンクが存在しなかった頃は、個人がウェブサイトを運営・更新する際には、自分の手でHTMLを編集し、ウェブサーバーにアップロードすると言う作業が必要だった。しかし、手動でウェブサイトを更新するとなると、いちいち短い文章を書くたびに、別々のURLを持たせたファイルに分割するのは面倒で、ある程度まとまった文章ごとにファイルを切り分け、URLを割り振ると言った更新スタイルが一般的だった。しかし、このようなスタイルはグーグルのような検索エンジンとの相性が悪い。1ページにたくさんのテキストが入っていると検索してキーワードの情報が、そのページのどこにあるかが探しにくい。これに対し、パーマリンクの仕組みがあれば、比較的短い文章の中から、その情報がどこに書いてあるかが分かり易い。

つまり、パーマリンクと言う仕組みは、ウェブページの情報を細かい単位に切り分け、情報のありかを「指差す」というリンクの効能(価値)を高めることに寄与するものと言える。

ブログがグーグルに検索されやすい、もう一つの特徴はSEO対策が自動的に施されていた点にある。ブログを使うことで、いちいちユーザーが自分の手でHTMLを書かなくても良いだけでなく、グーグルのような検索エンジンが解釈しやすいHTMLに自動的に変換される。例えば検索エンジンのポットは、重要に内容はHTMLのタイトルや見出しに相当する部分に書かれているものを対象にウェブページを解析していく。そのためHTMLを正しくマークアップしていくことが、検索結果を高めていく上では重要だが、ブログはその作業を自動でやってくれるのだ。実は、このHTMLのマークアップを手動でやっていた時は正しく行われていなかった。それをブログは自動的に正しくHTMLをマークアップしてしまう。つまり、ブログは正しいHTMLを書くという集合行動を、規範ではなくアーキテクチャを通じて実現したわけだ。

このような特徴(アーキテクチャの特性)のゆえに、ブログがソーシャルウェアとして大きく成長した。個々のブロガーはただのお喋りを綴っていただけかもしれないし、理想を抱いて質の高い記事を書いていたかもしれない。いずれにせよ、そのような文章は、グーグルに検索されやすいので。検索されれば目につきやすくなる。そこでリンクが貼られ、このリンクをグーグルはページランクの仕組みを通じて解析し、さらに検索されやすくなる、というようにグーグルとブログは相互に影響を与え合うフィードバックループの関係を取り結んでいる。そして、さらにこのような相互作用により、結果的に優れたものが生き残っていく淘汰のメカニズムを作動させていく、玉石混交といっても玉と石とは選り分けられていく。

このようなウェブ上のソーシャルウェアの進化・成長メカニズムは、近年では「生態系」比喩を使って説明されている。生態系の比喩は、主に次の三つの現象を指している。

@     人や情報の流れについて

ウエブ上ではリンクを通じて情報が発見され、共有され、そしてより多くのリンクを獲得した情報がさらに人の目に触れられていくという一見自然淘汰のメカニズムが働いている。また、ブロガーと呼ばれる集団の中には、よく名前が知られていて読者の多い「アルファブロガー」と呼ばれるユーザーが存在する。そこに無名のユーザーとの間にある種の弱肉強食的な階層構造があることが知られている。例えば、アクセスの多くない記事が、アルファブロガーにリンク付で紹介された途端にアクセス数が瞬間的に急増することがある。これはアルファブロガーが新鮮なネタを求めてウェブ上を巡回し、下位のユーザーからネタ=情報を捕食しようとしているわけです。

A     WEB2.0的と呼ばれるサービス間の関係について

WEB2.0系と呼ばれるサービスは、それぞれ別個のURLとサーバーの上で動いていたとしても、互いに緩やかな協調関係をつくっていることがしばしば強調される。ブログであればトラックバックやRSSにpingがこれに相当する。こうしたサービス間の緩やかな関係は、ある生態系の中で、様々な生命体や種族がそれぞれ完全に孤立することなく、相互に影響し合い、その循環的な関係のネットワークを通じて、共棲的な生態環境を生み出している様子にたとえられている。

B     お金の流れについて

例えば、グーグルアドセンスという広告システムがある。これはグーグル外部のウェブページに、そのページの内容と連動した広告(コンテンツ連動広告)を自動的に掲載すると言う仕組みだ。かりに、あるブログに、アドセンスを表示するためのコードを埋め込んでおくと、そのページの内容が瞬時に解析され、その内容と関連性の深いと判断された広告が自動的に表示される。これはグーグルと外部パートナーとの間にwin-winの関係が築かれたことを意味し、さらに、新興ベンチャー企業はこうしたアドセンスの仕組みでとりあえず事業を持続させておき、最終的にはグーグルなどの大企業に自社のサービスが買収されることを目指すようになる。こうした流れに乗ってしまえば、ITベンチャーたちは自分たちで独自にビジネスモデルを編み出す必要はなく、基本的にはグーグルにビジネスの大部分を任せることで、自分たちはサービスの技術的開発や運営に専念できるようになる。これは、グーグルをいわば苗床にして、新たなソーシャルウェアが次々にうまれる生態系にも見える。

このような生態系の比喩のポイントは、抽象的に言い表わすならば、ある環境において、膨大な数のエージェントやプレイヤーが行動し、相互に影響し合うことで、全体的な秩序がダイナミックに生み出されており、しかもそこから新たに多様な存在が次々と出現するというところにある。それらは基本的に、部分が相互作用することで全体が構成されているというシステム論的構図をもっていて、部分を構成する各ネットユーザーたちは、全体を認識するわけでなく、いわば勝手気ままに行動することで、いつのまにか全体的な秩序が実現されている。

更に筆者は生態系や進化論の枠組みをウェブに当てはめることで。また別の議論の道筋も切り拓くことができると言う。「進化」はよく似た語感の「進歩」とは異なる。進歩は、ある価値観がプリセットされていて、その良いことの基準から見て、その質を向上させていくことで、それによる「進歩史観」は生命の進化は、常により優れた種が適応し、その種を保存させるためのプロセスであると言う考え方、この応用としてウェブは常に情報発見。伝達効率の優れたアーキテクチャに向けて進歩するという考え方、これらによれば、生命もウェブも何らかの目的に向けてシステム自体が自ら変化しているように見える。これに対して、「進化」は、プリセットされているような価値観が入り込まないもので、「より良きものへの変化」ではなく「より複雑なものへの変化」で、複雑さや多様性というものは、ほとんど偶然によって積み上げられた結果と看做すところにある。その過程では神のような超越的な意図は存在しない。これをどのように説明かと言うと、まず、遺伝子のレベルで、何らかの種が「発生」する(突然変異)。次に、その時々の「環境」との適応度によって、種の淘汰と「存続」が起きる。このように、「発生」のメカニズム(発生論的説明)と「存続」のメカニズム(機能論的説明)を分離して考えることで、事後的には目的合理的に見えてしまうシステムであっても、その発生過程を目的合理的に説明してしまう罠を回避することができる。つまり、偶然の産物から、目的合理的なシステムが自然発生すると言う現象を、「神による設計」という神秘論に回収することなく説明することができる。そこで、これまで見てきたウェブ上のイノベーションは、「偶然」「意図せざる結果として」生み出され、結果的にそのときどきの情報環境の状況に適応する形で生き残ってきたとみなすことができる。

 

第三章 どのようにグーグルなきウェブは進化するか?

ここでは「2ちゃんねる」について見ていく。これを内容如何とは別個に生態系としてみると、グーグルのような検索エンジンとは無関係に成長し、運営されてきたという特徴が見える。これは前章の議論、大量の人々が社会的と言える規模で集まるソーシャルウェアは、たくさんのユーザーが集まると、有益な情報とそうでないノイズとの混在率が大きくなり、自分が目的としている情報に辿り着きにくくなると言う状態になる。これはある種のトレードオフのようなもので、ソーシャルウェアが不可避に孕む問題と言える。これに対して、グーグルは、ウェブのハイパーリンクというアーキテクチャの特性をうまく活かすことで、優れているといわれる情報を的確に検索するシステムを構築した。

「2ちゃんねる」は、「dat落ち」といって、1つのスレッドに1000以上の書き込みが入ると、自動的に書き込めなくなり、過去ログを参照することができなくなる。つまり、ハイパーリンクに相当するものが時限つきでしか存在していない。さらに、コミュニケーションが盛り上がり書き込みが増えれば、それだけ既定のスレッド制限を早く受け、そのスレッドがウェブ上に存在している寿命も短くなる。これでは、検索エンジンが巡回して来る前に。そのスレッドは事実上消えてしまい、検索の対象になり得ない。

では、ユーザーたちは、自分の求める情報やコミュニケーションをどのように探し求めるのだろうか。「スレッドフロー式」という仕組みがある。「2ちゃんねる」のトップページには特定の分野(話題)ごとにスレットが分類されていて、ここを訪れるユーザーは関心のある分野のスレッド一覧を探す。スレッドフロー式はその表示されるスレッドの順序に特徴がある。そこでは、基本的に何らかの書き込みがあったスレッドから順に並べられている。もともとスレッドの表示順序は固定しておらず、絶えず書き込みの状態で流動している。このようなアーキテクチャにより、活発なスレッドは一覧表示の上位にあり、ユーザーの目に留まりやすくなる。このように「2ちゃんねる」のコミュニケーション・メカニズムの特性はフローという点にある。「dat落ち」もそのひとつ。スレッドには書き込み数の制限という規制が設けられているため、ある特定のトピックに対するスレッドが寿命を迎えた場合、そのトピックについての議論を続けたいと願うのであれば、新たに誰かが同一のトピックを立ち上げることになる。この時、暗黙の慣習で続きのスレッドには連番が付されます。それで盛り上がっているスレッドは一目でわかるようになっていて、このように、書き込み制限というスレッドの寿命に関する情報は、スレッドの熱狂度や勢いを計測するためのバロメーターとしても使われます。対して盛り上がらないスレッドは、ここでも差別化され徐々に淘汰されていく。

さらに、「2ちゃんねる」の情報流通メカニズムで重要な役割を果たすのは、「コピペ」です。実は、「2ちゃんねる」上の書き込みというのは、ほとんどがどこかで見たことのあるようなものばかりで、ユーザーたちが「2ちゃんねる」上の別の場所で見かけたネタ的に面白いと思った文章やグっときた文章を、そのまま「コピペ」(転載)したか、あるいは文章の一部だけを改変したものであることが多い。それはまた、しばしばお約束的な流れに従ってコピペされることが多いのも特徴と言える。こうして、「2ちゃんねる」上で流通する情報の多くは、莫大に存在するユーザーたちのコピペによって伝達・伝播されていく。こうした総コピペ主義の背景には、匿名掲示板という性質も大きく関係しているものと考えられる。なぜなら「2ちゃんねる」では、そもそも誰が書き込んだのかを認識できないから、そこでは著作者という概念そのものが機能し得ない。それが逆に、自由な著作物のコピペによる伝播と流通を促しているとも言える。

このように「2ちゃんねる」の情報流通の特性は、情報が残らず常に流動し消えていく「フロー」と、一般的には許容されないような大胆な転載の連鎖によって情報が伝播していく「コピペ」の2点に認められる。こうした「2ちゃんねる」の生態系の特徴は、決してアーキテクチャそれ自体が機能しているとは言い難い、つまりシステムの「利便性」や「自動性」が大きく働いているのではなく、ユーザーの莫大な手動による協力によって成り立っていることだ。アーキテクチャ自体が生態系を運営するよりも、ユーザーたちが進んでソフトウェアのように作動することで、そこでの情報流通メカニズムが全体的に機能している。このような特性について、次の2点を論点として考察してみる。ひとつは、なぜ2ちゃんねるはわざわざフローの度合いが高くなるように設計されているのか、ふたつに、なぜ2ちゃんねるでは、あえて協力するユーザーが次々と現われてくるのか。

まず、一つ目の点について、2ちゃんねるの管理人である西村博之氏の語ったところによると、コミュニティ運営の大前提になるのが、コミュニティがどれだけ盛り上がっていったとしても、数年も経過すれば衰退していくという事実で、その理由は、一度形成されたコミュニティは、その内部における結束を高めれば高めるほど、新たに外部からやって来る新参者からみれば、その結果が逆に障害となってしまうからである。噛み砕いていえば、コミュニティが成熟すると常連が幅を利かすようになり、初心者が発言しづらくなるということに端的に現われる。この問題に対して。2ちゃんねるはシステム的な対策を打っている。例えば匿名性である。そもそも名前と言う手がかりがウェブ上に残らなければ、常連と呼ばれる人々は知覚され得ない。さらに「dat落ち」のようなフロー的性質は常連たちを排除するのに役立つ。しばしば、常連と呼ばれる人々は初歩的な質問をするような新参者に対して、過去ログをよめというような高圧的なもの言いをするが、過去ログが消失してしまうようなアーキテクチャになっていると、このような高圧的発言を行う権利そのものを予め抹消しているのだ。このような常連を排除するという設計思想は、他の一般的なネットコミュニティの運営とは正反対の方向にある。ちょうどこれは、伝統的な村落共同体に対して、近代的な都市空間は顔の見えない、匿名的な人々が集まる空間であり、だからこそ多様な人々を抱えることができる。かつ絶えず成員の出入りが生じている。これは「2ちゃんねる」のような雑多で猥雑なウェブ上の巨大空間を形容するにふさわしい。

ただし、このような「2ちゃんねる」のアーキテクチャの特性は、初めから常連を排除する目的のために設計されたと言うよりも、dat落ちはサーバーの容量という物理的な制約のため設定され、それが結果的には常連を排除すると言う効果を生んだと言うような、進化論的なものの見方に一致する。

では、2点めの検討に入る。まず、「2ちゃんねる」のユーザーは「2ちゃんねらー」として理解される必要がある。これは、「2ちゃんねる」のユーザーは「2ちゃんねらー」としてウェブ上で振る舞うが、これは「2ちゃんねらー」という一つの壮大なキャラになりきっていることだ。だからこそ、互いに誰だかわからないような匿名的存在であっても、互いに協力することができる。どういうことかというと、「2ちゃんねる」のようなデジタル・コミュニケーションでは、送信者と受信者の間で何らかの内容(メッセージ)がやり取りされると言うところから、やり取りが成立している、つまり、繋がっているという事実の次元に主目的が移っている。そこでは、コミュニケーションしている事実を確認すること自体が自己目的化していると言える。しかし、「2ちゃんねる」は単に自己目的的なおしゃべりを続けるにはあまりに巨大すぎる。そこでの空転しがちなコミュニケーションを可能な限り持続させ、繋がりの強度を強めていくためには、定期的にネタが必要になる。「2ちゃんねらー」にとって内容はさしたる重要性を持たない。これはより集合的なレベルにおいて同様なことが言える。野次馬感覚やお祭り感覚のような盛り上がりに参加しているという事実が重要なのだ。そこで、そのような空間で「2ちゃんねらー」が協力し合うのは、彼らが互いを内輪として認識しているということになる。しかも「2ちゃんねる」の内輪は、いわゆる内輪プロパーが持つイメージを遥かに超えて巨大だ。その集合意識ないしは帰属意識が、互いに顔も見えないウェブ上での協働を支える信頼財(社会関係資本)として機能していると考えられる。例えば、彼らは同じ「2ちゃんねらー」でとみなしうる相手に対しては。そこで生み出されたAAやキャラクターという創作物を自由に再利用することを許容する。つまり、自分たちにとっての共有物であるとみなしたうえで、コピペの自由を認めるわけだ。

このように、「2ちゃんねる」という空間は、ある種不思議な二面性を抱えている。一方で互いの顔も見えない匿名的な都市空間でもあり、また一方では、「2ちゃんねらー」という名の一つのキャラたちが集まった巨大な内輪空間でもある。この二つの性質は相反するようだが、ここでは両立している。ただ内輪を形成するだけでは新参者を排除する方向に向かうが、匿名であるが故に新参者も気楽に参加できるけれど、そこで共有されているリテラシーやカルチャーを体得しなければ盛り上がり的な集合的協働現象が生まれない。

さて、ここで前章で扱ったブログとの比較を試みる。ブログは基本的に、自分が誰なのかをウェブ上で明らかにしたうえで情報を発信していくというツールと言える。既存の組織や権威のゲタを履くことなく、自分の書く文章一つで数十万といった読者に向けて自分の考えを表明できる。こうした『個』を強化するブログの普及的浸透は、マスメディアだけが表現することができた時代に終わりを告げ「総表現社会」をもたらすという論者もいる。これに対して「2ちゃんねる」は匿名性を基本としたアーキテクチャとして設計されており、「個として発言する」というアーキテクチャ的な基盤を有していない。これを対照的に扱うときに、個人主義と集団主義という欧米の個人主義と日本の集団主義になぞらえて議論が可能だと議論が展開される。そこで「2ちゃんねる」にも日本社会論にあるような否定、肯定の両側面でかたられると著者は指摘する。

 

第四章 なぜ日本と米国のSNSは違うのか?

本章では、「ミクシィ」と「フェイスブック」を扱う。この両者は同じSNSと呼ばれても、そのアーキテクチャに大きな違いがあり、その比較を行っていく。

「ミクシィ」の特徴は、ユーザーになるためには、既にミクシィを利用しているユーザーから招待してもらう必要があるということだ。また、「ミクシィ」内のあらゆるページは、ミクシィユーザーでなければ見ることはできない、いわば、「ミクシィ」は前章までのウェブからは隔絶された空間になっている。これを「招待制型アーキテクチャ」と呼ぼう。このような閉鎖的な「ミクシィ」が日本でとりわけ受容されたのは、一般的に、「ミクシィ」の外側のウェブ空間に比べて、安心で安全なコミュニティだからと言われている。これは「ミクシィ」のサービス開始当時の状況も反映している。当時のネットの存在はダークでアングラ的なイメージが強かった。「ミクシィ」というSNSは、雑多で猥雑なウェブ空間から「隔絶」したアーキテクチャとして人々の前に登場した。言ってみれば。それは「グーグルからの逃走」を実現するアーキテクチャだったと言える。

「ミクシィ」のアーキテクチャは、招待されざる者のアクセスを遮断し、招待された者だけをその内側に引き入れる。そして、その内側の住民たちの行動履歴を逐一追跡し、住民間の覗き見の自由を奪い、足跡という強制的関心の儀礼を自動的に発生されるものだった。これは、米国の富裕層向けの高級セキュリティ住宅街として知られる「ゲーテッド・コミュニティ」の姿に擬えることができる。「ミクシィ」は予期せぬ他者との接触や討議の機会に開かれたウェブという公共圏から退却するためのコクーン(繭)として人々に受容された。しかも、その安全な空間の内側において、人々のコミュニケーションのほとんどが、友人同士の他愛もない日記と、そこにつくコメントと足跡を日々確認し合うというものだった。こうした「ミクシィ」上のコミュニケーションのあり方は「繋がりの社会性」の性質を見事に体現している。「繋がりの社会性」とは、要するに、特に内容のない、ただ互いに繋がっていることだけを確認するために行われる自己目的型のコミュニケーションを意味する。

これは皮肉なことに、匿名性が極めて薄いはずの「ミクシィ」でさえ、結局は匿名掲示板の「2ちゃんねる」と同様の性質を帯びてしまったことを意味している。ここで問うべきは、なぜ人々は無意識のレベルで「ミクシィ」のようなアーキテクチャを求めているのか、そのメカニズムを明らかにすることにある。「ミクシィ」を利用する若者たちの中には、暇さえあれば、ケータイで「マイミク」の日記更新一覧を確認し、「足跡」をチェックすると言うミクシィ中毒と呼ばれるユーザーが少なくない。果たして、何がそこまで人々を「ミクシィ」に耽溺させるか。例えば、ケータイで30分でも間をあけないように絶え間なく瞬時にメールを送ろうとする若者たちの振る舞いは、GPSのような、デジタル・コミュニケーションを通じて、人間関係という曖昧なものの距離感を測定し、今自分がどのようなポジションにいるかを確認するものだという解釈がある。「ミクシィ」も、これと同様の役割を果たしている。「ミクシィ」のアーキテクチャの特徴は、ただミクシィにログインするだけ、ただ他人の日記を読むだけというサイト上の行動が、自己や他社に関する意味を持ちやすいという点にある。「足跡」はまさにそのひとつで、他にも、いつログインしたのかといった履歴情報が自動的に記録され、他人にもチェックできるようになっている。つまり、「ミクシィ」は、様々な行動履歴を自動的に記録し、観察可能なものにすることで、人間関係の距離感という曖昧なものを認識し、評価し、解釈し、推察するためのリソース(資源)を提供してくれるアーキテクチャと言える。このように考えていくと、「ミクシィ」は目的もなく用いられるコミュニケーションではなくて、コミュニケーションを行うことを通じて、人間関係の微細な距離感を計測するということ。これこそがミクシィを利用する人々の隠れた(無意識の)利用目的の一つだと言える。

一方、「ミクシィ」の利用者には、多くがプロフィールを実名で登録している。この利用実態を見てると、実名で検索して来る昔の友達がいるからといった声が聞こえると言う。つまり、「ミクシィ」に実名を登録するユーザーたちは、プライベートな文脈で参照されるべき実名や日記等の情報を、完全に親密な範囲でセキュアに流通させるのではなく、ミクシィ全体と言うそこそこにパブリックな文脈にも置いておくことで、もしかしたら今後ミクシィ上で友だちになるかもしれないユーザーが現れることを期待している、ということが分かる。このような実名登録ということが、ミクシィにおいては繋がりの社会性を効率的に高めるものとして利用されていることになる。

このような「ミクシィ」に対して、アメリカでは「フェイスブック」が台頭し、グーグルとの新たなプラットフォーム間競争が幕を開けたと言われている。フェイスブックが注目を集めたのは、2007年に同サービスで利用できる「ウィジェット」の開発環境「フェイスブック・プラットフォーム」が公開されたことがきっかけだった。これはしばしば「ソーシャルグラフ」(人と人との関係性を表わすデータ)のオープン化、つまりフェイスブック内の友人関係データが外部からも参照できるようになったと費用減される。このフェイスブックのオープン化戦略により、新たなウィジェットがサードパーティから次々と提供された。その中には、ごく短期間のうちに数十万、末百万ユーザーの単位で普及したものが少なくない。その普及速度の大きな要因こそが「ソーシャルグラフ」にあるとされている。ユーザー間のコミュニケーションを通じて、ウィジェットが感染的に普及して行ったと言える。アメリカでは、フェイスブックと言う新興プラットフォームが登場したことで、新旧プラットフォーム間競争の様相を呈し始めたと言える。この競争をきっかけに。今後はあらゆるウェブ上の情報が「ソーシャルグラフ」によって整理・秩序つけられるていくことにもなる、とも言われている。例えば、一人のユーザーがあちこちのブログ、SNS、ライフログ的なサービスで採った行動の履歴が、ソーシャルグラフ・プラットフォームを通じて、次々と連携していくという未来が考えられている。

このように、日本とアメリカでは閉鎖化しとオープン化と方向性が全く違ったものになってしまっている。もともとSNSは、他社多様な人間関係を、ネットワーク&データベース上で整理・管理するのに便利なツールとして生まれたにもかかわらず、ミクシィではその利用期間のこうはんになればなるほど、極力ミクシィ上で人間関係の複雑性を増大しないように努めるようになってしまっている。日本のソーシャルウェアは、ブログにせよ、SNSにせよ、基本的にその外見レベルでは、米国でも日本でも同じアーキテクチャが使われているのに、それを利用するユーザーの側の欲望やコミュニケーション作法が異なるために、異なるイノベーションの経路が拓かれてきた。

 

第五章 ウェブの「外側」はいかに設計されて来たか?

この章では、「P2P」について、特にそのなかでも「P2Pファイル共有ソフトウェア」と呼ばれるソーシャルウェアを中心に扱う。その関心の中心は、P2Pファイル共有ソフトウェアというソーシャルウェアが、どのようして進化していったかにある。

1999年「ナップスター」の登場により、それまでテキスト文書中心のやり取りだったウェブ上で画像や音声のような大きな容量のファイルのやり取りを直接やり取りできることが可能になった。これにより、当時普及し始めたmp3ファイルの交換が容易にできるようになった。

これ以前はサーバークライアントモデルという通信方式(アーキテクチャ)を採用しているために、ファイルの転送効率が低かった。このサーバークライアントモデルというのは、ネットワークのサーバーに情報を集約しておき、それをクライアントが必要に応じてダウンロードする、という役割分担のことを指している。したがって、ある一つのファイルは一つのサーバーからダウンロードされることになる。そのため、人気の高いファイルが置かれたサーバーには、複数のクライアントからダウンロード要求が集中し、サーバーの処理能力や通信帯域の限界を超えるという事態が生じる。これに応じて、サーバーの性能を予め高くしておくこともできるが、P2Pでやり取りされるようなファイルは、えてして不正コピーされたものが多く、そこから健全な収益を得ることは難しく、サーバーの能力アップは望めない。それでも、mp3のようなファイルをやり取りしたいというユーザーの欲望は根強く存在している。こうした背景から、サーバークライアントモデルに拠らない、より高い通信の仕組みが求められていた。

もう一つの要因として、P2Pファイル共有がある種の犯罪性を持った行為であることから、ユーザーの側に、こっそりダウンロードしたい、というニーズがあったことを上げることができる。ユーザー同士が勝手にmp3ファイルを交換することは、著作権的に問題がある。だから、著作権者はこのようなダウンロード・サイトを見つけた場合にウェブサイトの管理者に警告することができます。サーバークライアントモデルの場合、ウェブサーバーが存在するためサーバーの管理者が特定可能であるため、最終的にはその人に対して警告を出すことができる。サーバーを提供するということは、責任を問われやすいことをなる。これに対して。「ナップスター」をはじめとするP2Pは、サーバークライアントモデルを採用したものとは全く別のアーキテクチャで、情報を集約管理する役割を担ったサーバーに相当する存在は介在しない。利用者同士は、ウェブサーバーを仲介することなく、互いに直接ファイルをやり取りすることができる。しかし、「ナップスター」はファイルのやり取りはP2Pの方式であっても、だれがどのようなファイルを持っているかという情報を検索するために検索システムをサーバークライアントモデルで実現していた。そのため「ナップスター」はハイブリッドP2Pと呼ばれた。

その後、日本では「ウィニー」というP2Pソフトが登場する。この「ウィニー」は英語圏の他のソフトとは異なる特徴を持っており、その点がソーシャルウェアの進化と言う観点から注目に値すると著者は言う。そもそも、この「ウィニー」が普及できたのはなぜか。話を素こと戻すと、「ナップスター」は多くの人には魅力的だったが、犯罪である。しかし、P2Pで不正コピーされたコンテンツをダウンロードすると言う行為は、コンビニで万引きすることに比べれば、ずっと罪悪感が少なくて済む。その行為を、直接誰かから見られるという感触は薄く、P2Pでファイルを交換しても、ファイルのコピーすることになるので元のファイルが失われない、つまり窃盗していると言う感覚はさらに薄くなる。このような心理的背景から多くの人を魅了することができたと言うわけだ。しかし、日本の著作権法は1997年に著作権者に無断で著作物をネットワークでダウンロードできる状態にする行為が刑事上の犯罪に当たるとして規定していた。そのため、日本のユーザーは、逮捕されたくなければ、アップロードはしないで、ダウンロードだけに徹するしかない。

このようなダウンロードに徹するという立場を。皆が選択すると、ファイルのやり取りは一切生じなくなる。P2Pでファイルをやり取りするためには、必ず誰かがファイルをアップロードし、誰かがそれをダウンロードするという、1つのネットワークで結ばれる必要がある。ここで、日本のユーザーはジレンマに陥っていたといえる。

「ウィニー」はこの問題を、キャッシュと呼ばれる仕組みで解決した。そして、この解決は単なる技術イノベーションに止まらず、これまでのファイル共有ソフトウェアの文化を大きく変えるもので、日本では「ウィニー」以前はファイル交換型、以後はファイル共有型と区別して呼ばれるほどだ。従来の交換型においては、参加者たちは<軽蔑/尊敬>と言う文化的コードに基づき分化され、ダウンロードに徹する参加者は軽蔑の対象になることで交換の交渉の場から排除され、アップローダーたちは「神」と尊敬されることで、逮捕されるかもしれないリスクテイキングに向けて動機付けられていた。これはまさに、人々に内面化を迫ると言う意味で「規範」による秩序管理の一例といえる。しかし、このシステムには明白な欠陥があった。それは、新規ユーザーの参入を妨げてしまうことだった。つまり、新規参入者は、最初は手持ちファイルがないためダウンロードのみの参加とならざるを得ないからだ。

「ウィニー」の場合は、ユーザーは欲しいファイル名を検索し、ファイルが見つかったら、あとはそれをクリックして、「ウィニー」を立ち上げたままにしていると、いつの間にかダウンロードされている。このように事が可能になったのは、「キャッシュ」と呼ばれる仕組みを利用しているからだ。あるウィニーのユーザーがファイルをダウンロードした場合、そのファイルは、ウィニーネットワークにおける「キャッシュ」として公開される。同じファイルを検索している他のクライアントは、ネットワーク上からこの「キャッシュ」を保有しているクライアントを自動的に探し出し、発見次第、ダウンロードを監視する。この一連のプロセスをウィニーは自動で行う。ウィニーではこうしてファイルが流通すればするほど方々のウィニーユーザーのハードディスクにファイルが蓄積されていく。人気の高いファイルであればあるほど、ウィニーネットワーク上のあちこちにキャッシュされていることになる。しかも、ウィニーはほとんど無差別にキャッシュを拡散させる仕組みを備えていたため、そのユーザーがファイルを検索・ダウンロードしたわけではなくても、人気の高いファイルは自動的にユーザーのハードディスクにキャッシュされると言う仕組みになっており、これにより、ますますファイルのダウンロードが効率化された。このプロセスはすべて自動的に行われる。つまり、ウィニーとを利用するということは、他のウィニーユーザーとの間で、ファイルの分散共有ストレージを構築することに等しい。この特徴をもってウィニーはファイル共有型と呼ばれる。

こうしたウィニーのキャッシュという仕組みはアーキテクチャの特徴を見事に示している。ウィニーにユーザーは、もはやユーザー間の「規範」に気を揉むことなく、意識の上ではダウンロード徹することでファイルを得ることができ、その一方で「キャッシュ」という分散ストレージを構築し、無意識のうちに利用者同士を協調させるよう仕向けている。さらに、ウィニーの特徴はこのようなファイル転送の効率性と匿名性を両立させる点にあった。あちこちにファイルがキャッシュの形で散らばることで、転送効率が高まるだけでなく、転送経路が複数かつ多段的に拡散されることで、ファイルがどこからやって来たのかという来歴を辿ることは事実上不可能になる。

このような「ウィニー」の実現した無意識のうちに強調させるアーキテクチャをどのように捉えていくべきかについて、「ウィニー」が社会的に断罪されたこともあり、批判も多い。例えば、「キャッシュ」という仕組みを、良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つものと断罪する。つまり、ウィニーを利用しているだけでは、キャッシュという仕組みには気付かない。しかし、実際には、キャッシュという仕組みを媒介して、第三者へのアップロードを行っており、「送信可能化権」の侵害という違法行為に加担している。ウィニーはユーザーに罪を犯していると意識させずに、潜在的・無意識のうちに犯罪行為に加担させてしまっている。このようにユーザーを無意識のうちに犯罪行為に加担させるという点においてウィニーの開発者は非倫理的であるというもの。

しかし、裏を返せば、「ウィニー」が優れていたのは、アーキテクチャの特性を活かしたうえで、ユーザーをコミットメントなき貢献へと誘導する点にあったと言える。

 

第六章 アーキテクチャはいかに時間を操作するか?

ここでは、「時間」という要素をキーに分析を進める。ネットコミュニティサービスには複数のユーザーがいて、文字を発信して読まれたり、動画を見てコメントを交わしたり、仮想世界を徘徊したりする。そのとき、複数のユーザーたちの間で、どのような「時間」が共有されているのかに着目していく。

メディア論やコミュニケーション論の領域では「同期」と「非同期」という区別が一般的に用いられてきた。同期的なメディアというのは、そのメディアを通じてコミュニケーションを行っている人々が同じ時間=現在を共有していることを意味する。例えば、電話、それかにテレビやラジオ。これに対し、コミュニケーションの発信と受信の間に「時間差」が存在している場合は、非同期的ということになる。手紙や雑誌などの紙メディアが代表的といえる。ウェブ上のソーシャルウェアの多くは「非同期」の側に分類される。ブログも2ちゃんねるもSNSも、書き手が情報を投稿するタイミング、読み手がその情報を閲覧するタイミングバラバラであり、情報の発信側と受信側は非同期的な関係にある。元来、インターネットの通信の仕組みは、非同期的なズレが必然的に生ずるようになっていて、紙メディアのように非同期的なメディアを再現することに向いていた。

このような前提のもとに、まず「ツィッター」を見る。このサービスは、現在自分が何をしているかという状態に関する情報を、一回当たり半角140文字以内のテキストで投稿するというもの。すると。ツィッター上では、その投稿されたメッセージはフレンド登録しているユーザーに、ほとんどリアルタイムで通知され、各ユーザーに読まれていく。SNSに比べて、現在のステータスを共有するというコンセプトで設計されたツィッターはIMや携帯電話などとの連携機能によって、リアルタイムでメッセージを読み書きするための仕組みや周辺ツールが揃っている。そして、ツィッター上では、時として、そのメッセージが連鎖する。ツィッターの特徴は、@テキストが短く、AIMや携帯電話と連動し、読み書きの即時性・反射性を促し、Bコミュニケーションが突発的・局所的に連鎖する。という三点にまとめられる。ここでのポイントは、特に三点目の突発的で局所的な連鎖にある。基本的にツィッターは各ユーザーがバラバラに独り言をつぶやくツールで、しばしば一時的に/局所的に、あたかも同期的であるかのようなコミュニケーションの連鎖を生み出す。このようにツィッターの特徴は、こうした同期と非同期の両方を持ち合わせている点にある。重要なのは、その同期的コミュニケーションの連鎖というのが、あくまでユーザーの自発的な選択に委ねられていることだ。ツィッターは基本的に独り言を短い言葉で非同期的につぶやくものなので、同期的コミュニケーション特有の相槌を強いられたり、電話のように相手の状況に突如として闖入することからくる心的負担を免除してくれる。ツィッターの場合非同期と同期が入り混じった独特のコミュニケーションスタイルがその背景にあり、これを著者は「選択同期」と呼ぶ。すなわち、ツィッターは基本的には非同期的に行われている発話行為を各ユーザーの自発的な選択に応じて、同期的なコミュニケーションへと一時的/局所的に変換するアーキテクチャといえる。その新しさは、同期と非同期の両立という点にある。

次に「ニコニコ動画」について見てみる。ニコニコ動画というサービスは、一言でいえば、動画の再生画面上にユーザーがコメント(テロップ)をつけることができるサービスだ。ニコニコ動画のユーザーは、動画を再生している最中に、自分がコメントを表示させたいというタイミングでコメントを投稿する。こり投稿が比喩的に表現すると、映画のフィルムの上に直接文字を書き込んでしまうようなもので、画面にそのまま投稿の文字が流れる。そして、直接書き込んだ文字は、その後は同じタイミングで画面に文字が映し出されることになる。このように書き込まれたコメントが動画再生中に次々と流れていく。それはまるで、一つの画面をみんなで鑑賞しながら、ワイワイガヤガヤと会話を楽しんでいるように見える。さらに、同じタイミングで投稿されたコメントが多いほど、同時に画面上に表示されるコメント数は増える。中には肝心の動画が見えなくなるほど、コメントが画面を埋め尽くすことも多い。むしろ、画面上を覆い尽くすコメントが投稿されているのが面白さや盛り上がりを計るための指標となっている。ひときわ盛り上がるポイントで、歌詞や決め台詞が一斉に投稿される様は「弾幕」と呼ばれている。「ニコニコ動画」というサービスの特徴は、このような動画を視聴する側のライブ感やリアル感を醸成する点にある。そして、この特徴は次のように言い換えることができる。ユーチューブをはじめとする動画共有サービスの主たる目的は、動画コンテンツそれ自体をネット上で共有することに置かれていた。しかし、「ニコニコ動画」では、もはや動画が見えなくなるほどコメントが投稿されてしまう点に端的に示されているように、動画コンテンツの試聴自体はもはや主目的ではなくなり、動画を視聴する側の「体験の共有」が主目的になっている。つまり、「ニコニコ動画」は動画試聴体験共有サービスを行っていると言える。

しかし、このようなニコニコ動画の体験の共有は、ある種の錯覚によってもたらされているものだ。なぜなら、実際には、各ユーザーの動画の試聴行為やコメント投稿行為は、時間も場所もバラバラに行われている、つまり非同期だからだ。ニコニコ動画というアーキテクチャは「非同期」に投稿されている各ユーザーのコメントを、動画再生のタイムラインと「同期」させることで、各ユーザーの動画試聴体験の「共有=同期」を実現している。

本来ライブ感というものは、いわゆる客観的な意味での時間を共有していなければ、生み出されることはない。しかし、ネット上で動画を観るという行為は客観的な時間の流れから見れば、各ユーザーが自分の好きな時間に自分の好きな動画を視聴するという非同期的な行為である以上、基本的にライブ感を生み出すことはできない。これに対し、ニコニコ動画は、動画の再生ラインという共通の定規を用いて、主観的な各ユーザーの動画試聴体験をシンクロさせることで、あたかも同じ現在を共有しているかのように錯覚をユーザーに与えることができる。このように試聴体験の共有を疑似的に実現するということで、このサービスを「擬似同期」と呼ぶことができる。

これは「ツィッター」と共通する部分が多い。しかし、両者の間には見逃せない差異がある。ツィッターでは、各ユーザーの自発的な選択によって同期的なコミュニケーションが立ち現われるのに対して、ニコニコ動画では、動画という定規に沿ってコメントを保存し、呼び出すというアーキテクチャが働いているため、ツィッターのような自発的な選択という契機は必要とされない。その点でアーキテクチャ度が高いと言える。

三番目に3D仮想空間サービスの「セカンドライフ」をみる。これは「メタバース」という仮想空間を、アバターと呼ばれる自分の分身のキャラクターを使って楽しむことができるというサービスだ。そして、仮想空間上の土地を所有し、誰もが自由にオブジェクトを持ち込む/建設することができるというUGCのプラットフォームとしての性質で、簡単なゲームであればユーザーの側が作成することも可能だった。しかし、ふたを開けてみると閑散とした状態になっていた。その大きな原因は、そのアーキテクチャによるものと考えられる。それは時間性にある。セカンドライフは、そのコミュニケーション空間上に参加する主体が、同じ現在を共有するという意味で、同期型のコミュニケーションサービスといえる。この特徴を、ツィッターの選択同期、ニコニコ動画の擬似同期と区別するために、「真性同期」と呼ぶ。セカンドライフが閑散としているように見えるのは、一人のユーザーが必ず単一の場所にしか存在することができないという事実に由来する。例えば、一日前にはたくさんのユーザーが集まって賑わっていた仮想空間上の場所も、次の日には誰もいなくなってしまう、ということがあり得る。これは同期型コミュニケーションに特有のものだ。これは、非同期型のそれよりも「機会コスト」が高いと言うことができる。たとえば、ある人とチャットをするということは、他の人とコミュニケイションする機会を失ってしまうということだ。

では次に、閑散となってしまったセカンドライフに比べてニコニコ動画が活況を呈しているように見えるのは何故かという点を考える。重要な点はニコニコ動画の擬似同期的コミュニケーションがもたらす臨場感・一体感はその場限りのものではないという点だ。セカンドライフのような真性同期で臨場感を共有できるのは、その時と場所を共有した人々の間に限られる。その時間が過ぎ去ってしまえば、あとから参加してきた人には、決してその臨場感を共有することはできず、祭りの後の状態が現われ、臨場感は揮発してしまっている。これに対して、ニコニコ動画では、付されたコメントはシステム上に蓄積され、誰が映像を視聴しても同じタイミングで表示されるため、臨場感・一体感は何度でも反復して再現される。つまり、真性同期型アーキテクチャが祭りの後を不可避に生み出してしまうシステムだとすれば、擬似同期型アーキテクチャは、いつでも祭り中の状態を作り出すことで閑散を回避するシステムであるということができる。比喩的に言い換えれば、祭りの賞味期限が氏族されやすいのだ。こうしたニコニコ動画の特徴をメディア論的に捉えるならば、それは「いま・ここ性」の複製技術ということができる。ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において、絵画や彫刻などの芸術作品は、「いま・ここ」に現前しているという一回性のアウラを持ち得たが近代の写真や映画などの複製技術は、その一回性を奪ってしまったと説いた。しかし、ニコニコ動画の登場は、こうしたベンヤミン的な構図の前提そのものを崩してしまう。とういうのも、ベンヤミンの「アウラ」は一つの身体は一つの場にしか存在できないというリアルワールドの制約条件を前提にしているが、ニコニコ動画は「いま・ここ」を、アーキテクチャの作用によって複製してしまう装置になっているからだ。つまり、芸術作品というコンテンツが複製可能なのではなく、それを「いま・ここ」で体験すると言う経験の条件が複製可能である。それは、情報環境=アーキテクチャの出現による複製技術のラジカルな進化と捉えることもできるのだ。

このような擬似同期型のサービスが日本にだけなぜ興隆しているのか。単に動画を見て、それをネタにどこか別の場所でコミュニケーションを交わすということならば、何もニコニコ動画である必要はなく、ユーチューブだけでも良かったはず、にもかかわらず、なぜニコニコ動画は日本で生まれたのか。その答えは、2ちゃんねるやミクシィのような日本特殊型のアーキテクチャと同様に「繋がりの社会性」によるものだ。コミュニケーションの内容よりも、その事実が第一の繋がりの社会性は、ニコニコ動画でも、画面上に肝心の動画が見えなくなる程にコメントが付くところに明瞭に現われている。

 

第七章 コンテンツの生態系と「操作ログ的リアリズム」

ここでは、ソーシャルウェア上に生み出されるコンテンツについて見ていく。その題材として「初音ミク」と『恋空』を取り上げる。

「初音ミク」は、あたかも人が歌っているかのような楽曲用の歌声を、ユーザーが自由に制作することができるソフトウェアで、架空のシンガー初音ミクが歌うという設定のものだった。この初音ミクは、ニコニコ動画とともに日本のVGMシーンを牽引し、また代表するものとなった。発売直後から、次々と初音ミクを用いた作品ニコニコ動画上にアップロードされ、その後は、そのソフトを用いて作られた楽曲だけにとどまらず、さまざまなジャンルに派生作品・二次創作を生み出した。まさに多様なUGSを胚胎するプラットフォームとしての役割を果たした。とは言え、初音ミク以前には、同じような歌声を製作する製品はいくつも存在した。その中で、なぜ初音ミクだけが、このようなことになったのか。

それは、一言でいえば初音ミクというキャラクターが萌え要素を備えていたからだ。要するに、人々は初音ミクに萌えたということだ。発売当時の開発元は、初音ミクのキャラクターとしての側面は、あくまでボーカロイドという製品の付随的側面として位置づけられていた。提供元からすれば、おまけ要素にすぎなかったものが、むしろユーザーの二次消費の中心的要素として受け入れられた結果になったということだ。ユーザー側から言えば、「自分の作品」としてソフトウェア「初音ミク」の音声素材を用いるよりも、キャラクター<初音ミク>を仮構しつつ「歌わせてみたい」欲望こそが、初音ミクブームの原動力となった。

そして、ニコニコ動画という場所があった。初音ミクに限らず、ニコニコ動画上では、@不特定多数のユーザーがコンテンツの協働制作プロセスに関与することで、A次第にコンテンツの質が改善されていき、Bその結果、制作されたコンテンツはユーザーの間で共有され、ほかのコンテンツの素材(二次創作の対象)にもなっていく、というサイクルが見られる。これは、次のような点からオープンソースやウィキペディアと類似している。

    一点目はコラボレーションの「組織形態」。すなわち既存のハイアラーキー型組織とは異なる、ネットワーク型の組織形態でコラボレーションが行われるということ。

    二点目はコラボレーションによって「生産される財の性質」。すなわち、既存の工業製品(=ハードウェア)とは異なり、常に製品の質をネットワーク経由で改善できると言うソフトウェアの性質。

    三点目は、そのコラボレーションの結果生み出された「財の所有形態」。すなわち参加者間の間でその財が「コモンズ」として共有されていくということ。

ここで著者は、ニコニコ動画上の初音ミク現象とオープンソースとの共通点ではなく、ある一つに差異に着目する。一般に、オープンソース的開発手法が特に優れているのは、プログラムの精度検証(バグチェック)のリソースを広く効率的に確保でくる点にあると言われてきた。これは、裏を返していえば、オープンソースと言うコラボレーション形態が有効に機能するのは、その生産物であるコンピュータプログラムが客観的に評価可能な指標を有しているからだといえる。もし仮に、そのコンテンツの評価基準が曖昧なものだったら、不特定多数のユーザーがその品質のチェックに参加しようにも、そもそも何を以て良い製品なのかをめぐって意見の対立が生まれてしまい、コラボレーションどころではなくなってしまう。これに対して、ニコニコ動画上でアップロードされる音楽・映像といったコンテンツの場合は、ごく一般的には趣味的な情報財カテゴリーだとされている。つまりそこには、コンピュータプログラムのような道具的な生産物とは異なり、コンテンツを<客観的>に評価しうる外的基準は存在しておらず、最終的には人それぞれの<主観的>な評価に頼らざるを得ない。だとすれば、その質を<客観的>に検証・評価できないコンテンツについては、オープンソース的な協働開発形態がそれほど有効に働かないはず。しかし、ニコニコ動画では、人々は個々にバラバラな<主観的>な評価基準によってコンテンツを評価しておらず、ほとんど<客観的>と呼べるほど明確な評価基準を共有しているのではないか、と言うことができる。このようなニコニコ動画の提供する評価情報がとりわけ<客観性>を強めるのは、「擬似同期型」アーキテクチャによるものだと考えられる。動画コンテンツの上に、そのままコメントが被さるインターフェイスによって、素晴らしいとユーザーが感じたシーンにはコメントが大量につけられる。つまり、コンテンツのどの部分が人々に受け入れられているのか・評価されているのかといった情報は、ただ動画を再生し、そこに流れるコメントを見ているだけで、一目瞭然で明らかになる。さらに、コメントが文字でなされるので、人々がどの点を評価しているのかについても、はっきりと見分けることができる。このようにニコニコ動画特有のインターフェイスが、本来であれば<主観的>なものになりがちなコンテンツの評価基準を、<客観的>と呼べるレベルに引き上げる効果を発揮しているということだ。

ただし、このような<客観性>の共有されている範囲は、あくまでニコニコ動画の内側に限定される。なぜなら、ニコニコ動画上で共有されている評価基準は、このコミュニティにおいてのみ強く共有されているという意味で「限定客観性」とて゜も呼ぶ性質を有しているからだ。著者は、情報社会とはこうした「限定客観性」の有効範囲を、ほかならぬアーキテクチャによって画定する社会のことと定義できるとし、昨今の日本の情報環境において、その画定に最も成功しているのがニコニコ動画だったと著者は言い、だからこそ初音ミク現象はニコニコ動画で大きく花開いたと言う。

 

第8章 日本に自生するアーキテクチャをどう捉えるか?

最後に著者は今後の指針について考える。但し未来予測はできないと言う。それは、生態系や進化といった概念モデルを採用した時点で、おのずから要請される立場といえる。進化論というフレームワークは、ある複雑な現象を目の前にしたとき、その変動を動かしている原動力を、偶然的なものに認める。そこでは、時代や世代を切り取って観察してみれば、優れたものが生き残っているように見えるが、それはあくまで事後的に見いだされたものにすぎず、偶然何が起こるか分からない以上、次の世帯゛に当てはまるとは限らない。さらに、生態系は相互依存的であり、何か一つでも欠けてしまえば、予想もしなかったような変化を全体に齎すこともある。

その一方で、生命現象の比喩というものは、そのような得体のしれない現象の全体性を把握するために用いられてきた。例えば、我々はウェブやグーグルの急速な成長を、進化論や生態系の比喩で認識しつつ、旧来型の企業組織やメディアといったものが機能不全に陥っていると論じている。しかし、かつての大企業組織や産業社会やメディアといったものが出現したとき、我々は、それを生命の比喩で捉えていた。さらにいえば、そもそも自然現象や生命現象の中に、ある種の「分業」を見出すという発想自体が、実は人間社会の認識を通じて出てきたものともいえるわけだ。このように考えれば、ウェブに生態系を見出すという認識自体が、二重三重の反復と転倒を重ねた上にあるのは明らかだ。これは、今ではインターネットやウェブが急速に成長しつつあり、我々はその得体のしれない巨大なシステムを。なんらかの予定調和的な秩序として捉えようとするニーズを抱えているということを意味する。

ウェブ上で行われている分業と協働の力は、少なくともこれまでのインターネットの歴史においては、偉大なる先人たちによって自由意志的に行われていた。しかし、あまりにもインターネットが大衆的に普及した現在、それはもはやいつの間にか巨大に蠢き続ける、自然成長的なものとして立ち現われている。これは、我々がウェブを便利なものとして使っている間は、取り立てて問題にならない。しかし、ウェブ上のソーシャルウェアは、しばしば既存の社会や個人に対して牙をむける。つまり、ウェブを生態系として看做すということは、片方ではその成長と進化をオプティミスティックに捉えることに繋がると同時に、自分たちで作ったはずのものが。自分たちではコントロールできない外的な強制力として現れるということを意味している。

 

しかし、問題はインターネットの自由の本質は、そのアーキテクチャが自然成長性に開かれているという点にあった。だからこそ、その自由で自然な生態系のあり方護持する必要があった。そして、このようなインターネットの拓かれた性質、例えばアプリケーション層に新たなアプリケーションを構築する自由、によって、この日本という場所には2ちゃんねるやニコニコ動画、ミクシィといった日本特殊型のソーシャルウェアが次々と生み出されるにいたった。しかし、その多くはインターネットの自由や理念を信奉する人々にとって正面から肯定的できる代物ではないという扱いを受けてきた。一言でいえば、インターネットが自由で多様な生態系であるからこそ、この日本という場所には、反理想的ともいえるようなアーキテクチャが自然発生してしまうということだ。そして、問題は、そのように我々に感じさせているものこそが、少なくともこの日本という場所でウェブやソーシャルウェアについて考える際、生態系や自然成長性といった認識モデルを中半端なものにしてしまうということだ

このように、日本に自生するアーキテクチャを真正面から捉えることはできないのか、ということに対して、著者は二つの回答を提示する。その一つは、米国的なインターネット社会のあり方を唯一普遍のものとみなす必要はないというものだ。インターネットの自治的で開かれたあり方は、そもそも米国社会の自治社会と契約社会と共和制の伝統の上に成り立っている。つまり、インターネットが登場する前に、まさに自治・分散・協働的で個人主義的な社会のあり方が先に存在していた。つまり、技術が社会を変えるのではなく、社会が技術のあり方を決めると言える。だとすると、日本社会にインターネットという通信技術を移植することで、ただちに日本社会のあり方が米国社会のようなものに突如として変わるということはあり得ない。むしろ、日本という場所に、日本的なソーシャルウェアが自生的に現われてくるプロセスは正しいとすら言える。その進化の過程を、我々は、ウェブの多様な生態系のあり方の一つとしてみなすことができる。少なくともグーグルを中心としたウェブの姿だけを唯一の生態系と看做す必要はない。

もう一つは、一方で日本社会という性質も確固たる実在ではなく、例えば、社会が技術のあり方を決める、について、技術決定論がおかしければ、社会決定論も同様におかしい。つまり、社会と技術が明確に切り分けられ、確固とはしていない。ということだ。本書の中でも、技術(アーキテクチャ)と社会(集団行動)が密接に連動するかたちで変容していくプロセスを見てきた。ソーシャルウェアの進化プロセスは、前世代や別環境のソーシャルウェアにおいて、規範や慣習のレベルで実現されていた社会的な振る舞いが、アーキテクチャによる規制に置き換えられていく過程として考えられた。社会が技術を形作り、技術がまた社会をつくる。アーキテクチャと社会との間には、こえしたフィードバック・ループが複雑に絡み合って存在している。これまで、本書では、規範・法・市場・そして文化といった他の要素との相互影響の中で、アーキテクチャの進化プロセスが進んだ過程だ。今後も、我々の社会は、このようなアーキテクチャと社会の諸システムとの共進化的現象を目の当たりにすることになる。

 

ということで、ネットの動きに対して、アーキテクチャという切り口での議論をして見せたものというなのでしょうけれど、これを読んでいて、ビジネス書の戦略論とか組織論に置き終えてもいいような議論に思われました。2ちゃんねるの特徴を分析する際に、日本のユーザーの特殊事情やら、その相関関係で偶然も重なってスキームが確立していくということなど、経営学で日本的経営が戦後の日本社会での復興(=成長)をしていく中で、社会との相関関係で出来上がってきたことに通じるのではないか。対象がネットでアーキテクチャというようなカタカナ語を使っていて、東浩紀が推薦文なんかを書いているので、ゼロ年代とか最先端とかというようなイメージで受け取られてしまいがちだろうけれど、題材から切り離して、議論の展開だけを追いかければ、オーソドックスな経営書とかなり重なるので、私のような中年サラリーマンには読みやすいものだった。題材は別として、議論の内容は特に目新しいというものでなく、著者には社会科学系の古典をもっと読みなさい、あなたの言っていることは、ほとんど全部書かれてありますよといいたい。だから、この方の売りとしては、オジさんにも分かるように、2ちゃんねるやニコニコ動画やミクシィや初音ミクのことを、その内容というよりも、効果というのか、提供者の戦略というオジさんのボキャブラリーで説明してくれている入門書といったものではないだろうか。著者に対しては、よくお勉強しましたね、褒めてあげるというような、学生のレポート程度のものだと思う。とくに著者の独自の思考とか、そういうものは感じられなかった。

 
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